J231240384
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Listening to the Dharma is to listen with your true self.
自分をきくというのは難しい。それぞれが開法を重ねる中で答
えを探してほしいのだが、まず自分という中にも四種類の自分が
あるのではないか。
一つ目は、他人から周知され、自分でも知っている自分。
名前、年齢、出生地、性別、職業など相手も自分も共通で認識
している自分だ。
二つ目は、自分だけが知っている自分。
明るく振る舞うけど心が悲しみで満ちていたり、お金持ちの振
りをするけど財布が空っぽだったり、周りからは気が強いと思われているけど、本当はとても繊細ということを自分だけが知っている。相手には見えない自分だ。
三つ目は、他人にしかわからない自分。
小学生の頃、ダイアナというあだ名の女子がいた。本人はダイ
アナ妃に似ているからそう呼ばれていると思っていたが、実は、鼻
の穴が大きいからダイアナというあだ名がついていたのだ。この事
実を本人は知らない。自分はわからず、相手が認識している自分だ。
四つ目は、自分も他人も知らない自分。
実は、この部分が一番大きいのかもしれない。
そもそも、両親を緑として生まれたこと以外、どこからどうい
う経緯生まれてきたのかもわからない。科学が進歩して人体構造 や心の構造は解明されてきたけど、解明されればされるほど精巧な
コンピュータを超えたことが、この体の中で起こっているとわかる。
また理屈がわかればわかるほど、何が私を動かしているのかという
不思議さは増すばかりである。
仏さまの言葉というのは、自分も他人も知らない自分に関わっ
ているのだ。
お念仏を喜ばれた宇野正一さんが「月見草」という詩を書かれ
ている。 「今、今晩は、今晩はと言って咲いた。長い、長い、長い間、
何と言って咲こうかと考えていたのだろうな」
ご本人がその解説を、
「月見草は、おおよそ晩の六時に開花して朝の八時頃に萎む。
しかし花のいのちを考えると、去年咲いたものが今年咲いたのでは
ない。その前その前その前を、いくら考えても及ばない」
とご教示くださる。
私が私として現れているのも、誕生日を起点として何歳と数え ることもできるし、長い、永い時間を経て現れたともいえる。長い年月をかけて生死を繰り返し、ここにたどり着いたともいえる。それは途方もない時間、迷い続けてきたことの証明でもある。
この私に対して阿弥陀さまは「必ず救う」と叫び続けてくださる。なぜ呼び続けるのか? なぜ私をめあてとしたのか?聞法とは、そういう仏さまの想いを聞くことにより、私がどういう存在であるのか。そして、その私がどう救われていくのかを顕らかにしていくことである。
心に響くことば (本願寺出版社) より。