最明寺について

明寺とは

 最明寺は奈良時代の聖武天皇の天平年間に、行基菩薩がこの地に来られ、阿弥陀如来を本尊として西光寺を建立されたと伝えられます。

 その後、鎌倉時代の建長年間に、北條時頼公が来訪され、時の住職の道元と親しく交流されたと言います。寺の西南にある泉はもと行基が修行のために用いた水で、日照りの時にもかれることはなく、病気の人が呑めばよくなったという霊水で、これを聞いた時頼公も喜び、再三泉へ行って読経をしたといいます。

 時頼公は鎌倉へ帰って最明寺入道と号したのですが、はるかに道元のことを思い、寺へ宝物や荘園を寄進しました。道元もこれに感謝し、御礼として仏具を献じたところ、時頼公からこの寺を弥天山常光院最明寺と改名することにせよとの達しがありました。それから最明寺の伽藍も充実し発展しましたが、(戦国時代の)三好家が支配する時代になって、寺領を失い、伽藍も荒れ、永禄8年秋、快舟という住職が寺を現在の場所に移築したということです。


(最明寺縁起)

 最明寺の元の境内地は、現在の場所から東100メートルほど離れた所にあり、戦国時代にはすぐそばに上野城という城がありました。その城主が北條越前守という方ですから、鎌倉の北條氏と何かのつながりがあったのでしょう。

 その後、土佐からの長宗我部氏の侵略があり、上野城は陥落しましたが、最明寺は現在の位置に移っていたため被害を免れ、その後、江戸時代には近隣の人々の信仰をあつめる菩提寺となって、現在まで歴史をつないでいます。


 最明寺には、古い歴史を物語るものとして、毘沙門天立像(国指定重要文化財)および阿弥陀如来座像(県指定文化財)が残されています。毘沙門天像は平安時代の終わり頃、11世紀後半に都の仏師によって制作されたものと考えられており、阿弥陀如来像は、それより少し遅れて平安時代の末に作られたものとされます。


堂と仏様

◆本堂

現在建て替え工事中です。昨年末に解体した旧本堂は、明治12年に建築されたもので、百四十年の歳月が経っていました。耐震診断の結果、大地震の際には倒壊の危険があることがわかり、改築することになりました。

9間×8間の建物で、内陣および外陣中央、正面廊下は欅の格天井となっておりました。

棟瓦は龍と波を表した立派なもので、防火祈願の意味があったようです。

本尊様は聖観音菩薩で、脇侍に地蔵菩薩と不動明王をおまつりしております。どの仏像も江戸期に制作されたもののようです。


◆宝物殿

本堂建て替え工事に伴い、現在、仮本堂として使用しています。

旧本堂におまつりしていた聖観音菩薩、地蔵菩薩、不動明王と、阿弥陀如来座像および脇侍の観音菩薩、勢至菩薩、および兜跋毘沙門天立像と地天像、二鬼(藍婆、毘藍婆)像をおまつりしています。


◆護摩堂

不動明王を本尊とし、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の、併せて五体の明王(五大明王)をおまつりしています。

毎月28日、不動明王の御縁日には護摩祈祷を修し、2月3日節分には、星供の護摩祈祷を修します。四国三十六不動霊場の第三番札所となっております。

護摩堂前には、石造の不動明王像をおまつりし、水を掛けてお参りして頂くようにしております。(水かけ不動)

沙門天について

◆最明寺の毘沙門天像

像の高さは151.6センチで、ほぼ等身大です。

一木造で、忿怒の面持ちですが厳しいことはなく、上品で穏やかです。

美術史家の松浦正昭先生の指摘によれば、冠の天冠台の形式、および耳に残る渦巻き文様などの特徴により、平安時代の十一世紀後半に作成されたものと考えられるとのことです。

腰の構え、足の動き、眼の動きなど正確に身体を立体的に写し取った優れた作品であり、とにかく動きがよく都の一流仏師が制作したものであろうと推定されました。


毘沙門天は別名、多聞天とよばれます。元々はインドの神様で、クベーラとかヴァイシュラヴァナ(毘沙門はこの言葉を音写したもの)といい、財宝の神様として有名です。地下の財宝を管理しているとされます。

毘沙門天信仰はインドから中央アジア、シルクロードへと伝わり、ここでも盛んになりました。この地域では財宝神に加えて武闘神の性格も加わりました。

西域の兜跋国(とばつこく)が敵の攻撃を受けたときに、守護神として地中から毘沙門天が出現し、国を護ったという伝説があります。その姿は、地天(大地の女神)の両手の上に立ち、藍婆(らんば)と毘藍婆(びらんば)という二鬼を従えています。この形式は特に兜跋毘沙門天といい、最明寺もこの形式の像です。

戦国時代、越後の上杉謙信は熱心な毘沙門天信者で、「毘」の字を旗印にしたり、戦場で毘沙門天をおまつりしたともいわれます。


◆財宝神として

武闘神の性格を示すいっぽうで、財宝神としての信仰も残っており、日本では七福神の一人とされています。

毘沙門天を説いた経典には、毘沙門天を信仰することにより、人々に愛される、長生きできる、家業が成功するなどの十種類の福を授かることが説かれています。


◆宝塔と三叉戟

財宝神と武闘神の性格は、毘沙門天の姿に現れています。最明寺の毘沙門天像は、左手に宝塔を捧げ、右手で三つ叉の戟(ほこ)を執っています。宝塔は財宝神の象徴であり、戟は武闘神のシンボルです。宝塔の中には信者に授ける幸福が詰まっていますが、自分のためではなく、人の幸せを祈ることなくしては福を得ることはできないと経典に説かれています。戟は仏法を護るための武器ですが、私たちにとっては、煩悩を打ち破るための心の剣とも言えるでしょう。


◆獅子噛

毘沙門天の衣は、中国西安に残る秦の始皇帝の墓、兵馬俑の武人像のように、中国風の鎧を着けています。足元は裾をからげ、両袖もたくし上げて活動しやすい姿を表現しています。

腹部中央には、大きなライオン(獅子)のような顔が見えます。このチャンピオンベルトのような装飾は、鎧の紐がほどけぬようにしっかりと留めたもので、獅子噛(しがみ)といいます。噛みついたら絶対に離れないという意味で、しがみつくという言葉はここから生まれたそうです。