本資料は平成14年7月1日差出記録誌編纂委員会から発行され区民に販売配布された。【差出の記録】をスキャンして電子化したものであり、基本原文をそのまま電子化記載している。(表や図等一部は省略)
委員会メンバーは成澤榮一, 青木了 ,下條永一 ,磯野謙介, 徳永辰雄, 青木茂, 青沼武光, 金井榮, 蟻川郁夫, 小池得夫, 寺沢幸雄, 青木健恭, 青木金治郎, 荒井常男, 小池得夫, 山田明雄, 刀根川邦彦, 青木昭男,(氏省略)で 参考文献は 安茂里史、安茂里100年、久保寺今昔、 安茂里筆塚、安茂里パレット祭のあゆみ、安茂里小学校百周年記念誌、第三長野市の文化財、 長野市区長会誌である
古代の差出
1.石器
安茂里に最初の足跡を残したのは、 およそ 15,000 年前頃の古代人の石器である。 発見された場所は差出の萩平(差出中心地から北の山へ約4km、 標高750m~800m) である。 槍 先形をしている石器で尖頭 器(図参照)という。 古代人が 猟の際、 棒 などの先に 固定して物を突きさす道具である。また 作の始まった弥生時代 (2300-1700年前)の稲作に使われたという石器の積み具 (石包丁) (図よしみず参照) が、 萩平の東隣りのよし水から出土している。 なお、萩平地には明治時代に人家が6軒あった。
2.古墳
安茂里には多くの古墳があるが、 記の萩平、水地籍に古墳群があった が、今は林道開設で消滅している。また、香花台団地の背後にある小高い 円い山には 「穂高山古墳」がある。この山頂の平地には、安茂里の当時の寺氏の武将穂高三重良の があったと伝えられている。 中には 同氏の供養塔がある。更に差出北公民館の西 武井家の敷地内に小高い墳丘があり 「三合塚古墳」という。頂きには、八幡社の小さな社殿がある。
3.戸隠への道
杏花台団地の北に 「山の神」 という 小さな社殿 (毎年8月下旬に差出北区 でお祭りをしている) があるが、そこ から山道 (市道安茂里120号線)と なり、 萩平地籍を通り北の戸隠へと通じている。
天安2年(858年)に窪寺 (安茂里)に創建されたという月輪 (月林) 寺という大寺は、その初めは戸隠領(戸隠村) だったと云われている。 従って戸隠との関係は深く、 萩平を通っての人の往来が多かったと思われる。
安茂里史に小字以外で現在も使われている地名の記載があるが、 差出分で19の地名がある。 このうち大半は萩平を通って戸隠への道の地名である。この地名は杏花台団地北の山の神社を通過して、山道にそい、一本松、七曲 (道が七つに曲がっている)、代官平、 矢けづり、牛首、三笠山(弘法大師 祀ってある)、雲雀山、吉水(葭水)、小萩平、以下萩平の付近に、舟久保 (金地)、吉池、雨池(菖蒲池)、刃峰、舟繁石、鬼掻石、落石、夕日、鏡平等の地名が現在も使われている。
(by 青木 了)
窪寺 (久保寺)の地名
現在の安茂里は、明治以降「安茂里 変遷図」(8頁)のような経過を経て 長野市安茂里となった。明治の4村合併で安茂里村となる以 前は、久保寺村又は窪寺村であった。久保寺と窪寺の呼び名は江戸時代(1601年~1867年) の中頃までは、多くは窪寺と、それ以降は久保寺と呼ばれている。両者の呼び名がどのような歴史的経緯で変わったのか不明である。
安茂里の地は、北に山嶺、南東に河川、南斜面には多くの沢が流れ、扇状地を形成し、古代から人が住み狩猟が行われ、早くから農耕が行われた。
鎌倉~戦国時代(1185~1573年) 我が国は戦乱の時代であり、善光寺 明羊平も安茂里の地を含んで多くの争いが 繰り返された。当時の城館跡として、旭山城、小柴見城、窪寺城、小市城(吉窪城)、深沢城等がある。
鎌倉・室町時代 (1185 ~ 1467年) 窪寺の地にいた豪族窪寺氏は、佐久の豪族滋野氏の出と云われ、佐久から 同延暦寺の荘園(貴族や寺社の私有地) (青木了)を管理、守護し徴税するための代官として赴任し、窪寺の地に城館を構えて名乗ったのではないかと考えられている。窪寺氏の後は、小田切氏が窪寺の地を領有したと伝えられている。
また、窪寺の地には、天台宗比叡山 延暦寺の末寺として月輪(月林)寺があった。 この寺は天台座主の慈覚大師 円仁によって、天安2年(858年)に創建されたという。境内地は現在の 安茂里小学校敷地を中心として、七堂伽藍が立ち並び、 60に及ぶ坊が連なり寺領は 1,000 石だったと伝えられている。
さて、窪寺の地名の由来は定かではないが
① 扇状地の窪んだ平らな地から窪平となり、前記の月輪寺があったこと から、窪寺となった。
② 月輪寺を「弘法の寺」(仏の教えを 弘める寺)といわれ、ここから窪寺の地名となった等いろいろな説が伝えられている。
(by 徳永辰雄)
差出 (指し出)の地名
差出の地は、 慶長10年(1605年) 以前は中御所 (漆田) と陸続きで、 耕地も中御所にあったと思われる。 また 金山沢(差出と小柴見の間の沢)の流れは昔は小柴見の東寄りを流れていたようである。洪水等により被害もあったのか、現在のように真直に流路を変えたようである。
また,安茂里の地は古墳時代以来交 通の要所であり、大宝年代 (701年~) には都からの道路網の一つ、東山道支道が通っており、差出も多くの旅人の往来があったと思わる。
差出の「差」は状態を表す語で「指」とも書く。 差出の語意は提出する、出す、さし上げるという語意からでているものと思われる。 また古代朝鮮語で「城」を「さし」と呼称していたとも 言われ、 差出の小字の竹ノ裏は 「城」 の裏という意味だそうで、 竹ノ裏は本堂 (月輪寺の跡地) の前にある土地で、 竹ノ裏か、差出 (東村、上村、 桜町 ) のうちに月輪寺の年貢や貢物を保管する倉があったものと思われる。
月輪寺は信濃における大社寺の一つ であったので、 多くの伽藍もあり、僧坊も多くあったと言われているので、消費する食料は大変な量と思われる。食料や年貢を取り扱う役人が差出に居住し、これを受け取り、倉に収納した ところから差出 (指し出)という地名 が生まれたのではとも考えられる。
また差出の南に米村という地籍があり、米村は米倉が訛った言葉と思われ、 差出には差し出された物を収納する倉や、それを取り扱う役人も居住していたものと思われる。
差出の小字は昔は、差出(東村、上村、 桜町) 本堂 (月輪寺の跡地) 竹の裏 (胸坂、 沖中、五反田) 葭ケ淵(葭 ケ淵、金山沢尻、芝田) 町田島、 土場、 波柳、宮裏、 米村、 狐島、 萩平 (雨地、雲雀山、 鬼掻石、落石) 等あり、犀川浄水場地付近には押切河原、 太子河原、 二経塚等もあるが、 犀川の流れが高瀬と言った時代は青木島地籍で陸続きで はなかったかと思われる。
松代藩主3代の真田幸道のとき(1666年)指し出し(さしだし) 検地を行い以後毎年検地、水帳 (土地面積、年貢などを記載した帳面)を作らせていたようである。
宝暦6年(1756年)の久保寺検地水寸帳には、差出の検地と思われる地籍が 次の通り記載されている。
差出西堰添、差出西堤根、差出西、 差出西沖、差出西大道下、 差出村西道 上、 差出家西、 差出北沖、 差出北山手、 差出北山根、差出南沖、差出村南、差出東沖、差出家裏、差出沢端、差出沢合、 差出東巾下沖、 差出向大堰北、差 出東巾下、差出川端、 差出向巾下、差 出大堰添、 差出村根、 差出道添、 差出 東川端、差出はし下、小柴見境、中御 所境、裾花川端等である。18世紀頃は差出という地名が定着していたと思われる。 明治5年の戸籍番号帳には指し出組と記されている が、同義語で記録者によって差出、指し出を使い分けていたと思われる。
(by 徳永辰雄)
犀川、 裾花川の昔
1.犀川
古代の犀川は、 安茂里の山の手を流れていたと言われている。
土地の大規 模な地殻変動、 隆起を繰り返して流れ は下へさがってきた。
古地図によると、流れは犀ロ (小田切ダム附近)を出て、高瀬、四ツ瀬、 中瀬、原瀬、御幣川瀬の5つの瀬になって流れていたようである。このうち 高瀬 (現在の犀川) の流路は、 吹上、 中御所木留神社、 市村、上千田、 母袋、 風間、大豆島を通り、 北長池の南で裾 花川と合流し、布野を通り、中俣付近で千曲川と合流していたようである
弘化4年(1847年) 3月24日、 善光寺地震が発生、 地震により更級郡更 府村(長野市信更町)岩倉山(虚空蔵山)が犀川に崩れて川を堰止めた。そのため堪水し、堰止めた場所の水深60mにも達する大湖水を出現した。
松代藩は決壊した場合の水害を想定して、 土手を造る等工事を行ったが、2 0日後に決壊した水はこれらを一気に 押し流し、一大轟音を発して、 安茂里、川中島平を目指して大石を飛ばし突進した。河水は倒 (さか) しまに流れて、小市の渡しにあった渡舟は、 瀬脇地籍(長野市七二会)まで走り 「船頭もなきに舟真神山にのぼれり」 とそのもの凄さが伝えられている。 水の高さは6丈 (18m)にも達したと言われている。
この頃から高瀬 (犀川) の流れは現在の犀川の流路となったようである。 今の南八幡川(県庁南を流れる河川) は高瀬の流れていたところだそうである。
2.裾花川
慶長8年(1603年)から10年に かけて松代城主松平忠輝 (徳川家康 6 男)の家臣、花井吉成の奉行によって 現在の長野市街地に耕地を造るため、 裾花川の流路を西に改め、丹波島附近 高瀬 (犀川)を合流させる一大工事を行った。 そのため高瀬の流れは南へ南へと押しやられたようである。
(by 徳永辰雄)
安茂里変遷図
明治以降、 安茂里村は次のような合併、分村の変遷を経て今日にいたっている。
〇明治9年5月30日 4村合併で安茂里村発足
平柴村 小柴見村(旧善光寺領)
小柴見村(旧松代領)
久保寺村(旧松代領)
小市村(旧松代領)
〇明治12年12月 分村
安茂里村 → 平柴村
安茂里村
〇明治15年10月2日 分村
安茂里村 → 小柴見村
安茂里村
〇明治22年4月1日 再合併
平柴村 → 安茂里村
小柴見村
安茂里村
〇昭和29年4月1日 編入
長野市安茂里になる
(青木 了)
差出北の石塔、石仏
石塔や石仏は各地にあって『あもり 再発見マップ』には安茂里の数多くのものがのっている。差出北区にあるものは次のようである。
1.庚申塔
60年毎にまわってくる庚申の年に、講仲間の健康や長生きを願って庚申塔を建てる風習は、 江戸時代中期からといわれている。庚申の夜 (60日毎にまわってくる) に集まって飲食を共にする庚申講は、古くから盛んで講中や組が建てた庚申塔が街道沿いやお堂の庭にある。差出北区には国道差出西交差点北側 と同交差点南側に各1塔ずつある。
2.二十三夜塔
月の出を待って供物を供え飲食を共にし、願い事する行事で庚申塔の干支とは関係がない。 安茂里にある月待塔は『二十三夜塔』と『二十六夜塔』があるが、現在月待の信仰はまったく見られない。また二十三夜はその三から産に通じるところから、安産の祈りをささげる既 婚婦人が中心となった講もある。差出北区には国道差出西交差点北側 に1塔ある。
3.道祖神塔
道祖神は村境の神で、その境を守り悪い病などが村に入るのを防いだり、旅人を守る神である。道祖神を祀った辻などを遊び場とする子供と親しい神で、子供がよい若者になると、縁結びの神となり、 夫婦に子供を授ける神である。正月の年神 (農耕の神) を送るどんど焼きは、子供が中心となって道祖神 のせなどで行われた。差出北区には国道差出西交差点北側 1 塔ある。
4.地蔵尊
『お地蔵さん』 と親しみをこめて呼 ばれ昔話にもよく登場する。
地蔵菩薩は生きている人々の苦しみや悩みを取り除き、願い事をかなえてくれるだけでなく、地獄へ落ちた者や、 賽の河原で鬼達にいじめられている子供を救ってくれると信じられ、子育地蔵の名で信仰される地蔵が多くつくられた。
(by蟻川郁夫)
閻魔堂と閻魔大王
1.閻魔堂の由来
差出北公民館は閻魔大王を祭ってあるので通称「閻魔堂」と呼ばれている。
この種のお堂は各地に多くある。江戸時代 (1603~1867年)から大きな寺の末寺か地域の必要性から、又は豪族などが自主的に創建したものと言われている。明治6年(1873年)に国の「無檀無住の寺院堂廃止」の布告がなされ、その時提出された堂名簿によれば、水内郡全体では462堂が存在していた。ここの時の最古のお堂は、鬼無里村萇 畑にあったお堂で、明暦2年(1656年)のものと言われている。差出閻魔堂の創建は、初代庵主の没年が宝永2年(1705年) であるので、この当時には創建されていたと思われる。
平成5年に新公民 館建設の際、古い建物解体の時、建築年を調べたが不明であった。 安茂里地区にあるお堂で前記明治6年の堂名簿にあるものは、小柴見観音堂 (禅宗常安寺持)、小市村観音堂 (村持)、 久保寺村西河原薬 師堂 (真言宗正覚院末庵)、同小路地蔵堂 (村持)、同差出閻魔堂 真言宗正覚院庵 室)、同大門大日堂 (同庵室) 等である。
この廃止令による 「寺院廃却届」も現生存するお堂が多くあるので、強制力が弱かったものと思われる。これらお堂は、地域の身近なお祈りの場所であり、又集会所的な性格もあり、子供達の遊び場所 でもあった。 当閻魔堂でも住民が堂主の 僧尼と、今日は雨降りだ、 雪降りだと言っては堂に集まり、社交の場所となり、ある時は念仏を唱えたり、数珠廻しをし て過ごしたと言われている。 更に善光寺に近く街道筋は旅人が多く往来し、堂に立ち寄り休憩の場所でもあった。
[閻魔堂の歴代僧尼]
初代 宝永2年2月15日 (1705年) 没
二代 享保6年9月9日 (1721年)没
三代 天文2年7月18日 (1737年) 没
四代 寛保2年9月22日 (1742年)没
五代 念竜僧 寛保3年(1743年) 没
六代 水上臥竜僧 弘化年代(1844~1847年)没
七代 第16世大竜庵主 明治5年(1872年)没
八代 水上元利住職 明治33年(1900年) 没
九代 小林智寛尼 大正8年8月1日(1913年) 42才で没
十代以降は不詳であるが、 昭和15、6年頃まで僧侶が住んでいたと言う。 なお五代頃までの堂主の墓が正覚院にある。
2.閻魔大王と葬頭河婆、地蔵菩薩
差出閻魔堂の本尊は閻魔大王である。 この本尊は天文3年(1738年)に京都の木喰仏師桜井により造顕された。 赤い顔面や道服の模様は明治33年(1900年)に彩色されている。 以前の彩色 は草花を絞りニカワを混ぜて彩色されて おり、この方法だと変色しにくいという。 閻魔大王の安置は、暗い西方に祭られて いるのが普通であるが、 当堂の大王は以 前から中央の明るい場所に安置され、地域の住民を見守っている。 大王の大きさは、 高さ93cmの座像で一本の木でつくられ、手は別の木でつくられ取り付けて ある。
「閻魔大王」は地獄に堕ちてくる人間の生前の善悪を審判し懲罰するという地獄の主神、冥界の総司である。経典によっては地蔵菩薩の化身という (広辞苑より)、現代の裁判長である。 外に9人の裁 判官がおり十王と言われている。中国唐の偽経「地蔵十王経」がもとである。 当堂には大王の外に、右に葬頭河婆、左に地蔵菩薩の三体の仏像が安置されている。
「葬頭河婆」は高さ40cmの像で大きな口をあけ、胸の肋骨と皺だらけの乳房が誇張されている。 細く小さな立膝の足が不調和で恐怖心をそそる。 十王の眷族で、亡者が初七日に渡る三途の河で六道 銭をせしめるという。
3.閻魔堂内の木造唐獅子
閻魔王安置の壇の両端に欅作りの高さ45cmの重量のある立派な 唐獅子4体が置いてある。 唐獅子は4体とも型が違う。前足で子供を抱いているもの、球のようなもの、花をもっているもの様々である。これらのものは右のイラスト大量のように、 犀川神社大祭の幟旗を立てる枠に取り付けたもので、往時の幡の大きさが偲ばれる。 幟の立てた場所は現在の差出西信号の付近で道の両側に立てた。国道1 9号線舗装のため昭和29年で廃止され、規模を小さくして現在の公民館敷地内に立てられるように なった。
現在の幟旗には次の文字が書かれている。
万邦一家春 (すべての国が太平の春を迎える)
仁風治昌辰 (仁徳のある教化は栄ゆく世を治める)
(by 磯野謙介)
犀川神社の起源と太々神楽
獅子舞
1. 犀川神社の起源
犀川神社は、現在の安茂里小学校の地に、天台宗比叡山延暦寺の末寺として、 天安2年(858年) に慈覚大師円仁が創建したという七堂伽藍が立ち並んでいた月輪 (月林) 寺の鎮守の神として、琵琶湖の南西にある日吉山王宮(往時の官 弊大社)の分霊を現在の犀川神社の地に安置され、日吉山王社と呼ばれた。文政 7年(1824年) 犀川神社と名前が変わった。
元和2年(1616年) の江戸時代に松代藩主松平忠輝の家老大久保長安によって、社領地3石 3斗9升7合が認められた。明治6年(1873年)に久保寺村 村社となった。その後明治時代末頃には政府の政策もあり、村内にあった無格社を合併している。
神社創建当時は、城地区(西河原) と小路地区の氏子でお祭りが行われ、その後小西組 (小路・西河原)、次いで大門、差出と氏子になった。
2. 太々神楽獅子舞
犀川神社に属する4地区 (西河原、小路、大門、差出)の太々神楽獅子舞は、 伊勢神楽系統の関西獅子で、男獅子であり舞方は豪快活発である。
この獅子舞の起りは、 三百数十年前、伊勢皇大神宮の御札を配布するために、 芝居と共に全国に派遣された御師によって、悪魔を祓い五穀豊穣を祈り土地の安泰と繁栄を願うものとして、各地で見せた獅子舞からが始まりという。
小西地区が習い初めから100年後に大門地区が、更に30年後に差出区が習い、長い年月をかけ苦労を重ねて現在の形に完成させた。 昭和44年(1969 年)長野市無形文化財に選択された。
(by磯野謙介)
犀川神社の社煙火
犀川神社の杜煙火は平成7年1月に長野市指定文化財に指定された。 指定理由には次のように記載されている。
「文献によると安茂里犀川神社の煙火は、 文政7年(1824年) 久保寺氏の氏神である日吉山王社の名が、神祇官京都吉田家より、 犀川神社と社名変更願いが許可された社名披露に、 奉納されたのが最初とされている。以後、一時は衰退の時期もあったが、毎年9月21日の秋祭りの夜は、犀川神社の社叢を利用した仕掛け煙火 (社煙火) が奉納されている。火薬調合の秘伝書や器具も保存されており、 また後継者の育成や技術の保存にも努めている。 犀川神社の太神楽 (市指定)とともに、地域に伝承されてきた貴重な文化財である。」この社煙火の火薬調合秘伝書によれば、明治時代までに180種類と調合の種類が増えている。全国にこれ程の調合が書かれたものは他に類をみないと言う。
社煙火保存会には次の3派がある。社煙火の発生は、のろしからでありこの名残で、小西の昼間揚げるのろしの煙を霞にたとえた 「霞真流かしんりゅう」、 大門が夜揚げるのろしの火から 「大火流」、 差出が太鼓や 鐘の声から 「昇声流」と言われている。
犀川神社秋例大祭の 「煙火・獅子舞」 の奉納番付(現在)
1 十二燈(霞真流)
2三宝(大火流)
3笠鉾(昇声流) *差出
4三番叟(小西獅子方)
5車火(大火流)
6仕掛煙火 (昇声流) *差出
7長母衣 (四区獅子方)
8金せん火 (大火流)
9 大スターマイン ( 霞真流)
10ナイヤガラ (煙火方)
11曲獅子 (四区獅子方)
12白滝(大火流)
13清滝 (昇声流) *差出
14清滝(霞真流)
(随時に霞真流の立火がある)
※犀川神社秋祭の煙火装置 三区の神楽が神社に到着すると
1十二燈 (小西組) 2三宝 (大門組) 3笠鉾(差出 組)の順序に煙火の演出が開始される。
(by 磯野謙介)
差出区分区と差出北区の発足
1. 差出区の近年の世帯、人口の推移と自治区
安茂里地区は昭和34年(1959)頃から長野市のベットタウンとして公営の団 地造成と民間の開発が進み爆発的に世帯数、人口ともに増えた。多くの造成団地では 独立して自治区を造ってきた。
市街地に近い差出地域では昭和34年頃から県企業局が造成、入居した杏花台は独立した自治区となった。 触発されて周囲に民間の宅地造成、 分譲、 集合住宅の建設が 進み、田畑の大部分が宅地に変わった。
世帯と人口の推移
昭和35年(1960年) (安茂里)1,893戸 8,310人 (差出) 388戸 1,522人
平成 2年(1990年) (安茂里)7,435戸 22,729人 (差出)1,459戸 4,123人
(安茂里史から)
この世帯と人口の急増は住民生活にも大きな変化をもたらし、 居住者相互の交流、 親睦がうすくなり、区の融和、連帯感が失われる状況にもなった。特に自治区の業務がいちじるしく増加し、事業の適切な執行が行き届かなくなる面も生まれる状況となってきた。平成元年5月の長野市区長会資料を参考とした、 長野市内の各区並びに安茂里地区の状況は、次のようであった。
① 区長数 426
② 地区区長会数 26
③ 世帯数 103,486(一区平均242) 事業所数 7,212(一区平均17)
④ 隣組数 12,572 (一区平均29)
⑤ 世帯数の多い区 (1,000世帯以上)
栗田 1,500 中御所 1,436 差出 1,358 下宇木 1,330 富竹 1,300 本郷1,285上松1,204 丹波島 1,029
参考:世帯数の少ない区(20世帯以下)
浅川一之瀬(浅川) 4 粒良田 (信里) 12 三ツ出 (浅川) 13 瀬成 (信里) 15 西之門町16 台ヶ窪 (浅川) 17 上西門町18 門沢 (浅川) 19
⑥ 安茂里地区の状況 世帯数(隣組数)
平柴 227(36)
平柴台167(17)
小柴見 560(78)
差出1,358(190)
大門464(65)
杏花台 315(30)
小路 187(27)
西河原 378(45)
伊勢宮 785(94)
宮沖470(48)
犀北498(40)
小市770(88)
小市団地 255 (25)
園沖 142(25)
小市南団地 409(46)
昭和60(1985)年頃からは区民や役員経験者からもこれらの改善や区の分割、 再編の要望が出されるようになってきた。
平成2年5月の歴代区長会議で、当時の区長から差出区再編成 (分割)の件が提案 され、更に同年12月に歴代区長、 差出区三役、総務衛生部長等25名の会議で再度 提案され、分区検討委員会を組織し具体的に進めることを決定した。
2. 分区検討委員会の設置
区役員の積年の議論があったが、 区の再編という大事業は毎年交代する区の執行体制では容易に着手できない事業であった。そのなかで区役員の年度を越えての議論のすえ、ようやく区役員、区長経験者、区内団体代表者を中心にして平成3年2月9日、 差出区分区検討委員会を次のように設置することができた。
〔差出区分区検討委員会規程]
(趣旨)
この規程は、差出区の人口世帯数の増大に伴い、区自治の事業、 行事、事務量が 著しく増加し、キメ細かい区自治の執行が困難になってきている現状から、区の分割について検討するための委員会を設置するものとする。
第2 この委員会の名称は、 差出区分区検討委員会(以下「委員会」という)という。
第3この委員会は、次の事項について広く検討審議し、 区長にその結果を報告するものとする。
1 分区の可否について
2 分区する場合の分割数とその区名についての適切な行き届く
3 分区した場合の区財産の取り扱いについて
4 区内各種団体の再編成について
5 分区後も共同で実施する事業の検討とその実施方法について
6 その他必要と認める事項
(委員)
第4委員は次の団体の中からその団体の推薦によるものをもって当てる。
区・区役総務部長 6名
区長OB会 17名
公民館 館長経験者 3名
婦人会 会長経験者 2名
(役員)
第5委員会に次の役員を置き、委員の互選により選出する。
1委員長 1名
2副委員長 若干名
(委員会)
第6 委員会は、委員長が必要の都度これを召集し会議を主宰する。
(事務局)
第7 委員会の事務局は差出区とする。
付則
この規定は、平成3年2月9日から施行する。
〇分区検討委員会委員氏名
委員長 青木 了 副委員長 滝澤 要 永井誠吉
委員 青沼幸信 寺澤健 青沼睦夫 青木俊夫 栗林憲雄 北島林之助 赤尾隆二 岩井俊一 足助生馬 小島宗栄誉回 寺澤夫 徳永辰雄 山田正利 青木安幸 宮入知重 宮島達雄 萩原四郎
下條永一 磯野謙介 丸山正男 青沼正樹 島田照男 柳澤和男 徳武英三 吉澤徹郎 高野りさ子 清澤まち子
3. 全世帯へアンケートの実施と分区答申書
分区検討委員会は先ず直ちに居住者の意向を確かめるために、全世帯を対象に分区 アンケートを実施することとした。 アンケート結果は答申書に記載のとおりとなった。 検討委員会はアンケート調査の結果を土台に小委員会であわせて検討を重ねたすえ、 平成3年7月13日下記の答申書を区長に提出し、分区の方向づけがなされた。
<差出区分区に関する答申書>
平成3年7月13日
差出区長 青木俊夫様 差出区分区検討委員会委員長 青木 了
この件につきまして、 先に差出区長から、 現在の差出区は、 長野市内426区の 世帯数が3番目に大きい区であり、人口世帯数の増大と地域の広域性から、分区につい て検討してほしい旨の諮問を受け、本委員会において、検討審議を重ね、また、これに関するアンケートを実施するなどした結果、次のように答申致します。
第一 分区の可否について
本年2月に実施した全世帯対象の分区に関するアンケートの結果を尊重し、人口世
帯数の増大と地域の広域性から、分区することが適切である。
[差出区分区アンケート結果 ]
1 アンケート用紙配布枚数 (全世帯) 1,504枚
回収枚数 957枚 63. 6%
2分区の賛否についての回答
賛成 764件 構成比 79.8%
不賛成 22件 構成比 2. 3%
わからない 171件 17. 9%
第二 分区の分割数について
分区に関するアンケート結果を尊重し、 差出区を3分割することが適切である。
分割の線引きは次による。
A JR 鉄道線路から北を一つの区
B a から南へ中学校南大通り(市道1070号線)までを一つの区国会
C bから南を一つの区
〔差出区分区アンケート結果]
分区数についての回答
3分割がよい 577件 (75.0%)
2分割がよい 188件 (24.5%)
その他 4軒 (0.5%)
第三 各区の区の名称について
「差出北区」 「差出中区」 「差出南区」の名称とする。
第四 現有財産の取り扱いについて
1 神楽、祭典用具等の祭典財産は、3区の共同所有とし、管理は太々神楽保存会、獅子方、祭用係が行う。
2 土地、建物(公民館)、公民館施設に付随する備品、消耗品等の所有管理は各区とする。但し、コピー機(第二公民館に保管中)については、他の区が所有できるまで共同で使用する。
3 各公民館の使用は、 他区の使用も認めるものとする。
4 積立金の処分について 現有の積立金(平成3年3月31日現在 100万円、 平成3年度積立予定50 万円)は、各区に配分する。 配分方法は連絡組織で協議決定する。
5 第三公民館敷地借料 (年25万円) は、 その特殊性から、 借料支払期間中は各区の共同負担とする。 負担方法は連絡組織で協議決定する。
第五 連絡組織の設置について
従来の大差出区としての伝統と連帯感並びに融和の精神は、 将来ともに保持していくことが必要であり、 3区が共同で実施すべき事業、 行事、 又は共同で意志決定すべき事項等について検討審議するため、 3区の区長、副区長並びに公民館長等をもって 組織する 「差出三区連絡協議会」を設置することが必要である。
なお、3区が共同で実施すべきものとして、 「犀川神社祭典」 「区民運動会」 「区内道 水路清掃」 等があげられる。
第六 区内各種団体の再編成について
分区によって各種団体が再編するかどうかは、その団体の自主的判断によるものとする。 区としては、分区の情勢方向等を各団体に知らせ、適切な方法をとるように協力する。
第七 分区の時期について
世帯人口の増大が続いている現状から、平成4年4月の年度切り替え時期からの発足が望ましい。
第八 分区の移行準備について
分区は一大改革であるので、円滑に移行できるよう次の処置をとってほしい。
1 全世帯を対象とした住民説明会を開催する。
2区の最高意志決定機関である、区臨時総会に諮り分区を決定する。
3 分区決定後は、早急に区に分区準備組織を設置し、 新役員候補の人選、 新区規約 配意すること。
【差出区分区検討資料】
平成3年5月27日 分区検討小委員会
第一 名称についての試案
1案
差出北区、 差出中央(又は、中)区、差出南区
2案
差出北区、中央 (又は中) 差出区、南差出区
3 案
差出第1区、差出第2区 差出第3区、
4案
第1差出区、第2差出区 第3差出区
第二 財産状況
第一公民館 共有地 (3名) 238 m2(72坪) (登記簿謄本写別紙) 木造平家 102 m2
太鼓、 提灯、舞台 旗等一式 神楽2式
第二公民館 市有地 木造平家 95m2
(ゼロックス) 1台
第三公民館 私有地 借料25万円 簡易プレハブ
移動舞台一式
第三 財産の取扱についての試案
1 神楽祭典用具等の一式は、3区の共同所有とし、 管理は太々神楽保存会、獅子方、 祭用係が行う。
2 土地、建物(公民館)の所有管理は、各区の所属とする。
3 各公民館の使用は、他区の使用も認めるようにする。
4 公民館施設に付随する備品、調度品、消耗品等は、それぞれの公民館の所有管理
とする。但し、コピー機(第2公民館に保管)については、他の区が所有できるまで、現有のものを使用できるものとする。
5 積立金の処分方法についての試案 現有の積立金(平成3年3月31日現在、 100万円) は、 第3公民館敷地借料 に充当するため、 差出南区へ移管する。
6 分区前年度決算で余剰金が生じた場合、 その処分方法は、 3区の連絡組織で協議する。
第四 連絡組織についての試案
従来の大差出区としての伝統と連帯感及び融和の精神は、 将来ともに保持していく
ことが必要とおもわれるので、そのため次のような組織体制を整備する。
(組織構想試案)
1 名称
(1案) 差出三区連絡協議会
(2案) 差出三区々長会
(3案) 差出区長会
2 組織 運営
(1)3区の区長、副区長及び公民館長をもって組織し、会長は互選とする。
(2)会の目的は、3区が共同で実施すべき事業行事等を、 検討審議決定実施する。
(3)予想される事業、 行事等の例示
犀川神社祭典への協力
区民運動会への参加
区内道水路清掃
第五 区内各種団体の再編成の問題
分区によって各種団体が再編成するかどうかは、その団体の自主的な判断によるも のとする。区としては、分区の情勢、方向等を各団体に知らせ、適切な方向をとるように協力すること。
第六 今後の分区検討のスケジュール
1 小委員会 5月
2 本委員会 6月9日(日)
小委員会の結果報告に基ずく検討審議
3 ブロック毎に区民集会の開催 6月~7月
検討結果を周知し、区民の意見をきく。
4 本委員会 7月下旬
区民集会の意向を踏まえて、委員会としての意志を決定し、区長に結果を答申する。
5 区臨時総会 8月下旬
例年8月に開催される区臨時総会に諮り、区の意志を決定する。
6 市役所への手続 9月
臨時総会で分区が可決された場合、所定の手続きを市役所安茂里支所を経由して、 市総務課へ書類を提出する。
4.住民説明会と区臨時総会
分区検討委員会の答申を受けた区長は、 平成3年7月29日から31日にかけて北、 中、南の各ブロック毎に全世帯を対象とした住民説明会を開催した。 分区検討委員会 の答申を基にした説明会では、大部分の出席者が分区に賛意を示した。
各ブロックの説明会を経て区長は平成3年8月18日の臨時総会を開催し、答申を基にした分区方針を提案した。提案は特段の保留、反対意見もなく賛成拍手多数で承認決定した。また区長はこの間、長野市の関係部局、 安茂里支所、 安茂里区長会とも折衝を重ね、 分区の円滑な実現を図った。
5. 新しい分区の結成準備
臨時総会での分区方針決定後、北、中、南の各ブロック毎に、平成4年度の新分区発足を目標に、結成準備会を組織して準備を進めることとした。 結成準備会は各ブロックとも、平成3年度所属の正、副区長を責任者として在住区役員、区長経験者、各団体代表者によって構成することとした。
それぞれの結成準備会は、新区の規約、部、組の組織計画、財政計画などを検討、 審議して円滑な新区発足に備えた。結成準備委員会は日常の区自治業務と並行して運営したために、関係者には大きなご苦労をかけることとなった。
6. 差出区の解散と新区の発足
北、中、南の各分区結成準備がほぼ整った平成3年度末、平成40年(1992)3月29日に開催した差出区総会で解散が決議され、80年に亘る旧大差出区は幕を閉じた。
差出北区結成準備委員会によって準備してきた新区の結成総会は、 平成4年(1992)4月5日開 催され現在の部、 組の組織、 規約、 諸規程と初年度の事業計画、予算、 役員など新区に必要な諸事案を決定して、 差出北区が発足した。 なお、同日つづいて差出北区公民館 も結成総会を行い新発足した。 また差出中、南の新区も前後して新発足した。
差出北区設立準備委員会及び差 出北区設立総会の状況は、 別紙
(by下條永一)
安茂里の杏と花のパレット祭
■杏
杏の原産地は中国の山東、 河北、山西省などの山岳地帯で栽培が始まり、 その後世界各国へひろがったという。日本へ の渡来は奈良時代 (700年代) 以前と もいわれており、平安時代中期 (900 年代)には杏仁 (アンズの種子) が信濃 国からも朝廷に差し出されたという。
安茂里の杏の始まりは、次のように諸説が伝えられている。
① 弘治2年(1556年) 正覚院の西方 にある窪寺城に植えた。
② 永禄5年(1562年)に小柴見宮内、 息子の朝日右近らが小柴見字裏沖や平柴の城に植えた。
③ 慶長8年(1603年)に松代城主松 平忠輝 (徳川家康 6男) の城代花井吉成 が裾花川の川筋を直線に改修したとき、 川堤の補強のために植えた。
なお、 更埴市森一帯の杏は、天和年間 (1681~1683年) に松代藩主第 3代真田幸道夫人が伊予宇和島 (愛媛県) から輿入れの際、 故郷宇和島の春を忘れ ないようにと、国もとから杏の苗を取り 寄せ植えたと言われている。
安茂里の杏は県内で有数の生産地であり差出も含みあんずの里といわれた。
昭和3年(1928年) の栽培樹数 3,200 本が昭和22年には64,200本となった。 栽培面積では昭和40年に最高の539ヘクタールと統計にある。 その後、農業 労働力の他産業への流出、 農業用地の宅 地用地への転用が続き、 杏栽培は減少の 一途をたどり、 今は昔の里の面影がない。 杏の生産が盛んだった明治時代には、差出の青木佐太郎 (現マルコメ (株)青木佐太郎の先代)が長野の菓子商と共同で、 生アンズの缶詰製造を初めて行い全国へ 販売したという
■安茂里花のパレット祭展覧会
終戦後の昭和22年(1947年)に 第1回展覧会が開催され、 平成3年 (1991年)まで45回にわたった。 何回か中央の著名な画家を招待し一般家庭に宿泊してもらい、一般人、小中学校児童 生徒等の杏の景色を画いた展覧会で、 出品数も多いときには600点以上に及ぶ 盛大なものであった。
会場は安茂里小学校体操場、 その後安茂里公民館で、 開催時期は毎回4月18 日を中心に行われた。 この展覧会は、 終戦後の全国で初めての地方文化活動であり、平和復興の灯となり有名となった。
道路交通の発展
◎安茂里の古道
三世紀末から四世紀始めにかけて、 大和政権による全国統一がはかられ、 科野国(信濃国)もその勢力圏にはいった。 国、地方 の政治体制は、大化元年 (645年) から 大宝元年(701年) にかけて 「大化の改新の詔」 「大宝律令」という法令等によって体制づけられた。 この体制のなかで駅制 がとられ、全国的な交通、通信制度も整えられた。
道については、全国を7道 (東海、東山、 北陸、山陰、山陽、南海、西海)にわけ、 国、郡、 里が設けられた。 信濃国は東山道に属した。 東山道の本道は美濃 (岐阜県)坂峠(下伊那郡) 伊那谷を通り、 錦 (東筑摩郡) から上田、 佐久地方を経て 碓氷峠を越えていった。
東山道支道は錦織で本道から分かれ北上し、麻績から現在の更埴市を経て安茂里小市の渡しを過ぎ、 西河原の犀川神社前、 薬師堂(西河原公民館) 前、 正覚院前を通り、 現在の杏花台団地、 差出、 小柴見を経て善光寺方面へと通じていたという。
◎現在の道路と交通
1 市道安茂里71号線 (旧大町街道)
差出地区を国道19号線が貫き、これとほぼ平行に旧大町街道 (旧道といわれている)が小市方面から安茂里小学校前、 差出北公民館前を通り、相生橋へと通じている。 この旧道の整備は、鎌倉時代 (1185 ~1333年)までさかのぼるとされている。 明治15年、 18年(1885年) の記録では道幅3m~4mとあり、現在の道路幅とほぼ同じである。
交通では、5~6人乗りの馬車 (トテ馬車といわれていた) が大正時代には走り、 乗合バスは大正12年(1923年)に宇 都宮乗用自動車商会 (川中島自動車会社の 前身)のバスが、 大正13年には高府自動 車商会(昭和9年川中島自動車会社と合併) のバス運行が開始された。 乗客は一輌で9 人~16人であったという。
2 国道19号線と自動車交通量
国道19号線は安茂里地区の主要幹線道路である。名古屋市から長野市までの一般 国道であり、 昭和27年12月(1952年)に県道長野飯田線 (同線の安茂里地域 内開通は昭和13年)から国道となった。 舗装工事は昭和30年すぎから始まり、 長野松本間の全線舗装は昭和42年に完了している。
この国道の拡幅改良工事は、平成3年3月から5年4月まで、 差出西信号から差出信号 (マルコメ(株)付近)の延長400m間で行われ、 道路幅が9mから18mに拡幅 近代的道路に生まれ変わった。
自動車交通量は経済の発展、自動車社会の19号線も自動車交通量が急激に、 増加し、交通渋滞も激しくなった。 しかし平成10年に冬期オリンピック開催で開設された、 長野市稲里地区の19 長野南バイパスの影響もあるのか、 毎年10%以上の増加率を示していた交通量が 平成9年から前年を下回る傾向になってかる。
昭和37年(1962年) から平成11年までの37年間の3年毎に実施されていま、による 「道路交通センサス報告書 」 によると、 差出西信号の東地点附近の午前から午後7時までの12時間の自動車通過台数は次のとおりとなっている。
自動車交通台数調べ
自動車交通台数 対前年伸率
昭和37年 2,709 台
昭和40年 5,966 2.02倍
昭和43年 9,262 1.55倍
昭和46年 10,654 1.15倍
昭和46年 11,478 1.08倍
昭和52年 13,551 1.18倍
昭和55年 14,199 1.05倍
昭和58年 14,874 1.05倍
昭和60年 15,368 1.03倍
昭和63年 16,893 1.10倍
平成2年 17,128 1.01倍
平成6年 17.640 1.03倍
平成9年 17,215 0.98倍
平成11年 16,055 0.93倍
(注)この調査は、3年毎に交通全体について実施されており、調査時期は交通量の変動の少ない秋季に行われている。
3差出西信号交差点~裾花橋
現在の道路は国道19号となっているが、 安茂里村の当時は、 県道長野~大町線 (大町街道)に代わるルートとして計画され、昭和7年(1932年)から翌年にかけて、延長420m 幅員 7.2mで開設 された。当時は村道安茂里差出1号となり、 その後国道19号線となった。
古い裾花橋は長野の中御所方面へいくための土橋であった。 昭和9年(1934年) 木橋となったが、 24年9月の台風豪雨で 流失し、29年に現在の永久橋となった。
相生橋は明治8年(1875年)に小柴見村と妻科村の間に土橋として架橋された。位置は現相生橋より上流だったという。 その後現在位置に本格的に架橋され、 昭和 10年に永久橋が建設された。
(by青木了)
4差出信号交差点 (マルコメ (株)付近) ~相生橋
道路は昭和8年(1933年)から延長 614m、幅員 7.2mで開設され、当時 の村道安茂里小柴見1号線となった。 その後、県道長野飯田線となり国道19号線とかわり、現在は市道となっている。
裾花橋への村道(昭和15~16年頃) 村道安茂里1号線(現国道19号) 川久保宅前から橋の方を見る。左に当時の青木牛乳店の牛舎と運動場牧柵、 松の枝の下前方に裾花橋が見える。
裾花橋の前身、 土橋で歩行もおぼつかなかった。 (昭和初期)