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【第37回 日本ソール・ベロー協会大会のお知らせ】
日時:2025年9月6日(土)午後1:00~1:40
「総会」(ZOOM による): 会長 鈴木元子
司会:篠 直樹(関西外国語大学)
ベロー協会「ニューズレター」から転載
会 長 挨 拶
2025年7月 鈴木 元子(静岡文化芸術大学名誉教授)
暑い日々が続いております。皆さま、お変わりございませんでしょうか。
この半年以上、『ソール・ベロー傑作短篇集』(仮)の出版準備のために全身全霊を注いで参りました。そのため、諸連絡が遅くなりましたことを、お詫び申し上げます。
唐突ではありますが、この大著を出版できることの喜びと、また、自分自身の年齢や体力等を考えて、今年度をもって、会長の職を辞することに致しました。
代表理事(2015年10月~)及び会長職(2020年4月~)にあった約10年間、本を何冊か出版することができましたし(『彷徨える魂たちの行方』、『ソール・ベローともう一人の作家』、『ソール・ベロー 都市空間と文学』、『ユダヤ系アメリカ文学のすべて』、『ソール・ベロー傑作短篇集』〈仮題、年内出版予定〉)、若手研究者の参加を積極的に呼びかけ、また組織もそれなりに整えることができました。近刊『ソール・ベロー傑作短篇集』(仮)も予定通りに進んでおり、現在、小鳥遊書房の高梨さんがゲラを読んでくれています。本文だけで550ページを超すそうです。
そのようなわけで、来年度から人事が大きく変わります。新会長のもと、新体制が始まるわけですが、その前に、まず9月6日のZOOMによる総会で人事案を提示致しますので、是非ご承認くださいますよう、心からお願い申し上げます。
これまで長きに渡り、皆様方からご支援とご協力をいただきまして、誠にありがとうございました。
ベローらしさがよく分かる―“Religious Enterprise”という、ぶれない軸
Gerald Sorin, Saul Bellow: “I was a Jew and an American and a Writer”
Bloomington: Indiana University Press, 2024. xii + 583 pp.
岩橋 浩幸(近畿大学非常勤講師)
ベローにまつわる研究書の中から、どれか一冊選ぶとしたら? 白状すると、そう聞かれた時に真っ先に思い浮かんだのは、HerzogやMr. Sammler’s Planetを上梓した際にベロー自身がよく口にしていた、「生きることは “Religious Enterprise”である」という発言に着目し、何らかの激しい葛藤に苦しむ(例えば、Dangling ManのJosephであれば理性を取るか信仰を取るかで真っ二つに引き裂かれている)ことを通じて〈内なる声〉に到達する(あるいは到達することを目指す)主人公たちの姿を論じた、Ellen PiferのSaul Bellow: Against the Grain (1990)であった。『サムラー氏の惑星』(自分の人生を“Religious Enterprise”とするなら、転機となった作品であるとベローが述べている)から分析を始め、そこで得られた知見を、『宙ぶらりんの男』やThe Victimといった前期作品を論じる際に活かしていく手法は画期的だったし、作品論として申し分ないものであった。だが、その発行年から分かるようにThe ActualやRavelsteinは扱われていない点が惜しまれるし、余りにも有名な研究書であるため、既に会員各自がベロー作品と向き合う上で大いに役立てておられることと思う。
そこで、さてどうしたものかと思案投首だった時に評者の目に留まったのが、昨年発売されたばかりのSaul Bellow: “I was a Jew and an American and a Writer” である。著者のGerald Sorinはニューヨーク州立大学ニューパルツ校の教授で、ユダヤ系アメリカ人作家研究の第一人者として、既にIrving HoweとHoward Fastに関する作家論を世に問うている。そして、そのいずれもがNational Jewish Book Awardに輝くという活躍ぶりである。その彼が満を持して出したのが本書なのだが、ソリンによると、この本は、ベローがユダヤ人であり、そのことが彼の小説に大きな影響を与えているという一点に議論の的を絞ったものであり、James AtlasとZachary Leaderの網羅的で素晴らしい仕事を補完できるものなのだという。つまり、ベローがユダヤ教とどのような関わりや距離感を持っていたかということ、「ユダヤの伝統」(“Yiddishkeit”)の何を重んじ、それが作中でどう表象されているかを知ることで、彼の作品理解を深めることができるというのである。もちろんリーダーの本にもアメリカのユダヤ人としてのベローに関する重要な情報がふんだんに盛り込まれているのだが、それらの多くが注釈という形で触れられるに留まり、前面に押し出されていないため、改めてまとめる価値があるのだという。
ところで、評者は、「ユダヤの伝統」、ユダヤ人としてのベロー、彼の作品に見られるユダヤ表象といった宗教的なものに特段の興味関心がある者ではなく、The Adventures of Augie Marchの主人公の生き生きとした語り口と、実に多種多様な人や物が愉快に描かれていることに感銘を受けたことからベロー作品を読み始めて今日に至っている。だが、そうした表面的な付き合いから脱し、彼の小説とより深い関係を取り結ぼうというのであれば、是非とも知っておきたいことが本書には詳述されており、今まさに評者のような人々に必要な研究書であると感じた。その点で好感が持てるし、何より良いのは、著者が「序章」でアピールしているように、リーダーの長大な二巻本に比べれば遥かにコンパクトにまとまっていることである (2)。しかも、比較的平易な英文で書かれている。そして、そのことに加え、本書が秀逸なのは、焦点を絞ったベローの伝記という作家論の体裁をとりながら、実はしっかりとした作品論にもなっていることだろう。そのことは、ソリンが本書を “it was Bellow’s shimmering fiction, his extraordinary gift to us, that will remain his legacy” (453) と締めくくっていることから伝わってくる。また、ベローの生誕から死去に至るまでの出来事が概ね時系列順に語られ、各章ごとにテーマ(切り口)が設定されているが、それは、その年齢でベローが直面していたものであるのみならず、その辺りに発表された作品を読み解く上で重要なものにもなっている。
こうした本書の構成から分かるのは、ソリンもまた数多のベロー研究者同様、彼の小説はどれも極めて自伝的であるという前提に立っていることであり、だからこそ、ベローの伝記的事実が重要であり、中でもユダヤにまつわるものは外すことができないとして、そこに的を定めた本書を出したというわけである。ただし、ここで決して見落としてならないのは、彼がベローの伝記的事実を語るのは、作品理解を深めるためであって、どこまでが事実に符合し、どこからが作り話なのかを仔細に検討するための新たな材料にしてもらうためでは断じてないということだろう。そのことは、ベロー最後の小説『ラヴェルスタイン』(Allan Bloomをモデルにした登場人物であるラヴェルスタインを主人公に据え、その生き様を赤裸々に描いたことで物議を醸した)を論じるに当たり、“The search for Allan Bloom in the text often overshadowed the significance, substance, and implications of the novel itself” (441) と彼が述べていることから明らかである。これは、「あくまでもベロー作品は小説として、フィクションとして読まれるべきだ」という、Cynthia Ozickが兼ねてから口酸っぱく言っていることと同じであり、同様のスタンスを取るJames Woodの言葉を引用するなどして、ソリンはこの件に関する自身の態度を鮮明にしている。また、事程左様にベローの小説をメモワールとして読みたがる者が多いため、『ラヴェルスタイン』が発表された時、ベローの妻Janisがどれほど気を揉んだかということについてもソリンはしっかりと言及しており(440)、作品論でありながら、ベローの周囲の人間模様を浮かび上がらせることも忘れないというのは、見事という他ない。
さて、ではベローが重んじる「ユダヤの伝統」とは一体何か。全てを取りあげている余裕は紙幅の都合上ないが、その真髄は、『サムラー氏の惑星』を主に論じている “Chapter 11: Wealth, Fame, and Jewish Identity in 1960s America” の中で、次のように簡潔に述べられている。
[M]any of the values that thread their way through the novel are fundamental propositions (though not exclusively) of the Jewish world: a love of life and the rejection of despair; a belief in human survival under almost any circumstances; a powerful stress on rationality and intellect, part of a centuries-long tradition of scriptural exegesis; a decided preference for mitzvot—good deeds and right action—over faith or rumination; and a rejection of alienation, madness, or suffering as in any way enlightening, redemptive, or meaningful. (284)
こうした価値観を体現しているのが主人公Artur Sammlerであり、それゆえ、ソリンは『ハーツォグ』と並び、『サムラー氏の惑星』をベロー小説の中で最もユダヤ色が強く出ている作品と位置付ける。そして、著者がこの小説をそう捉えるのは、ただ単に、主人公がホロコーストの生存者であり、20世紀のユダヤ人の艱難辛苦が語られているからというだけではない。ホロコーストを真正面から描いたことに関して言えば、恐らくHannah ArendtのEichmann in Jerusalem: The Banality of Evilへの異議申し立てだったのだろうとした上で (290)、ソリンは、『サムラー氏の惑星』が出版された1970年という、60年代の総括をするに相応しい時期にベローがあえてホロコーストを取り上げたことにこそ目を向けるべきだと言う。つまり、Norman Mailerをはじめとするベローと同時代の作家たちがこぞってベトナム戦争に関するアメリカ政治を下敷きにした小説を出す中、ベローはあえてその流れに逆らって見せたわけで、それこそがまさにベローらしさであり、この小説が持つ価値の一つなのである。そして、ソリンは、ベトナム反戦運動という時流に次から次へと飲み込まれ、大学で騒ぎ立てる学生たちの多くは、その背後に自ら考え抜いて生み出した確固たる思想や信念を保持しているわけではなく、ただ単に時代の流れに身を任せているだけであり、彼らは、批判するのはもちろんのこと作中で描くにすら値しないという、ベローから発せられた痛烈なメッセージを読み込んでいる (282-83)。
さらに、『サムラー氏の惑星』の魅力は、 “what Bellow perceives to be their [his Jewish protagonists’] ‘Jewishness:’ a moral obligation to this world, an acknowledgment of what we owe one another” (292) を自覚し、次世代の精神的支柱となることで「善行」を継続しようとする主人公の生き様だけでなく、その気高き彼ですら無数の名もなき人たちに支えられてきたおかげで今があるということをベローがさりげなく書き込んでいることにあるのだと著者は続ける。具体的には、今にも息を引き取ろうとしている甥Elyaの元に主人公は急いで駆けつけようとするのだが、ユダヤ系アメリカ人青年Fefferと黒人スリの路上での乱闘騒ぎのせいで交通の流れが遮断され、乗っていた車が一向に前に進まない。そんな時に一体何が起こっているのかがサムラーに見えるようにと車を路肩に寄せて止めてくれた、この運転手にサムラーは借りがあるというのである(292)。恥ずかしながら評者は本書を手に取るまで、イーリヤの息子や娘の皮相浅薄ぶりとのコントラスト効果で際立つ主人公の円熟ぶりに感じ入っていただけで、この運転手の心遣いが作中で果たす役割を特に気に留めることはなかった。こうした作品の具体的な注目点(新たな視座)を教示してくれていること一つとっても、やはり本書は焦点を絞った伝記あるいは作家論であるのみならず、作品論でもあると言って差し支えないだろう。
では、肝心の、作家ベロー自身の「善行」とは何だったのだろうか。それに関し、ソリンはベローが作家になると決意した時の「信念」(“to be a writer, to be ‘the representative of beauty, the interpreter of the human heart, the hero of ingenuity, playfulness, personal freedom, generosity and love.’” [8])を貫き通したことにあるとしている。この信念と「ユダヤの伝統」を縒り合わせていく中で彼の中に生み出された、ユダヤ系アメリカ人作家としての「使命」(自身が生きるこの世界に対する彼なりの「恩返し」であり、それはもちろん各作品の主人公の生き様に反映されている)が “to separate the essential from the trivial, the soul or self from the constructed personality, the imaginative from the conventional, growth and learning from what passes as higher education” (452) であり、それを実践する人生を“Religious Enterprise”と捉え、ぶれることなくその「使命」を果たし続けたというのは極めてベローらしいとして、ソリンは本書を結んでいる。時代の変化が早く、日々大量の情報に晒され、自身にとって本当に重要なものは何か、自分の魂はどんな声を発しているのか、充分に満足のいく人生を送るために忘れてはならないことは何かといったことが分からなくなってしまいがちな現代人が、今こそベロー作品を読む意義と価値を教えてくれる一冊と言えるだろう。
もっとも、ベローはそれだけの強い「信念」と「使命」感の持ち主だったわけだから、親族を含む周囲の人たちと幾度となく衝突を繰り返すわけだが、そうした作家のエピソードもリーダーの大著に負けず劣らず盛り込まれており、この一冊だけで楽しめるように仕上がっている(以前より評者は笑い皺の浮かんだベローの写真が好きなのだが、それも掲載されている)。最後に一つだけ気になったのは、本書の “Sources and Selected Bibliography” にもIndexにも、同じく“Religious Enterprise” という視点から、簡単には流されない主人公たちの姿を分析しているパイファーの本が出てこないことである。文献リストの“Secondary Material”を論文集と作家論に絞ったがゆえのことであろう。これも本書を網羅的なものにしないために著者が取捨選択を行なった結果であると考えれば理解はできるのだが、自分の頭に最初に浮かんだ研究書が出てこなかったことは悔やまれる。本書がきっかけでベロー研究に足を踏み入れる人たちも今後出てくるであろうから、主要な作品論もリストに盛り込むべきだろう。だが、こうしたことは本書の作家論と作品論の両立という偉業に比べれば枝葉末節であり、読むべき価値を一ミリたりとも減じるものでは全くないということは申し添えておく。
徳永暢三訳『モズビーの思い出』とベローの書簡
伊達 雅彦(尚美学園大学教授)
1992年、デレク・ウォルコット(Derek Walcott, 1930-2017)のノーベル文学賞受賞の報に接した時、私は自宅の部屋でひとり床に突っ伏していた。徳永暢三先生の眼力に凄さにひれ伏していたのである。
デレク・ウォルコットは、ご存知のようにカリブ海諸国出身者として初めてノーベル文学賞を受賞したセントルシアの詩人である。今でこそ(受賞後、セクハラ騒動も散々起こしたのでそのせいもあってか)彼の名は広く知られているが、受賞以前の日本ではほとんど無名に近かった。かくいう私もウォルコットを知ったきっかけは徳永先生だった。「伊達君、ウォルコットっていう詩人は、これがねえ、まあなかなか面白いんだよ」と。実際に何篇かの詩を読んで「むむむ、そうかも。」とは思ったが、私にはそこまで(後にノーベル賞を取るほどまで)「面白い」とは正直思わなかった。しかし、その数年後、ウォルコットはノーベル賞を受賞したのである。「この人はもっと読まれる詩人になるよ」とさらりと語っていた徳永先生の「予言」は見事に的中したのだ。評価の定まった作家や昨今話題の作家の作品を後追いで読んで、したり顔でどうこう言うのではなく、未評価の無名に近い作家を掘り当ててこそ真の文学研究者だ、と心底思い知った。
徳永先生に初めてお目にかかったのは私が20代の半ばの頃(徳永先生がまだ大妻女子大学で教鞭を取っておられた頃)だったが、そんな駆け出しの青二才にも先生はいつも対等に接して下さった。(パワハラやアカハラという言葉がなかったあの時代、怯えるもののない「偉い先生」たちはだいたいが「偉そうに」上から来た。)ある時、徳永先生と飲みながら「先生はどうして(散文ではなく)詩を専門に選んだんですか?」と素人みたいな質問をしたことがある。中途半端に「偉い先生」なら「愚問だね。」と冷笑して一蹴しそうな質問だが、先生は「そりゃ短いからだよ。小説だと1つ読むのも大変だろ。詩だと、1篇すぐ読めるからねぇ。」とニコニコ笑って仰った。(私が専門を詩に変えようと思った唯一の瞬間だ。)だが、言葉が極限まで削られた詩を専門にするには、言葉に対する直観や嗅覚が無くてはいけない。少なくとも散文を相手にするより詩を相手にする方が、数段研ぎ澄まされた語感が必要とされるはず。なので「やっぱり私には詩は無理ですね。はは。」と徳永先生に申し上げた所、私がベローの愛読者であることを知っていた先生は「でも、ベローも面白いよねぇ。」と(気を遣ってか)仰ってくださった。文学的示唆に加え、徳永先生にかけて頂いたさり気ない言葉の数々が、その後の私をどれだけ救ってくれたか分からない。
そうした徳永先生のお仕事は、詩の分野にとどまらず広く散文にまで及び、1970年(昭和45年)に新潮社から『モズビーの思い出』の翻訳を上梓されている。“Looking for Mr. Green”, “Leaving the Yellow House”, “The Old System”, “The Gonzaga Manuscripts”, “A Father-to-Be”, “Mosby’s Memoirs” というベローの主要な短編を翻訳した短編集である。その「あとがき」にもあるように、徳永先生は翻訳にあたって出て来た疑問をダメ元でベローに直接書き送ったそうだ。すると先生も驚かれたことにベローから、その質問状に対する返事が来たとのこと、私も「へぇ、ベローって意外に親切なんですね。」と多少失礼な感想を言った。そして、その時たまたま“The Gonzaga Manuscripts”の論文を書いていることを申し上げたところ、関連部分のベローの肉筆のコメントが入った貴重な書簡の一部(1枚)を郵送で送って下さった。
その後何年か経って、徳永先生が鬼籍に入られてからしばらくたったある日、ひょんなことからS書房という古本屋のサイトを見ていたところ「ベローの書簡」と題されたアイテムを見つけた。説明には『モズビーの思い出』に関する翻訳者とベローの往復書簡とある。おそらく徳永先生とベローの書簡だろうと見当をつけた。値段は実に30万円。法外だ。研究者の足元を見ている。温厚な徳永先生でもご存命ならさぞかしお怒りになられたことだろう。昔、学部学生の頃、安東伸介先生が怒り心頭で「K書店は学問の敵だ!」と英文学史の授業中に叫んだ声が、一瞬耳元で蘇った気がした。そう、古本屋は往々にして学問の敵、研究の桎梏となる。特に専門書の古本屋ほどたちの悪いものはない。
この駄文を書くために昔見たS書房のサイトを再訪すると、「ベローの書簡」の表示は既になかった。誰かが買ったのかもしれない。30万円もの大枚をはたいて。でもそれは完全版ではない。残念ながら。なぜなら徳永先生からの1枚は今も私の机の中にあるからだ。
(了)
日本ソール・ベロー協会編『ユダヤ系アメリカ文学のすべて:十九世紀から二十一世紀』
小鳥遊(たかなし)書房、2023年。
【 目 次 】
はじめに ユダヤ系アメリカ文学のイメージをつかむ (鈴木元子)
第Ⅰ部 論文編――ユダヤ系アメリカ文学の主要作家の真髄
◎エイブラハム・カーハン
社会進化論的視点からみた『デイヴィッド・レヴィンスキーの出世』 (大工原ちなみ)
◎ポール・ボウルズ
ユダヤ系アメリカ人ポール・ボウルズとその周辺 (外山健二)
◎アーウィン・ショー
『夏の日の声』と反ユダヤ主義
――「ユダヤ系アメリカ人作家」としてのアーウィン・ショーの現在―― (伊達雅彦)
◎バーナード・マラマッド
マラマッドとユダヤ系文学の帰還型主人公(ヒーロー) (大工原ちなみ)
◎アルフレッド・ケイジン
『ニューヨークのユダヤ人たち』
――ケイジンの描くニューヨークとユダヤ人作家たち―― (山内圭)
◎ソール・ベロー
〝言語、ユーモア、アメリカ〟
――『ユダヤ短篇名作集』と『ラヴェルスタイン』から―― (鈴木元子)
◎グレイス・ペイリー
グレイス・ペイリーのナラティヴ
――「死語で夢見る者」の間テクスト性をめぐって―― (大場昌子)
◎ハイム・ポトク
『選ばれしもの』にみる文化衝突と《目》の象徴性 (鈴木元子)
◎フィリップ・ロス
理想が裏切られて〈苦悩〉に沈む主人公 (岩橋浩幸)
◎ポール・オースター
ポール・オースター、または「書くこと」への執着 (林日佳理)
◎ポーラ・ヴォーゲル
劇作『ミネオラ・ツインズ』の隠れたメッセージとは (村田希巳子)
◎ジェームズ・マクブライド
ユダヤ人とカラー・ラインの問題
――『水の色』に描かれるユダヤ人とアメリカの人種関係―― (本田安都子)
◎マイケル・シェイボン
曖昧さという戦略 (坂野明子)
◎ネイサン・イングランダー
困難な倫理
――『地中のディナー』における閾の詩学―― (篠直樹)
◎アイザック・アシモフ/エドゥアルド・ハルフォン
アイザック・アシモフとエドゥアルド・ハルフォンの〈エスニック〉なユダヤ的遺産
(ジャック・ライアン/外山健二訳)
◎ジョナサン・サフラン・フォア
『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』における「神話世界」の詩学 (篠直樹)
第Ⅱ部 解説編――ユダヤ系アメリカ文学の広がり
◎エマ・ラザラス
ユダヤ系アメリカ文学のパイオニア (大工原ちなみ)
◎アンジア・イージアスカ
「贅沢な暮らし」と『パンを与える人』 (本田安都子)
◎アーサー・ミラー
『荒馬と女』と『セールスマンの死』に見る〈はぐれ者たち〉 (伊達雅彦)
◎シンシア・オジック
『ショールの女』
――ホロコーストとその余波―― (鈴木元子)
◎イェジー・コジンスキー
『異端の鳥』と『ビーイング・ゼア』 (伊達雅彦)
◎ニコール・クラウス
『ヒストリー・オブ・ラブ』
――彼らが「愛」について語るとき―― (篠直樹)
コラム
永遠のアンネ・フランク――世代・国境を越えて愛され続ける理由―― (上田雅美)
ソール・ベローの思い出 (半田拓也)
おわりに 各章の要約 (鈴木元子)