本を書くということ

2022年3月30日に「社会に最先端の数学が求められるワケ(1) 新しい数学と産業の協奏 / (2) データ分析と数学の可能性 という2分冊が日本評論社から発売された. 横山はこのうち (2) の前半パートである1〜4章と, 座談会議事録のとりまとめを担当した. 僕にとって人生で初めて, 表紙に自分の名前が載った書籍である. 表紙デザインは専門のデザイナーさんが手がけたものだが, プロの仕事は本当に素晴らしい. 良い意味で「数学書っぽくない」ところと, 某柑橘系板ガムの包み紙っぽさが気に入っている.

ちなみに第2巻のオビにある "No Mathematics, No Possibility" は僕の案が採用されたものである. 一番最初の試作案では Possibility ではなかったのだが, 何であったかはおそらく予想がつくだろう(ヒント:某レコード会社). さらに付け加えると, この本のタイトル「社会に最先端の数学が求められるワケ」は, 第2巻の共著者である 杉山真吾君(日本大学助手)の案で, さらに第1巻のオビのフレーズ "No Mathematics, No Progress" は, 第1巻著者の1人である岡本健太郎君(和から株式会社)の案である.

今回「本を書く」という経験を通していろいろな気付きがあったので, 簡単にその舞台裏を書いてみたいと思う. もちろん書けることだけに限られるので, ゴシップ記事のようなものではないことを最初にことわっておく. また以下は全て個人の見解である.

この書籍が生まれた経緯は1年半前にさかのぼる. 日本にはいくつかの学術機構が存在し, 例えば科研費でおなじみの 日本学術振興会(JSPS)や 科学技術振興機構(JST)などは有名である. このうち後者の JST は公的シンクタンクを有しており, 研究開発戦略センター(CRDS)という組織を抱えている. センター長は化学者の野依良治氏であり, ご存じの通り2001年にノーベル化学賞を受賞した研究者である. この組織はいくつかの部門に分かれており, このうちシステム・情報科学技術ユニットの上席フェローとして若山正人さん(前・東京理科大学教授/副学長)が籍を置かれている. 若山さんは2021年から NTT の基礎数学研究センタ・プリンシパル(事実上の所長)に移籍され, いつ休まれているのか不思議なほど多忙な先生なのだが, 実は元々僕の母校である九州大学に長年在籍されており, ポスドク時代の CREST(JST の大規模研究プロジェクト)でもご一緒するなど昔からお世話になっている方である.

2020年の夏, 若山さんから携帯に突然電話があり, CRDS で産業数学に関するセミナーシリーズを運営したいので手伝ってもらえないかと打診があった. 願ってもない話だったが, 後期の講義の日程やその他もろもろの業務が詰め詰めになっていたためにやむなくお断りした. 結局, 松江要さん(九州大学准教授, 第1巻の著者の1人)を含む数名の方によって, 全16回のセミナーが開催された. 特徴的なのは, 各回のテーマが決まっており, それぞれの回でアカデミック業界と産業界からそれぞれ1名ずつ講師を招き, 双方のインタラクションを促すというコンセプトである. この「数学と科学, 工学の協働に関する連続セミナー」シリーズの報告書は ここ で閲覧することができる.

時は流れ, 2021年の初夏のことである. 僕が帰りのスーパーで晩酌用のビールを物色していたとき, 再び若山さんから突然の電話があった. 詳しくお話を聞くと, 上記のセミナーシリーズを書籍化するという企画が持ち上がっており, メンバとして加わって欲しいという依頼だった. 1度目は断ってしまったことと, 企画としてはなかなか稀有なもので興味も湧いたことから, 今回はお引き受けすることに決めた. これに伴い, 2021年8月から2022年3月の期間で, 正式に JST-CRDS の特任フェロー兼任となった. 30代中盤の自分には「フェロー」という肩書きがなんとなくむず痒かった(フェローという肩書きは例えば research fellow や postdoctoral fellow など若手にも普通に使われるので, 別に偉くなったとかそういう意味ではない. 単に個人的な感情である).

2021年は感染症の流行もまだまだ予断を許さない状況であったため, 全ての編集会議はオンラインで開催された. 通常「本を書く」というのは, 著者がイチから構想を練り, 文章を自分流に認める行為である. しかし今回はそうではなく, セミナーで提供された講演ビデオ・スライド・報告書をもとに, 本として読める文章を書き上げなければならないという制約があった. つまり「自分の専門でない話題を, 自分の言葉で」世に出すという, とんでもないハードルが課せられたのである. 正直なところ, 7,8月あたりは不安しかなかったことを覚えている.

さていよいよ本の執筆となるわけだが, あなたは本を書くという行為全体のうち, 一番時間と体力を要するのはどの行程か想像できるだろうか. そりゃあ本を書くんだから原稿をタイプしているときだろうと思うかもしれない. しかしやってみてびっくりしたのは, 原稿を書いているときは それほど大変ではない という事実だった. むしろ全行程中一番楽だったと言えるかもしれない. もちろん100ページの原稿を書く作業は時間と体力を使うわけで, さらに共著者の原稿もチェックするため, 計200ページ近くを捌くのは容易ではなかった. 実際, 追い込みの9,10月あたりは朝6時に研究室に行き, そこから篭って9時間ぶっ続けで執筆なんてことも数回あったが, むしろ書けば書くほど完成に近づいていく高揚感の方が大きかった気がする. また我々研究者は, 常日頃から論文や研究集会の報告集, 講演スライド, もしくは一般誌の記事などを書き続けているので, いわゆるルーティン・ワークと割り切れた点も大きい. 最終的に, 細かい修正やレイアウトの調整などを除けば, 担当箇所の原稿は2週間程度で書き上げたと思う.

では本当に大変だった行程は何かと言われたら, それは 書き始めるまでの準備段階 に尽きる. 事実, プロジェクトが動き始めたのは6月あたりだが, 執筆を開始するまでになんと2ヶ月半もかかった. この間何をしていたかというと, 担当する分野の勉強に費やしていた. 数学という意味では同じ分野かもしれないが, 専門とは異なる分野を自分の言葉でまとめ上げるのは尋常ではない難しさである. とくに今回は, それぞれの分野の入門記事を書くのではなく, 最先端の話題をできるだけわかりやすく紹介しなければならないという, 一見矛盾した要求を満足しなければならなかった. さらに自分の専門とは数学的記号も用語もまるで違うため, 明らかに素人が書いたなというポイントは一瞬で専門家に見破られてしまう. どこまで準備をすれば自分の言葉に落とし込めるのか, 猛烈なプレッシャーの中, 暗中模索の2ヶ月半だった.

悩みに悩んだ結果, 執筆開始にあたって僕はある決断をした. それはこの本を「数学の教科書」にはせず「最先端の話題にちょっと触れられる読みもの」にすることだった. 最先端のソリッドな感覚を感じてもらえるよう, あえて過保護な記述はせず, 雰囲気を味わってもらえるような構成にこだわった. この意味で, 専門家の目から見ると少々物足りない印象になるかもしれないが, 初学者の目線に立った語り口を魅力にできたのではないかと思っている. 実は担当を決める会議において, 暗号など明らかに第1巻の方が専門に近い僕を, 若山さんはあえて第2巻に指名した経緯がある. 専門バイアスがかからないための配慮もあったと思うが, 結果として専門外(だが興味のあった分野)を仕事として勉強できる機会を得られたことは, 何事にも変え難いものであったと感謝している.

次に大変だった行程は, 執筆が終わった後の「講演者校正」である. これは文字通り, 我々が執筆した記事を講演された先生方に読んでもらい, 数学用語や数式の誤りはないか, 言い回しに問題はないかなどを確認する作業である. ただし, この作業そのものは論文のレフェリー(論文誌に掲載できるかどうかの査読)と似た作業であるため, それほどハードルは高くない. では何が大変だったかというと「版権の問題」と「どこまで喋ってよいか問題」の2つである.

まず「版権の問題」についてである. 純粋数学の研究ではほとんどこれが問題になることはない. 事実「この数式には肖像権がありますので使用料を要求します」とか「私はモデルなので, 顔写真を報告集に掲載するときは事務所を通してください」などという話はこれまで聞いたことがない. しかし, 産学連携の分野における応用数学研究では, 企業とのコンフィデンシャル(機密的)なデータや図表などの公開基準や特許関係, 使用許諾のルールが厳格に決められている. それによって, 例えば図表ひとつとっても「スライドのものをそのまま掲載してOK」「公開不可なパートのみ修正し機関の検閲を通過すればOK」「グラフのみ丸ごと作り直せばOK」など細かい指示が飛び交う. もっと最悪なのは「交渉したがデータの使用許諾が得られなかったので, この節を丸ごと削ってくれ」という依頼である. 寄せ書き集ではないので, 1節丸ごと抜け落ちると全体の流れや用語の相互参照はすべて崩壊する. つまりそれは全面改訂を意味するのであり, 僕はこれを2度経験した. さすがに2度目のときは晩酌で深酒をしてしまった記憶がある. このようなやりとりを, 基本的には我々著者が行った. プロの編集者の凄さをこのとき思い知った. 今後万が一数学の業界を去ったとしても, 僕は編集者にはなれないと思う.

次に「どこまで喋ってよいか問題」だが, これも先ほどの版権問題に近い. このセミナーシリーズは最先端の話題を提供するものであるため, 今後こういう研究をしたい・この流れで進展するだろうという発言も少なくない. それゆえ, 講演者の方はややざっくばらんに話される傾向にある. これは通常の研究集会ではあたりまえの光景なのだが, 書籍として日本中に残るとなると話は別である. 原稿の書き方次第ではビッグマウスと勘違いされかねないし, 出版後1,2年で定説が覆ることも十分ありうる最先端の話題であるから, 最悪「間違ったことが書いてある本が売られている」という事態を招きかねない. これは講演者・著者双方にとって過度なプレッシャーである. 記事としては有体なところまで書いておいて保険をかけておくのが安心ではあるが, そうではなく教科書には書いていないようなことに触れられることがこの書籍のコンセプトだし・・・と七転八倒の日々が続いた.

ところで「セミナーの報告書が既にあるのだから, それをトレースすればいいのでは?」と思う人もいるかもしれない. 事実, 僕も最初はそう思っていたのだが, ここ に公開されている報告書と出来上がった書籍を見比べていただければ, それは甘いということがわかるはずである. 報告書は書籍とは全く異なるものであり, この翻訳作業がいかに難しいか感じていただけると思う.

苦行のような講演者校正期間を乗り越えた後, 2,3度の著者校正を経て印刷所入稿となる. ここでは, 出版元の日本評論社の編集者の方に圧倒された. 大賀雅美さん(以前, 月刊誌 数学セミナー のご担当でもあった)の原稿チェックには驚嘆しきりであった.

原稿執筆にあたり, 編集部からは事前に書き方のおおよその目安が提供される. 例えば「この時」とは書かずに「このとき」, 「である事」とは書かずに「であること」のような指示である. 他にも人名は日本語・カタカナ表記にするなど, いわゆる「読み手にとっての読みやすさ」を意識することをここで学んだ. しかしそれでもうまく書けないものなのだが, 大賀さんは原稿の隅々までチェックをしてくださり, かつ「この一文はこのようにしてみてはどうでしょうか?」という提案も数えきれないほどしてくださった. 「こうしてください」ではなく「こうしてはいかがですか?」という, その姿勢と優しさに大変助けられた. そのお陰で, 最終稿ではやわらかな印象の文体に仕上がったと思っている. ちなみに最初に掲載した写真は, 印刷所から著者見本献本が届いた際に大賀さんが撮影してくださったものである.

最後に冒頭に収録された座談会についてである. この座談会には明示的にメンバとして書かれてはいないが, 業者から届いた書き起こしを杉山君と僕で成形し, 読める形まで持っていく作業を1ヶ月ほどかけて行った(第1巻の方は松江さんと岡本君が同様の作業に携わっている). 確か11,12月頃のことである. 九大時代の後輩で NEC の井上明子さんや, 都立大の同僚である高津飛鳥さんなど, 長らくの知り合いも参加されていたので企画自体は楽しかった. この章のお陰で書籍の雰囲気がぱっと明るくなったと思うが, その編集作業には相当の労力を要した. いわゆる話し言葉を読み言葉に変換する作業がこれほど大変なのかと痛感させられた. 僕は学部4年のときに教育実習を経験しているが, その時の書き起こし作業の実に3倍の量をまとめたことになる. ただこの経験は貴重なものとなった. 雑誌のインタビューや座談会をまとめる編集者の方々には頭が上がらない. ちなみに実際に書籍に掲載されたのは生の議事録のおよそ半分であり, 残る半分はとても外に出せない内容も多く含まれていた. これは関係者だけの秘密であり, 楽しみであった.

のべ8ヶ月, 本当に大変なプロジェクトであったが, 完成した本を手に取った瞬間にその苦労は吹き飛んだ. 言葉に表すのは難しいが, 何というか「自分の生きた証ができた」という心情に近いだろうか. 著者見本献本は担当した方が2冊届いたので, 真っ先に福岡に住む両親に送った. これまで僕を支えてくれてきた祖母と母に, 少しでも親孝行できていたら嬉しいなと思っている.

最後に: 転売対策(?)として, サイン希望の方には喜んでさせていただきます. たぶんサインしない方が商品価値は高いと思います(笑)


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