開催中の展示
開催中の展示
醒井木彫美術館は、上丹生に受け継がれる木彫文化と彫刻家・森大造の作品を紹介する美術館です。木彫作品の展示に加え、2階では絵画や写真、現代アート、工芸など幅広いジャンルの企画展を開催しており、多彩な芸術に触れることができます。
清らかな湧水が流れ、梅花藻(バイカモ)の群生地として知られる醒井の地蔵川のほとりに位置し、自然豊かな環境も魅力です。歴史ある醒井宿の町並みや四季折々の景色を楽しみながら、心ゆくまで芸術鑑賞とゆったりとした時間をお過ごしください。
古事記に倭建命(やまとたけるのみこと)が伊吹山で荒ぶる神と戦って怪我をして居醒の清水で熱を冷やしたという伝承があります。醒井は冷泉湧く地として知られ、今も東洋一といわれる養鱒場があり、大小の鱒たちが緑濃い数々の池に群れています。その泉を源とした地蔵川には、梅雨の頃から晩夏にかけて水中花の梅花藻が幽玄に咲き揺れています。木彫美術館はこの川畔にひっそりと建ってとても絵になっています。ぜひスケッチでもしてください。
この美術館を紹介してくださったのは、遣唐使として中国に渡って、高い学問を修め、日本で唯一の三蔵法師の称号を与えられたのに、不幸にも客死された霊仙三蔵を、地域の偉人として醒井の地に祀り顕彰する霊仙三蔵法師顕彰会のかたです。万葉画とともに霊仙三蔵法師の世界にも触れてくださる小さな旅になればたいへん嬉しく思います。
鈴木 靖将
共催:醒井木彫美術館 鈴木靖将
後援:霊仙三蔵法師顕彰会
万葉風 似顔絵コーナー
ご希望の方には、鈴木靖将氏が色紙に似顔絵を万葉風に描いてくださいます(無料)。
鈴木靖将氏は透析の為、7月20日(月)は15:00頃から17:00までの滞在になります。
似顔絵をご希望の方は7月20日の10:00~15:00頃は避けてくださるようお願いします。
似顔絵描写中の鈴木靖将氏
万葉風なのに本人に似てます
艶のある人物描写
本を購入された方にメッセージをいれる鈴木靖将氏
飛鳥時代に天智天皇が現在の滋賀県大津市周辺に築いた都です。667年、飛鳥から都を移した天智天皇は、この地で即位し、近江令の制定や庚午年籍の作成など、日本の律令国家形成につながる重要な政策を進めました。しかし、天智天皇の崩御後、後継者の大友皇子(弘文天皇)は672年の壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に敗北。これにより大津京は約5年という短い期間で都としての役割を終えました。
藤原鎌足(中臣鎌足)は飛鳥時代を代表する政治家で、日本最大の氏族として知られる藤原氏の祖。中臣御食子を父に持ち、大化の改新では中大兄皇子(後の天智天皇)とともに政治改革を推進。改新後も天皇を支える重臣として国家づくりに尽力し、その功績は後の藤原氏繁栄の礎となりました。
倭姫王は、飛鳥時代に生きた皇族の女性で、生年・没年は明らかになっていません。父は舒明天皇の第一皇子である古人大兄皇子、母は不詳。叔父にあたる天智天皇の后となり、668年に中大兄皇子が天皇として即位すると、皇后にあたる大后の地位に就きました。
天智天皇は、第38代天皇で、飛鳥時代の日本における政治改革を主導。即位前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として知られ、幼名は葛城皇子(かずらぎのおうじ) 。母である皇極天皇の皇太子として、中臣鎌足とともに乙巳の変を起こし、蘇我氏を倒して政権改革を実現。その後、孝徳天皇のもとで大化の改新を推し進め、日本の律令国家の礎を築きました。 皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。
額田王は、飛鳥時代を代表する皇族の女性であり、優れた歌人としても知られています。生年・没年は諸説あるものの明らかになっていません。
大海人皇子(後の天武天皇)の妃で二人の間には十市皇女が誕生していますが、その後、大海人皇子の兄である中大兄皇子(後の天智天皇)の後宮に入り、女官から后妃へと昇進したと伝えられていることから、古代史を代表する「三角関係」として語られることもあります。しかし、この説は『万葉集』の歌の解釈をもとにした一説であり、実際の関係についてはさまざまな見解が存在しています。
額田王
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
大海人皇子
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
この歌のやりとりは、大海人皇子の妃であった額田王が天智天皇の寵愛を受けたことで生まれた悲恋の物語と考えられていました。しかし近年の歴史学や国文学の研究では、この贈答歌は蒲生野で行われた狩猟の宴席で天智天皇の前で詠まれたとされている為、公的な場での機知に富んだ歌の応酬だったとする見方もあります。
容姿について詳しく記した史料は残されていませんが、優れた和歌の才能と教養の高さ、天武天皇と天智天皇の寵愛を受けたことから絶世の美女であったと伝えられる所以とされています。
大友皇子は、天智天皇の第一皇子で、母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智天皇の死後、後継者として政権を担いましたが、672年の壬申の乱で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に敗れ、最期は自ら命を絶ちました。正妃は、天武天皇の皇女である十市皇女。
在位期間は約半年とされ、即位儀式を行うことができなかったため、長く歴代天皇には数えられませんでしたが、1870年(明治3年)に弘文天皇の諡号が贈られ、第39代天皇として正式に位置付けられています。
十市皇女は、天武天皇と額田王の間に生まれた第一皇女。天智天皇の皇子である大友皇子(弘文天皇)の正妃となり、669年頃には葛野王をもうけました。672年に起こった壬申の乱では、父・天武天皇と夫・大友皇子が敵味方として争うという悲劇に直面します。乱の終結後は天武天皇のもとへ戻ったと考えられていますが、『万葉集』を根拠に高市皇子の妃となったとする説もあります。敗れた近江朝廷の皇后であり、同時に天皇の皇女でもあった十市皇女は、複雑で過酷な立場に置かれた人物として知られています。
鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は、天智天皇の皇女で天武天皇の皇后、第41代天皇。13歳頃に叔父・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となり、壬申の乱では夫と行動をともにして勝利に貢献しました。
天武天皇の即位後は皇后として政治を支え、律令編纂や皇太子・草壁皇子の擁立など、国家体制の整備に尽力します。天武天皇の崩御と草壁皇子の死後は、孫の軽皇子(後の文武天皇)へ皇位を継承させるため690年に即位しました。
在位中は飛鳥浄御原令の施行や藤原京の造営を進め、天武天皇の政策を引き継ぎながら、日本の律令国家の基盤を築きました。
大津皇子は、天武天皇の皇子で、母は天智天皇の皇女・大田皇女、同母姉は大来皇女。妃は天智天皇の皇女である山辺皇女。
知性と武勇に優れ、さらに身分にとらわれず人々に接する人格者であったと伝えられています。
母・大田皇女が早くに亡くなり、姉の大来皇女も斎宮となったため、有力な後ろ盾を失った大津皇子は、異母兄の草壁皇子が皇太子となる一方で、683年には朝政に参加し、皇位継承候補の一人として重要な立場を担いました。
686年に天武天皇が崩御すると同年10月に謀反の疑いをかけられ、親友とされる川島皇子の密告をきっかけに捕らえられました。そして翌日、自邸で自害し、24歳という若さで生涯を閉じました。このことから悲劇の皇子として知られています。
草壁皇子は、天武天皇と皇后・鸕野讚良皇女(後の持統天皇)の皇子で、文武天皇・元正天皇の父。妃は天智天皇の皇女で、後に元明天皇となる阿閇皇女。
662年に誕生した草壁皇子は、671年の天智天皇崩御後、父・大海人皇子とともに吉野へ移り、その後の壬申の乱で父が勝利すると、天武天皇の皇子として皇位継承者の立場を固めていきます。679年の吉野の盟約では有力な後継者と認められ、681年には正式に皇太子となりました。
686年、病に伏した天武天皇から母・鸕野讚良皇后とともに政務を託され、天皇崩御後は実質的な後継者となります。しかし、同年に大津皇子が処刑されたことも影響し、即位には至りませんでした。689年、27歳の若さで崩御。
葛野王は、弘文天皇(大友皇子)の第一皇子。持統天皇の時代には治部卿を務め、のちに正四位上・式部卿に昇進しました。
696年、高市皇子の死去により皇位継承をめぐる議論が行われた際、葛野王は群臣の前で「皇位は直系の血筋によって継承されるべき」と主張しました。兄弟間での継承は争いを招くと説き、血統と嫡流を重視する考えを示したことで、議論を大きく動かしたと伝えられています。藤原不比等の助言があったとする説もありますが、この発言は持統天皇から高く評価され、草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)が皇太子に選ばれる大きな要因となりました。
文武天皇の治世でも朝廷の要職を務め、式部卿として国家運営に携わりました。706年に37歳で亡くなりましたが、その発言は皇位継承のあり方に大きな影響を与えたものとして知られています。
大伯皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女で、母は天智天皇の皇女・大田皇女。同母弟には悲劇の皇子として知られる大津皇子がいます。
673年、天武天皇によって斎王制度が整えられると、大伯皇女は初代斎王に選ばれ、翌674年に伊勢神宮へ赴任しました。在任中は皇室と伊勢神宮を結ぶ重要な役割を担い、皇女たちの参拝や神事にも深く関わりました。
しかし686年、弟の大津皇子が謀反の疑いで自害したことを受け、同年11月に斎王を退き都へ戻ります。『万葉集』には、弟を失った悲しみを詠んだ歌が収められています。
大海人皇子 は後の天武天皇(てんむてんのう)。舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の皇子として生まれ、飛鳥時代の日本に大きな改革をもたらした第40代天皇です。
672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を破り、翌673年に即位しました。皇后は後の持統天皇となる鸕野讚良皇女です。
天武天皇は飛鳥浄御原宮を政治の中心とし、八色の姓による氏族制度の再編や律令国家の整備を進めました。また、『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じ、藤原京造営の計画を開始するなど、日本の国家体制の基盤づくりを推進しました。これらの政策は持統天皇へと引き継がれ、日本の律令国家成立へとつながっていきました。
壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に起こった古代日本最大の内乱で、天智天皇の崩御後に皇位継承をめぐって勃発しました。天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の皇子・大友皇子(後の弘文天皇)が皇位を争った戦いです。
天智天皇は生前、大友皇子を太政大臣に任じて後継者として重用しました。一方、大海人皇子は政争を避けるため吉野へ退きますが、天智天皇の崩御後に挙兵して近江朝廷へ進軍しました。戦いは大海人皇子側の勝利に終わり、大友皇子は自害。
翌673年、大海人皇子が天武天皇として即位し、その後の律令国家の礎となる政治改革が進められました。
大海人皇子は吉野を出発すると、伊賀や鈴鹿を経て東国へ進み、各地の豪族を味方に加えながら軍勢を拡大しました。さらに、交通の要衝である不破関(現在の岐阜県関ケ原町)を押さえて近江朝廷側の動きを封じ、戦いを有利に進めます。
決戦となったのは、近江(現在の滋賀県大津市)の瀬田橋の戦いです。ここで大海人皇子軍が勝利すると、大友皇子は敗走の末に自害し、約1か月にわたった壬申の乱は終結しました。
その後、大海人皇子は天武天皇として即位し、皇族を中心とした政治体制の整備や律令制度の導入を進めました。壬申の乱は、天皇を中心とする中央集権国家の形成を加速させた重要な転換点となりました。
鈴木氏の作品と窓からの緑が調和しています
ゆったりとした空間で鑑賞いただけます
鈴木靖将氏と作品