現在、「哲学対話」は、大学や研究機関だけでなく、中学校や高校、さらには地域コミュニティや企業にも広がってきています。これは、「自分の経験をもとに話す場」が社会に求められている証拠とも言えそうです。哲学対話が「経験を共有しながら考えを深めていくもの」だとすると、これからもどんどん広まっていくことは、とても大事なことだと思います。

 ただ、私たちがやろうとしているのは、ちょっと違うアプローチです。日常生活の中で、ふと「なんでだろう?」と疑問に思うことってありますよね。でも、ある人には疑問に思えることが、別の人にはまったく気にならないこともよくあります。これって、当たり前のようでいて、実は当たり前じゃないのでは? そこで、こう考えてみました。「なぜその人にとって、それは『問い』であるのか?」と。もし、こういう問い方ができるなら、「『問い』を共有する」という新しい可能性が見えてくるかもしれません。経験を共有するのではなく、『問い』を共有すること。これが私たちの目指すところです。『問い』を共有することで、私たちの思考はもっと深まるのではないでしょうか。

 でも、ここで大事な問題が残ります。『問い』をどうやって共有するのか? 私たちは、『問い』を美術作品のように扱うことで、それを実現しようと考えています。美術館を思い浮かべてみてください。そこにある作品は、いろいろな人が、それぞれの視点で鑑賞しますよね。鑑賞者は自由に想像し、解釈できるし、作品のタイトルやキャプションを読めば、作者の意図も知ることができます。でも、作者の意図を知ったからといって、自分の解釈が間違っていたことにはなりません。 むしろ、作者の意図を知ることで、自分の解釈をより深めたり、別の視点を持てるようになったりするんです。

 この美術館での体験を、『問い』という次元で再構成できるのでは? 私たちはそう考えています。そのために必要なのが、『問い』を共有し、考えを深める場。つまり、「『問い』の鑑賞会」です。この鑑賞会を通して、私たちひとり一人が新たな思索に漕ぎ出していくことを願っています。