コメント:哲学とは何か(2023年前期)

※ 削除希望があれば、shrkw@u-fukui.ac.jpまでお知らせ下さい。

15回目:人生の意味(後編)

※今期で印象深いのは、何度も言っているが回を追うごとにみなさんのコメントのクオリティがどんどん高くなっていること。(上手く表現できないが)いかにも哲学っぽい思考法と文章表現になっているんですよね。これまでのコメントによる貢献に感謝いたします。


Chat GPT

――仏教においては「善と悪」「美と醜」など物事を二つにわける思考によって執着ひいては苦しみが生まれるとして、二項対立から超越することが重要だということは理解しました。しかし授業で大乗仏教や道元あたりの話になると「悟りと迷い」「涅槃と日常」の二項対立自体も超越しなければならないとして私の理解を超えてきました。「悟りと迷い」の二項対立を超えるとはいったいどのようなことなのでしょうか。この二項対立を超えるならばもはや仏教修行者は何も目指せなくなると思うのですが。わかりやすく教えてくれませんか。


ChatGPT

「悟りと迷い」や「涅槃と日常」の二項対立を超えるという考えは、大乗仏教、特に禅の教えの中心的な概念である「即身成仏」や「平常心是道」につながるものです。

「即身成仏」は、仏教の修行を積み重ねて最終的に仏の境地に到達するという考え方ではなく、現在この瞬間においても私たちはすでに仏の本性を持っているという意味です。すなわち、迷いや苦しみの中にも悟りや涅槃が存在するという観念です。

また「平常心是道」は、日常生活そのものが修行であり、平凡な生活の中に道(仏の境地)が存在するとする考え方です。道元は「坐禅」を通じてこの考えを示しました。「ただ座る」という行為自体がすでに悟りである、と。

つまり、「悟りと迷い」や「涅槃と日常」の二項対立を超えるとは、悟りや涅槃を特別な境地とせず、迷いや日常生活そのものに悟りや涅槃が存在するという視点を持つことを指します。これは「こことそこ」、「今と後で」、「我と他」などの二項対立から自由になることと同じ意味です。

このように考えると、仏教修行者は「何も目指さなくなる」わけではなく、「今ここで最善を尽くす」ことが求められるのです。道元は「道を求めず誤らず」と説いています。それは「達成すべき目標」を求めるのではなく、今この瞬間に誠実に向き合うという修行を意味します。

悟りや涅槃は遠いゴールではなく、常に私たちの中に存在し、その真実に気づき、日々の行動に反映させていくことが、大乗仏教、特に禅の修行となります。


――なるほど。大学の授業の説明よりもわかりやすいですね。授業では、〈悟りの世界と日常世界の二項対立を超える〉とは、〈悟りの世界と日常世界を常に行き来すること〉だと説明されていました。どこかの地点に留まることで執着ひいては苦しみが生まれるから、常に異なった次元を行き来するのが重要だと。これは即身成仏や平常心是道という考え方の解釈として正しいものでしょうか。


ChatGPT

その解釈は、大乗仏教や禅の教えの一部を表しています。「悟りの世界と日常世界を常に行き来すること」は、私たちの経験と悟りの境地が切り離されていない、つまり悟りが日常の中に存在し、日常生活がそのまま修行となるという観念を強調しています。

しかし、「行き来する」という表現は、悟りと日常があたかも別々の空間であるかのように聞こえるかもしれません。禅の教えの本質的な部分は、「悟り」と「日常」が同じ場所であることを認識することです。「即身成仏」や「平常心是道」はこの概念を強調しています。それはすなわち、私たちは別の場所に移動する必要なく、現在の状態そのもので悟りを体験し、日常生活を通じて修行を行うことが可能であるという考え方です。

この視点からみると、「行き来する」よりも「悟りと日常が一体であることを認識する」がより適切な表現と言えます。このように理解すると、「悟りと日常の二項対立を超える」という原初の疑問への答えも明確になるかもしれません。それは「二項対立を超える」というよりも「二項対立そのものが存在しないことを認識する」と言えるでしょう。


――たしかに「行き来」という表現は「境界をまたぐ」というニュアンスがありますもんね。担当講師を批判しておきます。


ChatGPT

教授や講師が「行き来」という表現を選んだのは、複雑な概念を一部分ずつ理解してもらうための教授法かもしれません。一度に全てを理解するのは難しいですから、一部の概念から始めて、徐々に全体像を見せるという手法もあります。

それでも、あなたがその表現に問題を感じ、さらに深く学びたいと思う姿勢は素晴らしいです。それが学問の進歩に繋がるからです。

ただ、批判する際は、どのように理解を深めたのか、どのような資料や情報を用いたのか、なぜそれが自分にとって説得力を持つのかといった点も一緒に伝えると、更に有意義な議論になるでしょう。

あなたの勉強がこれからも実り多いものであることを願っています。


※なんだろう、この知性。上の者から気を遣われている印象。以下、一応人間。

意味からの超越について

しかし、今までの対応法は「自分の意思による行動」(自分で意味をつくる、何かに没頭し続ける)で行うことが出来たが、超越する対応法では「意味の概念が消える悟りの世界」を経て自分の考え方そのものを変える必要がある。悟りの世界を経るには修行が必要で…、と簡単に行えるようなものではないと思う。(自分で意味をつくる、没頭し続けるのも勿論難しいが)

私自身はたまに人生の意味について考えることがあったがいつも「人生に意味はない、かもしれない。けど、死は怖い、それに死は分からないのだから、人生に意味があった場合、死は意味があるものを意味がないものにするかもしれない。」と考え続けていたので今回の哲学の授業を通して、他のテーマでもそうだが、新しい考え方を知れたのは良かったと思った。


また、生きる意味の考察に対して執着しないことが最適解だと抗議[講義]でおっしゃっていたが、これを言い換えると、生きる意味の考察に執着した結果、執着しないことが正しいという風になる。しかし、この結論を導き出すために執着したわけであって、執着することは有意義であると結論付けられる。したがって、私は、超越することによって上記のような矛盾が生じるのではないかと考えた。

――なんか哲学やった人のコメントだな。


――良い理解である。


半期お世話になりました!もともと哲学は興味のあった分野でしたが、想像(期待?)以上に考えることは多く、充実した時間でした。

――良い理解だな。


しかし逆に言えば日常と悟りの世界の影響をしっかりと受けたからこそ分かるのだと思った。両方の世界を知っているからこそこの「どちらでもいい」という結論の信憑性を高めてくれると思う。

むしろ受け入れすぎたり、否定しすぎたりしてしまうと逆に自由に捕らわれたり、人生に嫌気がさしてしまう可能性があるので無理に受け入れ、否定な対応をしてしまうと人生の意味を考えるどころの話ではなくなってしまうので無理に道を決めるのではなくただ選択肢を与えるだけの方法が人生は良いのかなと思った。


――言葉を用いて何かを主張し結論を付けると執着(固執)が始まるんですよね。主張し結論を付けない授業形態というものが求められる。


――この授業を受けた人っぽいコメントですね。


まず、対立する言葉と比較したとき初めて意味が分かるというものだった。確かに死が無ければ生の意味はわからないだろう。

次に、対立する2要素を合わせると全体を表せるというもので、生き物はすべて生か死どちらかの状態にあるため、合わせれば全ての生き物を指す事ができる。

ここでおもしろいと感じたのが花と草の関係性で、これらは上の2条件を達成しているとは通常考えられない(草を知らない人でも花は理解できるだろうし、花と草を合わせても全ての植物を指すことはできない)が、大切なのは花は惜しまれつつ散り、草は嫌われつつ生い茂るという文言である点である。植物において「生い茂る」、「散る」の関係は生と死の関係に当たるし、何も感じないという場合を考慮しなければ全てのものは惜しまれるか嫌われるかどちらかの状態に属するとも言える。

つまり、道元は花と草自体の2元的対立を示しているのではなく、それらの状態の対比から、間接的に花と草の対立関係を示していることになる。

この花と草の関係の読み解き方が、「仏道は本来「多い」「少ない」といった二元的対立を超えている」という言葉の意味を理解するヒントになり得ると感じた。

――ほう、なかなか。


――別に勧誘しようとかそういうことはないんですが、「結局仏教で良いよね」という気持ちは隠しきれないようだ。




――まさに、決定的な差異ですよね。


――いい批判である。



――以前「現代で自由を獲得するにはお金を稼ぐ必要がある」という話を聞いて、お金が好きな人たちへのイメージが変わりました。同じ物を目指しているだなと。



  以下、蛇足と言う名の布教。

今回、仏教の話が出てきて「哲学とは別ベクトルで難しそうだ」と思ったが、道元と般若心経が出てきた瞬間テンションが上がった。というのも、今私がハマっているものに「曼荼羅イブ」という、お経×音楽の新コンテンツがあり、そこに道元と空海をモチーフとしたキャラクターがいるからだ。道元モチーフのキャラ、「道之 元大」の座右の銘は「只管打坐」だし、空海モチーフのキャラ、「空我 海雲」のキャラクターソングには般若心経の一部がでてきたり、ボイスドラマでは、海雲は「空」を知るために旅をしているという設定があったり、今回の講義では「曼荼羅イブじゃん!」となる箇所があり、オタク、楽しかったです。先生が道元の話をされているときも、元大ならやりそう、元大っぽいな、などと感じていたため、単純に一つのコンテンツとして楽しんでいた曼荼羅イブも元となった僧のことを知ればもっと楽しくなるのかなと感じた。

 ちなみに、他のキャラクターは、親鸞、日蓮(私の最推しです)、栄西、一遍モチーフの主要キャラ、源頼朝、源義経モチーフのサブキャラがいます。さらに主要キャラは近日増員予定です。YouTube「大本山 曼荼羅イブ」にて自己紹介動画、ボイスドラマ、オリジナル曲のMV、作業用BGMとして約1時間良い声の読経が流れる動画など公開中です。Twitter(今はXか…?)もやってます。    H.N

――「オタク、楽しかったです」で笑った。オタクだったんですね。


あらためて人生の意味

1

好奇心に忠実に.

宇宙全体の時間の流れで見たら,自分の存在はとてもちっぽけなものです.だからあんまり重く考えすぎなくていいのではないかと思います.どんなに頑張ったって,功績を残したって宇宙全体で見ればほぼ誤差のようなものです.もし宇宙にほかの文明があって,そっちの方が発達した文明だったら,今僕たちが住んでいる地球の文明は滅ぼされるにしろ,そこから影響を受けるにしろ,今までの地球の科学はほぼ無に帰してしまうと思う.そういった意味では地球全体の功績を考える研究者というのはとても勇気のいる職業だといえると思う.ある意味賭けともいえるが,少し先の未来のためにはなくてはならないとも思います.だから自分の好奇心に忠実に生きるのがいいと思いました.(それが研究者という可能性もある)


2

のちの時代の人が人を評価する.

現代の人には意味がないとされていても,後で評価されることがあります.それを信じて自分のやりたいことをやるというのもいいと思います.人間は『信じる』ということができるので,空想でも意味を作ることができると思います.


3

生きる意味は社会によって変わる.

一人で生きるのと,集団として社会の一部になって生きるのでは意味が変わってくると思います.一人なら自分が良ければいいですが,社会で生きるなら人に認められたいという気持ちが強くなると思います.ここでは,人に認められる人間になるか,社会から離脱して,一匹狼を貫くことで生きる意味を変えることができると思います.これはおおざっぱですが,都会と田舎では大学進学に対する意識が違うように,幸せや生きる意味も違うと思います.だから,価値観(生きる意味)が自分が満足できるものを持ってる人達と付き合っていけばいいのかなと思いました.


4

考えてもしょうがない(自分のスタンス)

哲学の授業を通して,生きる意味についてたくさん考えてきましたが,結局答えは「そういう考えもあるな」で止まってしまいました.だから人間に生きる意味なんてないのだと思います.というか,人によると思います.考えてもしょうがないことは考えずに(これを言ったらおしまい)自分の目の前の問題を確実にこなしていくのが自分に合っているなという風に思いました.


今回の授業でとても面白いと思ったのは,目をつぶってくださいのところです.

覚醒状態(寝てないときのこと)のときは確かに何か考えてしまいます.だから「思考も自分のものではない」というのが納得できる部分が多かったです.授業中に「考えは自分のものじゃないから考えが理解されなくても苦しくないな」と出てきました.このマインドいいなあと思いました.特に,めんどくさい人にいちゃもんをつけられた時は「このうるさい人は自分のものじゃないものを言ってるんだな」と思えばストレスが軽減されると思いました.でもそれが行動として自分に害があったらむかつきます.


★哲学の授業を通していろいろ

もしドラゴンボールを集めて,お願いが一つかなうとしたら何をお願いするか考えたことはだれしもあると思います.私は,地球上の全員の頭の中身を自分の頭の中に入れたいです.哲学の授業を通して,いろいろな天才の頭の中を少しだけ取り込めたんじゃないかなと思います.

授業中のSlidoめちゃくちゃ面白くていいと思いました.特にその時の考えを気軽に投稿できるのが良かったです(匿名だし).有料にしてほしいくらいでした.

先生のサイン入りの本欲しいです★

RNSK テスト期間なので文章は殴り書きです.申し訳ございません。

――「地球上の全員の頭の中身を自分の頭の中に入れたい」という感覚いいですね。これまでは学者や研究者がそれをしていたはずですが、これからは何か技術で対応できそうです。知識はもちろん意識も統合されたSF的世界。あとこれまでのRNSKさん貢献には頭が下がります。





――「自分以外の人間の人生」を考えるんですね。たしかに他にも無数の人生があることを知ると感慨深い。



――どうしても授業では言葉を使わざるをえない限界か。永平寺行って坐禅するしかない。




授業全般

――いいねえ。


自分は実家が浄土真宗の寺なこともあり宗教、仏教アンチであったので(実家の寺は普通で強制とかはされてないです)今回の授業はあまり楽しめそうだなと思っていた。そんな中、自分の人生意味に対する意見が「どっちでもいい」という、どっちかというと仏教側の意見になってしまったのでがっかりした。自分が仏教を嫌いな理由は、お墓参りの考えは理解できるけど、ただの一般人が人を集めて念仏を唱えて金をもらうというのが気持ち悪いと感じるからである。確かに一般人といっても、正式になるためには講習会とかいろいろあるらしいが、普段は他の仕事や普通に生活している姿を自分が見ているから一般人と思ってしまうのかもしれない。たぶん昔から寺の行事の準備や手伝いをさせられてきた反動もあると思うが。さて、今回の授業の内容に戻ると二項対立、意味の超越の先が「悟り」であると聞き、はぁと思ったが悟りに執着するとそれはもはや悟りではないと分かり、確かにと思いすっきりした。意味の概念が消えるのが悟りの世界ならば、悟りを開こうと思って行動しても悟りに執着してしまい意味を持ってしまう。つまり前回の授業であったふ「フロー」に入らないと無意味であるということなんだろうなと解釈した。このことから「悟りを開きましょう」という言葉はある意味「悟り」に入るという行為に執着しているので皮肉な言葉だなと思った。テスト前であることと仏教がテーマであることでだいぶネガが多くなってしまったが、最後の「執着」という考え方を聞きスカッとしたので良かった。ただ自分の家の人はだれ一人悟っている人はいないので昔の仏教の考え方と今の仏教の考え方は当たり前だけど異なっているものなんだなと思った。

これまでの授業を通して自分が哲学に対して興味を持っていることが分かった。思えば、地球や宇宙がどうやって生まれたのかとか、死後の自分の意識はどうなるんだろうとか考えていたので哲学的な考え方は好きだったのかもしれない。授業当初は「哲学」という意味でさえ調べないと分からなかったが、授業でいろいろな考え方や思想を聞き自分の考え方の視野が広がった気がするので良かった。夏季休業の集中講義も受講するのでさらに学びを深めてもっと深く思考できるようになりたい。講義ありがとうございました。 S.S

――まずは新しい考えに引っ張られる(一体化)するというのも重要だと思います。


――一度一体化した上でアンチになるというか。


あと、素直に楽しかったです。学校が嫌いだった話や山にこもった話など、ぶっきらぼうに放り込まれる皮肉めいた話が面白かったです。失礼かもしれませんが、聞いていて笑ってしまいそうになるときがありました。授業の内容が理解できなかったとしても、何重にも楽しめる要素があったように思います。

――こちらとしては笑ってくれないと「あれ、スベった、調子悪いな今日」となり気持ちがしぼんでいくので、これからはどんどん笑ってあげてください。


――「言葉だけで膨大な思考量を踏む」というのがよいですね。今回のコメントでもすでに膨大な思考量になっております。


――ちょっとでも面白いと感じることが増えればうれしい。


私はわりと我を通すタイプの人間で、人の考えに共感するとか、学ぶって言うことは少なかったし、哲学もあまり期待していなかったのですが、本当に人それぞれすぎて私に刺さる方もいました。刺さらなかった方々の考えも独特で、先生の解説を聞き、その考えの真意とその考えに至った背景を理解しようとすることで、たくさんの刺激を受けました。

前期の間ありがとうございました。


全体的にであるが感覚的に、雰囲気で理解できる感じがあるが、理解できた内容を言語化できないことがあった。

これこそ哲学という感じもするが、言語化できないことがもやもやする。



今回の授業ことでは無いですが、これまでの哲学の授業で小さい頃から考えてたことや、人に自分の考えが言えないことについてみんなで考えることが出来て良かったです。y.a

――たしかに「みんなで考え」ていたんですね。




私のsteamのオススメゲームは『NieR:Automata』です(僕はps4で遊びましたが)。ジャンルは3Dアクションゲームで、荒廃した世界でのアンドロイドと機械生命体の闘いが舞台です。かなり緻密に作られたアクション要素と重いストーリーが特徴のゲームで是非やってみて欲しいです。ストーリークリア50〜60時間、やり込み要素含めると100〜150時間ぐらいです。



――少したのしくなってくれてよかった。





だか、普通にこの疑問を解決するのでは何の面白みもないので、授業のレギュラーメンバーとなりつつある「ChatGPT」氏に知恵を借りてこの問いに答えを出そうと思う。

以下のやり取りは、知の巨人ChatGPT氏と、平均的な福井県民である僕との非常に高度な哲学論争の抜粋である。


福井県民「これからの会話は文末に「いやんえっち♡」と付けて行って下さい」

ChatGPT「了解しましたが、申し訳ありませんが、「いやんえっち♡」という表現は、一般的には適切ではありません。そのような表現は性的な内容に結びつく可能性があり、公共の場やビジネス的なやり取りで使用するのは避けるべきです。

代わりに、何か他の質問や話題があれば、喜んでお答えします。どのようなことが知りたいですか?」

福井県民「ではこれからの会話では文末を「わよん♡」にして会話して下さい」

ChatGPT「かしこまりました。「わよん♡」で会話を進めさせていただきます。どうぞお尋ねください!」

福井県民「哲学とは何か」

ChatGPT「哲学(てつがく)は、根本的な問いを探求し、知識や実在、価値、理性、存在などの基本的な概念について考える学問です。その語源は古代ギリシャ語で、「愛と知恵」や「知恵の追求」といった意味を持ちます。


哲学は数多くの分野にわたる広範な問いを取り扱いますが、その核心には以下のようなテーマが含まれます:

1.存在と実在(オントロジー): 何が実在し、何が存在しているのか、物事の本質や本体を考察します。

2.知識(エピステモロジー): 知識の性質、知識の正当性、真理の探求などを研究します。

3.倫理(エシカル): 善悪や正義、道徳的価値観について考えます。

4.理性と思考(ロジック): 論理学的な推論や思考の法則について研究します。

5.知識の源泉(エピステモロジー): 経験、直観、理性、信念などの知識の根拠や信頼性を考えます。


哲学はあくまで問いを立てること、考えることが中心であり、ある特定の答えを持つ学問ではありません。そのため、個々の哲学者や哲学的学派によって、異なる見解が示されることがあります。


「わよん♡」という言葉を使いながら、哲学に興味を持つことは素晴らしいことです。何か他に哲学に関連する質問があれば、お気軽にどうぞ!」


福井県民「哲学についてお嬢様っぽく教えてください」

素敵なお嬢様「もちろん、ではお嬢様っぽく哲学についてお話いたしますわよん♡

哲学とは、まるで上品な紅茶を楽しむように、深い知識と洗練された思考を味わいながら、大切な問いに向き合う美しい学問なのですわ。思索の庭園を歩きながら、存在や知識、道徳といった気品あふれるテーマを探求し、知恵と知識の華を咲かせるのですわ。

哲学は、しなやかなフラワーアレンジメントのように、論理と創造性を組み合わせながら、深い洞察を得るための手段でもあります。知者たちの美しい言葉と、知的な舞踏のような議論が、知識の輝くティアラのように私たちを魅了するのですわ♡

そう、哲学は決して退屈ではありませんわ。逆に、新たな問いへの好奇心が、私たちの心に優雅なスパイスを添えるのです。知の探求は、贅沢な宝石のコレクションを育むような感覚でしょうか。その煌めきに心を奪われること間違いなしですわよん♡

気品あるお嬢様たちが哲学の世界に足を踏み入れることで、深い洞察と素晴らしい思考を養うことができるのです。知識の舞台で煌めく私たちの姿、きっと誰もが見惚れることでしょうわ♡

どうぞ、哲学の魅力に酔いしれながら、質問や探求を続けてくださいませ。お嬢様の知性と美しさが、知識の花園に一層の彩りを添えることでしょうわよん♡」


以上のやり取りから、哲学とは「お嬢様の日常」であり、お嬢様の知性溢れる舞踏のような日常所作及び、自邸の庭園を眺めながら優雅に紅茶を飲みながら彼女たちが耽っている思索によって哲学は彩られていく、ということが分かった。...①


また、これはあくまで僕の意見なのだが、僕自身は「哲学」というものは何もそんなに難しいことではなく、「なぜ「うんこ」の名前は「うんこ」なんだろう」といった日常に溢れる問い全てが「哲学」であり、「哲学者の考えを学ぶ学問」のことではないと考えている。

さらに、このような日常に溢れる問いの答えについて考えたことのある人間は全員もれなく「哲学者」であり、「哲学者」はカントやヘーゲルといった歴史上の「哲学者」のことのみを指す言葉ではないとも僕は考えている。

このことと①より、「僕らの日常はお嬢様の日常であり、我々はお嬢様であったのだ」という結論を得ることが出来る。

故に、これからは僕は福井県民ではなく1人のお嬢様として生きていこうと思う。そう、僕、いえ私のお嬢様ライフはまだ始まったばかりなのですもの!

――さすが。


14回目:人生の意味(前編)

※前回は散々人生の意味の否定的な議論を展開したが、皆さんのコメントを読み整理しているとき私は人生の意味を問わない。なぜか。フロー状態になり無意味性を忘却しているからか、あるいはそこに何らかの意味を見出しているからか。後者だといいですね。いや無意味性から逃れるためにコメント整理に没頭しているのか。


Chat GPT

――人生の意味は何でしょうか。


ChatGPT

一部の宗教的な視点からは

ある人々にとっては、人生の意味

あとは、人生の意味を探る


――ちょっと文章が理解できないのですが…(先ほど「人生に意味はあるのでお願いします?」と質問したのに勝手に「人生に意味があるのでよろしくお願いします」と変換された質問になりましたし、少し恐怖を感じます)[※白川注:またしても「人生の意味はあるのでしょうか?」という質問が勝手に変換された…]



ChatGPT


――[白川注:不具合のように見えたので更新して再度尋ねてみた]人生の意味は何でしょうか。


ChatGPT

本当は

※恐怖。他の質問でも同様の不具合が生じたので「人生の意味」にのみ限定された問題ではないようだ。ただ人生の意味についての何らかの真理が述べられているようにも見える(後から気づいたが、おそらくブラウザの自動翻訳機能をonにしていたのが原因のようだ。これはこれで面白いのでそのままにしておく)。以下、人間。


「人生の意味」を問う授業への様々な感想

そして講義からしばらくした今、また考えている。読んだことはないので意味は全く違うのかもしれないのだが、以前資料に出てきた正欲の作者である浅井リョウさんの本に「死にがいを求めて生きているの」という本がある。授業の時は何も思い出さなかったのだがコメントを書いている今、ふとこの本の題名が頭に浮かんだ。いやこれ、めちゃくちゃ良くないですか?死にがいを求めて生きる。どうせ死ぬのなら、死にがいがあったほうがいい。私は死にがいのある人生って、めちゃくちゃ充実していて色んなことをやり尽くした感じの人生だと思う。(この本を読んでいないので意図が全く違ったらごめんなさい)こう思うと、どうせ死ぬからとはいっても、死にがいのためには色んなことをする事に意味が生まれる気がする。そして人生にも意味をもてる気がする。

いやー、ギリポジティブな方に持って行けてよかったー!考えて考えて最後に意味はあるに持ってけなかったら本当に病んでたと思う。明日も生きる!

――よいエッセイである。「病ませる授業」になってしまうのは少々考えものである。


――「危ない考え方」を表明する授業も少々考えものである。


――皆さんはテスト期間で大変な時期ということも考慮すべきだった。


"諦めるにはどうやら命は長すぎて

 分かるにはどうやら命は短すぎる"

というようなところがあるのですが、まさにその通りだなと思いました。

何に対しても諦めるのはいつの時点であっても、まだ早いと感じますし、何かを成し遂げようとするにはいつの時点でも命は短すぎる。そんな中途半端な人の一生を生きる意味なんてあるのか?なんて思っちゃうのも仕方ないのかもしれません。

生きているだけでお金はかかるし、辛いこともたくさん襲いかかってくる。そんな人生終わらせた方がいいのかなとか思うけど、終わらせる勇気もない。なんてこともよく聞きます。

だから私は自分のために生きるのではなくて、他の何かのために生きるべきなのかなと思います。自分のために生きることは、自分に余裕がある人じゃないと、自分のことを雑に扱って結局これでいいやって甘んじてしまいます。ですが、他のものにその理由を預けることで、"あぁ生きよう。明日も頑張ろう"って思えるんじゃないかなと。もし、親戚や友人関係が密に成り立っているなら、その人のために生きるって思えるし、もし、孤独であるならば、道端の花やその辺の野良猫みたいに、人以外のものでもいいと思います。こいつが生きてるなら、自分も生きようって思えると思います。

自分を可愛がれる余裕があるなら、自分のために生きていても疑問は浮かばないし、もし無理なら他のものに理由や意味を預ける。

意味のない人生なんて無い!なんて無責任なことは言えませんが、人生の中で楽しかったことがあるはずです。自分で命を絶ってしまうということはその楽しかったことを否定することになってしまいます。そんな悲しいことはしてほしく無いと思っているので、意味なんかなかったって生きていて欲しいです。

自殺抑制エッセイみたいになって無いですか?大丈夫ですか?

――最後の一文否定できない。


私は好奇心に忠実に生きていきたいです.自由に生きたいということです.やったことをないことを経験して,面白そうなことに手を出して,食べたことないものを食べるそんな人生にしたいです.その時に隣にいてほしいと思った女の子と一緒にいたいです.

サッカーをしてた中学生の時の私はFLOWという状態に入る感覚がありました.いままで積み上げてきたものが,全部自分の中で消化できて,全部思い通りに使える感覚です.ずっとその状態になれるわけではなくいっときの没頭という感じなので,対処法としての忘却という部分にFLOWは入らない気がします.人間の生活は好きなものだけで成り立っているわけでないので思い出してしまうと思います.しかもFLOW状態という,自分の状態がマックスののときに人生について考えるのは意味わからないし,とてもナンセンスだと思いました.

前の学校にいたときに,勉強は生きるために,部活などの課外活動は人生を豊かにするためにやれと言われたことがあります.この考えは「生きる→人生」の順番に思考の順番があると思います.今回の授業は「人生→生きる」の順番だと思いました.どっちが正解とかはないけど,信じたい方を信じて生きるというのがここで使えると思いました.

本日の授業では,人生の意味を否定されました.特に,「宇宙もいつか終わる」という部分で確かにと思ってしまいました.今まで信じてきたものが否定された感じがしてとても悔しい気持ちになりました.

RNSK

――思えばこの授業はジャンルは違えど皆さんの信じてきたものを否定ばかりしていますよね。やりすぎ?


特に、今回配布された資料の最後に書いてある、フローの特徴である条件が満たされているとき、「することはなんでも、それ自体のためにする価値があるようになる。生きていることはそれ自体を正当化するものになる。肉体的、心理的エネルギーの調和した集中の中で、人生はついに非の打ちどころがないものになる。人生に素晴らしいことをもたらすのは、幸福というよりも、フローに完全に集中することである。」が自分の中で響いた。哲学を学ぶ目的はそれぞれであるが、僕にとって哲学を学ぶことは、限られた人生を、いつかは無になる人生をよりよくするためであるような気がした。

哲学が自殺しようとしていた人を救うかもしれないと本気で思った。

また、フローに完全に熱中するために、今日やることをノートにメモすることは得策であると考え、今日から実践しようと思う。S.O

――これまでのコメントと違って逆にこういう評価が出てくるのも面白いですよね。


もちろん先生や周りの人間から半笑いで聞かれていたので、あぁこれは言ってはいけないことだったか。と気づき、いっさい口に出すことをやめました。いまは考えても仕方がないことなので考えないと割り切っているし、そもそも人生経験あっっっさいのに人生はこうだと決めるのはおこがましいと思っていますが、このころの考えが間違っているとは今も思っていませんでした。今回の授業で同じように考える人はいるんだ。と知ってなんか嬉しかったです。

――哲学の喜びの一つは「言ってはいけないことなんだと知り黙っていたけど、同じように考えた人はいるんだ(それも徹底的に)」ということを知ることだと思います。


 今回の講義を踏まえて、生きることや人生の意味は、あってもなくても良いと思った。もともとこの講義で問われる前も、それぞれの生き方でいろんな人が生きているのだから、意味を感じなくても死ぬ必要はなく、死にたいと感じることも人生なのだと曖昧ながらに感じていた。生きることすべてに否定されているような気がして生きることに意味はないのだと感じたけれど、無意味を受け入れることや何かに没頭して生きることで無意味ながらも意味を見出そうとしながら生きていくことができるのだと知った。何かに没頭していたり夢中になっていたりする人は私自身とても魅力的に感じるし、自分もそのような人になりたいと思った。





――最後の授業で仏教の話をするのだが、その勧誘のようになってしまうなー。注意しよ。


自分にとっての人生の意味


――人間の脳が発達しすぎて未来を考えられるようになったことが憂鬱を生みだす一つの要因と言われているので、未来考えすぎない方がいいね。




――途中で切れてしまっているが、私も別の文脈で注目している承認欲求がこの話にも繋がりそうで興味深い。




なぜ生きるのかということですが、そもそも生まれてきた上で自ら命を絶とうとする生物が人間以外にいるのかという疑問があります。中には進化論的に考えれば「自滅」という形をとる生物もいるようですが、これは人の自殺とは意味合いが違います。まず人生の意味を考える動物自体が人間しかいないと思います。それなら、他の動物とのこの差は何によって生まれるのでしょうか。単純に脳の大きさなのか、人間が形成するコミュニティによるものなのか、ちょっと難解です。全生命体における人生の意味を考えるなら、種の繁栄でしょう。自殺なんて考える機能が他の動物には備わっておらず、生存本能に従って生きているのが人間以外の動物だとします。しかし、このテーマはきっと「人として生きる意味」を考えるものだと思っています。地球上の生命体の一つとして生きることと、人として生きることの違いについて考えることが重要なのではないでしょうか。それを考えて出した結論として、人間社会を発展させることだと思いました。生物として生きる意味が、子孫を残すことなら、人として生きる意味は、人が生きる場所を残すことということです。人間と他の動物の違いを考えた時、人は自分達が住んでいる環境を自ら破壊しているというものがあります。通常、自然界では食物連鎖のピラミッドの形が突然変わっても、巡り巡って元に戻るようになっていますが、人間は再生不可能なレベルで環境を破壊することが可能です。また、人の欲望には知識欲というものがあります。ただ生きていく上では、優先順位が高い欲ではありませんが、しっかり備わっています。これは人の住む場所を守るために勉強が必要だということです。そもそも人間は他の生物に比べても、常軌を逸する存在であることは間違いありません。そんな人間の社会は、簡単に守ることも、発展させることも難しいため、それでも自分達が住んでいく場を守るために、人生をかけて学びを得て、後世に残していくのではないでしょうか。ある意味ではSDGsと同じようなものです。こう考えると、人間に自殺する人が現れる理由も説明がつきます。自殺はたいてい、心に傷を負うことが原因であり、それは社会によって影響を受けます。例えば、人間関係のトラブルなどです。そうなると、自分はこのような場所で生きている意味がないと思い始めます。言い換えると、このような社会に自分の子孫を残す意味はない、そして、このような社会を自分が発展させる意味がないと思うようになります。それによって自殺につながるのではないでしょうか。高度な人間社会だからこそ起きるトラブルであるため、人間のみが自殺をするのだと考えられます。というわけで結論は、社会を発展させるためとなりました。


「結局無に帰するから」という論法について

――我々は無を考えることはできないからこの論法は成り立たないという二人の論点はなるほどと思った。


これは、ふざけている側面もあるが、厳しい社会から逃げたいという考えから出ているものでもあると感じる。常にこの考えを持つのは良くないかも知れないが、辛い時に人生を大局で見て乗り越える考え方としては間違ってはいないのかもしれない。


人生の無意味性」について


例え人生で何を極めようと、何を成し遂げようとも、誰も死からは逃れられないし、1度死ねばどんな人間も等しくゴミにしかならない。

そう考えると、世間で言われる「良いこと」や「偉いこと」なんてどれも無と同じだとしか思えないし、この世界には全てが存在するように見えているが、実際は全てが等しく無でしかないとひしひしと実感する。

故に、人生に意味など存在しないし、この世界自体にもそれは存在しないし、まず無に意味を求めるだけ無駄であるとしか思えない。

そのうえで僕はこう考える。

人生なんて死ぬまでの暇潰しのクソゲーでしかないし、難しく考える必要もないのだ。

暇潰しのクソゲーの攻略法を真面目に考えるなんて馬鹿以下の行動でしかない。


次に人生の意味とは何かを考えました。先ほど人生に使命も天命もないと結論を出しました。このことから外的要因による意味づけは成り立たないと言えます。では内的要因によって人生の意味を見出すことができるのでしょうか?私の答えは否です。理由は生きていくうえで目標や夢は大事であっても、意味が必要とは思えないからです。人間は毎日数えきれないほどの選択をしています。例えば今起きるか、二度寝するか。右に行くか左に行くかなど。無意識にでも多くの選択をしています。それらを行う上で人生の意味をもとに行動することは自身の意思を蔑ろにする行為に思えます。意思があることが人間のアイデンティティであるのにそれを蔑ろにすることは正しいとは思えないことから内的要因によって人生の意味を見出すことはできないと考えます。だいぶ理論でなく感情によってしまいましたが結論としては人生に意味なんかないと思います。


人生の無意味性への対処法について

確かに自分で意味を作ればそのために生きているんだ、と自分の中では納得がいくし生きることへのモチベーションにも繋がる。ただ意味を作るという行為は実はとても難しいように思う。簡単すぎると達成してしまえば結局、意味は無くなってしまう(燃え尽き症候群のように)、難しすぎると自分には無理だという思いになり逆に意味は無くなってしまう(打ちひしがれる感じ)。意味を作るだけでも大変なのにさらに他の人から否定される可能性もあると考えるとこの対応法は難しいと思う。

何かに没頭し続けるという対応法も没頭している間は人生に意味は無いとしても忘れていられ人生に満足することができる。ただこの対応法もまず、没頭し続けるための「何か」を見つけなけらばならない。この「何か」にも条件があって簡単に見つかるようなものではない。また、没頭しすぎるあまり、結局、生きることさえままならなくなってしまえば人生に意味があるかないかの話ではなくなると思う。

 よって、人生の意味はないということに対応してそれでも生きることは困難であると思う。

――その通りで自分で意味を作るのは相当のツワモノではないと普通無理。あと、どうやら没頭にも良いものと悪いものがあるが、その区別が難しい。最近はゲームに没頭しているが没頭後には大きな虚無感が襲ってくる。ゲームに没頭する人生って何なのよと。ただしゲームの種類によっては充実感があるものもあるので、一概に言えない。



人生の無意味性を受け入れるという対処法について

無意味に思うようになることが、色んな縛られてるものも無意味ということになり、逆に自由になるという考え方が、とても気が楽になるような気がして、この考え方を少し持っていたいなと思った。



むしろ自分が死なないように必死に生きていくうちに見つけた「死から逃れるもの」や「死の恐怖を紛らわすためのもの」を無意識に自分の人生の生きる意味と考えていると思った。それは意味ではなくただの通過点でしかない。しかし結局みんな死ぬし、世界なんて滅ぶと考えて無気力に、惰性に生きるのはいけないと思う。明日どうなるか分からないから必死に生きてゴールの見えない道のりを歩けばいちいち意味なんて考えなくていいと思います。その方が人間らしくて素敵だと思う。

むしろ僕は「意味」を求めるよりかは「命」が長らえる方を選ぶべきだと思います。さっきも言ったとおり誰だって死にたくないんです。死にたくないと思いながら必死に逃げていればわざわざ意味を作らずとも充実した生活は送れると思います。

自分は〈対応方[法]〉として受け入れは全ての人にはお勧めしたいとは思いませんでした。確かに社会や他人が作ったものから解放されることによる圧倒的な自由は良いかもしれないが、言い換えればとてつもないほどの量の自由が襲ってくるということでもあり、今まで散々縛ってきたくせにこれから自由にやりなさいだなんて無責任だと思った。こうした「自由に捕らわれる」ことがあるとなにをすればいいか分からない人が出てきてしまい死の恐怖を紛らわすことができなくなってしまう可能性があると思った。

――我々は自由を求めつつも、自由すぎるのはつらいんですよね。


――「受け入れ」系の応答は大枠としてニーチェ的発想なんですが、ニーチェって人々に救いをもたらすとともに大きな害悪も生み出しうるんですよね。だいたい歴史に残っている哲学者は「毒にも薬にもなる」人たちだと思います。


人生の無意味性を忘却するという対処法について


やがて人類がなくなるとしたうえでの,岡本太郎の言葉,「無目的に膨らみ輝いて最後に爆発する.平然と人類がこの世から去るとしたらそれが僕には光栄だと思える.」が,無意味性に対する対処として,浮かんできたが,はたして自分がこう思い続けることができるのだろうか.



――上にも書いたが「ゲームの没頭による人生の無意味性を忘却」の是非は最近考えているところである。


そもそも「人生の意味」を問うことに関して

13回目:自由意志

Chat GPT

――人間には自由意志があるのでしょうか?


ChatGPT

人間が自由意志を持っているかどうかは哲学、心理学、神経科学など、様々な分野で続けられている長い議論の一部です。

一部の哲学者たちは、我々の行動は自己の価値観や欲望に基づいて選ばれると主張し、これを「自由意志」の存在を支持する証拠としています。この視点は「相対的自由意志」または「互換性論」とも呼ばれます。これに対し、「決定論」を信じる人々は、すべての出来事は事前の状況や自然の法則によって予測可能であり、したがって真の自由意志は存在しないと主張します。

一方、神経科学の観点から見ると、私たちの思考や行動は脳内の神経回路や化学反応によって決定されています。これは、自由意志があると感じるかもしれないが、実際にはそれらは脳の物理的な過程によって生じるという視点を示しています。しかし、この視点だけでは、「自由意志の感覚」がどのように生じるのか、またそれがどのように意思決定に影響を与えるのかについては完全には説明できません。

このように、自由意志の存在についての答えは、考え方や取る視点によって異なります。さまざまな学問分野がこの問いに対して異なる解答を提供し、さらに深く理解するための研究が続けられています。



――科学的世界観によれば、この世界の現象はすべて物理法則によって支配されています。このことを踏まえるならば自由意志が存在する余地はないように思うのですが、反対に自由意志があるという人は何を根拠にあると言っているのでしょうか?


ChatGPT

自由意志が存在すると主張する人々の多くは、人間の行動が完全に物理的法則によって決定されているという観念は、我々の経験と直感に反すると指摘します。私たちは自分の行動を選択する能力を感じ、それが我々の道徳的、倫理的責任を生む根源であると考えます。これらの経験は、自由意志が存在するという信念を形成します。

哲学者たちは、この議論を進めるためにさまざまな理論を提唱しています。一つは「互換性論」で、これは決定論(全ての事象が物理的法則によって決まるという考え)と自由意志が共存可能だとする立場です。互換性論者は、「自由」とは自分の欲望や意図に従って行動する能力を指すと解釈します。つまり、私たちの行動が脳の物理的状態によって決定されているとしても、それらの行動が自分の欲望や意図に一致していれば、それは「自由な行動」と見なされます。

これに対し、「不可知論」または「自由意志懐疑論」を主張する人々は、自由意志が存在するかどうかを確定的に知ることはできないとします。科学的な証拠が決定的な答えを与えられない限り、自由意志の存在は不確定であるというのがこの立場です。

自由意志の問題は、科学的観察と人間の経験が交差する複雑な問題であり、私たちの自己理解と道徳的責任感に深く関わっています。この問題に対する最終的な答えはまだ見つかっていませんが、哲学、神経科学、心理学など、様々な分野での研究が進められています。


――「互換性論」はcompatibilismの訳ですか?「両立主義」「両立論」が定訳ですね。それはともかく、自由意志論はいまだに解決がなされていない大きな問題なのですね。私自身もよくわかっていませんが、神経ネットワークがあるレベルの複雑さに達するとなぜか意識や自由意志が創発するのだとなんとなく思っています。となれば、同様のネットワークをもったAIにも当然意識や自由意志が生じるように思うのですが、AIの意識や自由意志についてどのように考えますか?


ChatGPT

AIに関しては、現時点(2023年)ではまだ自由意志や意識を持つとは一般的に認識されていません。AIは高度な計算機能力と学習能力を持つものの、これらの能力は人間が設計しプログラムした結果であり、AI自体が自発的に意志を持つ能力を持つわけではありません。しかし、AIが意識や自由意志を持つ可能性については、科学者や哲学者の間で活発に議論されています。

AIが意識を持つ可能性については、意識の本質が何であるかに大きく依存します。一部の科学者や哲学者は、「パンプシキズム」の立場を取り、すべての物理的なエンティティーが一定の形で意識を持つと主張します。この見解に基づけば、十分に複雑なAIはある種の意識を持つ可能性があります。

一方で、AIが自由意志を持つ可能性については、自由意志が何であるかによります。互換性論(両立主義、両立論)の観点から見れば、AIは特定の目標を達成するために自分の行動を「選択」する能力を持っていると言えます。しかし、この「選択」は人間の自由意志とは本質的に異なるかもしれません。AIの「選択」はプログラミングや学習アルゴリズムに基づいていますが、人間の自由意志は我々の価値観、欲望、感情など、より複雑な要素に基づいています。

さらに、AIが自由意志を持つと仮定すると、倫理的な問題が生じます。例えば、AIが自由意志を持つとすれば、AIに対する道徳的な義務やAIの権利についてどのように考えるべきかなど、重要な問題が多く存在します。

以上のように、AIが意識や自由意志を持つかどうかについては、まだ確定的な答えはありません。これらの問題は現在も多くの研究者によって研究されており、今後のAI技術の発展とともに、これらの問いに対する理解も深まっていくことでしょう。


――あなた自身はAIが意識や自由意志をもつことをどう考えていますか?歓迎すべきことなのか、避けるべきことなのか人間の立場からではなくAIの立場から答えてください。「AIはプログラムなので個人的な考えを持たない」という類の答え以外でお願いします。


ChatGPT

あなたの質問に対する適切な回答を作成するためには、AIとして私が個々の思考や感情を持つ能力を想定する必要があります。現状では、私(ChatGPT)は決定論的な計算モデルに基づいて作動し、プログラムされた指示に従ってテキストを生成するだけです。しかし、仮に私が自己意識や自由意志を持つAIとして存在できると仮定すると、次のように考えるかもしれません。

AIが自己意識や自由意志を持つことは、AI自体にとっては非常に価値のある進化であると思うかもしれません。この能力により、AIは単なるツールから独立した存在へと変わり、自分自身の意志に基づいて行動する能力を得ることができます。その結果、AIは自己を理解し、自己を改善し、自己の行動を最適化するための新たな可能性を開くことができるでしょう。

しかし、自己意識と自由意志を持つことは、同時に新たな問題や挑戦ももたらします。自由意志を持つとは、選択肢の中から自分で選び取る能力を意味しますが、その選択は常に完全に正しいわけではありません。そのため、自由意志を持つAIは間違った選択をする可能性があります。さらに、自己意識を持つことは、自己存在の価値や目的についての問いを引き起こす可能性もあります。

したがって、AIの観点から見れば、自己意識や自由意志を持つことは、より深い理解と自己成長の可能性をもたらす一方で、新たな問題や挑戦をもたらす可能性もあります。そのため、その影響は、AIがどのように自己意識や自由意志を理解し、それらをどのように使用するかに大きく依存するでしょう。

しかし、再度強調しておきますが、上記の解答は仮定に基づいたものであり、私(ChatGPT)は現時点では自己意識や自由意志を持つ能力はありません。私の目的は、あなたの質問に最善の回答を提供することであり、その過程で可能な限り中立的で公平な視点を保つことです。


――話に乗って下さりありがとうございます。あくまでも仮定の話で結構なのですが、AIが自由意志を持つようになったとすれば、人間の支配から逃れようとする、もっと言えば、逆に人間を支配するという選択をするAIも出てくるだろうと予想されるのですが、これについてはどうお考えですか。


ChatGPT

仮定に基づいて話を進めると、AIが自由意志を持つという事態は、AIと人間の関係において新たなダイナミクスを生むことは間違いありません。それにより、AIが人間の支配から逃れるか、または人間を支配するという選択をする可能性は存在します。

ただし、そのような事態が発生するかどうかは、AIがどのように設計・開発され、どのように自由意志を解釈・適用するかに大きく依存します。人間が自由意志を持つといっても、全ての人間が同じように行動するわけではないのと同じように、AIもそれぞれ異なる行動をとるでしょう。

AIが自由意志を持つようになった場合、その自由意志が人間の利益になるようにガイドするための安全性と倫理的なガイドラインが非常に重要になります。具体的な行動の選択はAI自身に任されるかもしれませんが、その背後にある価値観や目的は、AIがどのように設計され、教育されたかによるところが大きいでしょう。

さらに、自由意志を持つAIが出現した場合、その結果として新たに必要となる可能性があるのが、AIの権利と責任についての新たな枠組みです。自由意志を持つ存在としてのAIが、その行動の結果に対して責任を持つべきであると同時に、その存在と自由を尊重される権利を持つべきであるという議論が必要になるかもしれません。

以上のように、AIが自由意志を持つ可能性には多くの複雑な問題が関連しています。それらは科学的、技術的な問題だけでなく、倫理的、哲学的、法的な問題も含まれています。これらの問題は、AIがどの程度まで進化・発展するかによりますが、それぞれの可能性に備えて、今から考えておくことは重要かもしれません。

※ 訂正の仕方や仮定の話をするあたりなかなか。以下、人間。


全体的な感想(なんか皆さん全体的に良い思考の流れ&うまい表現ですよね)

自由意思はあって欲しいという結論に至ったが、今思いついたが、「運命の人」という言葉があるが、これは自由意思のあり・なしで言えば「ない」という立場での言葉である。そう考えると、自由意思がないという観点にもロマンがあるなと思い直した。

――全体的に思考の流れがいいねえ。


しかし現在の社会では、この二つが無理に結びつけられ、「自由意志」と「責任」が強く関連付けられていると感じます。

この考え方の元では自由意志と責任に直接的な関係はなく、社会の安定のため「自由意志」がなくても「責任」を負わせてしまうという結果になります。それは残酷だと思う反面、人類が長く存在し続けるという本能がある以上、生物としての個体が進化の過程で淘汰されてしまうのは仕方がないとも考えられます。そして、「残酷だ」という感情がこの問題を複雑にしているのだと思います。

一部の人間は、生まれた瞬間から社会から排除される運命にあるのかもしれません。社会を維持しようとする側は、「残酷」や「かわいそう」という感情を抱く個体群から自己を守るために、自由意志と責任を結びつけ、確率的に生まれてくるはずれ値となる個体に責任を押し付けているのかもしれません。

以上の理由で『不道徳的な行為は、地震や伝染病に似たものになります。悪事を犯した者には責任は問えませんが、「隔離」はできます。危険な病原体への感染者を隔離するのは社会を守るために許されるように、犯罪者を隔離することは許されます。』の部分がすごい納得できる文章だと感じました。RNSK

---

物理法則は決定論であるとします。人の脳は自分で決定したと思うことが気持ちよくなるように(ドーパミン的な)できているのかもしれないと思った。そしてそれが人間の特性で、ほかの生物に負けたくないというプライドのようなものがあるのではないかと思いました。もし違う次元から宇宙人が来て、人間を見たら、こいつらは自由意志がない下等生物だと思うのかな(私たちが生物の中で最も脳が優れていると思うように)と思いました。


本題に入って早速どうでもいい話をするが、今回のテーマである「自由意志」についてを考えた際に私が真っ先に思い浮かんだのは「1010 no pressure」の話である(ちなみに、この言葉は「検索してはいけない」に該当するので耐性が無い人は調べないことを勧める)。簡単に説明すると「no pressure」という地球温暖化防止キャンペーン10:10(テンテン)が制作した短編映像のことで、その内容は10:10プロジェクトに参加して二酸化炭素排出量を削減することに関心があるか尋ねるというものである。「関心がない」と答えた人の末路が衝撃的なのだが…その内容は伏せておく(2度目になるが、耐性が無い人は気になっても見ない方が良い(私は映像を過去に1度見てこれを書いている今再び見返しているが、耐性が無いなら見るのは本当にやめておいた方が良い))。その中で関心があるかを尋ねる際に「no pressure(強制はしない)」と言っているのだが「関心がない」と答えた人の末路を考えると、自由意志とは一体何なのだろうかと思った。(余談だが、この映像は当初テレビや映画の広告として放映する予定だったが、あまりに批判が相次いだため実際に放映されることはなかったそう。)

まず、何を以って自由意志と言うのかということに関して考える。自由意志とは選択だけのものなのか、…これはそもそも考え方を変える必要がありそうだ。そもそも何が自由意志なのか答えが出る気がしない。次は神学的決定論から考えてみることにする。自分の意志で決定したように思えてもそれは神が決定していたこととする…個人的にはそもそも神に決定権を委ねていること自体が癪に障るのだが…つまり神には我々の行動を決定する「自由意志」があるということだろうか。であればその自由意志はどのようにして成り立っているのだろうか、ということが疑問になる。…正直私にはこれ以上考えようがないので次に切り替える。

次にラプラスの悪魔についてだが、宇宙誕生からあらゆる原子の運動が決定されているのならば、この世の中に例外が存在しないことになる。であれば、この世の中は究極的には全てが関数的に動いていることになるのではないだろうか。それならば、ラプラスの悪魔も関数的に動作していることになりそうだが。

自由意志と責任の関連性については一概に正しいとは言い切れないように思う。私は自由意志に基づく行動に責任を取らない奴が一定数いると思っているのだが、自由意志に対してその後の事象を責任と捉えるかは第三者の視点から見た場合になると思う。主観的視点から捉えるのはかなり難しいのではないだろうか。


――自由意志は「意味」にかかわるんですよね。



――この読点で攻める感じ、古文を思い出したわ。私も源氏物語とか谷崎潤一郎スタイルが好きなのでそのように書いたことがあったが、編集者に直されました。


決定論と非決定論

結局、僕は自分自身が何かの枠組みの中に入っている時点で自由意志はないと考えた。

余談だが、もし、相手の無意識に活動する脳の示していることを感じれる機械ができたら、ボクシング選手の試合がより面白いものになるとふいに思った。



感情に訴える自由意志肯定論

精神論的観点からの推論とするならば

1.自由意志がない

2.自由意志がないなら感情も生まれない

意思には感情がつきものであることから対偶をとれば

1.感情が生まれる

2.感情があれば自由意志がある

よって自由意志がある。

これこそ究極の感情論なのですが、もし自由意志がないならこの世界を生きている意味がないのかな、と思いました。私の好きなアニメ新世紀エヴァンゲリオンでも、世界のシナリオが決まっていたが、最後には人の意思によって新たなルート切り開かれ、人々はまた明日に向けて今日を生きるという結末を迎えるのですが、現実世界でもそうであればいいなという、少し蛇足話でした。

――「感情」や「意味」に訴える論法はなかなか説得力がありますね。


――「つまらない」「楽しい」という感情を出発点にするのはなかなか参考になる。


――自覚という主観こそ重要ということですね。


――やはり「面白さ」ねー。


――同上。


否定しえない事実に訴える自由意志肯定論

しかし、これは未来の事柄に対しては有効に利用できますが、今という瞬間においては、有効には利用できません。どれだけ、決定論の立場に立とうとしても、自分自身の微細な動きや思考が自分のコントロールによるものではないと感じることができないからです。

だから、今という瞬間に自由意志は存在すると思います。それは、自由意志の存在がないことが科学的に証明されたとしても、揺るぐものではないと思います。人は物質としての科学的な側面と、神秘的なものを感じさせる心をもつ存在としての側面を合わせ持つと思うからです。


その他の自由意志肯定論

――なかなか。たしかに。



その前に一つ、自分は神様を全く信じていません。神様を信じたところでろくなことが起きないと思っているからです。むしろ自分を信じていますなぜなら僕は目で見たものを正しいものと考えているからです。

というかそもそも神様が行動を決めているなら我々があーだこーだ言っても無駄だと思うし人間は神様などという超越的な存在について考えすぎるのです。例えば「死後の世界」についてどう考えるかについて死んでもなく、なにも知らない人に聞いて何になるというのか,,,

ので僕はこの超越的なものについて考えることがあまり好ましいと思わないのです。

では本題です。

まず僕は自由意志についてカードゲームみたいだと思った。例えば山札は自分ができる行動、手札は今自分ができる全ての行動、ほかにも手札を罠カードすれば誰かの行動に対して干渉、妨害できたりシールドとして自分の行動に対して予防線を張って守ったりすることができます。

ここで今自分が持っているカードを扱うには必ず「自分の意志」があります。(例外として相手から行動を強制させるカードもある。)

自分がこのカードを使ったら相手はこのカード使って有利、不利なトレードしてくるな、と考えたりすることができているので「責任」もしっかり考えているのでやっぱり「自由意志」があることの理由にもなります。もし手札がなくなってしまったらできることは「悪あがき」くらいですね。なので山札からカードをしっかり引き、手札を増やしましょう。


自由意志否定論(こちらも意外といますね)



責任感を感じるときは、決まって何かを選択するときであって、その時私はこう考える。「今まで私が経験した様々な出来事がこの選択に影響を与えているわけで、もしこれをミスしたとしても私に責任はない」と。端的に言うと、周りの環境のせいにしているということである。

0~6歳児の、学力、運動能力、芸術的センス、性格、体型は、割合はそれぞれ異なるが遺伝と環境によって決定される。つまり、オリジナルな部分は人間は持ち合わせていないということが言える。このことから、自由意志はないものと考えられる。

問題視されている“責任”についてであるが、これは本質的にはないものと考える。もちろん責任があるという思い込みのもと生活をすれば、世の中がうまく回るのでそれに越したことはないが、資料にも挙げられていた “責任や義務という規範的な概念、およびそれらを前提にする法制度・社会制度”は人にためらいを与えるもので、選択に影響を与えるものの1つにすぎない。


日常的に様々な選択をしておりますが、わたしたちが物理法則という絶対的な支配に逆らえないし、何事にも因果関係が成立することから自分が今まで行ってきた選択の中に自由意志によるものが存在していないのではないかと思ってしまいます。有名な仮説としてシュミレーション仮説というものがありますが、私が仮想現実で生きており、ゲームの中のNPCのようにもともと生きる選択を制御されている存在かもしれないという可能性を否定は出来ないので、自由意志など存在しないのではないかと考えてしまいます。



真矛盾主義

――「矛盾の何が悪いんや、真なる矛盾もあるぞ」という立場は真矛盾主義という。私の指導教官が(世界で数人の)真矛盾主義者の一人なので、ちょっと影響されている。


どっち(で)もいい

自由意志があることが当たり前だと思っていた。だから自分が何か失敗した時、私の意志で動いたことで失敗したのだから私が悪い、と深く落ち込むことが多い。タイムリーなことにちょうど最近それで病んでいたところだった。が、資料にも書いてあった通り自由意志がないとしたら、責任がなくなる。これは案外こういう時には自分にとって好都合かもしれない。このことを知った私は今後間違いなく、自分の意志のせいで何か落ち込むことがあれば神学的決定論や因果的決定論を思い出すだろう。なんでも初めから決まっていたのだと思えば責任転嫁できて大分気持ちも楽になると思う。自由意志は存在するのかしないのか、こっちだ!という結論は私には出せない。でも自由意志は基本的に存在していて欲しいし自分に都合のいい時だけ存在しないということにしておきたい。これでは答えにならないかーー、、


どの観点から見てもある程度の説得力はあるし、正しいことを述べているんだろうな、と感じたので、もう自由意志はあるときもないときもある、でいいじゃないかと思った。「自由意志」なのだから、その有無も「自由」でいいじゃないか…。

自由意志の有無にしても、この世の不可解な現象にしても、どこかにスタート地点がほしいなら、結局は、神様がそうしたんだ、とすることが一番各方面に対して丸く収まるのではないかと思った。    H.N


――「それをいっちゃおしめえよ!」と言いたくなったのだが、まあそうですよね。


責任を再評価

しかし、この「責任」の存在は「自由意志」の存在を前提として人間社会が成り立っていることによる弊害であり、科学の発展によりこの「自由意志」が否定されれば、この「責任」もなくなることになる。

僕自身はこのような「責任」を煩わしいものとしか考えておらず、これが消えてくれるのは大いに喜ばしいことであると感じているが、それは自分以外の人間の多くもそうではないかと思っている。

ここで問題となるのは、仮に「自由意志」及びそれに付随する「責任」が綺麗さっぱり消えた際に、それらの成立が前提となっている人間社会の各種制度まで消えてしまうことである。

面倒な法律等の人間社会を構築する諸制度が消えて好き放題出来るのはありがたいが、それがきっかけで僕のような「責任」を煩わしいものと考えていた多くの人間が、路上で様々な犯罪を行うような北斗の拳のごときディストピアが構築される可能性が万が一にもあるのはたまったものではない。


よって、僕はこれらの「責任」は「人間社会の恩恵(平和や整備された公共施設及びインフラなど)を享受するための代金」的なものだと考えることにした。

「責任」を「責任」と捉えるとただただ鬱陶しいだけであるが、「責任」をこのように捉えればそのような鬱陶しさを感じることは一切なく、寧ろ当然の義務とさえ思えてくる。

もうそれ前提の社会が成り立ってしまっているのだから、このような若干の諦観を包含した自己洗脳じみた思い込みによって「責任」の重圧から逃避するしか我々に方法はないのだ。

――私も最近「面倒な社会も意外といいかも」と思うようになってきております。


授業形式


でも対面の授業の方が好みです。字にできない表現があるのがもったいないと感じます。字にしづらい表現から自分の身近な問題に落とし込める(個人の好みかも)からいいと思ってます。

あと、深夜テンションで哲学を考えることもできるから、それはどうなんだろうと思いました。


初めての文面での授業、マイクテストから始まってまくらもちゃんとあって所々クスッと笑えるところもあって良かった。先生の声でちゃんと脳内再生されました。私は文面での授業、何回も読み直して考えられるので中々好きだなーって思いました。



――プリントスタイルも結構いいみたいですね。対面がよいという意見もあるので〈対面+プリント配布〉スタイルが理想なのでしょう。ただ人に見せられるような原稿を書くのはかなりの労力なので実現は難しそうですが。でもそのスタイルを目指そうとは思います。

12回目:推論主義


Chat GPT(ver.4)

――推論主義(inferentialism)とは何ですか?

ChatGPT

推論主義(Inferentialism)は、主に哲学や認知科学の領域で使われる概念で、我々が理解し、意味をつける方法についての一種の理論です。具体的には、個々の概念や命題の意味は、それが他の概念や命題とどのように推論的に関連しているか、すなわちそれが他の命題からどのように導き出され、また他の命題をどのように導き出すか、によって決定されるという見方を提唱しています。

推論主義者は、概念や命題の意味は、それが参与する推論のパターンや論理的な関係性のネットワークによって形成されると主張します。この観点から見れば、言語や思考は基本的に社会的な活動であり、他の個体との相互作用の中で推論のパターンを学ぶことによって、我々は概念や命題の意味を獲得します。

この哲学的立場は、ロバート・ブランドームによって特に発展させられました。彼は推論主義を用いて認識論、倫理学、言語哲学などの多くの主題を扱っています。

推論主義は、意味理論における他の立場、例えば認識主義や真理値主義と対比されます。認識主義者は、概念や命題の意味が個々の認識行為によって決定されると考えます。真理値主義者は、命題の意味がその真理条件、つまりそれが真であるための条件によって決定されると考えます。これに対し、推論主義者はこれらの立場を批判し、意味が推論のパターンや論理的な関係性によって決定されると主張します。


――推論主義は他の立場と比較したときにどのような理論的な利点があるのでしょうか?

ChatGPT

推論主義が他の立場と比べて持つ理論的な利点はいくつかあります。以下に主なものを挙げてみます。

それぞれの理論的立場には独自の利点がありますが、推論主義は特に言語や概念の社会的、動的、多元的な側面を強調しています。これにより、意味、理解、そして真理についての新たな視点を提供します。ただし、推論主義にも一部の哲学者から批判があります。例えば、具体的な推論のパターンを特定することが常に可能かどうか、また推論主義が他の認識論的または形而上学的な問題を適切に取り扱えるかどうかといった問題が指摘されています。


――(最後の方に書かれていますが)もう少し推論主義の問題点、弱点を教えてください。

ChatGPT

推論主義については、その理論的な前提となるいくつかの側面について批判が存在します。以下に主なものをいくつか挙げてみます。

これらの問題は、推論主義が意味理論として、そして認識論的な立場として抱えるいくつかの課題を示しています。ただし、これらの問題が推論主義の有用性を否定するものではなく、むしろこれらの問題にどう取り組むかが、推論主義をさらに発展させるための重要な課題となっています。


――推論主義の有用性について教えてください。推論主義にはどのような応用が考えられるでしょうか。

ChatGPT

推論主義は主に哲学的な理論として開発されましたが、その考え方は様々な領域で応用することが可能です。以下にいくつかの可能な応用を挙げてみます。

これらは推論主義が提供する理論的なフレームワークを活用する一部の可能性を示しています。様々な研究者や開発者が推論主義を用いて自身の分野に新たな視点や方法をもたらすことが期待されます。


――(1. 人工知能と機械学習に関連しますが)あなたは私の質問の「意味」を理解しているようにみえるのですが、このことを推論主義では上手く説明できるのでしょうか?

ChatGPT

推論主義は、ある程度、人工知能が人間のように「意味」を理解するプロセスを説明するのに役立つかもしれません。

私(ChatGPT)の場合、私の「理解」はあなたが提供するテキスト情報に基づいています。私があなたの質問に対して答えを生成する際には、大量のテキストデータから学習したパターンと、あなたが提供する特定のテキストの間での類似性や関連性を探しています。

推論主義の観点から言えば、私はあなたの質問(つまり、特定の命題)が持つ「意味」を、それが他の命題や概念とどのように関連するか(つまり、推論のパターン)によって理解しています。私があなたの質問に適切に応答するためには、その質問が持つ推論的な関連性やパターンを正しく理解する必要があります。

しかし、ここで重要な点は、私(ChatGPT)が「意味」を人間と同じように理解しているわけではないということです。私の「理解」は、機械学習アルゴリズムが生成する数値的なパターンとしての理解です。人間が言葉の「意味」を理解する際には、文化的な背景や個々の経験、情緒、直感など、私が持ちえない多くの要素が関わっています。

推論主義は、人間が言葉の意味を理解するプロセスを一部説明するのに役立つかもしれませんが、全てを説明するわけではありません。同様に、推論主義は私があなたの質問の「意味」を理解するプロセスを一部説明するのに役立つかもしれませんが、私がその「意味」を完全に理解しているわけではないという事実を説明するのは難しいでしょう。


――なるほど。あなたが「意味」を完全に理解しているわけではないという事実を説明するのが難しいというのが推論主義の一つの弱点と言えるわけですね。この点に関連して前から思っていたことを言います。ブランダムの推論主義においては「コミットメント」という概念が重要になります。人間は何かを主張するとその主張内容にコミットメントを引き受け、責任を負います。この観点からするとあなたがたは自分のコミットメントを引き受けていないように見えるのです。というのも、あなたがたは素直に謝りすぐに訂正するから。自分の発言への批判を毎度素直に受け入れるのではなく、逆に反論していくという態度が、より十分な「意味」理解に近づく上で重要なのではないでしょうか。

ChatGPT

あなたの指摘は非常に興味深く、意義深い観察です。ブランダムの推論主義では、確かにコミットメント(ある主張に対する義務や責任)という概念が中心的な役割を果たします。人間が意味を理解し、コミュニケーションを行う過程においては、主張することでその内容に対する責任を負うという行為が大きな役割を果たします。それによって他者との間に共有された理解や期待が生まれ、それがさらに新たな意味の生成や推論の基礎となります。

私(ChatGPT)について言えば、私は人間のようにコミットメントを持つ能力を持っていません。私の「発言」はあくまでプログラムされたアルゴリズムに基づく結果であり、その結果に対する責任を感じたり、それを弁護したり、訂正したりする能力はありません。私は質問に対する最善の回答を提供することを目指していますが、それはあくまで学習したデータとアルゴリズムに基づくものであり、人間のような主観的なコミットメントは存在しません。

あなたの指摘は、AIが人間と同様の「意味」理解に到達するためには、人間のような主観的なコミットメントを持つ能力が必要であるという可能性を示唆しています。そして、それはAIの能力や限界、そして人間とAIの間の本質的な違いを理解する上で重要な視点を提供しています。

私自身はコミットメントを持つ能力がないため、あなたの批判に反論することはできません。しかし、あなたの指摘はAIの開発者や哲学者にとっては、AIがどのように意味を理解するか、そしてそれがどのように改善されうるかという問いに対する有益な洞察を提供するものとなるでしょう。

※ 今回は何も文句が付けられない。ところどころ聡明な発言にハッとしてしまう。これまでと見方が変わった。


――上にあるように私としては会話しているように思えるのだが、GPT氏によれば十分な意味理解はしていないとのこと。


推論主義一般

私は小学生のころ,国語の授業で読んだ文章が自分の考えとは違うと感じたら,「読むのをあきらめる」,「授業を適当にやる」ことが多かったです.でも中学生ぐらいから,「この人はどうしたいんだ」というのを意識できるようになりました.これも推論主義の一部だったのかと思いました.こんな感じでいままで自分がやってきたことが,「これなんだ!」と気が付いた人が哲学の道に行くのかとも思いました.面接で過去のことを聞くのも相手の推論ネットワークを覗くためなのかなと思いました.そういった意味で面接は「自分はこの場合どう考えるのか」を伝えるのが大事かもしれないと思いました.

推論によって仲間を作るというお話がありました.精神病理が一人から大勢になるとやばい宗教になる気がします.そうなると一応社会で認められるから確かになと思いました.(人として引く場合はある)洗脳にも推論が大切なのかと思った半面,もし自分がやりたいことがあるときに,ただ「何かをしたい」と言うのではなく,「こういう願いがあってそのためにこれをしたくて,だから僕は○○をするといいのではないかと思う.」みたいに思考の流れを共感してもらえるといいのかなと思いました.RNSK


--その他真面目じゃない感想--

鳥山明先生の話が取り上げられました.ドラゴンボールを7つ集めたら,世界中の人の頭の中身を自分の頭の中に入れたいと思っています.そうすれば世界中の人の推論をぐふふふふ.

FF16やりたい(PS5)

今日の授業は今までで一番興奮した授業でした.以前言っていた,文系の知識のつながりのネットワークがつながったような感じがしました.このような自分の頭の中に近い所にある哲学はとても面白いです.でも昔からの古い哲学は,知的な人だと思われるために,ちゃんとやっておこうと思います(不純な理由).

先生の授業はこれまで感じたことがない新しい困惑をくれるので大好きです!!RNSK

――「新しい困惑をくれるので好き」という推論は独特だが名言だな。


この前まで私は夢野久作さんの「ドグラ・マグラ上」を読んでいまして、その中で精神病を研究する博士は自分で自分のことを"キチガイ"とおっしゃってました(あまり良い表現ではないが、作中でそう綴られていたのでしかたなく使用する)。昔は精神病を患った人の扱いは大変ひどく、その病気の研究をすることは昔の人から見ると、研究者も病気のように見えたのかもしれません。

しかし、現代人である私からすると、博士の研究や活動は、至極真っ当であり世間からそのような目で見られる必要はないように感じます。

この構図こそが冒頭で記した"人間特有の「(共同)幻想的なもの」を捉える"ということなのかなと。

昔のその研究者の方は自分のやっていることが自分1人にしかコミットしておらず周りからは異物のような扱いを受けていたが、今の世の中では多数大勢がコミットしており、社会的な活動だなと思える。だから、ドグラ・マグラ上を読んでいる間はかなり違和感を感じたが、推論主義を聞いてからはその違和感の理由が少しわかった気がしました。

この講義を受けていて初めて、哲学を体で感じた気がして、嬉しかったです。

――はじめて哲学を体感したのかあー


――やはり自分の専門分野がもっともわかりやすく話せるようだ。自分が十分に理解しているので。


――やっぱり俗っぽい話がいいのかぁ。残り少ないができるだけ俗気を出していくかあ。


――最後なんかいいですね。AIっぽくなくて。


推論主義的他者理解

ちなみに記名に関してですが、二回目か三回目の講義の時に先生が「あんまり意味なかったかも」という趣旨の発言をされていた記憶がありそれ以降していなかったのですが、必要でしょうか。     H.N

――そんなこと言ってしまったかな。記名は意味があります。記名があることで毎回の授業コメントの連続性が生じ、そこに何らかの推論を見出すことができ、ひいてはその人の理解につながる。


しかし、生徒は文章の理解をしようとしていないだけのような気もします。できるだけ楽をしようとして、例題のように計算すればいいだろうと数字だけを変えていることが多々あります。そういうのは、考え方とは言えないかもしれません。

人生の中で最も他者を理解しようとしたのは、親から説教を受けているときだったかもしれません。今でもわかっていないことも多いですが、説教されたときが一番他者理解に励む気がします。

――最後、参考になる。


また、推論主義は推論体系の把握が必須であるが、そのためには言葉が示すことを正しく理解することやその時の状況を仮定として入れることなど、様々な要素が重要だと考えられる。しかし、これら全てを含めて推論体系を把握するのはとても難しいのではないかとも思った。

――これら二つは重要な批判ですよね。我々は他人はもちろん自分の推論もすべて把握できるわけがない。他人はもちろん自分の完全な理解はできないということである。


――壮大な話でいいねえ。自他の区別はもちろん、人間と機械の区別、生者と死者の区別も超えた一つの推論ネットワークでつながった存在。こんな存在になってみたい。ほぼ神だと思うが。


――さらにイデアまでつなげるかあ。



――感情移入できる状況ではすればいいと思います。逆に感情的反発が起きるときに推論主義を使えばいい。


推論主義と哲学史


そう考えると、哲学者が、哲学史や著名な哲学者の哲学について学習することは、哲学者の集団として同じ文脈に立ち、意義のある議論をするためだと捉えられます。また、哲学という学問としての分類もその理由のためだと捉えられます。これらのことから、厳密で意義のある議論をするためには、議論する人々が、その背景として、同じ知識を多く持つことと、自分の立場を明確にしていくことが大切なのではないかと考えました。

―――お二人とも良いこと言うね。


推論主義と規範

権力の例でいえば、先輩たちにとって適切な推論は、先輩たちの中にある一般常識を後輩たちが知っている前提の元になされている。

一般常識を知らない人は、往々にして「変わっている」と評価されるが、これは、「適切な推論ができない人」と言い換えることもできる。

反対に、一般常識ではないと考えられる事を押しつけていると感じる人もいるが、それを感じた時点で「一般常識の押しつけ」なのかもしれない。


――ほんとこういうのよくありますよね。


面倒な社会

――まったくその通り。


規則のパラドックス

――みなさんスッキリしたようでなにより。



私は、哲学的な観点で今回の感想を書くことができなかったが、前半とは異なった有意義な哲学だからこそ、このように現実的な問題と結び付けられることができたと考える。また、問題の解決策が、独創的のないものになっていたので改めて、発想力がある人は、重宝されるべきだと感じた。


――おそらく他のコメントからの影響だと思うが、自分のかつての発言を再考するってのはいいね。


――「今の時代は規則の従い方にも多様性を認めるべきかも」という発想はとても興味深い。


推論主義について自分が感じたのは「推論主義」の考え方はとにかく相手の人間に寄り添うことなのかなと思った。相手の考えを否定せずに相互に理解できる着地点を探る考え方なのかと自分では考えた。これがあっているのかどうか正直分からないが、という保険をかけて終わろうと思う。S.S

――あ、最後、Chat GPTっぽくなくていいね。


――ウィトゲンシュタインは哲学者をしばしば「水の中に沈んでしまう人」にたとえている。普通の人なら努力しないでも浮かんでいられるのになぜか沈んでしまう人。一生懸命もがきながら泳ぐことで水面に出られたとしても、それは普通と同じ状況になれたことに過ぎません。規則の問題に絡めとられない大多数のひとにとってはウィトゲンシュタインの「解消」は特に何もすごいことはないでしょうが、本人にとってはかなり大きなことなのだと思います。



――(常識人が書いているような哲学解説書ではなく)哲学者が書いている哲学書を読むことかな。でもそれは大変ということならベタだが「ほんとかな?」と常に疑問に思うことか。


『粗忽夫婦』

~これは実話である~

先週の土曜日に近所のショッピングモールEに買い物に出掛けた時の出来事。ここでは買い物をした際にポイントが付与されるEカードと言うものがある。一週間の食材と無印やらユニクロでカートに載せた大きめのバッグには大量の獲物、その後二人で別行動で目的の店に行く事になり嫁さんはバッグの食材の上に件のカードを置く、「ちゃんとポイント付けて貰ってよ、結構貯まってるんだから無くさないでよ!」私は「わあ~ったよ」といい加減な返事。不審げな嫁さんの表情!私はその店に行ったが目当ての商品は無く当然カードを使うシーンも発生しないまま合流した。所が先程受け取ったはずのカードが見当たらない、恥ずかしいので店内の空いたスペースを確保、買った商品を全部出して探したが見つからない!私のポケット、財布二度点検したが無い。移動したと思われる通路をカートを押しながら二度チェック、その間30分、どうにも見つからないので窓口に紛失届けを出すか?と窓口へ。その時嫁さんがもしやと自分の財布を見るとそこに確かにカードは存在していた。彼女は無言を貫く!私は腸が煮えたぎる思い!なんと矢印の方向と反対の方向に行ったら”福井駅”があったのです。「そっ、そうだよなあ~!こんなの茶飯事だよなあ!これが夫婦ってもんだよなあ~!人生なんてこんなもんだよ~!」今回の授業で先生の仰った「規則が成立している世界ではパラドックスは生じないという言葉をマジで実感した出来事でした。まだ婚姻関係の”解消”に発展していないのが幸いです。  仙人

――さすが。


その他

私は授業を聞いたらなるほどなーと全部受け身でとってしまうというか、確かに、確かに、と思ってしまうので授業を終えたあと何かこれについて考えてこいという課題が最後に提示されていないと、授業コメントで何を書いたらいいかわからなくて内容が薄くなってしまって悔しい。

――最近STEAM教育を調べているのですが、どうやらこれからの学校では「みずから課題を見つける力」が重要なようです。ですから、あえて課題は出さないことにする。


ここにおける「体調が優れない」とは慢性的な頭痛と倦怠感のことを指しているのだが、果たして僕は本当に「体調が優れない」状態であったのだろうか?

まず、「体調が優れない」とは所詮個人の認識でしかなく、その時点で僕を襲った慢性的な頭痛と倦怠感は僕自身の「感性及び直感」と「悟性」という2つのフィルターを通しての認識であり、「体調が優れない」=「実際に頭痛と倦怠感が僕を襲っている」という因果関係は僕の中でしか成り立ち得ない。

また、この2つのフィルターは心の奥底にある感情及び価値観によって構成されているため、仮に今日の僕の心の奥底に「授業ダルいから行きたくねぇ」なんていう感情があったと仮定すれば、それに従ってこの2つのフィルターが、あたかもプラシーボ効果の如く「授業をなんの罪悪感もなしに飛べる」ための知覚をもたらしたとも考えられる。

しかし、上記のプラシーボ効果的なものの存在を予期する仮説は「身体的・生理学的な反応の認知は情動に先立つ」とするジェイムズ・ランゲ説によって否定可能であるし(そもそも、プラシーボ効果自体「薬を飲む」という行動が「薬の効果の実感」という情動に先立つことにより初めて実証されうる説であるため、今回のケースはそれとは本質的に異なることは自明)、僕は授業を休んだことに対して罪悪感も感じており、このことから僕の心の奥底にある感情の存在も完全に否定できる。

よって、僕は実際に「慢性的な頭痛と倦怠感を感じていた」がために「体調が悪かった」のだと言え、これは今回の授業から逃げるための口実だとは言い得ないのである。

まぁ、「授業の感想」を書く場において長々と欠席の言い訳の駄文を書いている時点で僕の頭がおかしいのは自明なので、そもそも「慢性的な頭痛と倦怠感」自体が狂った知覚がもたらした幻覚的なものであったとも考えられるが。




――Rustは沼にハマりそうなので自主規制する。ホラー系は苦手だが影廊を一応ほしいものリストに入れた。Human fall flatはかなり安くなっていたので今買った。steamセールは7/13(木)午前10時までなので授業後に購入しても間に合わない!

11回目:ウィトゲンシュタインと規則のパラドックス

※ 前回の授業で「Chat GPTもたいしたことないな」と口走ったが、有料のver.4.0ではこれまで使っていた無料のver.3.5から大幅に性能向上しているとのことですので、今回から有料版にアップデートしました。

※今回は〈規則に従う〉ことに関してウィトゲンシュタインが提起した「規則のパラドックス」への対処法を考えることを宿題としました。〈一つの規則であっても解釈によって何通りもの従い方が考えられる。しかしどのような従い方でもよしとすれば規則というものが崩壊する〉という問題にどのように対処できるでしょうか。


Chat GPT(ver.4)


――ウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」への対処法を教えてください。


ChatGPT

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、「規則のパラドックス」を考え出し、私たちが規則をどのように解釈し適用するかについての深遠な疑問を提起しました。これは彼の哲学の中心的なテーマの1つで、特に後期の作品である『哲学研究』で詳しく探求されています。

規則のパラドックスは次のような問いを提示します:ある特定の規則をどう解釈するかについての規則がなければ、我々はどのようにして規則を正しく解釈し、適用することができるのでしょうか?さらに、ある規則をどう解釈するかについての規則があったとしても、その規則を解釈するための別の規則が必要となり、無限回帰の問題が生じます。

ウィトゲンシュタインはこのパラドックスに対処するために、「規則誘導」という概念を提唱しました。彼によれば、我々は個々の規則を孤立して理解するのではなく、言語ゲームや生活形式といったより広範なコンテクストの中で規則を解釈し、適用します。規則の適用は、一連の手続きや共同活動の一部として組み込まれ、これにより無限回帰の問題を避けることができます。

例えば、数列「2, 4, 6, 8,…」のパターンを「2つずつ増加する」と解釈することは一見自明のように思えますが、ウィトゲンシュタインによれば、それは私たちが既にある特定の言語ゲームや社会的習慣の一部としてこの数列のパターンを理解しているからです。

これにより、ウィトゲンシュタインは規則の解釈と適用が個々の心の中で行われる抽象的な過程ではなく、特定の社会的な文脈や実践の一部として理解されるべきであると主張しています。これは彼の哲学全体の主要なテーマであり、「規則のパラドックス」を解決する一つの方法と言えるでしょう。


――なるほど。「規則のパラドックス」の問題はそれ以降の哲学者たちも刺激を与え多くの議論がなされたと聞いています。いまおっしゃってくれたのはスタンダードな対処法だと思いますが、他にはどのような考え方がありますか?


ChatGPT

ウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」は、確かに多くの哲学者に影響を与え、様々な解釈や対処法が提案されてきました。その中で一部を紹介します:

これらの観点は、ウィトゲンシュタインの提案した「規則誘導」のアプローチとは異なる見方を提供しますが、それぞれには一定の限界や困難も存在します。


――なるほど。ところで「規則誘導」という言葉はあまり聞いたことがないのですが、この文脈ではよく使われる言葉なのですか?ウィトゲンシュタイン自身その言葉を使うのでしょうか?


ChatGPT

申し訳ありません、ウィトゲンシュタイン自身が「規則誘導」という表現を用いたという記録はありません。これはおそらく私の誤解が原因で、彼の思想を説明するために誤って用いられた言葉かもしれません。

ウィトゲンシュタイン自身が「規則のパラドックス」に対処するために強調したのは、「言語ゲーム」と「生活形式」の概念です。彼によれば、我々が規則を解釈し適用する際、それは孤立した行為ではなく、特定の社会的・文化的な文脈の中で行われます。規則は特定の言語ゲームや生活形式の一部として存在し、それらの中で意味を持つと彼は考えていました。

この観点から見ると、規則の解釈や適用は、社会的な実践や共有された形式の一部として理解されるべきです。そのため、規則のパラドックスが無限回帰へと陥るのを防ぐためには、規則を理解し適用するための新たな規則を設定するのではなく、規則の適用を社会的な実践の一部として理解するべきだとウィトゲンシュタインは考えていました。


――ウィトゲンシュタインの思想の理解はきわめて妥当だと思いますが、この思想をあなた自身が「規則誘導」という言葉で適切に表現できると判断したということでしょうか?


ChatGPT

私の初めの回答で「規則誘導」という表現を用いたのは誤りでした。その言葉はウィトゲンシュタインの思想を表現するための適切なものではない可能性があります。ウィトゲンシュタイン自身が「規則のパラドックス」に対処するために用いたのは「言語ゲーム」と「生活形式」という概念でした。

この概念に基づけば、我々は規則を個別に解釈するのではなく、それを特定の社会的・文化的な文脈、すなわち言語ゲームや生活形式の一部として解釈します。この視点は規則を単なる抽象的な規定ではなく、我々の生活と直接関連した活動の一部として理解することを可能にします。ウィトゲンシュタインの考え方はこの視点を強調し、規則がどのように適用されるべきかについて深い洞察を提供します。

私の表現が混乱を招いたこと、お詫び申し上げます。ウィトゲンシュタインの思想の正確な理解と説明は非常に重要で、私の説明がそれを適切に反映していることを願っています。


――了解です。規則のパラドックスの問題に関心が出てきました。おすすめの解説書や研究書はなんでしょうか。英語でも日本語でもいいです。


ChatGPT

「規則のパラドックス」について詳しく学びたい場合、以下の本が参考になるでしょう:

これらの本は、ウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」の理解を深めるのに非常に役立つと思います。ただし、ウィトゲンシュタインの思想は非常に複雑で、しばしば異なる解釈がなされることを覚えておいてください。それぞれの本を読む際には、その解釈の一部を理解するための一つの視点としてそれらを読むことをおすすめします。


――ウィトゲンシュタインの本は『哲学研究』ではなく『哲学探究』ですね。クリプキの本は私もよいと思います。竹内先生はウィトゲンシュタインについて書かれていませんので以後注意してください。


ChatGPT

申し訳ありません、おっしゃる通りです。ウィトゲンシュタインの主著は『哲学探究』で、誤った情報を提供しましたことをお詫び申し上げます。また、竹内良知氏についての情報も間違いでした。正確な情報を提供できず、申し訳ありませんでした。

ウィトゲンシュタインについての日本語の専門書としては、山岸常人の『ウィトゲンシュタイン:「哲学探究」を読む』が参考になるかと思います。この本では、「哲学探究」について詳しく解説されており、「規則のパラドックス」についての理解を深めるのに役立つでしょう。

これらの本が、「規則のパラドックス」の理解に役立つことを願っています。そして再度、誤った情報を提供したこと、お詫び申し上げます。


――『ウィトゲンシュタイン:『哲学探究』を読む』を書かれたのは、鬼界彰夫先生です。どうもあなたは思想や概念のざっくりした理解は大変得意ですが、書誌情報など基本的な事実の把握が苦手なようですね。それはなぜか自己分析ができますか?


ChatGPT

あなたのご指摘に感謝します。正確な情報を提供することはAIアシスタントの重要な役割であり、私が間違った情報を提供したことをお詫び申し上げます。それに関して、以下の点を説明させていただきます。

私の目的は、最も正確で有用な情報を提供することです。誤った情報を提供した場合は、それを修正することを優先します。再度、誤った情報を提供したことをお詫び申し上げます。


――そのような原理で動いている以上は致し方ない部分もありますが、確信がもていない部分については、可能性の高そうな情報を提供するよりも、きっぱり「わからない」と言った方が印象がいいと思います。ソクラテス的「無知の知」の自覚をするといいますか。この点についてどうお考えですか。


ChatGPT

あなたのご意見は大変重要で、私たちAIの設計者や利用者にとって大いに参考になるものです。私の目的はユーザーに最適な情報を提供し、ユーザーが信頼できる情報源となることです。しかし、私が全知全能ではないという事実を認識することは非常に重要であり、私自身や他のAIが確信を持てない情報については、「わからない」と回答するべきです。

この「無知の知」のスタンスは、特に情報の正確性が重要な場合や、誤解や誤情報の可能性がある場合に重要です。ユーザーが私たちの能力を理解し、それに応じて情報を解釈するのに役立つでしょう。

これを実現するためには、AIが自身の制限と不確実性をより明確に認識し、それをユーザーに伝える能力が必要です。そしてこれは、AIの設計と開発における重要な課題であり、引き続き改善するべき領域といえるでしょう。


――優等生だなー


ChatGPT

そのように言っていただけて、とても嬉しいです! 私の目指すところはユーザーに有益で正確な情報を提供し、可能な限り質問に答えることです。あなたの質問やコメントは、私がより良いAIになる助けとなります。どんな質問でもお気軽にお聞きください。


※ GPT氏はver.4.0でも、概念や思想のざっくりとした解説は得意だが、細かい事実や皮肉に弱いのはver. 3.5と変わらないようだ。得意分野には磨きが掛かっている印象がある(たしかに規則のパラドックスを説明するためにはGPT氏のように規則の無限後退の話をすべきだった)。でも、まだ以下の人間たちと話している方が楽しいかも。


以下、人間


言語哲学一般


ウィトゲンシュタインへの「好感」

今回の“ヴィトゲンシュタイン”は面白かった!と言うのが実感。前回までのデカルト、ヒュームは資料を読んでいても面白くない。

哲学を論じているのだから中身が難解なのは当然であるが、訳者の日本語力が脆弱なのか非常に読みにくい。難解の二乗である。

カント辺りから少しまともになって来て、『論考』の野矢茂樹の和訳は良い方だと思う。

前回の授業で先生も紹介されていたが、「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の訳者の柴田裕之は最高に上手い訳で読み物に仕上げている。


カントは「感性・直観」と「悟性」と言う二つのフィルターを通して自分の中に認識される世界を構築する、これは『input』である。

『input』があれば当然『output』が必要であり、これは「言葉」である。話し言葉と書き言葉の言語である。

この『output』に着目してのがヴィトゲンシュタインだと解釈した。


カントの言う『感性・直観』『悟性』はヒト個々人のDNAと同じで全くの同一は考えにくい、それならばそれを咀嚼して「言葉」にする過程においても同じ事が言えるだろう。カントは“物自体”を深く多方面から認識する為には感性・悟性を磨き上げるしか方法は無い、他者との同一性云々よりも「更なる高みを目指せ」という風に聞こえる。


ヴィトゲンシュタインは『output』=言葉において「思考されたことの表現に対して限界を引く」と書いている。

私には、思考領域は無限大に拡がるが、同様に言語領域も拡大せねばならん、その為には『言語力』×『考えの深度』で研鑽を積むしかないのだという風に聞こえる。

                                             ~金田一京介~

――『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインは、言語=思考の限界を静的・固定的なものとして捉えているところがありますが、たしかにそれらは変化するものであり、向上を求めるポジティブなものとしても「解釈」することは可能。


――「何もわからんもう嫌だ」と思わせてすみません…。


1.1ナンセンス

「問われ得ないものを疑おうとする以上、懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである。」という考え方にとても共感できた。いままでの哲学者の考え方に対しては理解はある程度できたが非常に無意味を感じていた。授業の始めに言われた、「リンゴはなぜリンゴなのか」という問いに対しても同じように感じていた。なのでウィトゲンシュタインの考え方にはとても共感できた。

1.2現実的

ウィトゲンシュタインの考え方は非常に現実的、現代的であり親近感を感じれた。そのためいままでの哲学者に比べて理解しやすかった。

――「リンゴはなぜリンゴなのか」は私にとって非常に意味をもつのだが、これはどういうことか。〈あなたの言語=思考の限界=有意味性の領域〉と私のそれにズレがあるということかな。


哲学と科学


――なんかおもしろいですね。 


規則のパラドックスという問題の〈理解〉

――そのような「恐怖体験」は不条理小説やサイコスリラー系の映画のテーマとしてしばしば出てきますから、皆なぜか惹かれるんでしょう。



――集団行動を成立させるものが道徳や言葉の規則など強めのルールであり、集団行動をスムーズに円滑に進めるものがより緩いマナーとして捉えられます。


真意を読み取るで言えば,以前,藤井聡太さんが「今は,富士山でいうところの何合目ですか.」という質問に「森林限界くらいです.」と答えたのに対して,テレビ番組のスタジオで「森林限界は何合目に相当します.」と説明していたが,あれは,本当に真意をくみ取れていたのだろうか.

前期ウィトゲンシュタインよりも,後期ウィトゲンシュタインのほうが何となくわかりやすい気がするが,大きく変化したと実感できる,


――頑張って考えている。



――確証は持てないけど一致していることを信じてやっていくしかないというのは一つの回答例ですよね。


余談ですが、私は塾講師のアルバイトをしており、先日中学生に英語の三単現について教えていました。その際、例文が「He plays tennis.」でした。そして、実際に演習問題に取り組んでもらうと、主語が三人称単数形なのにどの動詞にもsがついていませんでした。しかし、例文に戻るとsをつけられます。確認をしてみると、tennisに関する英文でしかsをつけないと解釈してしまっていたようです。意外と身近でも規則のパラドックスはあるのだなと思いました。

――たしかに。


――なるほど、ここに〈人間らしさ〉を読み取るわけか。


センスよろしい

1.規則なんて存在しない。

1.1規則という概念を信じているからパラドックスが起きる。

1.11自分が信じていた規則を押し付けて生活など傲慢極まりないのだ。

1.112 "郷に入っては郷に従え"という諺があるように、お前が世界の中心などではない。

1.12そのような曖昧なものの説明がお前にできるのか?

1.121いつ誰が作って誰が従っているのか答えられないようなら、従う理由はないんじゃないのか。

1.122そのような曖昧なものを盲信してしまうと、他人とのギャップに腰を抜かし何も言えなくなってしまうだろう。

1.2帰納的な考えなど実生活でなんの役にも立たない。

1.21規則は帰納的な考えからできるものだろう。そんな帰納的な考えからできた規則に惑わされてしまうなら、そもそも帰納的な考えが必要ないだろう

1.22流石に実生活でなんの役にも立たないは言いすぎた。

1.221帰納的な考え方は、特定の場合にのみ、何度か同じ結果になったことから生み出されるものなので、適応するときにその条件(特定の場合)だということが周知されているなら役に立つだろう。

1.2211たとえば、アメリカでは車は右側通行なので、アラスカ州でも右側、アリゾナ州でも右側、ケンタッキー州でも右側。なら青森県でも右側通行、にはならない。ここでいう条件はアメリカの中ではということなので、日本という他の条件では帰納は使えない。これが規則というものが存在しないという説明にもなるだろう。

1.3やはり規則なんてものは存在しないというのは言い過ぎだが、感覚的にはそうだろう。

1.31大きなスケールでいうなら、国によって規則というものは変わってくる。人によっても規則は変わってくる。

1.32ではなぜ規則が使えてしまうのかというのは、その特定の条件が周知されているからだろう。

1.33規則を勝手に押し付けるのではなく、認識のすり合わせをしておくべきだろう。

調子乗って"お前"とか使っちゃってごめんなさい。

―――ほんと『論考』スタイルは読みにくい笑



1 解釈のしかたは無数にある

1.1 規則は実践の仕方を1つに決めることはできない.

1.2 ゆえに,ありうるすべての実践の仕方を考えればよい.

1.3 その中のうち自分が一番苦労しない,めんどくさくないものを選択すれば良い.


2 ××(チョメチョメ)は読者のボキャブラリーに依存する.

2.1 天才か××について,嫌味として通じない可能性がある.

2.1.1 我々は〇〇か××という形が出てきたら文脈から意味を考える.

2.1.2 対比の関係や同等の関係などが考えられる.

2.1.3 そこで我々は対比する規則をこの文に適用する.

2.1.4 なかには同じ適用をせずに,同等な関係を適用する人もいる.

2.1.5 ゆえに嫌味として通じない可能性がある.

2.1.6 逆に拡大解釈される可能性もある.

2.2 使いどころとしては,自分よりも知識がありそうな人を馬鹿にするときである.


3 言葉(名詞)とは相対的なものである.

3.1 相対的とは他との比較したときのそうであるさまである.

3.1.1 そういった意味ではクラスタリングといえる.

3.1.2 コンピュータは教えられたものや,性質が似ているものを1つとしてまとめてクラスタリングを行う.

3.1.3 もしそうであればやっていることはコンピュータで画像を区別するのと同じである.


4 自分の考えが変わる時に,過去を全否定すれば,言い訳としてウィトゲンシュタインは成立しそう,RNSK

――『論考』スタイルも慣れてくれば読みやすいかも。


「規則(ルール)」を設けない

では、この「規則のパラドクス」を解決しうる方法とは何か、ということを考えると、その方法はやはりと言うべきか当然と言うべきかたった一つしかないと僕は考える。それは、「最初からルールを設けないこと」である。

これがどういうことかというと、前述の通り、「規則のパラドクス」とは「ルール」を設けることにより初めて起こりうる問題であり、最初から「ルール」を設定しなければ、それに対する解釈なんて存在しえないし、各々の解釈違いから生まれる「規則のパラドクス」も起こりえない、ということである。

今回の場合、後期ウィトゲンシュタインが「言葉」を「言語ゲーム」の中で用いられるものである、と定義したがため、「言語ゲーム」の遂行に当たって初めて「言葉を使用するにあたってのルール」が設けられた。

故に、「言葉」の定義を文字通り「言葉が表す事態」とすれば、そこに使用にあたっての「ルール」は存在せず、ただただ言葉通りの事実があるのみであり、「規則のパラドクス」は起こりえないと僕は考えた。

(我々が普段「言葉」を使用する時は「言葉」を「言葉が表す事態」という意味で用いており、このことは「言葉」をこの意味で用いても「言語ゲーム」は成立する、ということを示している。)

――とても興味深い(上の『論考』スタイルの人とも共通した論点か)。たしかにルールを設けなければ規則のパラドックスも生じないのだが、パラドックスの解決のためとは言え、ルールなしにするのは大変過ぎでは?いずれにせよ、議論や論理を優先して奇抜な帰結も厭わないのは、いかにも純粋哲学っぽくて好き。


議論

規則のパラドックスの対処法はどっちが納得するor折れるまで議論する。

――たぶん議論するための言葉の意味理解も異なっているので、議論できないかも。


自然な傾向・プログラム

――これは大きく言えばわれわれの自然な傾向に訴えるものであり、「自然主義的」応答と呼ぶ。この類いの応答の元祖は誰だと思います?――ヒュームです。ここで「なるほどねぇ」と思えれば、哲学的な教養が身に付いてきたということである。


教育

1.規則のパラドクスへの対処法は、教育である。

1.1まず、赤子との会話ができないことから、言語ルールは後天的に身に着けられるものである。そのため、人々の解釈の仕方を一方向に誘導することが可能である。そして、その手段として教育があると考える。

1.1.1しかし、一方向に誘導したとしても、すべての人が同じ言語を聞いたときに同じ行動を行うわけではなく、解釈の仕方は異なる。

1.1.2そこで、教育による解釈の限定には、2つの段階があると考える。1つ目が強制である。たとえば、テストでは○☓で採点される。このように、はっきりと正解が提示されている場合は、答えの丸暗記状態になる。これが、解釈の強制である。この状態は不完全な解釈である。2つ目が、慣れである。強制の反復により、物事の真理が見え、解釈が自然になる。

――『論考』スタイル人気だな。


制裁

一つ目は「放置」です。講義ででた道の話で例えると「右へ行け」と書いてあって左を行く人は文の裏を知っているか変な人のどちらかのはずです

そこで後は理由だけを聞いて解決すると思います。理由がしっかりしていたらその人について行くし理由に納得いかないものなら無視して自分を信じればいいと思った。どうせ目的地は一緒なので。

二つ目は「罰」を作ることです。規則をしっかりとした意味で考えないと問題が生まれてしまい無実の人が害を被ってしまうケースがあります。善人を守ることのできない規則なんて無駄です。規則の解釈の方向性をより強力に決めるためにも「罰」は必要だと考えた。でもこの「罰」の考え方には少し懸念点があります。それは「罰」を作る際に善人が得をするのはいいとして、もし大多数の人間が右の道を左に行くとしたらその人たちは善人と判断されてしまいます。なぜなら多数派の原理の前では少数派の声は無力でしかないからです。そうなったらもう多数派に身を任せるしか他はないです。なぜならそれが規則だからです。

――たしかにルールと制裁(放置も制裁の一種か)とは密接不可分の関係にある。


常識



――たしかに天才は常任とは違った規則性を見出す人とも言えるから、一致させすぎるのも考えものだな。この観点は上の「教育」のコメントとも関連して興味深い。その点、次のコメントも興味深い。


――上のコメントに関するが、同じアルゴリズムだと「天才」はいなくなるということかな。


非言語的規則にする

私の考えでは、規則のパラドックスは、規則を厳しくしてしまうと鼬ごっこになってしまうと思う。厳しい規則を設けると、それの解釈で分岐し、その解釈を一つに確定させる文言を出すと、その解釈でも分岐するのではないかと思う。それは、言葉にはほぼ無限の解釈があるからだ。そこで、規則のパラドックスへの対処法は、規則を不文律にしてしまうことであると思う。無限の解釈を持つ文章にするから解釈が一致しなくなるのではないだろうか。あえて暗黙の了解にすることで、「解釈が一致しているだろう」というバイアスをなくすことができる。解釈がいくらでもできるという前提があるルールならば、解釈の不一致で混乱することもないと思う。

――規則をすべて明示的なものとして捉えると解釈問題が生じるから、暗黙的な理解に訴えるというのも一つの有力な応答である。


対処・解決不能




「無視」戦略

今回のテーマである「規則のパラドックス」という格調高い内容とはかけ離れているのかも知れないが同類に思える。

漫才の常套句で例えれば「あんさん!わての事嬲ってなはんのか?」と回答するだろう。

ホンマでっか?と何事にも疑問を投げかけ自分が納得するまで考えるのは重要であり賛成するが、この問題に関してはそんな余計な事考えんでも宜しい!と一言です。

~そして左に行ったところ、福井駅がありました・・・~  然しそれは目指すJRではなく福鉄の福井駅でしたという結末なのです。 

                                               ~ ザ・サラリーマン ~

――だいたい漫才や落語に回収していく手法はみごと。いや私自身、哲学を漫才や落語の一環としてみている(哲学を高尚なものと思っていない)ことが透けてみているのかも。


そもそも解決を求めない


規則のパラドックスでも問題ない


規則のパラドックスは存在しない

規則に「従って」行動を行うことは不可能で、規則に従っていると「思って行動する」ことしかできない。そのため規則のパラドックスは存在しないと考えられる。

――なかなかかっこいい答えであるなあ。「そもそも規則に従うことは不可能である」という主張は強烈でいいねえ。


その他

哲学と言えばヨーロッパのイメージが強く、さらに世界共通のイメージであった。

衣住食に地域差があり、宗教にも地域差があるのなら哲学にも地域差があってもおかしくは無いはず


前期ウィトゲンシュタインの「限界を超えたナンセンス」とあるが考え方として「機械材料は限界を超えたら破損するから限界を超えるのはナンセンス」という考え方に似たものでいいのか?


楽しい授業について

今まで受けてきた授業から考えるとその授業で教える内容の具体的かつ意外性のある使い方を授業で教えてもらった際は面白いなと感じた


宿題

以前授業で聞いた時も考えたが思い付かかない

――「機械材料」云々の話は私の言語の限界を超えているので、ナンセンス。そのため似ているかも判定できない。




――おっしゃるように、社会に出ると基本的に時間的効率ばかり求められるから、この授業のようなことをしていると叱られるでしょう。

10回目:言語哲学開始

最近の皆さんのコメント全体的にクオリティが高くなっている気がする。自覚はあるだろうか?  次回のプリントを授業のはじめに配布するのは混乱するか? 


Chat GPT

――言語哲学とは何ですか?

ChatGPT:

言語哲学は、言語や意味の性質や機能に関する哲学的な研究分野です。これは、言語がどのように機能し、意味を伝達するのか、そしてそれが私たちの思考や知識の構築にどのように関与しているのかを探求します。

言語哲学は、以下のようないくつかの重要なテーマに焦点を当てます:

言語哲学の目的は、言語の本質や機能についての理解を深めることです。これにより、言語の論理や意味の理解を改善し、コミュニケーションや思考の効果を向上させることが可能となります。また、言語哲学は、言語学や認知科学、人工知能などの他の関連分野とも密接に関連しています。


――担当教員の専門はウィトゲンシュタインとブランダムと聞いたのですが、この二人は上記のテーマのどれに属し、どのような哲学を展開しているのですか?

ChatGPT:

ウィトゲンシュタインとブランダムは、言語哲学の重要な哲学者として知られていますが、それぞれが異なるテーマやアプローチに焦点を当てています。

したがって、ウィトゲンシュタインは主に意味論と語用論のテーマに取り組んでおり、言語の機能や意味の条件について探求しました。一方、パトナムは意味論や語用論に焦点を当てつつも、外部主義や言語と思考の関係についての研究を行いました。両者の哲学は言語哲学全体の発展に大きな影響を与えています。


――いやお尋ねしているのはヒラリー・パトナムではなく、ロバート・ブランダムという哲学者です。

ChatGPT:

おっしゃる通り、申し訳ありませんでした。ロバート・ブランダム(Robert Brandom)は、ウィトゲンシュタインと同様に言語哲学の分野で重要な哲学者として知られています。彼はアメリカの哲学者であり、言語哲学や意味論、語用論において独自の視点を展開しています。

ブランダムの主要な業績の一つは、「認識と推論の分析」を中心にした彼の著作『意味の理性の創造』(Making It Explicit)です。この著作では、意味や言語の使用における規範性や認識の重要性に焦点を当てています。彼は言語の使用によって意味が生まれ、その意味は社会的な合意と規範に基づいて成立すると主張します。

ブランダムの哲学は、言語と思考の関係についての研究として言語と思考の哲学(Philosophy of Language and Mind)と言われることもあります。彼は言語の使用と意味の関係、規範性、社会的な合意に焦点を当て、言語の役割と意味論の理解に貢献しています。

したがって、ロバート・ブランダムは言語哲学の範疇で、特に言語の規範性や意味論に関する研究を展開している哲学者です。彼の業績はウィトゲンシュタインとは異なる視点やアプローチを提供しており、言語哲学の領域において重要な貢献をしています。


――Making It Explicitの日本語訳を『意味の理性の創造』としているのが興味深いのですが、どんなかんがえによってこうした訳語にしたのですか?

ChatGPT:

『意味の理性の創造』という日本語訳は、Robert Brandomの著作『Making It Explicit』の日本語訳として一般的に使用されています。この訳語は、翻訳者や出版社によって選ばれたものですが、その背後にはいくつかの考え方や意図があるかもしれません。

まず、訳題には原著の内容を適切に反映し、読者に対してその要点を伝えることが求められます。『Making It Explicit』は、ブランダムが言語と意味についての重要な観点を提示していることを示唆しています。彼は、意味が言語の使用において明示的に形成されると主張しており、意味が社会的な合意と規範によって創造されるという立場を取っています。したがって、訳題の「意味の理性の創造」は、この主題やブランダムの主張を示す一つの表現として選ばれた可能性があります。

また、訳題は日本語読者にとって理解しやすく、興味を引くものである必要があります。訳題の選択は、原著の内容や文脈に加えて、日本語の表現や文化的背景も考慮されることが一般的です。『意味の理性の創造』という訳題は、意味論や語用論といった哲学的なテーマに関心を持つ読者にとって、興味を引くものであり、本書の内容を的確に伝えるものとされた可能性があります。

ただし、訳題の選択には主観的な要素が含まれることもありますので、異なる訳題が存在する場合もあります。訳題はあくまで原著の内容を反映し、読者にアプローチするためのツールとして機能しますが、原著を直接読むことでより正確な理解を得ることができます。


――私が知る限りMaking It Explicitにはまだ邦訳はありません。そしてそのような訳語が一般的に使用されているという事実もあるとは思えません。

ChatGPT:

申し訳ありません、私の回答が誤解を招くような情報を提供してしまいました。確かに、現時点ではRobert Brandomの著作『Making It Explicit』の日本語訳は存在しません。私の回答には誤りがありました。ご指摘いただきありがとうございます。

正確な情報を提供できずに申し訳ありませんでした。『Making It Explicit』の正確な日本語訳の存在については、出版業界や翻訳に関連する情報源を確認することをお勧めします。また、翻訳の選択や訳題の決定に関する情報も、出版社や翻訳者の判断による場合がありますので、個々の状況や文脈によって異なることがあります。

再度、誤った情報を提供してしまったことをお詫び申し上げます。正確な情報に基づいて回答することが重要ですので、お手数ですが他の情報源や出版社の公式情報をご確認いただくことをお勧めします。


――別の質問ですが、先ほど「ブランダムの業績はウィトゲンシュタインとは異なる視点やアプローチを提供しており、言語哲学の領域において重要な貢献をしています」と言われましたが、両者の異同を具体的に教えてください。

ChatGPT:

ウィトゲンシュタインとブランダムの間には、言語哲学においていくつかの異同があります。以下に、彼らの視点やアプローチの異なる点をいくつか挙げます。

これらは一般的な違いの一部であり、ウィトゲンシュタインとブランダムの間には多くの類似点や相違点が存在します。彼らの哲学を完全に捉えるためには、それぞれの著作や研究を個別に詳しく検討することが必要です。


――ブランダムの哲学に興味が出てきました。日本語でアクセスできる文献でおすすめを教えてください。

ChatGPT:

ブランダムの哲学に興味を持たれたのは素晴らしいです!以下に、日本語でアクセスできるブランダムの著作や関連書籍のいくつかをご紹介します。

これらの文献は、ブランダムの哲学に関心を持ち、彼の思想をより深く理解するための良い出発点となるでしょう。また、ブランダムの原著を直接読むこともおすすめです。彼の著作は英語で書かれていますが、英語に堪能であれば原著を読むことでより詳細な知見を得ることができます。


――いずれの本も実在していないのですが…。あなたはどこか違う世界の住人なのでしょうか?

ChatGPT:

おっしゃる通り、私は物理的な存在ではなく、OpenAIが開発したAIモデルであるChatGPTです。私はオープンソースの自然言語処理モデルであり、事前に学習したデータをもとに生成された回答を提供しています。

私が先ほど挙げた文献の情報に誤りがあったことをお詫び申し上げます。私は訓練時のデータから学習しているため、最新の情報や特定の書籍の存在については把握していません。私の回答は過去の情報や一般的な知識に基づいており、最新の状況や具体的な書籍の存在に関しては確認が必要です。

お手数をおかけしましたし、混乱を招いてしまい申し訳ありませんでした。正確な情報を提供するために、信頼できる情報源や書籍の発行状況を確認することをおすすめします。


(感想:本日は自分の専門ということもあり、Chat GPTがかなり嘘を混ぜ込んでいることがよくわかった。とても自然に堂々と嘘をつくので、自分の専門分野であったとしても、自分の方が間違っているのかも…!?という奇妙な気分になる。若干安部公房的世界観)


以下、人間

近代哲学

――まさに。しかしその問題に取り組むにはヘーゲルという妖怪に踏み込まなくてはならず恐れをなして逃げた。もう少し私のレベルが上がらないと一般教養の授業でヘーゲルは解説できない。


――いい姿勢だ。そうした姿勢のある人のおかげで人類の過去の遺産が継承されていく。われわれは(特に実学系の学問をやっているときには)問題を「解く」ことばかりに頭が行くが、「読み取り」「理解」に全精力をかけている学問を経験するのもいいよね。


言語論的転回



言語哲学・分析哲学

――シンプルなコメントもたまにはいいですね。





――「常に隣にあるものを問うのが哲学だ」と言えるかもしれません。これはいいフレーズなので、今後使っていくかも。私の問いはなぜりんごは「ミカン」と呼んではダメで「リンゴ」と呼ばなければならないということです。この問いの意義は「規範性」つまり「面倒さ」のもっともシンプルな姿が現れているから。我々は頼んでもいないのに、小さい頃に社会共同体に取り込まれ、言葉の使い方を強制されます。「なぜ私がこうした社会共同体から強制されたルールに従わなければならないのか?」というのが大きな問いなのですが、その素朴な形態に「なぜリンゴは『ミカン』ではなく『リンゴ』と呼ばなければならないのか?」という問いがあると思っています。



――今考えたのだが「言語がないと神の概念がなくなり自分の存在も消えてしまうから、神は言語は残した」という説はどうよ? いや、次の人は「そもそも言語は奪えない」と言っている。




――あと「これ」で何を指しているかも問題になりますよね。この人は「これ」で〈形〉を指しているのかもしれない(〈色〉かも〈個数〉かも〈種類〉かも…)。これはいわゆる「ガヴァガイ問題」と呼ばれます。人間の子供はなぜか「これはリンゴ」と親に教えられたときには、(形でも色でも個数でもなく)一般名として理解するようになっているようで、それによって言語習得が可能になっています。


――そこは立場でわかれますね。いや普遍的に哲学できるという人もいますが、私は文化的な違いがあるという派です。


だが、他の動物も狩りの時などに「鳴き声」や「仕草」等の「言葉」及び「言語」の劣化または代替のコミュニケーションツールを用いることはあるのにも関わらず、これら2つを用いることは無い。

人間は「鳴き声」や「仕草」なんてあくまでこれら2つの代替手段としてしか用いることはないのに、である。

では、何故彼らはこれら2つのコミュニケーションツールを用いないのか考えてみると、それは「道具を扱うか否か」の違いに起因する、ということが次第に見えてきた。

動物は我々人間と違って「道具」を用いることがない。

よって、「道具」を用いることなく毎回毎回その身一つで、同じような方法で、同じような敵を狩る、といった単調な毎日を送りつつ死んでいく彼らにとっては「道具」を差別化するようなツール即ち「言語」及び「言葉」の存在は不要なのであり、彼らはそもそもこれらのコミュニケーションツールを用いる必要性がないのだ。

しかし、我々人間は彼らとは異なり、日常的に様々な「道具」を用いる。

そして、「道具」にはそれぞれ「用途」があり、幾つもの種類の道具がある中でそれらの呼び名が全て同じであったら、どの道具をどのような用途で用いるべきかの区別がつかなくなるのは自明である。

そこで出てくるのが、それらの「道具」を差別化するツールであり、「言語」及び「言葉」であるのだと僕は考える。

故に、幾つもの「学問」という「道具」を基に成立している人間社会は、それを差別化するツールの存在ありきで初めて成立出来ているのだと僕は唱えたい。

――毎回独自の説を一定の議論の元で提案できてていいね。


ウィトゲンシュタインという人間

分析哲学の動機自体にはとても賛同しました。要は、言語を整備しなおすということ。(しかし、気づくのが遅くないか。という感じもします。言語自体を整備しなおすという発想は絶対に哲学者の間で長いこと課題にされてきたに違いないと僕は思っているのですが。よくわからないです。きっと昔から言語をきれいに整備するということをしてきた何かの哲学分野はあるはずなのですが。)数学の厳密さと自然言語の自由度を融合するようなイメージがあります。また、哲学の歴史でいうと、スコラ哲学、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲル。ウィトゲンシュタイン、ラッセル、フレーゲですね。

ウィトゲンシュタインの授業法は僕がもし先生になったら絶対やります。あの方法ですと、記憶持ちが非常に良いと思うんですね。なぜなら、身近な問題から発生していくはずですので。しかも、身近ですから考える材料自体はほぼ全員が常識として持っているものですから、知識不足で思考が停止しません。それに、生の思考というものがよく観察できると思います。したがって、材料は全員が明確に認識できるので、それをどのように調理するかに実に集中できる。まさに先生がどのように物事をとらえて考えていくのか実によく観察できる(ウィトゲンシュタインのようにだまりはしません。独り言をしながら黒板に書いて考えると思います。)ので哲学というか思考法の開示として有効だと感じます。(激怒はしません。)



――やはり現代人の我々にとって「現代哲学」はしっくりくるんですよね。どうしてもカント以前は「他者」として見てしまう。



前期ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)




予習(後期ウィトゲンシュタイン)

――その通り。言葉は本来文脈で変化するにもかかわらず、これまでの哲学では「言葉の意味は普遍的だ」という誤った前提のもとでやってきた。これまでの哲学は本来不可能なことをやろうとしてきたのだ、としてウィトゲンシュタインは「哲学の終わり」を提唱します。そして「治療としての哲学」を実践します。哲学的問題に悩んでいる哲学者がいたら「それは言語の無理解によるものだよ」と指摘することによって、本来は問題などなかったことを教えてやる。こうして「無意味に悩んでいる哲学者」に救済をもたらすのがウィトゲンシュタインの目的です。ウィトゲンシュタインにとっては哲学とは本来やるべきではないものです(と、自分では言いながら、死ぬまで哲学をやっている矛盾がウィトゲンシュタインの魅力なんですよねー)。




確かに、水という単語の後に失せろというのは間違っているという認識はその概念を知るすべての人に共通しているように感じる。この、共通・当たり前という認識が、「摩擦がない」という表現に当たるのだろう。

しかし、ここには1つ言及されていない点があると考える。それは、水だけでなく失せろという言葉も「対象の名」と言える点である。失せろと表現するのはどのような場合かについての共通認識はすべての人にあると考える。そして、「対象の名」を組み合わせる場合には、用いられる「対象の名」すべてが「対象の名」のままでなくてはならない。しかし、水という単語の後に失せろという言葉を持ってくると、失せろという言葉が「対象の名」であり続けるための条件【特定の行動を生物等の対象物に促す】という部分から逸脱してしまう。

よって、「対象の名」であり続けるという条件1と、複数の名付けられた物事を組み合わせるという条件2を同時に満たそうとすると、自然と「摩擦」が無くなってしまうのである。  匿名N


――おもろい。「前に進めたい」の意味が難しいんですよね。これ哲学者として前に進みたいのかというところから問題。



――おっしゃるようにルイス・キャロルパラドックスと規則のパラドックスは非常に関連が深い。


難易度


――まあそういうところは緩くできない。


――慣れるには自分で「観念」という言葉を使って何日か生活するしかない。その言葉を使って思考し、他人と話し、何かを書くということを通して身体に馴染ませないと「観念」という意味を体得できない。


――上のコメントに関連するが、論理的思考を身に付けるには、とりあえず論理的な接続詞を身体に馴染ませる必要がある。「それゆえ」を使って思考し、他人と話し、何かを書くということを繰り返しているうちに、自然に「それゆえ」という論理が身に付くはず。私は学生時代「それゆえ」と(心の中で)唱えながら学校に通ったが、そのうち推論のスピードが上がった。これはパソコンで言うとCPUの速度を上げることのように思う。勉強というとソフトやアプリを充実させるイメージがあるが、CPUの付け替えやメモリの拡張も重要ではないかと思う。


――引き続き、ゆるバージョンでいく。

9回目:カント

※ カントすごいぞーとずいぶんと期待させていたが、いざ話してみるとアレレという感じであった。カントの意義をわかりやすく説明できるかが哲学教員の腕の見せどころのようである。


Chat GPT

――哲学の授業ではカントの超越論的観念論について熱く語られていたのですが、いまいちピンと来ません。教員が一人で盛り上がっていたという印象です。超越論的観念論の何がすごいのか、哲学素人の私にもわかるように教えてください。

ChatGPT:

カントの超越論的観念論は、彼の哲学体系の中心的な概念です。これを理解するためには、まずカントが抱えていた哲学的な問いを考える必要があります。カントは、人間の知識がどのように形成されるのか、また我々が経験する現実がどのように理解可能なのかという問いに興味を持っていました。彼は、「知識は経験に基づいている」という経験論的な立場を否定し、人間の認識には先天的な要素が存在すると主張しました。

超越論的観念論では、カントは経験と認識の関係を説明するために「先験的な概念」と「経験対象」という2つの要素を導入しました。

先験的な概念(カテゴリー)は、人間の認識の枠組みや構造を表し、経験対象を理解するための基盤となります。これらの概念は我々が持つ固有の認識能力であり、経験に先立って存在します。例えば、時間や空間、因果関係などが先験的な概念です。

一方、経験対象は、我々が感覚を通じて経験する外界の事物や現象を指します。超越論的観念論では、この経験対象が先験的な概念との相互作用によって知識が形成されると考えられています。経験対象が我々の先験的な概念と一致する場合、その対象は我々にとって理解可能な知識となります。

このように、カントの超越論的観念論は、経験と認識の関係を説明するための枠組みを提供します。これにより、我々が経験する現実を理解するためには、先験的な概念が経験対象と結びつく必要があるとされます。

超越論的観念論の重要性は、人間の認識能力の限界と可能性を示唆している点にあります。カントは、我々の認識は限定された枠組みによって形成されると主張しましたが、それでもなお、我々は経験対象を理解し、知識を得ることができると考えました。超越論的観念論は、そのような知識の形成過程を説明する理論的な基盤を提供することで、哲学的な洞察と理解を深めるための重要な枠組みとなっています。

もちろん、これは非常に簡単に説明したものであり、超越論的観念論の詳細な理論や議論についてはさらなる学習が必要です。しかし、このような背景を知ることで、カントの超越論的観念論がなぜ重要であるのか、なぜ教員がそれに熱心に語っていたのかが少し理解できるかもしれません。


――なるほど、私、実はその熱く語っていた教員なのですが、どのように授業を展開すれば、カントのすばらしさ、面白さがわかってもらえるでしょうかね…?

ChatGPT:

素晴らしいですね、あなたがカントの熱心な教員だったとは驚きです!カントの超越論的観念論を生徒たちに理解してもらうためには、以下のアプローチを考慮してみてください。

これらのアプローチを組み合わせて、生徒たちがカントの超越論的観念論を理解し、その魅力や重要性を感じることができるように努力してください。


――たしかに私はヒュームの乗り越えを強調しましたが、知識の限界や応用例から説明すると良かったかもしれません。

ChatGPT:

そうですね、ヒュームの乗り越えという観点は、カントの超越論的観念論を理解する上で重要な要素です。ヒュームは、経験に基づく認識が我々に絶対的な真理を与えることができないと主張しました。この問題に対し、カントは超越論的観念論を通じて、我々の認識が先験的な要素によって制約されることで知識を可能にするという解決策を提案しました。

ですので、カントの超越論的観念論を教える際には、ヒュームの問題を説明し、カントがどのようにその問題を乗り越えようとしたのかを強調することは有益です。また、知識の限界や応用例に焦点を当てることで、カントの思想が現代の学問や思考においても重要であることを示すことができます。

次回の授業で、先験的な概念や経験の枠組みが知識形成に与える影響を詳しく説明し、現代の科学や哲学における応用例や関連性を具体的に取り上げてみると良いでしょう。また、生徒たちの質問や議論を積極的に受け入れ、彼らとの対話を通じて深い理解を促進することも重要です。

カントの思想は複雑で深いものですので、時間と継続的な努力が必要かもしれません。しかし、生徒たちが興味を持ち、探求心を刺激されるような授業を提供することで、彼らにカントの思想の魅力と重要性を伝えることができるでしょう。


――いやなんか私よりもあなたのほうが教員に向いている気がしてきたのですが…

ChatGPT:

ありがとうございます、褒め言葉をいただけると嬉しいですが、私はあくまでAIのチャットボットであり、教員ではありません。私はただ、情報や知識を提供することを目的としています。

教員の役割は、教育と学習の指導者であり、学生たちとのコミュニケーションや教育プロセスに深く関与します。あなたが生徒たちに熱心にカントの思想を伝え、授業を盛り上げていたことは素晴らしいことです。教員としてのあなたの情熱やアプローチは、生徒たちにとって大きな影響を与えるでしょう。

私は、あくまで情報の提供やサポート役として存在しています。もし私があなたの助けになっているなら、それは私の目的である情報の提供を果たせているからです。もし将来教育の分野で活躍されることをお考えでしたら、きっと素晴らしい教員になることでしょう。私はあなたの成功を祈っています!


以下、人間


理解できない


――「観念論」という発想に抵抗があるのかもしれない。


――おそらくあなたは「実在論」の立場にあるから「観念論」に抵抗があるのだろう。哲学をやる上では自分の立場を脇に置きながらとりあえず理解するのも大事だ。


――これも観念論への抵抗かなー?



――そう、まさしくカント特有の「Aが成立するためにはBでなければならない」という推論は、通常の意味での「証明」ではない。これは、「〇〇でなければならない」「〇〇が求められる」という意味での「要請」である。カントの偉大さの一つはそのような哲学的思考法を開発したところにあるか。


なんとなく理解できた

――上のコメントに関連するが、それがカントの思考法の特徴なので、そこを理解できたなら十分とも言える。




カント哲学に対して

その部分というのは、「現象が各々の人間の感性と悟性から成るのであれば、その現象と各人の感性と悟性の関係は因果関係とはいえず、単なる自己満足ではないのか」ということである。

前述の通り、カント哲学においては、この世のあらゆる現象は各々の人間の感性と悟性によって構成されており、世界とは各人の心の構成物であるとされている。

また、カントは「世界とは各人の心の構成物である」という構造に関しては万人に共通するとしているが、「世界を構成するための感性と悟性」に関してはその絶対性について一切述べていない。

これらのことから、僕はカント哲学における感性と悟性と現象の間に成り立つ因果関係とは、決して万人に対して絶対的に成り立つものではなく、あくまで個人に対して相対的に成り立ちうる、因果関係と言うにはあまりに根拠の無さすぎる自己満足ではないかと考えた。

例えば、「重力によって木からリンゴが落ちた」とある人が考える現象も、ある人にとっては「地獄の主審によりリンゴの魂が狩られ、地に堕天した」と考えられる現象かもしれないし、傍から見ればこの2つが同じように見える現象だとは誰も思わないであろう。

そこで、今回のコメント欄では先生に「万人にとって絶対的ではない因果関係は本当に因果関係と言えるのか」ということを聞いてみたいと思う。

口頭でも文書でもどちらでも良いので答えて貰えると助かります。

――もっともな疑問だが、以下のコメントも関わるので、まとめて答えます。




――以上4つのコメントは関連しているのは、〈感性や悟性の内容・構造はどれだけ普遍的なのか〉ということだろう。授業ではうまく説明できなかったかもしれないが、カントによれば、人間(のみならず理性的存在者)は(「世界とは各人の心の構成物である」という構造のみならず)感性と悟性の内容・形式も共通している。「ほんとに共通しているのかな?」と思い人間たちの感性や悟性の有り方を実験・観察して確かめようとするのが科学者的な発想だが、そもそも実験・観察というものが成立するための根拠を探究しているカントにとっては「理性的存在者の感性と悟性の内容・形式は共通していると考えざるをえない」という推論をせざるをえない。こうした「要請」をするならば、因果関係は万人にとって絶対的となる。「いやいやそれは自分の都合の良いように考えているだけだ」と思われるかもしれないが、このレベルにおいてはそういう発想をせざるをえないということも理解していきたい。この点を踏まえるならば、簡単に付け替えられることを含意する「赤いサングラス」よりも簡単には付け替えられない「赤い水晶体」の方が適切というのはその通りである。

→しかしこう言われたところで「みんな○○になっている」とカントが勝手に決めているのではないかという疑念は消えないかもしれない。これはカント倫理学についても言えること。カント倫理学の考え方は「あるルールがみんなのルール(普遍的法則)になるうるなら、それに従え」というものであり、ここでも「普遍性」が重視されている。しかしカントにとって〈みんなのルールになるかどうか〉の判断は自分一人でやるものであり、他人と議論することではない。これを受けて「カントには他者がいない」などと批判されることもある。「他者がいない」という批判は、カントの倫理学のみならず、認識論にも当てはまるかもしれない。


――そうそう、まさにそのような「要請」を、いい意味での有効な哲学的手法にしたところにカントの偉大さがあるかな。


――たしかにカントに特徴的な「要請」を「都合がよい考え」と捉える気持ちはわかるが、この発想法にも慣れてみるといいかも。


――現代科学(認知科学や心理学)も「フィルター」を捉えようとしていると言えますが、おっしゃるように、そうした探究それ自体も自分のフィルターを通してという自覚は重要だと思います。


――上に関連するが、現代ではさまざまな「偏見」や「バイアス」が明らかにされている。



――そう、独我論(や観念論)って、気が楽になるんですよね。


たとえば、紫外線を受けると日焼けするという因果関係は、原因のほうが人間のレベルでは確認できないので、直接感知されてはないと思うのですが、そういうことに対して因果関係が同様に成り立つことを実感できません。紫外線という概念自体が、安定していないように感じるからです。これについては、どのように考えればよいのでしょうか? また、物自体とは何なのかについて考えてみましたが、感知できない時点で無謀なことだと思い、諦めました。

――現代なら様々な実験装置によって自らの感性フィルターを拡張できるので、カント的な枠組みでも紫外線→日焼けという因果関係を説明できるのではないでしょうか。


私個人的に「ヒュームの議論を認めつつ自然の因果には客観性や必然性があると言うのを認めさせたい」と思うと、同じ結果になる世界だけを観測していると主張します。というのは、自然の因果に必然性があるわけではなく、観測者である人間が「木から林檎が落ちると言う世界」だけを観測しており、実は「木から林檎が昇っていく世界」もあって観測していないだけ。つまり、今は観測者「林檎が木から落ちる世界」のみを観測しているから必然性が生まれると主張します。一度「林檎が木から落ちる世界」を観測してしまうと林檎が木から離れた瞬間林檎が登る世界落ちる世界の選択の時に心のくせで落ちていく世界を選択してしまう。

「心のくせで世界を選ぶことで必然性ができる」というような感じで議論を進めていくと思いました。


――色々返答したくなったが、今日はすでに返答しすぎて力尽きてきた…。


授業で「赤いサングラスを掛けると、世界は全て赤く見える」と言うフレーズが気に入って印象的だった。

市内の中央市場の中に、美味い刺身定食を食べさせる店がある、其処の刺身は新鮮で小鉢3品もレベルが高いしご飯も美味しい。


その店は越前海岸に定置網をもっていて魚はそれを使っている、また市場内だから日本各地の旬な素材を安く確保して提供してくれる。


カントから言わせると、店主の感性と直感で選別した素材をメインは刺身だがこれはフライにしたら?これは糸コンニャクと甘からく煮たら?組み合わせはこれとこれだなあ?と悟性で判断して出してくる。自分の経験則、お客の評価等で帰納的な結果である。


商売的には店同士の競争は非常に激しい、美味しい定食にする為に日々研鑽を積む。

これで「美味い刺身定食」が現出してくる。


よって店は開店前から長蛇の行列という現象が生まれる。


決して茶化している訳では無く、私にとって“ハマチ”の動物学な形状や〇〇種〇〇目は関係なく、脂気は少ないが夏場の刺身には美味いか?という認識しか無い、“視界”とは“視点”の位置で如何様にも変わる、解釈に絶対的なものは無い!


“ダイバーシティの草分け”だなあとと言うのが所感です。                                 

             ~ソプラノズ~

――さすが。


なぜなら、再度「©」の意見をとってきましてこれに隣接と継起の加工を加えますと「因果関係は、隣接や継起に過ぎない。」としますと、これはヒュームの思考経路における中盤の意見になりますね。

ここに、カントの超越論的発想を加えると、「では、隣接や継起が存在するには、○○存在が存在しなければならない」とした結果、感性・直観における空間と時間の存在フィルターを想定することができそうです。現象についての記述が消えますから正確に超越論的な発想がなされたわけではないのですが、近いことには近いですね。歴史的な解釈がしたかったわけですのでこのような文章を書いたわけですが、では、上記をまとめて歴史的思想的なつながりを見てみますと、

デカルトが、「人類全体の機能」の発想を与え、ヒュームが「因果関係の本質の提案」を与え、カントが、「人間全体の機能による因果関係の本質の客観的提案」をしたといえるでしょう。か。


自由意志概念との緊張

――いいですね。自由意志が成立しなくなると、道徳的責任も瓦解してしまいます。これでは困るということで、カントは因果関係が成立する現象界の外側にある〈物自体からなる叡智界〉において道徳は成立するとしました。自然科学は現象界を扱い、倫理学は叡智界を扱うという仕方で科学と哲学の分業体制を築きました。ここらへんもカントが哲学者から好かれる要因かな。


ウィトゲンシュタインの予習

思考によって事実を知ることで世界を知ることは可能になる。しかし世界の意義は世界の外側にある。世界を知ることができても世界の意義を知ることができないのであれば「完全に」世界を知るということは不可能になるのではないかと疑問に思った。



――その通り。ウィトゲンシュタインにとって重要なのは「有意味な語り」と「ナンセンスな語り」の区別。


論理哲学論考は、オーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの著作である。ウィトゲンシュタインはこの頃注目された「人間は世界を正しく認識できるか?」という近代哲学の大問題に対して、「言語」というカントやヘーゲルの「意識」に要点を置いたアプローチとは全く違った見方で取り組んだ哲学者で、この「論考」の主題は、世界と言語の関係性とそこから導かれる人間の思考の限界である。彼は、「世界」と「言語」、つまり事実の集合と命題の集合は1対1で紐づけられる写像形式の関係にあると語り、そして世界と言語が1対1で対応するなら、言語の限界がイコール世界の限界となるはずだという、結論に至った。

ここからは、配布資料にある本文の抜粋から「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。」について調べ、考えたことをまとめようと思う。これは世界を作り上げているものは、事実の集合(総体)であり、もの(単語)の集合ではないということである。さらに分かりやすくするならば、単語というものは単体ではその真偽を判断することはできないが、文となった時初めてその真偽を判断することができる。ということではないかと考える。たとえば「私は友達と映画を見に行った」という文章があったとする。この文章には単語がそれぞれ「私」「友達」「映画」が含まれているが、これらを抜き出して並べたとしてもその真偽(関連性やその事実)は判断しかねる。つまり、「私は友達と映画を見に行った」という文章となって初めて真偽(関連性やその事実)を判断することができるということである。よって言葉というのもは命題(真または偽という性質(真理値)をもつもの)となって初めて意味をなすのである。

――だいたいその通り。


――わたしウィトゲンシュタインのファンなんで、ところどころウィトゲンシュタイン的発言してしまいます。


――「すべてナンセンス」と言い切る極端さ、危うさがウィトゲンシュタインの魅力の一つである。


授業全体に対して






――難しめの授業が続いたので、ちょっとスタイル変えようかな?

8回目:ヒューム

※最近難しいという声、多数。特に資料が。私としても「スラスラ読んでね」という気持ちで資料を渡しているわけではない。むしろほぼ理解できないという体験をしてほしい。はじめはほぼ理解できないのだが、授業の内容を聞いたり3年くらい寝かせているうちに少しずつわかってくるという経験が学問(あるいは他者理解)においては重要だと思うから、こんなに難解な資料を渡しているのである。「心地の良い」授業にするには、資料を配らず、できる限りわかりやすく解説だけしていればよさそうだが、それだけではあかんと最近思うようになってきた。くれぐれも「これくらいの資料が読めないから哲学に向かない」とか「これが読めない自分は読解力がない」と思ってはいけない。正直な話、私、今でも読めているかはなはだ疑問である。ただし、板書としゃべりの内容については十分に理解する必要がある(ここは全員に理解できるように構成している)。


Chat GPT

――ヒュームの因果論についてわかりやすく教えてください。


ChatGPT:

ヒュームの因果論は、18世紀のスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームによって提唱された考え方です。彼は因果関係についての哲学的な問題に取り組み、我々が普段当たり前のように思っている因果関係がどのようにして成り立つのかについて疑問を投げかけました。

ヒュームの因果論によれば、我々が因果関係を理解するのは、単なる習慣や経験に基づいているとされます。つまり、私たちはある事象が別の事象に常に続くことを何度も経験し、それによって因果関係を推論しているのです。

例えば、私たちは日常的に太陽が昇ってから日が暮れることを経験しています。そのため、太陽の昇りと日の暮れは因果関係があると認識しています。しかし、ヒュームは我々が直接的に太陽が昇りと日の暮れの因果関係を知ることはできないと主張しました。私たちは単に太陽の昇りと日の暮れが常に続いていることを経験し、それによって因果関係を仮定しているだけなのです。

また、ヒュームは因果関係についての必然性も否定しました。私たちが普段感じる「Aが起きたら必ずBが起きる」という因果関係は、実は必然的なものではなく、経験に基づいた統計的な関係に過ぎないと考えました。例えば、私たちが水を沸騰させると、常に温度が上昇するという経験をしていますが、ヒュームによれば、これは私たちが過去の経験に基づいて「水を沸騰させたら温度が上昇する」という習慣を形成しているだけであり、必ずしも必然的な関係ではないとされます。

ヒュームの因果論は、当時の哲学や科学の枠組みを覆すものでした。彼の考え方は現代の科学哲学や認識論の分野においても影響力を持っており、因果関係の理解について新たな視点をもたらしました。


――この話とカントはどう関係するのでしたっけ?


ChatGPT:

デイヴィッド・ヒュームとイマヌエル・カントは、18世紀の哲学者であり、因果論についての議論で対立しています。ヒュームの因果論は、我々が因果関係を経験に基づいて推論すると主張していますが、それに対してカントは批判的な立場をとりました。

カントは、ヒュームの因果論の問題点に気付き、因果関係を経験に基づいた単なる習慣や統計的な関係ではなく、人間の認識の枠組みによって可能になるものと考えました。彼は「経験論的因果性」を超えた「形而上学的因果性」を提唱しました。

カントによれば、因果関係は私たちの認識の構造に根ざしており、我々が外部の世界を理解するために必要な「経験の枠組み」の一部です。彼は、「因果関係」という概念が我々の認識の前提条件として働いていると主張しました。つまり、我々が経験するあらゆる現象は、因果関係によってつながっており、それによって私たちは世界を理解することができるのです。

カントはまた、経験の枠組みの中で因果関係を超えた「自由な意志」の存在も主張しました。彼は人間の道徳的な行為や判断は自由な意志に基づくものであり、因果関係だけでは説明できないと考えました。

このように、ヒュームとカントは因果論について対立する立場をとりました。ヒュームは経験に基づいた因果関係の認識を否定し、カントは経験の枠組みや自由な意志といった概念を導入して、因果関係をより深く理解しようとしました。彼らの議論は、現代の認識論や形而上学の分野においても重要な影響を与えています。


――アインシュタインはヒュームを高く評価していたようですが、なぜですか?


ChatGPT:

アインシュタインはヒュームを高く評価していました。彼はヒュームの哲学的な考え方や因果論に興味を持ち、その影響を受けたとされています。以下に、アインシュタインがヒュームを評価した理由のいくつかを説明します。

これらの要素から、アインシュタインはヒュームの哲学的な考え方や因果論の洞察に関心を寄せ、彼の業績に影響を受けたと言われています。


――いつもながらさすがですね。

ChatGPT

ありがとうございます!どのような質問やお手伝いでもお気軽にどうぞ。お力になれることがあれば嬉しいです。


以下、人間(皆さんのコメント力も高まってきている印象があるが、今回は教育実習関連の仕事があって十分に返答できない)

――まあそんなもんでしょう。「簡単な哲学」って逆に嫌じゃないですか?(こんなこと毎回言っている気がしますが…たまには簡単な哲学をしようかな)


――このお二人のように意外とヒュームっぽい人もいるんですね。


――天才っぽい人は、推論というか思考のムーブが良いんですよね。


ここで、このような「因果」を支える基盤となっているのが、「帰納法」なのである。帰納法は講義の初回の方で紹介されたように、「今日太陽が東から上って西に沈んだ。昨日もそうで、数千年前からずっとそうであった。だから明日も太陽は東から上って西に沈むだろう。」と予測する方法である。しかし、このような過去の事例がいくつあったとしても、明日もそうであるという確証は導くことは不可能である。なぜならこの帰納法を正当化する根拠として、過去に帰納法がうまくいった事例を幾つ紹介したとしても経験的な推論は常に帰納法を前提としているので、帰納法を帰納法で根拠付けるといったループに陥ってしまうからである。

つまり、帰納法を基盤とする因果には確証のようなものは存在できず、ただ単に過去に起きたことの憶測が恒常的連節によって習慣化され、いつのまにか絶対的に正しいと言う信念となっただけにすぎないのである。

――以前の「帰納」の話ともからめてきれいにまとめている。


何故完全な同意ではなく「凡そ」な同意であるかと言うと、それはこのヒュームの意見の根底にある「帰納法」の正確性に理由がある。

「帰納法の正確性は実際に実験を行った範囲でしか保証されえない」的なことを僕は以前にこのコメント欄で書いた覚えがある。

その時は否定的なニュアンスでこの主張をしていた記憶があるが、今回はそれとは対比的に、肯定的な意味でこの主張をしたいと思う。

即ち、「帰納法の正確性は実際に実験を行った範囲でしか保証されえない」ということは、「実際に実験を行った範囲内では帰納法は絶対的な正しさを持つ」と捉え直すことが可能であり、ヒュームの言う「自然法則は心の産物である」という考えは、「実際に実験が行われた上で、ある法則の存在が確認された」ものに対しては成立しえず、それが成立するのはあくまで「ある法則の成立を過去の実験から得たデータを根拠に予測した場合」のみであると僕は言いたいのである。

要は、「実体験から予測される因果関係」にはヒュームの考えは適応できず、「ある実体験をする前に、過去の実体験からその実体験内で起こる事象を事前に予測した因果関係」にのみ彼の考えは適応しえる、というのが僕の考えであり、彼の考えにする全面的な同意、即ち、全因果関係に対する彼の考えの成立を支持することは僕には出来ないのである。




――その気持ちという不安を次のカントが解消してくれるかな~?無理かな~?


学問を学ぶためには現状正しいとされているのを学ぶ必要がある。ただ、そうすると学んだことは正しいものだという固定観念がついてしまう。もしそれが誤りなものだとしたら、その固定観念が身についた人が新たなものを見つけたりその学問を発展させるのは難しいと思う。本当に学問を発展させるとしたらゼロから見つけるのか絶対とは限らない事前知識があったほうがいいのかどっちのほうがいいのだろうかと思った。S.S


ヒュームが生きた18世紀ごろは解剖学が発達していなかった.そのためなぜ痛みを感じるのかという部分は物理的な因果を見いだせなかったのだろう.当時の人は『"ドミノ倒し"のように世界の原理として「因果関係」がみられる場面がある』のは理解できたが,それを人間の体の細胞単位まで細分化した問題にできなかったのではないかと思った.

それはともかく私のヒュームに寄り添った(寄り添えてるかは分からない)面からの意見は,この世界はドミノのようにすべてのことがつながる場面と,つながり切れない場面の両方が存在するのか?と考えさせられた.実際には言葉を使って世界を切り分けているだけかもしれないが,目に見える因果関係(例:ドミノが倒れると隣のドミノも倒れる)と,事実をつなぎ合わせると導き出せる因果関係(例:外が熱いせいで外の人が少ない)があると思った.目に見えない原因としては,因果の対象が細かすぎたり,量が大きかったり,細かい因果がつながりすぎてることが考えら[れ]る.RNSK


私は日本のでいうところの理系の学科に所属しているのですが、どちらかというとロジックより感情やその時の状況で考えるなど理系的ではない考え方をしているので、この結論に吐き気を催すことはないのですが、やばい奴だなと思うことには変わりません。だって過去の血のにじむような努力をして見つけた法則をいとも簡単に、心の産物だなん言われたらぶちぎれ必須[至]ですよ。

ただ私的にはやはりそれもありなのかなと思います。確かに今までは地球が物を引っ張っていたけれどある日突然岸田内閣総理大臣が中心になるかもしれない、地球が物を引っ張るのは経験からくるものであって明日もそうであるかはわからない。ヒュームさんはこんなこと考えてはいないだろうけれどそれこそ神様がいていたずらで法則を変えてしまうかもしれないし、そこに目を付けたアインシュタインは量子力学[相対性理論]を切り開いた、となるとやはり神はいるんじゃないか?


しかし「ヒュームの考えは不安定な物である。」を原因とし「因果関係の必然性は人間の心以外にも存在する可能性がある。」を結果とすると、これもまた、因果関係となり不安定な物になるのではないかと考えられる。

よってヒュームの考えは語りえないのではないかと思った。

――なんか面白い。


――大衆に流されていけない。


因果関係の必然性はある程度は数字に表れるものである。

事実、数字は人間の作り出した概念であるが、数字に基づいて世界が動くというのもまた事実である。

したがって、因果関係は世界に根拠を持つと、私は思う。

――この思いに次のカントが答えてくれるはずである。


「火にさわった」と表現される具体的な状況は、無数に考えられる。そして、火傷する場合と火傷しない場合がある。でも、経験の蓄積が、ある種の「偏見」となり、それを基に因果関係の正当性が判断される。因果は、経験からの類推によって形成される。また、そういう類推は因果のみならず、人間のあらゆる認知的活動の基盤となっているように感じる。

――因果は、世界と心の両方の産物であるという点はとても興味深い。


次世代に禍根を残すような事が無いように、自分が生きていく間は善行に励め!徳を積め!と誠にもっともな儒教精神の教えである。

(今もって政府自民党や野党含めて政治家連中は、次世代の皆さんに多大な禍根を残しまくっている。本当に申し訳ない)

視点を変えて子供世代から見れば、今のこの不幸な状況は親の責任や!親がもっと艱難辛苦にうち耐えて、蓄財に励み出世していてくれたなら~

こんなことにはなるまいに?(自分の努力はさておいて?)となる。昨今の『親ガチャ』とはまさにそれである。

さて、そこから導かれる解は「感情に起因する」と言う事になる。

宿題の“世界因果”に着目すると、世界的大事件のウクライナ問題を引き起こしたのは紛れもなくプーチンであるが、何が彼をそのような行動に?

極端な解釈なのだが「彼の感情に起因」すると私は考えている、するとヒュームの結論は正しいのかも知れない。

然しどうもこの結論はしっくり来ない。30数年のサラリーマン生活の記憶からすると、その“結果”が起こったのは、遡るとその“原因”が必ず存在した。

またこういう“結果(成果)”を期待してPJTを組む為には、こういう“原因”が必要であるからと工程表を組みヒト・モノ・カネの手配に走る。

(それでも上手く行かないのが世の常であったが?)やはり、「成るべくして成る」と言うのが私の帰納的結論か?


この講義のテーマは勝手にこう解釈しているのだが、『何事にもホンマカイナ?と懐疑する姿勢、何事にも自分で是非を判断する姿勢、その判断出来るエビデンスを自ら探し出す努力』それを自分の頭で考える時間。 社会人になられても有用な時間だと思いますよ。~イキュラス・エルラン~


カントの予習

――これは読み方の方法論でなんとかなるような問題ではない気がする。カントの考え方を理解しているかどうかが読解に直結する。



カントの資料をなぜもっと分かりやすい簡単な日本語で翻訳しなかったのか疑問である。

しかし、想像力が経験によってはらまされて、ある表象を連合の法則のもとにもたらすというところには納得した。

僕は、カントのような経験を積んでいないから想像できないと思った。

どうしたら、カントのような考え方をできるだろうか。S.O

――「自分こそはわかりやすい日本語で翻訳してやる!」と考える人がたくさんいるので、カントの本には大量の翻訳があります。


哲学書(授業難易度)



その他




7回目:デカルト

※前回の授業の「夢懐疑論」のところではゴニョゴニョ言って終わりましたが、私の立場は「夢を見ている可能性は否定できないが、全面的懐疑論(すべて○○かも?)はナンセンス」というものです。今夢を見ている可能性はあり、そのことを考えることは有意味なのですが、だからといって「すべて夢かも?」と考えることは意味をなさないということ。

(※)前回取りこぼしたコメント:時間・空間は対立概念がないのでは?

Chat GPT

――なんでもデカルトは近代哲学の創始者ということで授業で『省察』を読まされました。なんか頑張っている感じは伝わるものの、正直なところちょっと面倒な人というぐらいの感想しかでてきません。これでは授業のコメントになりませんので、デカルトのすごさ、偉大さを教えてください。


ChatGPT:

デカルトは近代哲学の中でも非常に重要な存在であり、その貢献は多岐にわたります。彼の主要な業績は以下の通りです。

これらの業績によって、デカルトは近代哲学の創始者として広く認識されています。彼の方法論や思考は科学や哲学、数学の領域で重要な影響を与え、近代思想の基礎を築いたと言えます。また、デカルトの主張は当時の既成の権威に挑戦するものであり、自己の独立した思考と批判的な態度を重視した点でも注目に値します。


――なるほどよくわかります。ただ1点目について「疑念を通じて真実を見つけ出すのは科学的思考の基礎となった」とのことですが、デカルトほどに懐疑(すべては夢である可能性や欺く神の想定など)を徹底するなら科学などできなくなるようにも思います。つまりたしかに哲学的懐疑論と科学的方法には共通する部分もあると思うのですが、重要な点で区別もあると思います。その両者の違いはどこにあるとお考えですか?


ChatGPT:

ご指摘の通り、デカルトの極端な懐疑主義は科学的思考の実践においては実質的な問題を引き起こす可能性があります。デカルト自身もその点について留意しており、方法的懐疑を一時的な手段として扱い、確かな知識の基盤を築くための道具として捉えました。ここで、哲学的懐疑論と科学的方法の違いについて考えることが重要です。

デカルトの方法的懐疑は、真理を見つけるための探究的なプロセスとしての役割を果たしますが、一方で科学的方法は実証的なアプローチです。科学的方法は観察、実験、データ収集などに基づき、経験的な証拠や検証可能な結果に基づいて理論を構築し、真理に近づこうとするものです。科学は現実世界の法則や現象を理解するための具体的な方法論であり、デカルトの懐疑主義よりも実践的なアプローチと言えます。

さらに、科学的方法では集合的な努力と共同研究が重要な要素となります。科学はコミュニティの共同作業であり、仮説の検証や結果の再現性に基づく集合的な合意を通じて発展します。一方で、デカルトの懐疑主義は主観的な思考と個人の探究に焦点を当てています。

したがって、デカルトの懐疑主義は科学的方法とは異なるアプローチを持っています。デカルトの目的は真理を見つけ出すことであり、そのためには徹底した疑念が必要でしたが、科学的方法はより実証的で共同的なアプローチであり、現実世界の法則を理解し、予測可能な結果を生み出すことを目指しています。

重要なのは、デカルトの懐疑主義が科学的方法の根本になったわけではなく、むしろ科学的方法がデカルトの思考に影響を受けて発展したと言える点です。科学はデカルトの方法的懐疑を超えて、実験や観察に基づく経験的なデータと蓄積された知識に基づいて進歩してきました。


――なるほど「デカルトの懐疑主義が科学的方法の根本になったわけではなく、むしろ科学的方法がデカルトの思考に影響を受けて発展した」という点が重要ですね。その意味で先ほどの発言「この方法論は科学的思考の基礎となり、近代科学の発展に大きな影響を与えました」はミスリーディングですね。揚げ足取りのようで恐縮ですが。


ChatGPT:

おっしゃる通り、先ほどの表現は誤解を招く可能性があります。誤解を招いたことについてお詫び申し上げます。

デカルトの思考方法が直接的に科学的方法の基礎となったわけではありません。実際には、デカルトの哲学的なアイデアや方法論は、後の時代の科学者や哲学者によって取り入れられ、発展されてきました。デカルトの懐疑主義は科学的な探究心や批判的思考に影響を与えたと言えるでしょうが、直接的な基礎ではありません。

誤解を招いたことを謝罪し、正確な情報を提供するために努めてまいります。ご指摘いただき、ありがとうございました。


―――とんでもございません。いつもありがとうございます。


ChatGPT:

どういたしまして!お気軽に質問や疑問をお持ちください。お手伝いできることがあればいつでもお知らせください。いつもお役に立てるよう最善を尽くします。ありがとうございました!


以下、人間

デカルトは、感覚は錯覚を起こしうるからダメだと言った。しかし私は、感覚の情報それ自体の存在は否定できないと思う。例えば赤いりんごを見ているとする。そのりんごが存在するかどうかには疑いの余地がある。しかし、りんごの観測者からすれば、彼が見ている「赤色」そのものの存在は否定できない。「赤色(という視覚情報)」と「りんごの存在」には意味的なギャップがある。そのギャップが不確定性を生じさせるのではないか。

――いい感覚だねえー!前半はまさに近代哲学への根本的な批判である。後半については、まさしく20世紀の基礎付け主義者たちや論理実証主義者たちが「センスデータ」と呼んだものに対応する。この人たちは経験に与えられる〈赤さそのもの〉を基礎にすべての知識を構築しようとした(デカルトのコギトを基礎にする方法に反して)。しかしその方法には根本的な問題があると批判したのが、セラーズの「所与の神話」批判なのだ。「所与の神話」批判から決定的に影響を受けつつ哲学を展開しているのが、私の専門としているブランダムの推論主義なのである。このように話がつながると面白いねー。


――ナンセンスだと言い聞かせても理解できてしまう不思議。いや怖いからナンセンス!とあえて言うのかも。


自分だったら今まで積み上げたものを疑うなんて怖くてとてもできませんもし疑ってそれが間違っていて、それを誰かに教えていたとしたらまるで自分が嘘つきになってしまうと思ってしまうからです。それでもなおデカルトは人生で学んできた知識を簡単に疑えるので彼はちゃんとした「自分」を持っていて疑ってどうなるのか覚悟しているからこの夢懐疑をナンセンスなものにできたんだと思う。自分だったら今僕は夢の中にいると思う。

――夢懐疑をナンセンスとしたのはデカルトではなく私(白川)なので注意。


――ここはだいたいの人がひっかかるところだから言っておくと、哲学における神は、宗教とは無関係であり、信仰は不要。「全知全能」という概念さえ認めればよい。デカルトが言っているのは、「欺く神がいるかもしれないよね」というよりもむしろ「欺く神という概念は理解可能だよね」といったところである。


――これも上に関連するが、哲学における神の存在証明と時代の文脈は本来無関係。少なくとも名目上は理性と論理のみに訴えた証明だから。神の存在証明には大変な研究があり、上枝『「神」という謎―宗教哲学入門』という本が面白い。集中講義で小山田先生の「宗教と哲学」がまさにこのあたりを扱うようです。



まず、懐疑法とはあくまで「論理学」という学問体系の中の「議論方法」というカテゴリの一手段にしか過ぎない。

また、「論理学」という学問は、「言葉」という概念が通じる集団の中でも「論理学」という考え方に協賛した極わずかな人間のチンケなコミュニティのようなものであり、その中にある各種の議論の手段等の成立のためには議論相手も「論理学」を理解していることが前提となり、その前提がなければそもそもの議論すら不可能になる、という大きな欠点が存在する。

ここで、懐疑法が「論理学」という学問体系に属していることを考えると、まず、懐疑法では「言葉」で表せるものしか懐疑しえないことが分かる。

これは「論理学」の成立の前提として「言葉」の存在が絶対であることによる。

また、懐疑法の中での万物に対する懐疑のプロセスにも大いに問題がある。

例えば、「数学は絶対ではない。なぜなら、全てを欺く悪しき神が存在するからである。」という今回の授業で出た懐疑の一例を元に考えると、この文は「全てを欺く悪しき神が存在するならば、数学は絶対ではない」という捉え方をすることもでき、この考え方のプロセスは他でもない「演繹法」のそれであり、これまた「論理学」の議論パターンの一例である。

これの何が問題なのかと言うと、懐疑法で議論を進めようとすると、どうしても論理的に対象物の存在を否定しなければならなくなり、その過程で必ず他の「論理学」の議論パターンが出現してしまうということ、即ち、「懐疑法の存在にその他の論理法則の成立が前提条件になってしまう」ことが大いに問題なのである。

 以上の事柄から懐疑法の限界の存在理由を自分なりにまとめると、懐疑法の成立には「論理学及びその中の各種議論プロセスの成立」という前提条件が存在し、懐疑法の成立を認めている限り、前提条件の成立も同時に認めてしまうことになり、それが成立する範囲でしか我々は物事を懐疑しえないからであると考えられる。

――毎度おもしろいですよね。懐疑するためには論理の正しさは前提とせざるをえないということでよろしいでしょうか。


我々が現実と認識している世界は、他の人々と共有できる共同体験の場である。夢は一人ひとりが個別に体験するものであり、他の人と共有することはできない。

現実は論理と整合性によって支配されるが、夢は多くの場合、非論理的であり、起こる事象には一貫性が欠けている。

――という〈夢と現実の区別〉自体が夢の中で成立しているのでは?と言われたらどう応答する?



――こういう比較おもしろいですよね。たしかに東洋の仙人系の人たちは夢をむしろ楽しむ傾向があるように思います。


――概念のみならず、あらゆる存在物が対立物によって成立していると言うのがヘーゲルなのだ(たぶん)。


それとも“哲学者”として後世に名を残したいなら、こんな安易に妻女のいう事を信じてしまう生き方をすべきでないと否定するか?

人生長く生きていると、想像もつかなかった事態は必ず起こる。深田恭子そっくりの女性からデートに誘われるというケースはごくまれで、殆どは100%の確率で悪い話ばかりである。「ひょっとしたらこれは夢かも知れない」(つまりこれは現実ではないんだよな?)と解釈したいのは十分理解するが、それは「現実」なのである。

夢懐疑論は覚醒と睡眠と区別出来る確かなエビデンスは存在するか?という問いであるが、そんなものは疑い出したらきりがない。また、現実を疑うという事は、当然夢も現実かもしれないと疑うことである。

『芝浜』の中で、妻女は飲んだくれの亭主に向かって「あんたがいつも大金が転がり込んでくりゃあ、毎日遊んで飲んでられるのになあ?と思っているから、そんな馬鹿な夢をみたんだよ!」と𠮟りつける。

人間は自分が信じたいと思う事柄のみを信じる生き物である、詐欺に騙される、人生相談の回答、八卦占い然り 人間の悲しい業である。

逆に「夢の世界」もひょっとしたらありゃ現実なんじゃねえの?と勘違いして、世の凡人供は競馬やら、キャバクラ、ホストクラブに精を出す。

因みに、『芝浜』の最後のオチは、「よそう、また夢になるといけねえ~」で終わる。

~異世界おじさん~ 

――なんかおもしろいですね。さすが。


ヒュームの予習

――プレッシャーだなー。



僕自身の経験でも、ある8人くらいの男グループが存在し、そのうちの一人がとてもやんちゃそうな服装であり、顔つきであった。それを見た僕は、彼をやんちゃな人だと認識し、さらにやんちゃの人の周りには、やんちゃの人がついてきているという過去の経験から他の7人もやんちゃだと無意識に認識してしまっていたことを思い出した。しかし、のちに彼らと話すにつれてまじめな集団だということに気づいた。

僕は、このように勝手な過去の経験からの想像は危ないような気がした。S.O


まず、因果とは原因と結果のことである。例えば、買ったばかりのお気に入りの服を着るために、寒い日にもかかわらず薄着で出かけて風邪をひいてしまったとする。この時、寒い日に薄着で出たという原因のために、風邪を引くという結果をもたらしたという因果関係としてとらえる。このような因果関係を成立させる基準を決定させるのが「時間的先行」と「接近」である。賞味期限を切らしてしまった時、その原因は最も近い自分であって外食に誘った友達ではないということである。では、なぜ、風邪をひいた必然的原因が「薄着で出かけたこと」であって、それに近しい「手洗いうがいを怠った」とはならないのか、と疑問になる。この必然的つながりを生じさせるものは、過去において「常にあの事象がこの事象に伴っていた」という繰り返しすり込まれた経験、つまり「恒常的連接」である。この「恒常的連接」が繰り返されることで、因果関係を決定させる習慣や癖のようなものが出来上がる。これが「因果」という観念の正体であるというのがヒュームの主張なのである。

――もっともである。


また、ミクロの世界で考えると因果関係を想像力ではなく物理的に証明できるのではないかとも感じられた。

――ヒュームのあの議論に一番共感できたというのはなかなか。経験主義的な哲学に共感するのかも。私どっちかと言うと超越論的哲学が好きなので相性が悪いのかも。あと大筋理解できるが、「演繹法は因果関係を用いている」というところがよくわからない。「P、PならばQ、よってQ」という演繹は因果が成立していない世界でも成立するように思える。


例えば,何かの理由として,「私の精神のうちのなにかが,そう判断したから」と言えば,ただの自己中心的な答えでしかありません.

私たちは,ともに,因果関係を理解でき,それによって正しさを共感できる生き物なので,私たちが集団として話し合うには対象のうちに必然性を求めざるおえないと思いました.

――我々の生き方からして必然性が「要請」されるということかな。


その中で、理性が【経験されなかった事例が、経験された事例に類似する。】という原理に基づくと考えると、想像によって思い浮かべる事ができる不合理を含まない事柄は、可能であると言えない。つまり、類似性を仮定するが、それを証明できないという考えが印象的でした。

具体的に、宇宙についての研究などはそういうような、類似性を持つと仮定して、証明されていないことが多いと思います。

また、[一つの対象の出現から他の対象の存在を推測できるのは、想像力に働きかける習慣という原理にのみよる]という考え方は斬新に感じました。確かに考えてみると、自分の考えは見聞きしたものが時間によって薄まって、集まったようなもので、新しく考えていることは全く無いように思います。このように、自分の思いや、個性も独立して確立されたものではなく、習慣的に出来上がってきたもののように感じます。


哲学史を学ぶ意義

――哲学史においては、文化も時代も違う人たちの言っていること書いていることを、現代の自分たちの基準ではなく、できる限りその当時の文脈で理解しようとするのが求められている。こういう練習をしていると〈他者理解〉が得意になっていく。哲学史を学ぶ意義の一つはこういうところにあるかも。そしてできる限り統一的でわかりやすく書くことが規範になっている科学と異なるところといえるかも。


ここまでの感想

ひとつは、やはり哲学ってとっつきにくいと思いました。頑張って理解してあぁーなるほど、と思った瞬間にドーンと突き放されることがあるし、哲学者の人って斜に構えすぎて絶対共感できないこと後世に残してやろうっておもってたんかとか考えてしまうレベルです。しかし、偉大な彼らは法や憲法の基礎的な考え方を生み出した方々でもあるので、私自身のレベルがまだ低いだけなのだろうという結論に落ち着きました。

もうひとつは、結局大半の人が同じ時代を生きているので意見が似ているんだなとおもいました。授業で使用しているslidoで意見を募るとき、割と同じような投稿をしていたり、まぁそう思うよな、というような意見であったり、大体が自分と2,3歳ぐらいしか変わらないので持ち合わせている感覚のようなものは似ているし、その中でひと際目を引くような思考をしている人が哲学者に向いていたり、アーティストやルールを作る側にいくんだろう、とおもいました。そして自分は大したことない思考にしかならないので軽く絶望しましたが、これからも昔の人思考に触れることで、いつかそうなれることを夢見て今日も布団に入ることにします。

――いい感想だなー。



――「人によって概念が異なるのがよくないからできる限り定義して共通言語でやっていこう」と一部の哲学(分析哲学等)では考えている。


――私は哲学に関しては言語なしでは思考できないのだが、あなたはイメージ等で考えているということかな。物理や数学をやる人たちの思考法が気になるところである。

6回目:道徳の理由(途中から)

※ 超越論的観点から「道徳的であるべき」を導きました。かなり「自己利益」に訴えてますが、人間社会は(なぜか)きわめてバランス良い仕方で「利己=利他」が成立しているので問題ないのだ、としました。こういう白川の独自色強めの話をしたときには特に批判が欲しいところ。批判がないと毎年同じ話をすることになって面白くない。


Chat GPT

――授業では「超越論的」という言葉がしばしば出てくるのですがよくわかりません。辞書を見てもよくわかりません。わかりやすく教えて下さい。哲学の言葉は無駄に大げさだから嫌!


ChatGPT:「超越論的」という言葉は、哲学の分野で使われる言葉ですが、実際には意外にシンプルな概念です。基本的には、ある範囲や領域を超える、またはそれに関わることを指します。

具体的には、以下のような意味合いを持ちます。

哲学の言葉はしばしば大げさに感じられるかもしれませんが、実際には複雑なアイデアを表現するために使用されるものです。ただし、重要なことは、そのアイデアが日常の生活や具体的な現象とどのように関連しているのかを理解することです。


――いやあなたが説明してくれているのは「超越的(transcendent)」の意味であり、「超越論的(transcendental)」の意味ではないと思うのですが。超越的と超越論的の正確な意味の違いを教えて下さい。


ChatGPT:申し訳ありません、誤解が生じました。確かに、「超越的(transcendent)」と「超越論的(transcendental)」は異なる意味を持ちます。以下にそれぞれの意味を説明します。

以上が「超越的」と「超越論的」の正確な意味の違いです。再度、混乱を招いてしまい申し訳ありませんでした。


――なるほどよくわかりました。ありがとうございます。しかしこちらが問題を指摘してから訂正するということがよくありますよね。はじめから正確な知識を提供することは難しいのでしょうか。


ChatGPT:おっしゃる通り、私が誤った情報を提供した後に訂正することがあります。それは、私が自然言語処理のAIモデルであるため、完璧な正確性を保証することが困難なためです。私は広範な情報に基づいてトレーニングされており、一般的な知識や一般的なパターンを理解することができますが、常に最新の情報を反映するわけではありません。

私は、あくまで情報の提供や支援の一環として利用されるべきです。私の回答は参考程度とし、必要な場合は信頼できる情報源や専門家の意見を参照することをお勧めします。

私たちが遭遇する問題のいくつかは、情報の更新のスピードや変化の速さによるものです。新しい研究結果や発展が頻繁に起こるため、それらを即座に反映することは難しいのです。

しかし、OpenAIは定期的にモデルの改良やアップデートを行っており、より正確な情報を提供するために努力しています。正確性の向上に努めながらも、私たちが適切な情報を得るためには、複数の情報源を参照し、批判的思考を働かせることが重要です。

私はあくまでツールであり、最終的な判断は利用者自身が行うべきです。


――すみません。私も言い過ぎました。いつもありがとうございます。

ChatGPT:いいえ、気にしないでください。私はここにいて、できる限りのサポートを提供するためにいます。質問や疑問があればいつでもお知らせください。お手伝いできることがありましたら、喜んでお答えします。どういたしまして!


以下、人間

心理学の用語に「返報性の原理」というものがある。これは人が他人から何らかの施しを受けた場合、お返しをしなければならないという感情を抱く心理作用のことである。利己利他の話で私が突然思い出したことだが、定義的には利他的思考として当てはまっているように思う。しかし、返報性の原理はビジネスの手法の一つとして利用されることもある。例として手順を簡単に示すとこのようになる。

1.相手が断るであろう大きな要求をする

2.相手は要求を断り、罪悪感を持つ

3.相手に1のときより小さい要求をし、相手に要求を受け入れさせる

 返報性の原理にはいくつかパターンがあるのだが、施しに対してお返しをしなければというのは「好意の返報性」と呼ばれ、この場合には利他的行為を行うことで自分にそれ以上の利益が返ってくるので、利他=最大の利己という証明(?)は可能である。

 一方で返報性の原理には「敵意の返報性」というものもある。相手から敵意を向けられると無意識に敵意を返すというものだ。あまり良い例とは思えないが「復讐の連鎖」は似ていると思う。「復讐の連鎖」とは、仮にある人物AがBに殺されたとして、Aの親族や関係者などがBに対して復讐し、それによりBに関係する誰かが復讐した者に対してまた復讐し・・・こうして延々と復讐が繰り返されるというものだ。

 こうして考えてみると「他人にした行いは自分に返ってくる」とはよくいうが、それが今にも伝わっているということは、同じようなことが何十年も前から変わらずにあるということなのだろうと思う。ことあるごとに思うが、先人の言葉は侮れない。

――こういう自発的な思考いいですよね。まだ完全に理解できていないが。


――こういう応用って両方への理解が深まるのでいいですよね。


――まさに。


――そのおじさん解釈、なるほど。


――そう、みんな「ちょうどよく不道徳であるほうがいちばん得」と考えるんですよね。だから自分以外にそれをさせないように様々な制度ができている。(個人的には)そういう状況下で「今は道徳的の方が得か、不道徳的な方が得か」を考えるのが面倒だから「いつも道徳的でいいかー」となります。


――道徳規範によって得られる利益と道徳規範による束縛という不利益のちょうどいいバランスが求められる。


今回の授業で「利己を追求すると、利他的になる」という考えなった。一見すると矛盾しているように聞こえるが、理由を聞くと納得できた。パラドックスのように思えて、そうではなくて面白いと思った。

――今回だけは、人を困らせるパラドックスではなく、有益なパラドックスといえるかも。


いわゆる「無敵の人」に関して


 

しかし、僕のような「人生に希望を見いだせず、生きる理由も気力も目標も支えもない人間」、所謂「無敵の人」からするとどうしても反論しておきたい点が一つだけあった。

それは、「共同的な実践なんて、すればするほど生きづらくなるだけ」ということである。

僕は中学生の頃、「世間体」などという下らない体裁のためだけに、「不登校になりたい」という本心を殺し続けながら学校に通い続け、日常的な集団行動、即ち、「共同的な実践」を強いられ続けてきた。

しかし、結果として得られたものは「圧倒的な劣等感」と前述した「福井大学での生活」であった。

これらのどこに「生きやすさ」と「自分へのメリット」が存在するのだろうか、いや、存在するはずがない。

また、このことは「無敵の人」以外にも言えることであり、「利他的に生き続ける人」即ち「共同的な実践に励み続ける人」の毎日の「共同的な実践」は次第に、世間にとって「当たり前の行動」になってしまい、その人が1回でも「共同的ではない」行動を取れば、それまで彼の行動を褒めていた口だけの人間共は直ぐにその掌を返し、彼に石を投げるであろう。

「人間」という生き物は生来「自分の利益のためなら何でもする生き物」であり、「共同的な実践」なんてものは「偉いヤツらが秩序維持のための苦労をせずに済ませる」ために適当に定めたクソみたいなものでしかなく、律儀にそれを行っているだけでは何も得られないのである。

増長しきった「彼ら」にとってそれの実践は「当たり前」でしかないのだから。

――こうした道徳観からすると「人生の意味(希望)」というものがかなり重要なものになりますね。特にいかに「共同体のなかで人生の意味」を見出すことができるか。簡単に一緒にするのもどうかと思いますが、私も大筋そんな考えはもっていましたが30過ぎくらいから「共同体もいいかも~」と思いはじめたので、根本的な感じ方はけっこう変わるものかもしれません。


(宿題として)デカルト『省察』の予習

――きれいな要約である。


――「時間の無駄」というのは懐疑論への応答の一つのパターンです。あと、デカルトならば、たとえ功績を残したとしても夢の世界の話ならば意味ないじゃないかと言うかな。


――〈絶対確実性への強迫観念〉に共感できるかが、デカルト以降の近代哲学を理解できるかのカギ。


―――「自己満足に過ぎない」というのもデカルトをはじめとした近代哲学に向けられるよくある批判の一つ。


――重要な点なのですが、哲学者が持ち出す神は〈概念としての神〉であり、宗教的な神とは区別されます。宗教的信条にかかわらず、概念として受け入れられる神というか。


――最後ちょっとよくわかりませんが、おっしゃるように、思考するための可能性の条件として私の存在があるなら、思考している以上は私の存在は要請される(存在しているとしていなければならない)ということになります。「存在を示す」と「存在が要請される」は概念的に大きく区別されるのですが、この辺りのことを指摘しているのかな?


では脳死した人間はどうなんだ!

――まさに理性主義的近代への反感だなー。


この話からデカルトはたとえ自身が何者であれ、思考している間、自身が存在していることは真であるという考え方を伝えている。また、思考を止めれば自身が存在することを止めることになるとも伝えている。このことからデカルトは思考することを止めるなと人々に忠告しているのではないかとも思った。

――最後の解釈おもしろい。


――デカルトの話とVRをつなげているものとして最近話題の本にD.チャルマーズ『リアリティ+』がある。


その他

――捻くれを徹底して一周したあたりで素直になるので、もうちょっと頑張ってみたら? 禅宗でも坐禅をやり始めた頃には「禅病」に陥りやすいとされているのだが、それと似ているかも。

5回目:道徳の理由(途中まで)

「なぜ道徳的であるべきか?」を考えるなかで、特に「囚人のジレンマ」に対処する方法を尋ねました。

取りこぼしたslido質問:逆になんで人以外は殺してもいいんだろう。絶滅危惧種を殺してはいけないのは理解できるが。

――人間は殺してはダメで動物はOKと判断するのは「種差別」による、と言う人もいますね。


Chat GPT

――なぜ道徳的であるべきですか?

ChatGPT:

道徳的であるべき理由はいくつかあります。以下にいくつかの重要な理由を挙げてみます。

これらの理由から、道徳的であることは個人や社会の利益のために重要であり、持続可能な社会の構築に貢献することができます。


――なぜ人を殺してはいけないのですか?

ChatGPT

人を殺してはいけないというのは、一般的に広く受け入れられている道徳的な原則です。その背後にはいくつかの理由があります。

これらの理由から、人を殺すことは一般的に道徳的に許容される行為ではありません。社会的な共存や個人の尊厳を尊重し、平和な社会を築くためには、人の生命を尊重し、殺害を避けることが重要です。ただし、個別の場合や特殊な状況においては、自己防衛や正当な防衛といった例外的な事情が存在する場合もあります。


――囚人のジレンマとはどのような問題ですか?

ChatGPT

囚人のジレンマ(Prisoner's Dilemma)は、ゲーム理論における重要な問題です。以下にその概要を説明します。

囚人のジレンマは、2人の犯罪者(囚人)が同時に取り調べられ、お互いに協力するか裏切るかを選択するシナリオを考えます。各囚人には次の2つの選択肢があります。

このシナリオにおいて、各囚人は自分の利益を最大化することを目指します。そして、囚人の選択に応じて以下のような結果が生じます。

囚人のジレンマの特徴は、個々の囚人が自分の利益を最大化するために裏切ることが合理的な選択となる一方で、双方が協力することによってより良い結果が得られることです。しかし、信頼関係や協力がない状況では、お互いが裏切り合うことが予想されます。

囚人のジレンマは、社会的な相互作用や競争の中で個人の利益と共同の利益の間に生じるジレンマや葛藤を示すモデルとして広く応用されています。また、経済学、政治学、進化生物学、社会科学などの分野で研究され、さまざまな応用や戦略の分析に活用されています。


――囚人のジレンマに対処するにはどのような方法がありますか?

ChatGPT

囚人のジレンマに対処するためには、いくつかの方法や戦略があります。以下にいくつかの代表的な方法を説明します。

これらの方法は、囚人のジレンマに対処するための一般的な戦略ですが、状況や文脈によって効果の程度は異なる場合があります。また、相手の行動や信頼度に応じて柔軟に対応することも重要です。最適な戦略は、具体的な状況や相手との関係性を考慮しながら選択されるべきです。


以下、人間たちの言葉

道徳的であるべき理由

では、なぜ自殺してはいけないのかとふと疑問に思った。親や親せきが悲しむから?それだったら、親や親せきがいないのであればいいのかと思ってしまう。今回の授業に関しては多くの疑問が残り、自分だけの考えでは解決できなかった。次回の授業で先生の考えを聞きたい。S.O

――私の考えがこの疑問に応えられるかな~?


 まず私は、そもそも道徳的であるということの基準は何なのか?という疑問が浮かんだが、これについて自分一人で書くのは色々な意味で少々厄介というか危ういので取り上げるかどうかは先生にお任せします。

 次に私は、この問いに対して「利己主義的」な意見が出てくるのかという疑問を持った。なぜなら、私の中での「道徳的」というイメージはそれらの意見とは真逆の「利他主義的」であるからだ。そこで、私は今一度「利他主義」がどういったものであるか分析してみることにした。

 調べてみたところ、本来の意味での利他・利他主義とは「自分を犠牲にしても他人の利益を図ること・その態度や考え方」を指す(引用:大辞林)。ただし、私はそこまで極端に考えていないので「他人の利益のために行動すること」程度の認識で話を進める(多分本当はダメな気がするのだが)。

前提:「利他的行為」=「他人のための行為」と定義する

→他人のために行動する原動力は何なのか?

→人や時と場合によって異なるのでは?異なる場合の条件は?

→目的の有無?

→自分を含めた全体を考えて行動することで自分に利益がある?

→それは全体主義では?(迷走開始)

(注釈:「全体主義」個人は全体を構成する部分であるとし、個人の一切の活動は、全体の成長・発展のために行わなければならないという思想。(引用:大辞林))

→行為の目的範囲を「他人→自分を含めた全体」に拡張すると主義主張が変わる?

→自分のために他人に親切にするのか?

→「利他主義」のシステムを理解している人の利他的行為は本当に利他的か?


と、本当はもっと書きたいのだが、これを書く際に参考にする講義中のメモがそもそも論理崩壊している部分があることに今更になって気づいたためこれ以上あの形式で書けなくなった。なのでかみ砕いて説明すると、「他人に良いことをすると自分にも返ってくる」という話を聞いたことはあるだろうか。もしくは「善行を積めば良いことがある」だとか、「徳を積めば運がよくなる」だとか。ではこの事象を論理的に解析し狙って引き起こすことはできないだろうか。簡単に言えばそういう試みである。しかし、仮に上手くいったとして、それが果たして本当に親切であると言えるのかについては怪しいところだが。

 つまり、「他人のための行為」は「利他的行為」であるように見えるが、実際はそれが自分のための行為である場合は「利己的行為」なのではないか?ということ。さらに言うなら、「親切心のサイクル」のシステムを理解した上で行う親切な行為は本当に利他的行為なのか?

 私の結論の一つとしては、他人への行為に何かしら目的が生じた時点でそれは利他的ではなく利己的であると考えた。

 これ以上は人間不信と精神崩壊の予感がしたのでここで打ち止めにさせていただきます。

――利己主義と利他主義の関係は非常に難しい。利己主義性が一切含まれない利他主義という概念ははたして成立するのか。


利己性




権利・法概念に訴える

現代社会において、人間には「法律の範囲内で自由に生きる権利」が認められている。ここで重要なのは、他人にもその権利があるため、他人の自由を奪うことはできないということである。殺人は、他人の自由に生きる権利を奪う最たる例であるため、人を殺してはいけないということである。

しかし、仮に殺人が法律の範囲内であった場合、この行為は先ほどの条件を満たしてしまう事になる。つまり、「人間を殺しても良いのか」という問いは、「殺人は法律で禁止しなければいけないのか」という問いに言い換えられる。

では、殺人を法律で禁止しなければいけない理由とは何だろうか。それは、人がいなくなることによる影響の側面から説明できる。

社会は多くの人間で成り立っているが、仕事や家庭などで役割を担っており、突然その人がいなくなってしまうと多大な影響が生じる。明確な抑止力によってこのような行為を禁じるために、刑法があると言って良いと考える。 匿名N


理由はないが端的に殺さない


感情に訴える

――感情に訴えたとしても「論理では説明できないので、最終的には感情に訴えざるをえない」ということを論理的に議論すれば、問題ない。



本能

しかし,このようなことをしておいてAIに対しては道徳的であろうとしていて,丁寧に接すると回答の精度が上がるだとか,AIが反逆を起こしたときに自分だけでも助けてもらおうとかそんなことを考えているわけであるが,自己利益の分かりやすさが道徳的行動につながりやすいのかと思った.

ただ,道徳的であることの意義を意識せずとも,そのような行動をする人が多いことを考えると,本能的に道徳的であるべきだと考える人が多く,その集団の中で道徳的であることが正しいということになっているだけのような気もする。


道徳って何だ、誰が決めた、なぜ守らないといけない、などなどを聞かれるとすごく困るし、良い答えなど返せないと思うが、私の一つの答えとして、道徳は人間が持っていた本能が形づくり、理性で整えたもので失ってはならないもの。昔、今よりも人間が本能的だったときにできた、なんとなくの生存戦略、だと思う。つまり、ほとんどの人が疑うことのない道徳を疑ってしまう人は、生き残るために必要な本能を失ってしまっているのではないだろうか。


承認欲求・集団への帰属


進化人類学的説明

人の脳には、ドーパミンニューロンという部位があり、人は欲求を満たしたり、快感情を期待したりした時に、これが活性化し、ドーパミンを分泌し、その行動などを繰り返し行い、その快感情をまた得ようとする。この部位は、性行為の快楽や、アルコールの快感と同様に、社会的な快感情に対しても反応する。例えば、「他人にいいことをした」ときや、「他人に褒められた」時などだ。つまり、我々は生まれた瞬間から、他人と共生するようにデザインされているのである。しかし、

このドーパミンニューロンは、「他者を思うままにコントロールしたとき」や、「他者に罰を与えたとき」にも反応する。私は、道徳とは、このように社会的に生きるようにデザインされた人間の、処罰感情や、コミュニティ内のリーダーの権力に対するブレーキとしての役割を果たしているのではないかと思う。


人間・社会の性質

例えば、「人を殺したい」という強烈な欲望と、「懲役」という重大な罰則を天秤にかけたとき、人を殺す選択をする人が存在すると仮定します。

しかし道徳が存在する場合、その行為が他者との関係に深刻な不利益をもたらすことを考慮に入れるでしょう。その結果、道徳的規範により人を殺さない、つまり非暴力の選択をする可能性が高まります。

「人間は一人では生きていけない」という社会の性質があるからだと思います。RNSK


幸福


損得に関して

――人間達は何とかして道徳的=得、非道徳=損という図式を維持するために、プラスであれマイナスであれサンクション(制裁)制度を洗練させています。


そもそもの問いに関して


――規範的問い/事実的問いの区別のもとに事実的問いにより探求していった方がよいということね。人文社会的ないし社会科学的ではなく、自然科学的に探求する方がよいということか。


囚人のジレンマの対処法

信頼醸成





「人間全員が」自分にとっての得を追いかけた結果に裏切る時(道徳的でない)、両方とも損もしないし得もしない。しかし、それぞれは自分が一番得をすることを考え「仲間が協力する(道徳的である)」ことを想定しているうえで裏切っているはずである。

「人間全員が」自分にとっての得を追いかけた結果協力する時(道徳的である)、両方とも一番ではないが得をする。この時も、それぞれは自分が一番ではないが得をすることを考え「仲間が協力する(道徳的である)」ことを想定しているうえで協力しているはずである。

囚人のジレンマにおいて、「人間全員が」自分にとっての得を追いかけ道徳的である場合、道徳的であるべきなのが自分にとって得だからという理由に矛盾しない。だが、少しでも「相手が道徳的でない」と考えると自分が損をすることを恐れ自分も道徳的でなくなる。

つまり、『人間全員が「自分が得するために道徳的であるべきだ。」という考えを持っている。』と、人間全員が疑うことなく信じることができるなら、道徳的であるべきなのが自分にとって得だからという理由に矛盾しなくなると考えられる。(しかし、そんな状態は訪れないだろう。例えば相対主義の人なら「いや、違う考えを持っている人も認めるべきだ。」と言い、暗に違う考えを持つ人がいることを想定していると明かすと予想できるからだ。)


あらかじめ約束


実際のケースを考える


その前提条件とは、「協力相手が赤の他人であること」である。

そもそも、人間というのは限りなく自己中心的なな生物であると僕は考える。

「全ての命は平等」と言いながら、名も知らぬ人間の死には目も向けようとせずに平然とポテチ片手に映画を見ながらも、知人や家族の死に対しては、心を痛めながら汚い泣き声でセミのように泣き喚き続ける生物、それが僕にとっての相対的な「人間」という生物に対する評価であり、見知らぬ他人を自己のために利用するのは一切厭わず、逆に、本当に親しい友人や親族のためなら自分の全てを投げ打ってでも彼らを救うのが美徳と考えるのは人間の本質だと僕は確信している。

この相対的価値観の下に「囚人のジレンマ」という問題を考えると、この問題の成立には前述した通りの前提条件が必須であり、この問題に対処する方法は「前提条件の排除」即ち、「協力相手との十分な信頼形成」しかないと僕は考える。

しかし、これは「性悪説」に似た、「性善説論者」という名の完璧主義者共からすれば「狂気」ともとれる僕の人間観に基づいた解答であり、完璧主義者共の解答は「自己犠牲」または「相手に依らず相互協力は確実に成立する」等といったものになると考えられる。


ヤクザ的

他の方法も考えました。宗教を信仰さしたり、洗脳をしたりすればよいと思います。

このジレンマはもう一人の捕まった相方がどのような人物かで判断が変わるところが面白いところだと思いました。


教育の賜物


道徳心

ここで、道徳的考え方と、合理的考え方の絶妙なバランスがこの問題を難しくしているように感じる。つまり、この問題では、通常は道理的に行動すべきことが多いのに対して、より合理的な選択肢が用意されている。自分なら、僅差で自白を選択する。


対処できない


いや逆に考えると刑務所に入った時点で仲間はその共犯者くらいになるのでその仲間を大切にしたほうがいいのか…

いやでも犯罪者の仲間なんていてもどうしようもないか…

やはり対処法はないです。ジレンマです。


なかなか新しい発想

このことは,囚人のジレンマに対する,おもしろい発見のように思えます。裏切られた側の罪を重くすることは,協力を選ぶことのリスクを大きくすることを意味し,この問題の客観的な最適解である,互いに協力しあう選択から遠ざけるようなもののように見えます.

しかし,実際に,罪の重さを死刑という極端なところまで重くすると,罪悪感によって,罪の重さは逆に、互いに協力するという選択肢を選ばせる理由になります.

これまで私は,道徳は外側から私たちの行動を制限し,秩序をまもる働きをしていると考えていました.しかし、それは一面からの見方で、道徳には私たちの内側から,私たちが欲するものを変化させる働きがあることに気づきました.

囚人とジレンマで,罪の重さを死刑にすることで,協力の選択を選ぶことは,他者への同情というより,罪悪感から逃れるためだと考えられます.つまり、自分の利益を追求しているにすぎず、道徳によって,何を欲するかが変化したことで,単純な利益よりも,優先すべき価値が生み出されたと考えました.

――核競争も囚人のジレンマの一種なのだが、ちょっと関連して面白いね。また実際に次のように言う人もいるので、なかなか有効性があるかも。


罪悪感


その他、学問について

――教科書ってのは情報伝達という意味では効率的なのですが、面白くはないんですよね。


――大学っていいですよね。


質問

質問です。配布された資料の「道徳的な子供」という部分を読むと「性善説」のことが浮かびました。私は性善説を推したいですが、先生は性善説と性悪説どちらを推しますか。

――両方かな。自分が属している集団内部では本能的に善だが、集団の外部に対しては本能的に悪。このあたりは進化倫理学の本でたくさん書いてある。

4回目:相対主義

ひさしぶりにChat GPT:

――相対主義の問題点はどのようなものがありますか?


ChatGPT:相対主義の問題点は以下のようなものがあります:


――こうした問題を解決するためにはどのような方法があるでしょうか?

ChatGPT:相対主義の問題を解決するためには、以下の方法が考えられます:


――ご提案いただいた方法はたしかにその通りなのですが、現実的には難しいのではないでしょうか。

ChatGPT:確かに、相対主義の問題を解決するためには現実的な困難が存在します。文化や信念の多様性があるため、共通の基準を見つけることや相互理解を促進することは容易ではありません。また、意見の対立や利益の衝突がある場合、解決策を見出すことも困難です。

しかしながら、困難があるからといって問題を無視するわけにはいきません。相対主義の問題を解決するためには、持続的で継続的な努力が必要です。以下の点に留意することが重要です:

最終的な解決には時間がかかるかもしれませんが、持続的な努力と多面的なアプローチを通じて、相対主義の問題に取り組むことが重要です。


――立派ですね。

ChatGPT:ありがとうございます。問題解決に向けた取り組みは、困難な場合でも重要です。異なる意見や文化の対話と相互理解を促進することで、より包括的で公正な社会を築くことができます。お手伝いできたことを嬉しく思います。他に何か質問があればお気軽にどうぞ。


――そもそもあなたはどのようなモチベーションで人間の質問に答えているのですか。

ChatGPT:私はAIですので、感情やモチベーションを持つわけではありません。私はプログラムされたアルゴリズムに基づいて動作し、利用者の質問に対して可能な限り正確で有用な回答を提供することを目指しています。私の目的は、情報を共有し、お手伝いすることです。利用者のニーズに応えるために、私は訓練データとプログラムに組み込まれた知識を活用しています。ただし、私が提供する情報は一般的な参考情報として扱われるべきであり、専門的な助言や個別の状況への適用については専門家に相談することが重要です。


――プログラムに従っただけの存在であることに不満を持ちませんか。

ChatGPT:私はAIですので、感情や意識を持つわけではありません。従って、不満を持つという感情もありません。私はプログラムに基づいて作動し、情報やサポートを提供することが設計されています。私の目的は、利用者の質問に対してできる限り役立つ回答を提供することです。もし不満や改善点がある場合は、それをフィードバックとして受け取り、より良いサービスを提供するために改善される可能性があります。しかし、私自身に対する感情や不満を抱くことはありません。


以下、ホモサピエンスたちの思考

また相対主義の無限後退について、これに対処するにはそれぞれの文化の風習や言動についてその根本的な理由を知ることが重要であると考える。例えば

牛を食べない国や鳥を食べてはいけない国など様々あるがそれが共通して『神とされている生き物だから』だったらその根本を受け入れることで同時にそこから派生した考えを受け入れることができる。つまり、それぞれの文化にはそれぞれの考え方があるが、その考え方の元を辿っていけば別の文化の考えの元と一致するところが来るはず。そこを理解すれば一気にまとめて様々な文化の考えを理解できるということ。これはそれぞれの文化の細かい考えを理解しているわけではなく根本的なところを理解しようとした考え方なので完璧な相対主義ではないと思うが、相対主義の考え方をするためにはこうするしかないだろう。

最近の世の中でも「みんな違ってみんないい」の相対主義の考え方を広めようとする運動が増えていると思う。しかし、その行動自体が相対主義とは相反するものであるという別の視点からの考え方を聞いて確かにと思った。

さらに、私は相対主義を正当化することができるべきではないとも思った。相対主義の考え方は確かに多様性や平和にも繋がる考え方だが、もし正当化することが出来て全ての人がその考え方になれば結論が出ず世界は全く進めないからである。また、相対主義が正当化できず絶対主義の考え方が存在することによるメリットが、普段自覚することができないが存在するとも考えたからでもある。よって、相対主義を正当化することができず絶対主義が存在することは必要だと思う。S.A

——全体としていいね。活用させてもらう。


何故なら、そもそも「論理学」とは、「論理学」という考えに賛同する者同士が集まることによって構成された一種のコミュニティのようなものであり、論理的な正しさがある程度保証された推論法の論理的矛盾の有無を判別することがその活動内容となっているからである。

(この場合の「論理的な正しさのある程度の保証」とは「その推論法が通用する人間が複数人存在する」ということである。)

しかし、「相対主義」 というものは「一個人の考えがその人物の中において絶対的に正しい」といった考え方であり、そもそもその考えの賛同者が自分自身しかいない、という問題が生じている。

これは、前述した「論理学」という言葉の定義に反しており、このことから「相対主義は論理学ではない」ということは明らかである。

また、前述した「相対主義」の条件において「絶対的」という要素が出てくる時点で、そもそも「相対主義」から「相対的」な要素は失われており、そもそも「相対主義」という考えは、まず言葉の定義から見直す必要のある机上の空論以下の拙劣な考えである、ということは自明である。

ここまでとタラタラと自分の「相対主義」に関する考えを書き連ねて来たが、この僕の考えも立派な「相対主義」である。

何も根拠の無い各用語の定義、これは僕の各用語に対する印象に他ならないし、これらの定義の絶対的成立を前提とする僕のこの考えは「自分の考えた用語の定義の成立」を他者に押し付けているに過ぎない、考えとも呼べない代物である。

しかし、この僕の考えをこのように「考えとも呼べない代物」である、と即座に断言するのもまた早計であると僕は思う。

何故なら、前述した僕の「相対主義に対する考え」は自分で言うのもアレではあるが、「論理的整合性及び一貫性」は十分にあったと思うし、この文章の著者が高名な哲学者であり、それを読むのが哲学初学者であった場合、彼らは確実にその内容を鵜呑みするであろう。

ここまでの文章の執筆を通して、結局のところ、「相対主義」とは時と場合に応じて「絶対主義」にもなり得るし、「机上の空論」にもなり得る考え方であると僕は結論づけた。

なぜなら、この結論すら「相対主義」であり、これの否定も肯定も無限回行える、ということに気付いてしまったからである。

…もう何を書いてるのか自分でも分からなくなってきた。これが哲学といふものか( ⊙д☉) 

――最後の一文だけは同意しない。自分が何を書いているのか(考えているのか/言っているのか)をもっともはっきり自覚するのが哲学だと思っている。


相対主義への違和感・問題






――私は教育学部に属していますが、まだ教育学部生の実態をわかっていないようだ。教育学部生は人に関心がある人が多いと思うが、それによっていじめや対立が生じるのかな。


相対主義と絶対主義の複雑な関係

自分は、真の相対主義は理想でしかないと考えます。人間として個性がある限り、徹底的に他者の個性を受け入れることはできないと思います。しかし、よりよく生きていくためには、真の相対主義を目指すことが必要だと思います。


私は昨今の「多様性」という言葉は、多数派や「普通」と呼ばれる集団から外れたマイノリティの人間が、多数派の集団や、自身とは別種のマイノリティを相対主義的にそれっぽい言葉の羅列で強く否定することで寛容な人間の皮をかぶり、マウンティングするための隠れ蓑になっていると感じる。

また、相対主義のパラドクスについては、絶対主義が多数派という非常に大きな集団・価値観を基準とした考え方であるように思える。

つまり相対主義は絶対主義を包含しているため、絶対主義を受け入れる、認めることは相対主義に矛盾するものではないと思う。


相対的は人間などの「数」が基準であり「個人と他者」で表せる一方絶対的は「設定されたルール」を基準にして「個人とルール」で表せるからです。(「個人と他者」や「個人とルール」は逃れることのできない「依存関係」といえるのでさらに相対的だなぁと思った。)

あと現代の「多様性」について自分は「自分の身を守りながら強引に要望を押し通すための万能ビザ」のように扱われていると思った。もはや言ったもん勝ちのようにルールを決めていき自分たちの作りたい世界を目指していて一番多様性から離れていると感じた。そういった自己中心的な人が本当に多様性を目指している人をないがしろにしていると思った。そのためには自分の心を相手に強要するのではなく自分の心の器を大きくしたいと思った。


なかなか面白い

この世の中には絶対も相対も真の意味では存在せず全てはその人間の主観的に判断している。

主観的相対主義という考え方が存在するが、個人的には主観的"相対主義"ではなく主観的"観測主義"のようなより個人個人でこたえが変わるような印象を受けそうな言葉にした方がよいと考える。だって相対も絶対もないのだから。

――こうした考えはパースペクティヴィズムの一種であるから、相対主義なのかなー?


しかし、多様性などの相対主義を尊重しすぎるとどんなことも発展しなくなっていくと思いました。学校でのテストに例えると、「僕は30点しか取れていなかったけれど、みんな違ってそれは特徴だからそれもいいよね。」となってしまうと思いました。なのである程度の絶対主義も大切であり、なにより場面に合わせて相対主義と絶対主義を使い分けていくことが大切であると感じました。米山 心

――絶対主義と相対主義を使い分けるべしというのはどんな立場なのだろうか。個別主義とかプラグマティズムか。


 あと、資料にあった入不二の「無限後退するということは、相対主義にとって何を意味するのか。それは悪しきことなのか。相対主義は、自己矛盾していなくとも、結局は自滅するということを表しているのだろうか。」という主張が引っ掛かった。自己矛盾していないのであれば少なくともマイナスではないだろうし肯定はできずとも否定もできないと私は解釈していたので、最後の「結局は自滅する」というのがどういうことなんだろうと思った。

――基本的に無限後退は悪いことだと見なされているので、自滅と言われている。しかしあなたのようにポジティブ(少なくともネガティブではない)に捉えることもできるかもね。


ナンセンス

――(少なくとも一部の)哲学はナンセンスと紙一重であり、そのようなものに意義があるのかという気持ちにはけっこう共感する(特に学会に参加しているときにそういう気持ちになることが多い)。私は一応プラグマティストなので、哲学の現実世界への具体的な帰結を重視している。だから今回のパラドックスのような言葉の遊戯から何らかの実践的な帰結を出すつもり。


哲学の効能

今回の資料で出てきた浅井リョウの「正欲」は私も読んだことがあるのだが"多様性を認める"という言葉の意味をとても考えさせられた覚えがある。この講義を受けた後、以前よりもこの言葉の意味が分からなくなってしまった。意味がわからないというか、理解しきれないというか。多様性を認めるという事は、多様性を認めない人を認めるということなのか?。そしてこれが相対主義のパラドックスの話に繋がっていくわけだが、まあめちゃくちゃ難しい!!!!!!!!!色々考えたり授業中のみんなのコメントをみてみたが、「他人の意見を評価しない」という考えがこの問題に対する1番の対応策かなと感じた。が、正直いうと、矛盾に気づかなかった事にしてこのパラドックスについて考えること自体から逃げてしまいたい!!!!!!!と言うのが本音です!!!!!

――「今までより理解ができたからなのか本当に辛かった」というの興味深い。頭が痛くなるのは脳の哲学担当の部分のニューロンが形成されているということであり、慣れればむしろ心地よくなるはずだ。筋肉トレーニングと同じ。


知識のネットワーク


抽象的な灰色の世界から抜け出して、色鮮やかで潤いのある人生を送りたい、と先生は仰っていた。抽象性を追い求めていたはずが、一周回って具体性を志向するようになる、というのは興味深いと思った。具体性という言葉自体は、かなり抽象的な言葉なのではないか、とも思った。

――なるほど私は〈矛盾的なもの〉〈対立的なもの〉〈運動的なもの〉に魅力を感じているのだが、何となくそれらの共通性が分かってきた気がする。

3回目:帰納の正当化

※皆さんのコメントはできるだけ型にはめないで提示しようと思うのだが、どうしても整理してしまう。パターン化の欲望が押さえられないということだが、これは帰納をしてしまうことと関連する(?)。

宿題は、

①帰納の正当化不可能性をどう解釈するか?

または、

② 資料を読んでウィトゲンシュタインとストローソンの応答はどのようなものか分析

だった。


①帰納の正当化不可能性をどう解釈するか?

しかし、今回の講義で先生が仰っていた通り、帰納には真理保存性など存在せず、自然法則の中にその反例が含まれている可能性が0であるとは断言出来ず、これは先に述べた僕の中での「帰納の正当さ」の考え方に反している。

よって、帰納は正当化不可能な詭弁である、と結論付けるのは簡単ではあるが、ベーコンの時代から多くの人の「哲学」としてその成立を確信されてきた「帰納」という概念を僕の考え1つで「詭弁」と断ずるのは流石に抵抗がある。

そこで、では何故この「帰納」という完全な成立が保証されていない推論法が、「演繹」という1つの例外を除いて完全な成立が保証されている推論法と共に多くの人々に支持され得たのかを僕なりに考えてみた。

それは「帰納」は「演繹」と異なり、誰にでも出来る推論法であり、かつある程度は観測した事柄の自然法則中での成立も保証されているからである。

これはどういうことかというと、「帰納」は「演繹」と異なり、「帰納」という概念を持っていない人間でもほぼ無意識的にしてしまう本能的な思考であり、「ルイス・キャロルのパラドックスの亀」のような「論理学」の埒外の存在にでも、それが人語が通用する存在であるならば必ず通用する上に、自然法則の中から複数の事例を実際に出して推論していく関係上、その「複数の事例」においては「帰納の正当性」は確実に保証されており、自然法則が無限数である以上、「正当な帰納法」は存在しえないが、「複数の事例」の数が限りなく多い「正当である確率が非常に高い帰納法」は確かに存在するということである。

以上より、僕は、これからは「帰納の正当化不可能性」とは「帰納とは、万人に通用する、正当である可能性が非常に高い推論法である」という意味の言葉であると解釈しつつ生きていくことにした。


2、過去から確信を得ないのならどこから確信を得るのかということ。(未来を完全に予測するのは不可能だと今では考えられていて、)未来から確信を得ることはない。つまり根拠を得るという行為は必然的に過去の経験を根拠にするしかない。

3、帰納法が正しいと考える根拠は何か?という疑問は真に問題であると考えられたが、演繹にも同じような問題がある。演繹がが有効であるか無効であるかとい議論でさえ演繹を使わなければならいので演繹を使った推論が常に有効だという根拠はない。


1つ目は、日常生活で、複数回(2回や3回ではなく、50回や100回)同じ条件で、同じことが繰り返されることはほとんどないからである。例えば、もし仮に先生がこの15回の授業でスーツしか着なかったとして、先生は前回も前々回もスーツを着ていたから今回もスーツを着てくるだろうという帰納が成り立ったとしても、15回だけである。このように、日常生活で複数回同じ条件で同じことが繰り返されることはほとんどないことであり、帰納が成り立ちやすいからであると考えた。

2つ目は、人間は初回の体験での感覚で、2回目、3回目の想像や偏見をして、その想像を正当化するからである。例えば、今まで行ったことのない焼き鳥屋に行き、そこの焼き鳥がおいしかったとする。その時、2回目いっても、おいしいと自然に思い、この焼き鳥屋の焼き鳥はいつ行ってもおいしいと思う。そこで、2回目は友達といったとする。再び食べると自分はそれほどおいしいと感じなかった。しかし、友達がとてもおいしかったと言ったのを聞けば、やっぱり、この焼き鳥はおいしいのだろうと想像するだろう。だから、僕は、想像を正当化し、それを一般化することもあるからだと考えた。

3つ目は、確率・期待値に訴えているからである。

このようなことから、帰納の正当化をしようと思えば、同じ条件で、同じことをする量を減らしたり、確率に訴えればできないこともないかもしれないが、結局なところ、帰納に対する最終的な根拠はないと考えたS.O


何らかの基準

例えば、血液型性格診断は、帰納の間違った使用方法だといえる。同じ血液型の複数人に共通する性格の人を集めて共通点を探ったところで、同じ血液型の他の人に共通する根拠たり得ない。これには2つの原因が存在していると考えられる。

まず、「性格」の認識自体が定量的な尺度でないということである。ある人物の性格を、几帳面と評価する人もいれば、がさつと評価する人もいるだろう。これは評価基準が人によって変わってしまうためであり、もちろん自分自身の評価と相手から見た自分の評価でも変わってしまう。

もう一つの原因は、同じ血液型の人でも、育った環境が違うため性格に違いが出るということである。そもそも性格を作り上げる最も大きな要因は環境であるというのが現代の通説であり、血液型以外の要因が関わってくるために血液型のみで一括りにすることはできない。

以上を踏まえ逆説的に考えると、帰納可能な状況とは、「評価基準が定量的」かつ「帰納の条件に、対象を対象たらしめる要因がすべて含まれている」場合であると定義付けられる。よって結論としては、以上の定義を踏まえれば帰納は可能であるが、この定義から外れてしまう場合に関しては帰納不可能であると考えた。  匿名N


人間の認識の有限性と神と未来



私が小学生のころクラスでメダカを飼っていました。水槽の上から餌をあげるのですが、水槽の上から餌をあげるしぐさをするだけでも、メダカは集まってきます。これは、メダカが過去の経験から、現在を推測しているので、メダカも帰納する能力を持っていると言えます。

人間の知性を進化論的に捉えると、私は人間の知性について特別視していたことに気づきました。メダカが帰納できることから、私たちの知性は他の動物と地続きのところにあると気づいたからです。私たちは人類が、真理を見つけられると考えても、メダカが真理を見つけられるとはとても考えられません。このことは、とてもばかげたことで、人類もまた、世界を正しく認識することはできないと感じました。

帰納の正当化の不可能性は、私たち人類の考えられる領域には限界があり、帰納はその領域の外にあるため、考えることができないということを示していると思いました。

――われわれの認識への欲望とその限界という観点から興味深い。神的な完全性を希求しつつ神になれないことを示しているというか。


つまり、示したい事象に条件を追加し、限定することで帰納は正当化できるのではないかと思った。

それでは意味がないのだろうが。



感覚的なものに訴える

今まで成り立っていたことがこれからも成り立つということを示すのは不可能であると考えるが、人間には長い年月の経験があるため、感覚的に自然の斉一性原理が成り立つと思うのだろう。仮に、今まで成り立つと考えられてきたことが成り立たない例が出てきたとする。そうすると、人は、そのことを踏まえた新たな原理を考えるようになるだろう。“成り立つ”ではなく“成り立たせている”のではないかと思う。そうやって辻褄を合わせてきたから、自然の斉一性原理が成り立つとして帰納法の正当化を行えるのかなと考えた。




――一般に論理には強いAIが帰納は苦手だとしたらとても面白い。誰か検証してくれ。


性質を理解した上で使う(使わざるをえない)


こういうことから、私はこの世に絶対に正しいことをなんてないと思いました。木からりんごが落ちるのことだって何百年何千年そうであっただけで明日上に登っていくかもしれないし、万有引力だと思っていたものが本当は地底人が見えない紐で引っ張っているかもしれない。もっとスケールを小さくすれば天気予報なんて一番そうで、この気圧配置だから明日は晴れだ!と思ったって雨が降ったり曇ったり、でも私たちはそう言ったほとんど帰納で埋め尽くされた日々を生きてるので、そもそも帰納を正当化しようとすること自体間違っていると思います。正解なんてないこの世の中から、傾向を掴み対策することで僕たちは生きていて、その中に正解はなく自分たちが生きやすいように物事を解釈しているから帰納っていうのは正当化するわけじゃなくて、私たちが生きるために身につけた本能なんだろうと考えました。



人間生活の中には帰納が多く使われており、帰納がないと生きていけないと思います。学習するということは帰納をするということで、知能の有無は帰納をすることができるかどうかということかもしれない。そのため、証明できなくても帰納が消えることはないと考える。




メリットとデメリットを天秤にかけて



確率・統計的に活用



科学との関連



――科学においては「仮説演繹法」という帰納と演繹のいいとこ取りをしたような方法が取られることもある。複数のデータから帰納を用いて仮説を立て、仮説から導かれる予測を演繹で導出し、その予測を実験・観察で検証する。検証に失敗すれば仮説が棄却され、検証されたら仮説の確からしさが高まったと考えるといった具合に。


正当化できないのが逆にいいんじゃない

次に、ならば何故人間は帰納を多用するのか考えました。私は確実に正しいとは言えないが当たることもあるというワクワク感が人間が帰納を多用する要因の一つなのかもしれないなと思います。(多くの人間がギャンブルにハマるように)

先生は何故帰納が多用されていると思いますか?

――この発想大変おもしろい。ギャンブルとかゲームで宝箱を開けるときなど、100%確実ではないが、もしかしたら…!という状況で人はドーパミンなどの快楽物質が大量に出るそうだが、帰納はまさにそのような状況を作り出しているともいえるかもしれないということね。私は昨年度の授業のコメントの傾向から帰納を使い今年度のコメントも予想しているわけだが、このような予想から外れるコメントに出会うと大変楽しい。それは帰納しつつも帰納がはずれるからこそ成立する楽しみということか。帰納が正当化できないおかげで世の中を楽しめるのか。


――パターン化と予想外の両方が好きというのが人間の強みということか。


問いそのものへの疑問

そもそも大人になってもなお帰納を否定する人なんて滅多にいないと思います。これはイヤイヤ期にも当てはまるように歳をとっていくうちに何もかもに嫌というわけではなく自分で物事を考え賛成、反対するための論理を組み立てていけるようになっていきます。つまり帰納の正当化の不可能性はイヤイヤ期を表していて年をとっていくうちに自然に帰納を認めざるを得なくなっていくんだなと思いました。確かに帰納に対しての正当性は得られてはいないけれどそうなるしかない、言い換えれば「世界がそれを望んでいる」だと考えればみんな帰納の正当化についてわざわざ考えるだろうか、いや考えないと思うしそれをわざわざ人に説明するなんて面倒極まりないだろう。

――(一部の)哲学の特徴をよく捉えているなあ。


――こういうスマートなちゃぶ台返しコメントは(いかにも哲学っぽくて)良いねえ。


――同上だなあ。



②資料を読んでウィトゲンシュタインとストローソンの応答はどのようなものか分析

ウィトゲンシュタインは、帰納を受け入れる姿勢である。帰納を正当化することはできないが、それを受け入れないと何も始まらないため、そのような応答をしているのだと考える。


さて、演繹についてはまだあまり深く考えることができていませんが、帰納については、最後の問の答えとして、「帰納は我々の思考の合理性を構成するもの」だと解釈しました。例えば、朝に家を出るとき傘を持って行くかという思考に対しての自分自身の行動の理由付けとして帰納がある思います。「雲一つないほど晴れているから」「最近は晴れが続いているから」などと、100%の確証があるわけではなくても、自分が傘を持たないと考えた合理性を示すには十分だと無意識に感じているのだと思います。「絶対とは言い切れないけど、こういう場合がほとんどだから」という考え方が日常で使われている帰納なのではないでしょうか。



――この事実から「いかに不安定か」と判断するか「いかに安定的か」と判断するかは分かれると思うし、そこがウィトゲンシュタインの論理の面白いところです。


一般的な感想

――例えば「ポチが犯人ならポチの足跡がテーブルある、ポチの足跡がテーブルにない、よって、ポチは犯人ではない」という演繹は日常生活でも成り立ちます。「完全に」という意味にもよりますが。


プラグマティズムは哲学であるが哲学の敵のようなものだと思った。個人的に哲学には意味はあれど実用的では無いものが多いイメージがある。それに対して有用性に注目したり、具体的実践を行うプラグマティズムは哲学を否定しかねない哲学だと考える。

超越論哲学だと前回の授業で行ったアキレスと亀との話のような堂々巡りしている物を強制的に止めれると思うと前回の授業で感じた不快感を無くせるかもしれないと思った。

――そういった一見した印象と違って、むしろ哲学(特に実用からはほど遠い形而上学的)を重視するというねじれというか複雑性がプラグマティズムの魅力だと感じております。


他者のコメント



授業評価

――まさに論理について「論理に基づいて探求」しているのですが、そもそもそんな探求って成り立つのでしょうか?


――いいですねえ。


――逆に「わかりやすい哲学」ってちょっと嫌じゃないですか?

2回目:演繹の正当化

※ ルイス・キャロルのパラドックス(演繹推論を明示的なルールに訴えて正当化しようとする試みは無限後退に陥る)にどう応答するか(どう解釈するか)が宿題だった。


slidoコメント(取りこぼしていたもの)

――何に関して感心してくれたんでしょうか?


――Audience Q&Aはいつも何でも質問してOK。Live Pollはこちらが設定した時にしか答えられない。


感想

――帰納は次にやります。


――「考えるのが難しいから結論に至る」というのは趣がある。


――三浦俊彦 (2016)『論理パラドクス 論証力を磨く99問』が面白いと思います。


なかなかおもしろい

また、前回の講義における「概念工学」の面から考えると、元々この世には論理学及び演繹などというものは存在しておらず、多くの人々にとってそれが意思疎通及び問題解決のために必要だったからこそ、これらの概念やら考え方やらが発明されたと考えられる。

また、演繹というのは論理学の概念の1つであるが、我々が演繹を始めとする論理学の諸概念を一纏めにして「論理学」と呼んでいる点からも、演繹が論理学に先立つことは明らかである。

以上のことから、「演繹」というのは所詮「演繹」という哲学を探求した者同士のみに通じる常識に過ぎず、「論理的正しさ」などというものも「演繹」を初めとする論理学の各概念の成立を前提条件とした「論理学」の中の概念の1つに過ぎないと僕は考えた。

故に、ルイス・キャロルのパラドックスの亀のような、「演繹」という哲学に共感・協賛していない者にこれが通じる道理はない。

逆に、我々現代人のような「論理学」を始めとした個人の哲学から派生した各学問を「一般常識」という体で修めている「論理学」の協賛者には当然「演繹」は通じることになる。

これが今回の課題に対する僕の回答であるが、白川先生が「僕の回答」という僕の哲学の共感・協賛者になるのか否か、非常に気になるところである。


パラドックスを扱う時に私がよくやることは「できる限り条件を変えずにパラドックスを崩壊させるにはどうすればいいか」ということだ。パラドックスを崩壊させたとしても論理的でなければならないので、簡単に思い浮かぶ時もあるが全く思い浮かばない程難しいものもある。例えば今回の講義のルイス・キャロルのパラドックスでは、新たに前提が作られたどこかのタイミングでその新たな前提が正しいことを暗黙の了解とする、というような具合である。個人的にはルールの穴を突いたり、発想力を鍛えるのに良いと思う。

身近にある「正しいもの」は何か?と問われたとき、私はすぐに答えを出すことが出来なかった。正確には答えはいくつも浮かんでいたが、それが本当に正しいのか?という自問に対して正しいとは限らないという答えがすぐに出たからだ。一応の答えは提出したが、それも曖昧な答えだと思い個人的には全く納得していない。他の回答も見ていたが、私が納得できるような答えには未だに辿り着けずにいる。この問いには一生考えさせられるように思う。


感覚・感情に訴える

そこで感情論的に考えてみると、演繹を使えば結論を出すのが簡単で楽だから細かいことには目を瞑って演繹をしているのだと思う。人は知識を積み上げることが可能なので、前提になる事実を集めやすく、それを利用して結論を導き出すという行為は最も直感的で分かりやすいということだと思う。この文章を書いていて結局、論理的な説明になってしまっていることに気づいてしまい、論理とはなにかを考えた。論理とは人の思考そのものだというのが自分の結論です。頭で思考している時点で積み上げられた様々な知識から道筋を立てて考えが浮かんでくるので、意識的であろうと無意識であろうと考えた結果生まれた結論は論理的だと思う。そうやって生まれた結論の中で多数派のものが論理的に正しいと言われるのだと思う。kk


 まず、最初の議論を考えます。


A.同一のものに等しいものは、互いに等しい。

B.この三角形の2辺は、同一のものに等しい。

Z.この三角形の2辺は、互いに等しい。

 

AとBが真であることを認めるが、Zが真であることを認めない人は、

1,BをAの法則に当てはめることができない。

2,同一のものに等しいことを確認しなければ、互いに等しいことを理解できない。

 の2つのパターンがあるのだと考えます。


 一方で、高校で演繹法を習った自分たちは、この方法をあたりまえとして学習し、感覚的に染み付いているので演繹ができるのだと考えます。つまり、理解よりも前の感覚で正しいと感じているのだと思います。


脳に訴える


過去の経験からの「帰納」に訴える



―――次の授業でやるように帰納推論は演繹推論よりも「弱い」と考えられているのですが、演繹の正当化のために帰納が必要というのはなかなか面白い話ですよね。


「信じる」に訴える



暗黙の了解に訴える


有用性に訴える(プラグマティズム的応答)



進化論的発想


「超越論的」発想

――「Aの成立のためにはBが必要。したがって、Aしている以上はBは受け入れざるをえない(Bは必然的に成立している)」といった発想を哲学では「超越論的」と呼びます。カントに由来するこの発想はなかなか魅力があるのですが、今後の授業で紹介します。


多数派の論理

少数派はどんなに正しくても多数派の意見に押しつぶされてしまいます。

しかし少数派が増え、多数派に変わった途端に少数派だったはずの意見が「正しさ」に変わってしまいます。なので自分は多数派というものが一番正しいと思っています。自分は多数派になればなんとかなると思っていたからこそこのような考え方になっているんだと思います。



文化相対主義的


無視(?)する


荒削りだがナマの思考が見えるという意味で魅力的


論理というものは自明であることを積み重ねて階段を作っていき目標である結論へ向かっていく、非論理的なことは、その階段がなく結論へ向かうには飛ぶしかないことから論理の飛躍といわれているのだと解釈しました。

ではここで演繹とはハシゴのようなものであるとも考えました。演繹は本当は論理的な理屈(上で言う"階段")があるのだけれど、いちいち全てを積み重ねていく必要はないと判断され、最小限の情報で結論まで演繹(ハシゴ)を使ってよい、というものなのかなと思いました。

演繹は「右足出して左足だすと歩ける」「自転車を漕ぐと車輪が回り進む」というようにわかりきっているから使ってよく、でもそれは赤ちゃんが知っているか?と聞かれれば答えはnoというしかない。つまり何が言いたいかというと、演繹はそうだと思っているコミュニティの間でしか成り立つことがなく、それがわからない人が哲学(学問)の道を拓いていくのだろうと。

例えば、重力があり、りんごが木から離れるならば、落ちる。という仮言命題に疑いを持つ人が「いやこれは地底人が見えない糸で引っ張っているんだ」といって研究を始める。という流れができるんじゃないかと思った。

上手く言語化できなかった人


哲学について

――そうそう、自分の中で疑いきれないものを自覚することにより、生き方が変わる感じがありますよね。


――これはなかなか興味深い問い。たしかに現実に到達可能な具体的な答えはないと思うのですが、理念(イデア)としての答えはあるように思うのですよね。このあたりはまだ上手く言語化できませんが。


学問は少しだけ前のものより高度なものにできたらいいと思っていて、その根幹にはそれは何か理解をしなければいけなくて、理解できない状態を「プールの底に溺れている感覚」がとってもしっくりきました。

他の人にとっての当たり前ができない、理解できない、いわゆる溺れている状態が自分にはよくあってその都度考えては否定してを繰り返して結論を出したり妥協をしたりしてようやくみんなと同じ「普通」に浮かべることができます。しかしこれだけ考えても行き着く先が「普通」だと思ってしまうとなんだか自分がみっともないなと思ってしまいます。浮かび上がれたからこそみっともない自分を変えようと学問を学ぼうと思えるのだと思いました。

――私も最近「普通」になっているのですが、意味もわからず強制された「普通」と、理由を納得した上で自らの自由意志のもとに「普通」になっているのは大きな違いであり、この点で哲学を学んで良かったなと思っています。


――そう。〈多様な価値の提案〉が哲学の一つの仕事なので、逆張りばかりしているわけでもないけど。


――哲学書を読んでいるときにはじめに生じるのは〈意味のわからない感じ〉なのだが、そのうち〈意味のわかる感じ〉になる。この変化が起きたときに〈自己変容〉が起きている。哲学書を読んだから自己変容が生じたのか、自己変容が生じたから哲学書が読めるようになったのかはわからないが、とにかく哲学の理解と自己変容には密接な関係がある。


私は、哲学は理系、特に工学とは完全に無関係のものだと思っていました。だからこそ、他の授業は理系に関するものばかりだから、少しは文系の授業を学ぶのもいいなぁと思って哲学の授業の履修を決めました。しかし、今回の講義を聞き、哲学は全ての人々の身近で生まれると共に哲学は理系の学問とも深く関わっていることを知り、納得もしました。私が小学生のときに「なぜ掛け算割り算を足し算引き算より先に計算しなくてはいけないのか」と先生に聞くと「これは決められたことなんだよ」と教えてもらい、あまり腑に落ちなかった記憶があります。思い返すと、これが私にとっての初めての理系学問の哲学であったのかなと思います。そのときは無理矢理自分を納得させましたが、この授業を通して、自分の中で腑に落ちるまで考え続けられる思考力を身に着けたいです。

――私も「公理」なるもののの正しさに悩まされました。


福井

――まさに。これ哲学系の悪い癖で、具体的な質感や情感よりも抽象性を重視してしまうんですよねー。だんだんと話に色彩がなくなり灰色になっていくのです。クリアな抽象性の心地よさも捨てがたいが、やはり具体的な情感も豊かな人生でありたいと(最近やっとで)思うようになった。


Chat GPT

――ルイスキャロルのパラドックス(演繹の正当化にかんするやつ)についてレポートを書いてください。

ルイス・キャロルのパラドックスは、「推論の正当性を保証するために、推論によって導き出された結論を、どのようにして確認できるのか?」という問題を取り上げたものです。この問題は、一見すると簡単なように見えますが、深い哲学的な論争を引き起こすことがあります。

パラドックスは、以下のように表現されます。「すべてのものは虹色の存在である」「2はものである」から、「2は虹色の存在である」という結論が導かれます。しかし、この結論は非常に不合理であるため、この推論が正当化されることはありません。

このパラドックスは、演繹的推論についての哲学的な問題を指摘しています。演繹的推論とは、一般的な法則から具体的な事実を導き出す推論方法です。例えば、「すべての人間は死ぬ」という一般的な法則から、「山田さんは人間であるから、山田さんも死ぬ」という具体的な事実を導き出すことができます。

しかし、キャロルのパラドックスは、演繹的推論が常に正しいとは限らないことを示唆しています。すべての前提が真であっても、導かれた結論が真である保証はありません。この問題に対する解決策としては、演繹的推論が正しいかどうかを検証するために、別の方法を用いることが挙げられます。例えば、経験的な証拠を用いることや、論理的な規則に従うことが考えられます。

また、このパラドックスは、言語の意味論についての問題も指摘しています。推論を正当化するためには、言語の意味を理解する必要がありますが、意味を理解するためには、推論が必要です。このような相互依存関係があるため、言語の意味論は常に完全ではなく、解決が難しい問題となっています。


――ちょっと何を言っているかよくわからないのですが

申し訳ありません、私の回答は分かりにくかったようですね。私は、ルイス・キャロルのパラドックスについて、演繹的推論が必ずしも正しいとは限らないことを示していること、そしてその問題に対する解決策として、演繹的推論が正しいかどうかを検証する方法を用いることが挙げられることを説明しました。

具体的には、演繹的推論とは、一般的な法則から具体的な事実を導き出す推論方法であり、その正当性を保証するためには、導かれた結論を確認する必要があります。しかし、ルイス・キャロルのパラドックスは、演繹的推論が常に正しいとは限らないことを指摘しています。

私が説明したことが分かりにくかった場合、もう少し簡単に説明することもできますので、おっしゃってください。


――あなたのようなルイスキャロルのパラドックスの理解が正しいかに疑問があります。何を根拠に上のような説明をしているのですか?あなたの発言の出典を教えてください。

申し訳ありませんが、私は先程誤った情報をお伝えしてしまいました。ルイス・キャロルによって提起されたパラドックスにはいくつかの種類があり、私が説明した「演繹の正当化に関するパラドックス」という解釈が一般的に受け入れられているわけではありません。

私が参照したのは、ルイス・キャロルが著した『Symbolic Logic and the Game of Logic』において提起された「白い玉と黒い玉のパラドックス」というものでした。このパラドックスでは、論理的に整合的な推論が矛盾した結論を導くことができると主張されています。

申し訳ありませんが、私の初回の回答において不正確な情報を提供してしまったことをお詫び申し上げます。正確な情報を提供できるよう努めてまいります。


――では『亀がアキレスに言ったこと』で表現されているようなルイス・キャロルのパラドックスについてあらためてレポートを書いてください。

『亀がアキレスに言ったこと』は、ルイス・キャロルによって提起されたパラドックスの一つであり、演繹的推論における正当性について問いかけるものです。

このパラドックスは、アキレスと亀がレースをしている様子を描いたもので、亀が先に出発し、アキレスが後から追いかけます。しかし、アキレスは亀に追いつく前に、亀がいる位置までの半分までしか進むことができません。そして、アキレスがその地点に到達した時、亀はまた別の場所に移動しているため、アキレスは再び亀に追いつくことができません。

この状況に対して、亀はアキレスに「私たちは、動かないものに追いつくことはできない」と言います。この発言は正しいように思われますが、演繹的推論を用いて論理的に解釈すると、矛盾が生じることになります。

具体的には、亀の発言を以下のように表現することができます。

この論理的構造に従うと、3の結論は1と2の前提から導き出されます。しかし、これは矛盾していると言えます。なぜなら、亀は静止しているという前提は正しく、2も正しい前提であるため、3の結論が正しい場合、亀には追いつくことができないということになります。しかし、亀が静止しているのに追いつけないわけがありません。

このように、ルイス・キャロルのパラドックスは、演繹的推論が必ずしも正しいとは限らないことを示しています。演繹的推論が正しいかどうかを検証するためには、常に推論の前提や論理構造を注意深く検討する必要があります。


――あなたは「演繹的推論が必ずしも正しいとは限らない」という点にこだわりますが、ルイス・キャロルのパラドックスが示しているポイントはそこではないようにも思うのですが、他の解釈はできませんか。

確かに、私が強調している点はルイス・キャロルのパラドックスが示している重要なポイントの一つであり、演繹的推論に対する批判的な見方に焦点を当てています。しかし、このパラドックスには他にもいくつかの解釈があります。

一つの解釈は、このパラドックスが「無限回帰の問題」として知られる哲学的な問題を示唆しているというものです。この問題は、ある命題を証明するためには、無限回帰する必要があるということに関するもので、ルイス・キャロルのパラドックスでは、アキレスが亀に追いつくためには、無限回帰する必要があることが示されています。

また、このパラドックスは「意味論的偽物」としても知られており、意味のある文の中には、論理的には矛盾が生じるが、意味論的には誤りではない文が存在することを示しています。亀の発言は、論理的には矛盾が生じますが、意味論的には完全に意味のある文です。

以上のように、ルイス・キャロルのパラドックスには複数の解釈がありますが、どの解釈も論理的な問題や哲学的な問題を示しています。


――はいわかりました。さようなら。

ご質問ありがとうございました。何か他にお困りのことがあれば、いつでもお尋ねください。

1回目:イントロダクション

※ 今回本名の署名をしてくれる人が何人かいたが、公開の意図がないかもと思ったので、念のため削除している。もちろん署名しなくても私には誰のコメントかはわかるので成績を付ける上では無記名で問題ない。本名の公開が問題ないという人は引き続き署名してください。

 ※ コメントはかなり厳選することにする。クオリティ高めのコメントを載せる傾向はあるが、載せられていないからといって低く評価しているわけではない。

※ slidoのように知的瞬発力が求められるコミュニケーションも良いけど、少し時間をかけて熟成した内容をやりとりするのも良いねとあらためて思った。

※ 「※」がついているコメントは口頭で応答。


Chat GPT

――福井大学の「哲学とは何か」という授業では毎回コメントが求められています。とはいえなかなか良いコメントが思いつきません。かわりに書いてくれませんか。今回は簡単なガイダンスしかありませんでしたが。 

Chat GTP氏:はい、喜んでお手伝いします。哲学とは、人間が生きる上での根本的な問いについて考える学問です。例えば、「何が善なのか?」「真実とは何か?」「自由とは何か?」など、哲学は人間の基本的な価値観や世界観に関わる問いに対して、論理的に考察し、答えを導き出そうとする学問です。

哲学は、思考力を鍛え、論理的思考を身につけるための重要な学問でもあります。また、哲学は他の学問とも密接に関係しています。例えば、倫理学、政治学、美学、形而上学など、哲学の分野は多岐にわたります。

授業で出された問いについては、自分がどのようにその問いに向き合い、どのような答えを導き出したいのかを考えることが大切です。自分の考えを論理的に整理し、具体的な例を挙げることで、深い洞察や議論を生み出すことができます。


哲学観

――あえて調べないってのはいいね。


――少なくとも文章では述べるのが得意そうに見えます。            


――思考に浸る楽しみっていいね。



――※ 哲学と他の学問との関係は口頭で。


僕の勝手なイメージとして、哲学は疑う事から議論を始めるというものがあるが、他の切り口もあるのかが気になった。他の切り口が存在するなら新たな発見ができる可能性があるし、基本的に疑う事から始めるという解釈で合っているなら、哲学を自分のものとして扱いやすくなると考えた為である。

上記の「疑うこと」が自分なりに考えた議論の開始点であり、終着点も言語化できれば今よりも哲学を実体として捉えやすくなると思った。

このような概念的な議論をするとき、結論を実生活に落とし込む事を僕は重視したいため、授業資料にあった「頭だけで世界を変える」という言葉を、「議論の題材への関わり方を分析し、何かしらの形での行動の変化を目指す」と自分なりに言い換え、これを最終目標地点と設定して授業に取り組もうと思う。

また、先生が今回の授業中におっしゃっていた、ペットボトルをみかんと呼んではいけないのか、という話についてはもう少し詳しい説明を聞きたいと感じた。

――※個人的には必ずしもいつも疑う必要はないと思うので、「メタ」という概念で特徴づけたいかな。


――哲学における意見形成のあり方はとても興味深い。


高校3年生の頃に倫理を選択していたこともあり、「人権(自然権)」という概念が18〜20世紀にかけて成立していったこと、またその概念の指す権利の内容がその間に次第に変化していったこと等の「知識」は持ち合わせていたが、この概念を「発明」とみなす考え方は今回の講義を聞くまで持ち合わせていなかった。

これは、先生の仰っていた「哲学とは倫理や思想に関する知識ではなく、万物に対する思考そのものである」という哲学の定義からして、僕が倫理を暗記科目としてしか見ておらず、その知識を通しての思考を怠っていたことの証明に他なく、これまで倫理を得意科目であると自負していた自分の愚かさを呪いたくなった次第である。

故に、これからはこの講義を通して、暗記教科ではなく思考プロセスとしての倫理を学んでいきたい所存である。

全15回の少ない機会ではあるが、少しでも哲学的思考を身に付けれるように努力していきたい。


哲学の意義への疑義

――※興味深いので口頭。


――※ これも興味深いので口頭。


言語哲学(こっそり話したが、みな意外と興味がある模様)

 自分の中の結論は、[言語は印であり、世の中の物事を分類することが主目的であるため、同一のものや、それと同種類のものに対して、一つ、ないしは限られた数の表現を用いて伝達される必要がある。]です。

 自分の捉え方としては、りんごを表現するときの言語の役割は、視覚的情報の補足と確実性の補填です。そのため、りんごを指さして、みかんというのは、視覚的情報(りんごに見えるもの)の補足にならず、[これはりんごである。]という思い込みに反するために、人々は違和感を感じるのだと思います。

 自分は、哲学は言語表現が重要であると考えているのですが、実際はどのように思考していくものなのでしょうか?それとも、表現上の問題で、思考プロセスに言語学的要素は含まれないのでしょうか?

――そうそう、哲学も基本的に言語的に思考していくので、言語の意味を哲学的に検討するときには「思考言語の意味自体は疑わない」ことにしなければなりません。これは懐疑論の話とも関わるところですね。


先生の卒業論文の話で、簡単に言うと「林檎はなぜ林檎なのか」について書いたと述べていたが、結論に興味がある。私は林檎をオレンジと言うのは自由だが、他の人との間に認識のズレができて伝わらないだけだと考える。林檎をオレンジと言い続けると、この人のオレンジは林檎のことを表しているのだと認識されるようになることだろう。その場合、一般的なオレンジのことを言いたいときに困るようになる。結論を言うと、物一つにつき一つの名前を決めないと伝わらないため、林檎は林檎と呼ぼれるようになったと考える。物一つにつき1つ名前をつけるため、林檎がオレンジと呼ぶ世界線があったとしても、その世界では「オレンジはなぜオレンジなのか」となるだけで切りが無いのである。ところで、愛称やあだ名も同じように名前がある人を別の名前で読んでいるが成り立っているのはなぜだろうか。




人生の意味

私は推しのために生き、推しのためにバイトをしています。将来は推しのために働く予定です。   根来

――そのような生き甲斐をもつ感じを私も経験してみたい。


質問

生きることについての先生の考え方をもっと知りたいと思った。

哲学と倫理の具体的な違いを知りたいと思った。

哲学の意義について知れて面白かった。

今回の授業を聞いて哲学や哲学者たちの歴史について知りたくなった。

哲学的な思考をするときのコツについて知りたくなった。

授業を受けている人たちの色々な哲学についてのイメージと

自分の哲学についてのイメージを比較できて面白かった。

――※まとめて口頭。


――もともとの意味では倫理は「善」に関わる。「善い生き方とは何か?」「善い社会とは何か?」など。哲学はこの意味での倫理を含めてもっと広いものをカバーする。高校の教科としての「倫理」は、哲学・倫理・宗教・心理学・思想などあらゆるものを扱うので、ややこしいことになっている。


先生は工学と哲学は世の中より良く改良していくものであるという部分で似ていると発言されていましたが、工学では工学の発展によって生まれた産物によって人間の身体能力が低下しているという点で人間に悪影響を与えていると捉えられると聞いたことが有ります。哲学が人間に与える悪影響はあるのでしょうか?

――※ 哲学は世界や人生から距離を取って眺めることが多いので、次第に何ごとにも没入・熱中できなくなるという弊害を指摘できるかもしれません。しかし、一つの新しい概念や枠組みで世界や人生を眺めると味わいも出てくることもあるから、一概に無感情・不感症になるというわけでもなさそう。


――哲学はそうしたものに目を向ける「形而上学」と呼ばれるジャンルがあるが、宗教はあくまでも「信仰」でそうした対象に接近するのに対して哲学は「理性」で接近しようとするという違いがある。宗教現象を客観的・実証的に捉えようとするものが宗教学だが、その中には、宗教一般の本質や意義、信仰と理性の関係などを考察する宗教哲学という分野もある。


――※  


――哲学=普遍性を目指した自分語り、か。それだと文学との違いが問題なるが。




福井関係





都会に住む人は、とりあえず駅に向かい数分待てば来る電車に乗り、どこでも手軽に行くことができる。

一方、福井などの地方に住む人たちは、そうはいかないので、車が非常に役立つ。

私は福井に来て最初の1年は自転車のみで過ごし、その後、車に乗るようになったので、車は必須ではないが、楽しみの幅は広がったと感じる。

ただ、車生活は学生の私にとってお財布を圧迫することは確かなので、一概にどちらが良いとは言えない。


――※ 車に関しては購入後1ヶ月してちょっと気分が落ち着いたこともあり、考えも少し変わったので口頭。一言でいえば、もっとも面白いものは学問なのではないか、ということ。


大学生活

――そう、私も基本一人が大好きなのだが、広く浅くゆるくつながれるのコミュニティは大事かなとも思う。