映画監督の経験

僕は20代の頃, 数学に没頭しつつ自主制作映画を作っていたことがある. 時間と融通がきく若いうちにやっておきたかったからである. 指導教員の先生をはじめ, たまに知人と数人で飲んでいるときに「彼は映画監督なんですよ」と紹介されることもある. どんなに小さな作品でも映画は映画なので, 言った者勝ちである. そのときの想い出を少しだけ綴ってみよう.

僕は大学で映画研究部に入った. 映研といえば皆が8ミリビデオカメラを手に映像制作に勤しんでいる姿を想像するかもしれないが, そんな人はごく一部だった. 九大映研はとても自由で, 毎週水曜日の部会に来ても来なくてもいいし, 部会といっても大抵部室でマリオカートかスマブラをするくらいだった. たまに新作映画を何人かで観に行く企画があった気がするが, 僕は映画はおひとりさまで観たい派なので参加したことはなかった.

学祭では毎年本格カレーの屋台を出す企画と自主制作映画の上映会の2班に分かれ, 僕はカレー班だった. 一人暮らしの1,2年生の家で「カレー会」と称しスパイス調合の研究をしたり, チャイ・ラッシー(飲み物)も自前で作った. 映研カレーは結構好評で, 一度だけイースト菌の配合を間違えて化け物みたいなナンが錬成された以外はとてもよくできたと思う. 同じ研究室に進んだ島崎さん(いまはご結婚されて森谷さん)が演劇部だったので, 買いに来てくれたお礼に演劇を見に行ったりした. 確か「九大演劇部=九演=9円」ということで焼き鳥が破格の9円で売られていた.

話がそれたが, 実際に映画を撮ってみたいと思うようになったのは学部2年の終わりである. 1つ先輩の塚本哲弥さんという人がいて, お人柄も優しく気さくなのだが, その性格をそのまま投影したような短編映画が好きだった. 塚本さんは就職された後も自主制作映画のコミュニティに参加, 僕も一度だけ「カエルの子がカエル」という作品の予告編制作を担当した. この作品は福岡インディペンデント映画祭優秀賞を受賞した. お母さん役の人がやけに薬師丸ひろ子さんに似ている.

もう一人, 大部剛さんも尊敬する先輩である. 大部さんは多作の監督なのだが, 多くの賞を総ナメにしていた天才であった. 確か現在も映像制作のお仕事をされているはずである. 大部さんがすごい点の一つに, 福岡のプロの役者さんを俳優陣として招くコネクションがある. いつどうやって知り合ったのか分からないが, 福岡のローカルタレント, ラジオパーソナリティ, 演劇俳優を招いてどんどん作品を連発する姿勢はただただ格好良いと思った. 大部さんのおかげで, 僕の映画にもプロの俳優さんが出ていただけることになった. しかも大変申し訳ないことに, 大抵の場合ノーギャラで出演していただいた(足代や食事代はもちろん用意したが, 国立大生の懐事情を察していただいたのか出演料を請求されたことはなかった).

記念すべき1作目は2005年の夏休みに撮影した. 出演者は皆映研のメンバーだったが, 当時1年生でイベントコンパニオンをしていた中馬祥子さんなど, 役にピッタリはまった人にやってもらえたのが幸運だった. ちなみに中馬さんはその後 FM 局のラジオパーソナリティを歴任, プロの道に進んだ. 映画は「Here I am」という作品で, 今ではお馴染みのタイムループものである. 京都の演劇部の作品がモデルになっており, 原作者に許可を得て映像用に脚色した作品である. 40分くらいの作品で, 自主制作映画としては割と長尺である. この映画では「バク」という謎の宇宙人(?)役が必要で, 役者探しに難航した挙句, 数学科のクラスメイトだった本田淳史君(僕と同じ数学者で, 現在は横浜国立大の准教授である)にやってもらった. 撮影もほぼ全て彼の自宅でやった. 今はなき九大箱崎キャンパスのそばだったので, 福岡空港の着陸機のエンジン音が重なるたびに NG カットを連発した. 全編8ミリ撮影の本作は学内上映会で1度, 学祭で数回上映されたが, コンペティションには出品しなかった.

続く2作目「シャッタースピード」は2007年に制作した62分のオムニバス映画で, 「たまご屋のプリン」「明日の記憶」「不運予報」の3作品からなる. 30万円くらいの Sony プロ向けカムを知り合いのお医者さんから借りて全編デジタル撮影した. 主要キャスト陣が全員プロの俳優さんというとんでもない企画だった. 「たまご屋のプリン」は「劇団ぎゃ。」(現在は解散)の上野藍さんと三坂恵美さんによる5分のサイコホラーで, 左右2画面を別撮りして同時進行させるのに骨が折れた. なおお二人は福岡で有名な劇団「あんみつ姫」の舞台に立ったこともある.「明日の記憶」は舞台女優だった中原智香さんとタレントの吉嶺亜夢美さんによる(またもや)タイムループものであるが, 「Here I am」よりもかなりシリアスベースに改変されている. 最後の「不運予報」は「空間再生事業 劇団 GIGA」の菊沢将憲さんと手島曜さんによる「現代版恐怖新聞」的なスリラーである. とくに菊沢さんには大変お世話になったが, その後菊沢さんとのお仕事を続けるきっかけとなった. ちなみに「明日の記憶」はもともと「ここにいること」というタイトルで, その脚本調整中にお笑いコンビ「いつもここから」のあるネタを見ていたらトリックのアイデアが浮かんだので「いつもここから」にタイトルを変えようかと本気で考えたが, 結局ポシャった.

このうち最後の「不運予報」がとくに思い入れが強い. 劇中で流れるラジオ番組は九大放送研のメンバーに収録してもらうなど細部にこだわった. この作品は2008年の北大映画祭にて客席審査員賞(観客投票によるベストムービー賞)を受賞, そのときのトロフィーは研究室に飾ってある. すごいのは学生企画の映画祭にも関わらずプロの監督をゲストに迎え, 交通費・宿泊費もすべて出してくれたことである. 受賞の際, ゲストだった早川渉監督から「映像もスタイリッシュだが音響が素晴らしい. 君はエンタメを極めた方がいい」と褒めてもらったことが忘れられない. なお早川監督は当時ブレイク前の堺雅人さんを主演に迎えた映画「壁男」の監督で, 共演は小野真弓さんである.

ちなみにもう時効だと思うので書くが, お借りしている立場でありながら高額なデジタルカムを割と乱暴に扱った. 空き缶がカメラの直前で跳ねる0.7秒のカットのために, 超高級レンズ目掛けて空き缶を30回くらい投げて撮影した. ひどい話である.

さて「不運予報」がいい感じに評価された後, 僕は大学院の修士2年目となった. このあたりから数学が忙しくなってきたので, あまりまとまった時間がとれなくなった(キャンパスが箱崎から伊都に移転する期間だったことも大きい). 僕は撮影よりも編集が大好きなので, 編集だけなら家にこもって深夜にやればいいのだが, 撮影となるとスケジュール合わせがとても大変なので, 新作を自分で撮ることが難しくなった. そんなときに菊沢さんから「10分の短編映画を撮るので協力してほしい」と言われ, 快諾した. 確か故・黒澤明監督にちなんだ国際フィルムフェスティバルへの募集企画か何かだったと思う. ともかく菊沢監督・横山編集で完成したのが「親父と俺, ただ面白く生きる也。」というモノクロ映画で, 菊沢さんのお父様とお祖母様が出演されたドキュメンタリーである. これは日韓ムービーアワード2009というコンペティションで日韓海峡圏映像賞を受賞した. 受賞の連絡が来たときはとても感動したのだが, ちょうど同じタイミングで未解決問題が解けたので, そっちの方がもっと感動した. 本作は2020年にも東京・渋谷 Loft 9 で上映された.

菊沢さんとのお仕事はこの後も続き, 福岡ローカルのケーブルテレビにて放映された連続ドラマ「夕焼けアパート」もすべて編集した. 初めてのコメディで, SE(効果音)の入れ方にとても苦労したのをおぼえている. しかも撮影用カメラが1台しかないので, 全カット割を別撮りし, 自然にシンクロさせなければならなかった. とくに大変なのが食事のシーンで, リテイクするたびにテーブルの食事を元に戻す作業が大変だった. しかも本作では食事のシーンがやたらと多かったので骨が折れた.

同時にいくつか自分でも短編を撮ったが, 公式に上映したことはこれまでに一度もない. もし機会があればいつか上映してみたい(が, あまりに編集が雑で恥ずかしい).

菊沢さんは現在東京で, プロの俳優として大活躍中である. 劇場映画にも多数出演されている. また映画監督としても, ぴあフィルムフェスティバルで入選を果たされるなど華々しい経歴である. 菊沢さんとお話ししたりお姿を見たりするたびに思うことは「続けることの大切さと難しさ」である. 僕は結局数学者になったが, 生業であっても続けることは大切であるし, ときに難しいのである.

僕は今後映画を自分で制作することはないと思うが, その代わりによく結婚式のプロフィールビデオを依頼される. これまでに14組の PV を作った. 僕が PV を作った夫婦は絶対に離婚しないというジンクスがある. 自分の結婚式のときも自分で作ったので, お金が浮いて助かった. なお PV は仲の良い知り合いにしか作らない代わりに, すべてノーギャラで引き受けている. 映研時代のせめてもの恩返しみたいなものである.

Contact:  s-yokoyama [at] tmu.ac.jp