宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一しそれに由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。・・・・略・・・
現生利益のために神に祈るごときはいふに及ばずいたずらに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。
されば歎異抄にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」と言ってある。またキリスト教においてもかの単に神助けを頼み神罰を恐れるというごとき利己心の変形に過ぎないのである。しかるに予は多くの人のいふ如き宗教は自己の安心のためであるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考えを持っておるから進取活動の気象を滅却して小欲無憂の消極的生活を持って宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心のために宗教を求めるのではない。安心は宗教よりくる結果にすぎない。宗教的要求は我々の望まんと欲して臨む能たわざる大いなる生命の要求である。厳粛なる意思の要求である。宗教は人間の目的そのものであって決して他の手段とすべきものではないのである。 善の研究p181岩波文庫
「善の研究」は、西田幾多郎氏による日本の哲学書で、真の実在や善、宗教、神について探求しています。真の宗教とは何かがよく理解できます。つまり、最初の5行は弥陀の本願力によって煩悩を断ぜずして往生を得るということですね。自分の煩悩が見えてくれば、いや見させてもらえれば、如来の救済が始まってるということですか。そう味わっております。
前進と後進
自分の力で片付けているのではない、因縁によって片付けているのだというふうに考えることは自分の腕が承知しない。
二つの手を開いて因縁の上に大の字になって寝てみよ。みえも外聞も恥も醜さも、一切さらけ切出して、仰向けに寝てみよ。今までの窮屈はすっかり消え。身を水の中に投げ捨ててみよ、水が身を浮かしてくれるぞ。
と言われてもなかなかそうはいかぬ。自分の力で念仏が口に出るのではない。出る因縁がなければ称名しようと思っていても出ぬでありましょう。称名は自分の力で出るのではない。因縁の中から出てくる。
そういう因縁をありがたい因縁として感受するのは信知であります。つまり「如来様からの頂いた念仏」、「回向された称名」と感受、信知する、それはまことに有難い知り方であり、明るい会得であります。
一切を因縁の働きと見る。これは太鼓橋の真ん中に来たところ、橋の孤の頂点に立ったところです。そこで懐手して何事も成り行きに任せるという態度に行ってはそれは宿命感に落ちたものであって、橋の真ん中から後戻りをするものであります。
それを如来様の回向としていただき他力一乗の自由人にになるならば、まさに太鼓橋を前へ進んでわたり終えたところであります。
面白いではありませんか。ありがたいではありませんか。他力一乗とは自由の人、解放の人になることであったとは。それは努力と前進の人に生まれ変わることでありました。
楽に生きよ、光に生きよと如来様は仰せられる。なぜ私たちは我と我が身を苦労多くさせているのでしょうか。 「楽な生き方」、110ページ、本荘可宗著、百華苑出版
これは若いころからのお気に入りの本です。真夜中に目が覚めた時に読むと、いつの間にか眠ってしまうんです。
人生そのものの問い
日々の暮らしのなかで、人間関係に疲れた時、自分や家族が大きな病気になった時、身近な方が亡くなった時、「人生そのものの問い」が起こる。「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」。
この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。
目の前に人生の深い闇がロを開け、不安のなかでたじろぐ時、阿弥陀如來の願いが聞こえてくる。
親鸞聖人は仰せになる。
弥陀の誓願は無明長夜むみょうじょうやのおほきなるともしびなリ
「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火となる。この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、
この問いに確かな答えが与えられる。
「拝読 浄土真宗のみ教え」(改訂版)2頁。本願寺出版社
仏教の真髄を現代人に分かりやすく書かれている。
法事や葬儀のときの法話の前に拝読しています。
何度拝読しても新鮮な気持ちになれるページです。