1. 教会員による教会運営
かつては牧師が教会を運営し、教会員に教えるのが普通でした。しかし次第に教会員が高齢化し、若い人たちが来なくなり、教会自体の運営自体が困難になってきました。すでに閉鎖された教会も少なくありません。
そんな中で、どのように教会を維持し、また再生することができるのか? 一つは教会の運営を教会員が自ら行うことではないでしょうか? プロテスタントはルターによって始まりましたが、その一つに万人祭司という考えがあります。カトリックとは異なり、信仰者であるなら皆が奨励(証し/説教/宣教)も、牧会(教会員相互の交わりや病者の訪問、とりなしの祈り)さらに伝道も行うことができます。
そこで普段の教会運営は教会員が分担しつつ行い、必要に応じて説教者を招請し、また聖礼典(洗礼と聖餐)を求めることがこれからの教会に求められているのではないでしょうか?
2. 隠れた牧師の活用
一方牧師の側にも、さまざまな事情で教会を離れざるを得ないことがあります。端的な理由として本人の病気があります。専門医のいる病院から遠く離れることができないことから遠隔地の教会近くに転居することが困難な場合です。これは牧師の家族に対しても同様のことが起こり得ます。それは家族の介護が必要なことがあるからです。
しかも近年赴任した牧師が数年で辞任するケースも増えています。一般社会の転職事情と似たようなことが教会にも拡大しています。一つは適応障がいの類です。既存の教会員あるいはかつての牧師との比較によって世代間のギャップが大きく、教会の期待に新しい牧師が応えることが困難なことがあります。それでも相談できる牧師が近くにいればまだ良いのですが、一人で抱え込んでしまうこともあります。またもう一つの理由として、経済的な問題があります。教会員の減少は謝儀の減少にもつながり、牧師家族の生活、特に子どもらの養育において将来的な見通しが立てられなくなることがあるからです。
しかしながら献身者の熱意は、たとえ教会で奉仕できなくとも無くなったわけではありません。自活しつつ、それぞれの生活の場において、また福音のために何とか仕えたいと願っている牧師がいることも確かです。また引退した牧師も健康が支えられる限り奉仕したいと願っている方々もおられます。
このような牧師が活かされるよう表に出てくるなら、日本の教会の牧師不足はこれからも起こり得ないのではないかと思います。
3. 教派や教団の違いを超える
かつて日本に最初プロテスタント教会が宣教師らによって外国からもたらされた時に、日本では教派を無くそうとの理念がありました。しかしながらその後外国の宣教師らは自分たちの教派の伝道を進めた結果、日本には多数の教派がそのまま移植されることになりました。第二次対戦前、体制翼賛のため宗教団体法が策定され、この線に従って日本のプロテスタント教会は日本基督教団に一つになり、神学も一つのところに集約されました。しかしながら敗戦により、教団を離脱する教会が相次ぎ、外国のー特に米国の教派がそのまま日本に置かれ、戦後日本での宣教を始めた教派もあって、多数の教派教会や単一教派教団が日本には存在するようになりました。ただそれぞれの団体の教会員数はいずれも減少し、それぞれの教派の神学校や聖書学校もほとんど入学生がいないか、あるいは中高年のリタイヤした人たちが第二の人生を目指して献身すべく学んでいるような状況です。
それぞれの教会には成立した歴史的な事情があり意味があります。これらの伝統を大切にしつつも、教派や教団の垣根を越えていく努力も必要だと考えます。
お互いの違いを強調し、自教派の優位性をクリスチャン人口の多い外国では行っていることがあります。しかしわずかしかクリスチャンがいない我が国でこのような論争とお互いをけなし合うことは無意味なことであり、サタンにつけいられる隙を自ら提供しているようなものです。
主流派、福音派と大別することができるとしても、さらにそれぞれの中にもグラデーションが存在します。しかしながら本物のクリスチャンは方法や手段に違いはあっても、どんな教会でも「聖書は神の言葉である」と信じ、真剣に読み解き、また解き明かそうとしていることには違いはありません。「すべての人を照らす光」であるイエス・キリストの福音を届けたいと願っているからです。
4. 当ミニストリーの運営方針で大切にしたいこと
「聖書、讃美歌、祈りなどは教会の伝統を尊重します」「教派の違いによる相違点は原則触れません」「担当牧師には補佐する他の牧師が支えます」
これらは上記の今日的な教会の現状を踏まえたことだからです。