論文・レポートを書く際に

参考書

何よりもまずレポートや論文の書き方について書かれた本を一冊でよいので読んでください(個人的には、戸田山和久 (2012)『新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス) 』がおすすめ)。一冊読むだけでも、レポート・卒論作成の苦労は減るし、教員の負担(ストレス)も減るし、皆さんの成績も良くなるしと良いことずくめです。


※以下は、私のこれまでの経験から特に重要と考えることを述べています。


書くべき内容

卒論やレポートの主眼は「自分の主観的な意見の表明」ではなく「その意見の妥当性の吟味」です(そういう意味で新聞の社説や政治家の所信表明演説とは違います)。学生さんは、すでにもっている自分の意見をもとに諸問題を一方的に断定していく形で議論を進めがちです。しかし、求められているのは、その意見がはたして妥当なのか様々な観点から粘り強く吟味することです。論文の読者は筆者の意見を知るためでなく、その意見の妥当性を知るために論文を読むわけです。「自分はどう考えるのか」ではなく、「この考えの根拠は何か。その考えは妥当か」を問いながら書く意識が重要です。もちろんその結果オリジナリティのある自分の意見が出てくれば望ましいのですが、学部の段階でオリジナリティはそこまで優先されません。何かを断定したくなったら、少し立ち止まって「本当かな?」「なぜかな?」と問うべし。その問いから哲学や倫理学の論文が始まります。


注意すべき表現集

※学生さんはしばしば使うが、教員(研究者)からすると違和感が強い表現を列挙します。論文・レポートでは「自分の主観的な意見の表明」さえすればよいという誤った意識から出てきているものが多いです。論文・レポートを提出する前に以下の項目に該当していないかチェックするだけでも格段に読みやすくなるはず。随時更新予定。


基本

――剽窃(他人の文章を盗んで自分のものとして発表すること)は研究の世界でもっとも重い罪の一つだと口酸っぱく言っているのに一定数見つかる。なぜか。大学や私に喧嘩を売っているのか? ならば断固対応しよう。研究者が剽窃すれば首が飛ぶが、学生が剽窃しても厳重注意くらいで許されるというのは不公平である。しかし当該学生の普段の様子を見ていると、そこまで悪意があるようには見えない。おそらく自分のやっていることが剽窃だという自覚がないのだろう。改めて強調しておきたいが、論文・書籍・新聞は言うまでもなく、インターネット上のブログやネット記事、動画であっても「他人の言葉・文章・表現・考え」を少しでも活用したときには、必ず出典情報を記すこと。 記せば適切な引用であり、記さなければ剽窃となる。剽窃らしきものが見つかるとただでさえ悲しくなるのに、それが倫理学関連の授業レポートだと本当に泣ける。


――以下で色々書いているが、推敲によって大部分の問題は解決すると考えるに至った。少しでも読み返せば、主語-述語が対応していない、主張と具体例が対応していない、論理がおかしい、誤字脱字が多すぎる等々、「日本語として成立していない」「文章として理解できない」文章には気づくはずである。一度も推敲がなされていない原稿を読むと、寝起きのままパジャマ姿でサンダルつっかけやってきたボサボサ頭の輩のお話を聞かされている感じになる。


――(下でも書いているように)一般に学生のレポートには「○○と個人的に感じる」「私自身は○○に共感できない」という主観的表現が多い。それ以上の根拠付けがないので、主観的な思いがそれ自体で「根拠」になると考えているようだ。たしかに家族や友人など「あなたに興味がある人」には、あなたの主観的表現は十分な理由になるだろう(「あなたにとって○○は嫌なんだな、じゃあやめよう」となる)。だが「あなたに興味がない」世の中の大多数の人にとっては、あなたの主観的な思いはどうでもよいのである(「へえ○○が嫌いなんですね、それで?」となる)。レポートや卒論など学術的な文章は、世の中の不特定多数に向けて発信するものであるから、あなたの主観的な思いを表明しても、まったく根拠付けとして意味をもたない。この点を認識するだけでも多くのレポートのクオリティは大幅に上がるように思う。


―― 少なくともレポートや卒論で匿名は困る。

 

――レポートや論文は「である/だ」体で書く。

→ 独り言っぽい「である/だ」体よりも、相手に語りかけている感じのする「です/ます」体の方が書きやすいというのはとても共感できる。相手がいた方が話しやすいというか。だから論文体の文章ではどうしても書き進められないというときには、まず「です/ます」体で書いて、それを「である/だ」体に直すというテクニックもある。文体を直す時間が無駄と思われるかもしれないが、この方法の方が結果として速くよいものが書ける場合もあるから不思議。

→「「です/ます」でしかかけない文章というものがあるのだ。自分は自由に文章表現をしたい!」と思う人がいるかもしれない。その気持ちはよくわかるが、大学生は学問の「型」を身に付ける段階なので、嫌でもまずは合わせなければならない。その型において十分に評価されてはじめて型を崩していく段階に入ることができる。


――レポートや論文は基本的に「である/だ」体で書くとはいえ、常に文末をそのどちらかにしなければならないわけではないのである。読みやすさの観点からすると文末は同じにしない方がよいのである。それなのに「である」ばかりで終わる人も多いのである。かといって「だ」ばかりだと今度はバカボンのパパみたいでこれはこれで変なのである。しかし体言止めばかりでもラッパー感がでるのである。だから「である」や「だ」を用いないでも自然に表現できるところはこれらの言葉を使わない方がよいのである。

(直すと→)レポートや論文は基本的に「である/だ」体で書くとはいえ、常に文末をそのどちらかにしなければならないわけではない。読みやすさの観点からすると文末は同じにしないほうがよい。それなのに「である」ばかりで終わる人も多い。かといって「だ」ばかりだと今度はバカボンのパパみたいでこれはこれで変。しかし体言止めばかりでもラッパー感がでてしまう。だから「である」や「だ」を用いないでも自然に表現できるところはこれらの言葉を使わない方がよい。


――「○○について、○○について、○○について」「○○における、○○における、○○における」「○○を説明した。○○を説明してきた。○○を説明した」という文章が散見させるが、繰り返しは読んでいてつらくなるので、別の言葉で言い換えて欲しい。


 

――意味内容ごとに段落を変える。基本的に「一段落(パラグラフ)に一つの主張」というルールがある。

  

――率直な感想が求められる授業中のコメントなら許容されるし場合によっては望ましいが、不特定多数に向けた文章である論文やレポートでは砕いてはいけない。場面ごとで適切に使い分けることができるのが文章家といえよう。でも無理して堅い言葉ばかり使う必要もない。むしろ慣れない人が堅い言葉を使うのも変。大変ですね。


――AIとの共同責任のあり方などを議論して社会全体として責任概念の大幅な再編がなされる前には厳正に処罰することになるので、差し当たり禁止。


――論文やレポートとは関係ない話で恐縮なのですが、教員生活をしていてもっとも違和感があることなのでここらで述べておきます。質問・要望があれば遠慮なくどんどんメールしていただければと思いますが、こちらからの返信に対しては、一言でもいいので「承知しました」「ありがとうございます」等の応答が必要だと思われます。けっこう時間をかけて返信したにもかかわらず、返事がないと「えー?」という感じになります。基本的に学生さんは直接お話したときにはとても礼儀正しいですし、メールの文面も丁寧なのですが、この最後の応答がないだけで一気に印象が悪くなってしまいます。たとえるなら、授業後に学生から質問されたので、こちらが一生懸命説明していたのに、話の途中でその学生が帰ってしまったという感じです。最近の学生さんは真面目で注意すべきところはほとんどないと思っているのですが、この点だけは、どこの大学でも気になってしまいます。どうしてなんでしょうね。(もしかして私の常識が時代遅れなのか?)



主観的な表現(いずれも絶対にダメというわけではないので注意。有効な場面もある。ただ多用するとおかしくなる)

――非常によく見るが、論文の主張を強調したいところなど一部の例外を除いてあまり使わない方がいい言葉。特に理由づけのところで用いてもほとんど効果がない。個人的な考えを提示しても実は説得性は高まらない。「あなたはそう考えるんですね。私は考えませんが」と言われるかもしれない。このように言われても「あなたもこう考えるべき」と応答できるように、論をたてる必要がある。なんとなく小論文っぽさがあるんですよね。

→  もちろん、このような表現はあなた自身が何を考えているかが問われているような状況では非常に有効。だから履歴書やエントリーシートではどんどん使ってよい。会社の社長や総理大臣や王様などもよく使うはず。

→ ちなみに「○○と考えられる」という無主語+可能・自発(?)の「らる」を加えた表現は論文でしばしば使われるが、まったく問題ない。これは(ある個人が考えるということではなく)一般的・客観的にいって、あるいは推論の当然の帰結として、そのように考えることができるということなので問題ないのだ。「思われる」も同様。日本語独特の表現のようにも思われるが。

 

――「あなたは否定できないかもしれないが、私はできる」と言われるかもしれない。

 

――議論において主観的な感覚を根拠することはできない。「あなたはそう感じるのかもしれませんが、私はこう感じるのです」と言われるかもしれない。この表現を好む学生が多いので何でだろうと疑問に思っていたのだが、感じることには責任を負わなくてよいからかもしれない。レポートや論文は「パブリックな文章」であり、つまり「責任を負う文章」ということなのだが、現代日本において目にする「パブリックな文章」はしばしば「できるだけ責任を負わないようにする文章」なので、このような誤解が生まれるのかもしれない。

 

――雰囲気を弱めたいときには有効だが、基本的に「したい」という表現はとっていいことが多い。


――「述べたい」「考えたい」でよい。

→  ただし「思う」は文の勢いを弱めたいときには便利な言葉。「この点については一定程度の結論が出せたのではないかと思う」など。「述べたい」「考えたい」ことは弱める必要ないので取ってよいということ。一般に「したい」とか「思う」といった語調を弱める表現は、会話しているときやメールとか日常生活ではとても有効なのだが、正式な文章では必要ないということ。

→ また(「考えられる」と同様に)無主語で「○○と思われる」も論文ではよく使われる表現であり、これは客観的・一般的な観点からいって○○と思われるということなので問題ない。


――できるだけ「自分定義」はやめたい。辞書や文献を調べてもなかった場合にのみ最終手段として自分で定義する。


――もちろん根拠を言えばいいのだが、そこで言い切るのはよろしくない。決めつけで話が進んでいくのはよろしくない。まさにそこを問題にして論じる必要がある。

もっとも簡単な解決策は、論文や本を参照すること。例:「人は生まれながらにして何が正義で何が悪なのかを知っている」ということを示唆する実験結果がある(○○ 1986)。


大げさな表現(こちらも絶対にダメというわけではないので注意。有効な場面もある。ただ多用するとおかしくなる

――「いく」という表現は、すごく本格的なものが展開すること示唆する。レポートくらいの分量では違和感がある。卒論以上ではOK。

 

――「考察」という言葉は、非常に本格的なものが展開することを示唆する。これもレポートくらいの分量では違和感がある。

 

――「示す」という表現も強い。有無を言わせないレベルの論証や事実の提示がなされたときに「示した」ことになる。レポートくらいだと何かを完全に示すことは難しいと考えた方が安全か。

→「ある程度示すことができただろう」「少なくとも○○は示すことができたのではないか」など弱めるなら違和感はなくなる。

 

――「明らか」というのも非常に強い表現。レポートくらいだと何かを完全に明らかにすることはそもそも難しいと考えた方が安全か。

→「一定程度明らかになったはずである」「この点は明らかになったと思われる」など弱めると違和感はなくなる。こういうところでは「思う」が有効なんですね。

 

――レポート程度の分量では物事をなかなか「徹底的に考察」することはできないと考えた方が安全か。

→「字数が許す限り考えてみたい」「紙幅が限られているので徹底的に考察することなどは到底できないが、本稿では現状言えるところまでを明らかにしたい」などに弱めると違和感はなくなる。

 

――上と同様にレポートくらいの分量では「深く考察する」のは難しいと考えた方が安全か。そもそも一般的に「深い」と自分で言わない方がいいかもしれない。


――推論関係を明確にして議論の見通しをよくするには接続詞は非常に有効。ただし同じ接続詞を繰り返すとクドくなる(語尾と同様)。またそこまでたいした推論でもないのに「それゆえ」など堅い雰囲気の接続詞が使われていると素人くさい印象となる(逆に「プロ」は高度な推論を簡単に表現するということか)。こういうのは、丁寧すぎる作家の文章を読んで反面教師にしたい。

→ AからBへは簡単に推論できるようなものなら、「A, ゆえに, B」とするよりも「AだからB」「AなのでB」と一文で書く方がスムーズに読めることもある。


レトリック系

――○○が常識的なものだと「馬鹿にしているのかな?」と思ってしまうかもしれません。特に大学教員は自分の知識にそれなりにプライドを持っているので危険かもね。


全般的な傾向


参照・引用のルール

【例1】

「面倒の哲学」を提唱している者がいる(白川 2030) 。

 

【例2:概ね本文の1~2行くらいに収まる分量の引用は「」でくくる】

「近い将来にはネコにも権利を認めるべきだという議論が出てくるのは容易に予想できる」(犬谷 1986, 80頁)と言う者がいるが、

 

【例3:概ね本文3行以上になる分量の引用の場合はブロックにして引用。引用文は2, 3文字インデント。本文との間は上下1行アケ。引用後の本文は1字アケ必要なし】

ある哲学者は次のように言っている。

 

功利主義や義務論は少々無粋ではなかろうか。倫理や道徳には美的感覚が不可欠。倫理学は「粋」の観点から捉え直す必要があるということであり、粋倫理の構築が求められているのである。ここで言う「粋」とは、むろん九鬼周造が日本的美意識の根底にあるものとしてきわめて繊細な形で分析した情感ないし意識なのであるが、私はこの美学的概念を倫理の領域に導入することにより、倫理学の領域で散見される無粋さを一掃しようと思うのである。(Shirakawa 2040, p. 55, 引用者訳)


本論では、こうした「粋倫理」は大枠としては興味深いけれども、深刻な問題があると論じるつもりである。

 

本の場合:著者名 (年代).『タイトル』, 出版社.

論文の場合:著者名 (年代) .「タイトル」, 『論文集名』, 号(巻)数, ページ番号, 出版社.

 (例)

参考文献

Brandom, R. (1994). ‘Unsuccessful Semantics’, Analysis 54 (3):175-178.

犬谷亀子 (1986). 「ポチからはじめるネコの解放」, 『紀要:動物の声』, 5号, 70-95頁, 動物学学会.

白川晋太郎 (2030).『面倒の哲学』, 仏ほっとけ出版.

Shirakawa, S. (2040). Ikirinri, Edokko Press.

文献の調べ方

【質問】

ここまで、哲学の授業で様々なことを学んできて、突き詰めて考えたいと思うテーマが何個も見つけられました。反対に、この中からレポートに書くテーマを一つ見つけなければいけないので、大変悩ましいなと思っています。まずは、自分が興味を持ったテーマについて文献をあたってみて、そこからどのテーマなら一番レポートが書けそうか考えてみたいと思います。そこで、色々な文献を読んでみたいと思うのですが、文献を探すことや読むことに関して何かポイントなどありますでしょうか。特に、文献を読む上でのポイントがあれば教えていただきたいです。提出まで時間が限られているため、できれば効率よく文献を読みたいのですが、大体哲学系の文献は、分量が多く、難解な部分も多いというイメージがあり、なかなか手を付けられずにいる状態です。


【答え】

一般的には以下のように進むのが効率的かつ安全です。

① 当該分野の入門書・解説書・教科書を複数冊ザックリと読む:「複数」「ザックリ」というのがポイント。アマゾンで検索して上の方に出てくるものでよい。多くの本で繰り返し登場する人物や概念を把握し、その業界では誰のどのような研究が重要とみなされているかの相場観をつかむ。レポートではこの段階で十分。

※逆にいうと、相場観を知らない状態で、ネットでキーワード検索してたまたま出てきた論文に依拠するのには危険が伴う。クオリティが保証されていないので。


② 上のプロセスで把握した「重要」なテキスト(原典)・研究書・論文にあたる:すぐにも「ほとんど理解できない」という壁(絶望)を感じるはずだが、そういうものなのでどうにか耐える。卒論以上ではこの壁を超えたかどうかが問われる。入門書・解説書・教科書をきれいにまとめただけでは高くは評価されない(「可」にはなるか)。1冊(本)でもいいので、一筋縄では理解できないテキスト(原典)・研究書・論文に長期にわたって付き合うという経験が大切。

※この段階では、業界にとっての重要なものや相場観を把握している必要がある。「いろもの」ゆえに、あるいはクオリティが低いがゆえに理解できないという場合も往々にしてあるから。その意味で初心者は古典的なものやメインストリームから進んだ方が無難。いや一番いいのは先生に聞くことだな。

原典を読む意味

【質問】

 割とこの授業の序盤で哲学を学ぶのには時間がかかる、一つの本を読むのにも時間がかかる的なこと仰っていた中で少し気になることがあったのでお伺いします。哲学を学ぶにあたって例えば古代ギリシアをやるなら古代ギリシア語もやれ、とかキリスト教関連やるならラテン語をやれ等々、原書をもともと書いていた言語やその思想が興った地域の言語もやる必要があると聞いたのですがそれはなぜなのでしょうか。

 確かにそれらの言語をやっておけば原書を直接読むことができる利点は大きいと思いますが、ごくマイナーなものを除いて先駆者がいることが多いのも事実だと思うのです。すると、英語などで書かれた考察、研究書や邦訳などが出ているのでそれを読んで勉強すればいいのではないかと感じます。それなりの時間をかけてそれらの先駆者たちが記した書籍に取り組んでいけば必ずしもその原書を基の言語で読めなくても内容の理解や研究、思索に差し支えないのではと思ってしまいます。加えてこれは日本の場合に限定されるかもしれませんが、生まれも育ちも日本ならば思考のプロセスも日本語に基づいたものになるはずです。思考の鋳型が日本語を基にしているともいえるかもしれません。すると当然言語が違えばその鋳型も変わってくるわけで元の本を読んだとしてもそれは必ず正確な理解につながるわけでもないと思います。下手すれば対応する言葉や概念が全くなくてどうにもならないなんてことになるやもしれません。哲学を研究するに当たって参照する、あるいは研究対象の哲学を理解しておくことが大事なのだとしたら、別に元の言語にこだわる必要はないのではないかと考えます。それでもなぜ原書を講読したりそのために新しい言語を習得したりするのでしょうか。

 自分はこれから哲学をゴリゴリに勉強するわけではないのでこれを聞いて何かになるわけではありません。ただ、いわゆる古典的名著を持ち上げる風潮は少なからず理工系でも存在していて、「~~先生のこの本は名著だから〇〇学をやるなら読むべき」のような言説をたびたび見かけます。ただ理系であっても文系であっても同様に名著だから読むのではなくてそれぞれの研究のためにその分野の知識と理解が必要だから読むと思うのです。そのための手段や読む本の有名性は二の次であって、その分野の正しい知識と理解を得ることが最上命題なわけですから前述の言説には否定的な意見を僕個人は持っています。哲学であってもこれは本質的には同じではないかと思ったので「~言語をやれ」という話に疑問を持ち質問させていただきました。

 先生の一意見をお聞かせいただければと思います。


【答え】

 ご質問は一言でいって「苦労して母国語以外の原書を読む必要はあるのか」ということですね。

 答えは「場合によって異なる」ということになります。

 まず「知識」や「情報」を得たりする上では原書を読む必要はないでしょう。学習者が一番得意な言語でやるのが効率がいいです。個人的な話になりますが、私ももう20年くらい英語を勉強しており、ある程度なじんでいる自覚はあるのですが、やはり知識や情報の吸収の面から言えば、日本語の方が英語に比べて3~5倍くらいの速度となります。ですから純粋に知識や情報を得るためなら日本語に訳されているものをどんどん読んでいった方がいいでしょう。日本の科学技術レベルが国際的に見ても高いのは母国語で大学教育ができているというのも大きいと言われています。それもこれも先人達の努力の賜であります。

 ただし「知識」や「情報」以上のものを求めるならば翻訳では限界があります。ある一人の哲学者を十分に理解しようとするとき、その人の「言ったこと」や「議論の構造」や「理論体系」などを知るだけでは十分とは言えません(だから解説書の類いを何冊も読んでも知識を蓄えても限界があるのです)。何とも表現が難しいですが、その人の「気持ち」「思考のリズム」「言葉の響き」「推論の流れ」「文体」といった部分、つまり、感覚的で美的で音楽的な部分を肌で感じる必要があります。そのためにはやはりその人が使っている言語に直にふれなければなりません。

 またしても個人的な話で恐縮ですが、私が日本語で文章を書くとき語尾に非常に注意が向きます。「『である』ばかりは美しくない、しかし『だ』はバカボンのパパっぽくて嫌、じゃあ体言止めにするか」など。しかしこれを英語などに翻訳すれば語尾はすべて無視されますので、私の文体は英語の読者には伝わらないことになります。これは些細な話に思われるかもしれませんが、こうした些細に思われる部分が実は思考に大いに影響を与えているという実感があります。

 「生まれも育ちも日本ならば思考のプロセスも日本語に基づいたものになるはずです。思考の鋳型が日本語を基にしているともいえるかもしれません。すると当然言語が違えばその鋳型も変わってくるわけで元の本を読んだとしてもそれは必ず正確な理解につながるわけでもないと思います。下手すれば対応する言葉や概念が全くなくてどうにもならないなんてことになるやもしれません」というご指摘は、まさにその通り。だからこそ読者は、その著者の言葉を使って「思考」するレベルにならないと正確には理解したことにはならないということです。思考自体もその言語でできるようにならないとダメだということです(こんなに偉そうなことを言っていますが、私はいまだにできておりません…)。

 こういうわけで、哲学研究者はいまだにプラトンやデカルトやカントを直接読もうとするわけです(それも原書で)。このことは、とりわけ理工系の人からみれば「無駄」に思えるかもしれません。これまでの哲学者たちのアイデアを整理して体系的な知識として「教科書」にしてしまえばいいじゃないかと。理工系は基本的にこうした「教科書」で学んでいきますよね。まずはニュートンやアインシュタインを読むというカリキュラムにはなっていないと思います。それは理工系が基本的には「知識」や「情報」を集積してアップデートしていく学問だからでしょう。哲学が厄介なのは、そのような知識や情報の集積&アップデートという側面がありつつ、同時に文学的な側面も強くあるということです。つまりアイデアと「人格性」や「人間性」をすっぱり分離することはできないということであります。

 「いわゆる古典的名著を持ち上げる風潮は少なからず理工系でも存在していて、「~~先生のこの本は名著だから〇〇学をやるなら読むべき」のような言説をたびたび見かけます」という点について、おそらく知識や情報を得るためだけなら、おっしゃるように、名著を読む必要ないでしょう。しかし名著と評価されているものは、往々にして、情報や知識が上手く整理して書かれているだけではなく、「発想の仕方」「推論の筋」「思考の忍耐力」「センス」などに秀でたところがありますよね。こういうものに直に接すると、自分が研究で行き詰まったときとかにヒントになることがよくあり、だから古典的名著を読むのも大事だとその人は言っているのではないかと推測しました。

 ざっくり言えば、天才の話は又聞きするよりも直接会って聞いた方が楽しいよね、ということでしょうか。

 色々言いましたのでまとめましょう。「たしかに知識や情報を得るためには母国語がもっとも効率がよい。なので翻訳があるのにわざわざ原典を読む必要はない。ただし、学問をする上で、知識や情報以上のものが求められることもある。その際には原典を読むのが有効であり、必要になることもある。」

 こう言えば「知識や情報以上のいわば「気持ち」のようなものを理解する価値は何なのか?」と問われるかもしれません。これに答えようとするとまた話が長くなりそうなのでやめますが、「気持ちの理解」というのは、まさに人間がまだAIに勝っていると言えるところなので、人間の本質に関わる部分なのかもしれません。