祭頭祭の起源は、奈良時代の天武朝とも平安時代とも諸説あります。文献として確認できる最古の事例は建仁4年(1204)で、この時の当番は片野・長保寺と平井・宝寺院が務めています。
祭頭祭の祖形はその囃言葉から窺えるよう「五穀豊穣」「天下泰平」を主な願意とする祈年祭に近く、しかも地域に密着した祭りでした。明治までの神仏混淆時代では、2月15日の釈迦入滅の常楽会に習合し、その名残から男子の大総督を「新発意(しぼち)」と表現しています。明治6年(1873)の太陽暦への移行によって、それまでの2月の上(かみ)の申(さる)の日から3月9日に改められました。
また令和2年より、それまで3月9日に行われていた祭頭祭のうち、午後に執り行う祭頭囃と夜に執り行われる春季祭については、3月9日が平日にあたる場合、9日以降の直近の土曜日に執り行われるようになりました(詳細は日程のページを参照ください)。
昭和51年(1976)12月に、文化庁から国選択無形民俗文化財の指定を受けています。
昭和50年 茨城国体(第29回大会)で披露するために、国体の費用で購入した樫棒の備品払い下げ並びに国選択無形民俗文化財の指定を受ける団体として、祭頭囃保存会が設立しました。
昭和51年 12月国選択無形民俗文化財の指定を受けました。
昭和53年 補助事業として記録映画「鹿島祭頭」を作成しました。
昭和54年 補助事業として記録集「鹿島の祭頭祭」を作成しました。
昭和58年 国補助事業で行った緊急記録保存事業を継承するため、10月15日の総会において保存会の再発足を決定し、鹿島郡町村会、鹿島神宮、関係機関の協力を得て町村負担金等の事業費を確立しました。その後、当番字への公開事業の助成、公文書等の調査事業、備品購入及び補修等の事業を行っています。
↓ もっと詳しく知りたい方は、下記の「鹿嶋デジタル博物館」を参照ください。祭頭祭のページにリンクしています。 ↓