昭和20年8月20日23時55分、太平洋戦争終結のための降伏文書を携えた河辺虎四郎中将以下15名を乗せた緑十字機が鮫島海岸に不時着しました。
海岸で見張りの番をしていた鮫島集落住民の大橋政治さんが助けを呼ぶため集落へ走りました。そしてすぐに取って返し日付が変わった21日午前1時ころ降伏軍使一行を鮫島集落まで案内し、山中早苗さん、鈴木邦夫さん、中田正行さん、柴田健さん、池田基市さん、山中義夫さん達鮫島住民が支援のためリヤカーを用いて何度も行き来し降伏文書等の重要書類の入った大量の鞄も無事に運ぶことができました。
こうして危うく途切れかけた終戦への歩みが、鮫島住人たちの手助けにより再び平和へ一歩踏み出したこの場所は、今日の日本につながる大切な道の一つとなりました。
降伏軍使一行が不時着という危機を脱したあと、鮫島海岸から集落にたどり着き最初に立ち寄った場所です。
この太田屋の太田康さんは集落で唯一電話のある農業会鮫島出張所の鍵の管理をしていたので、真夜中に訪ね出張所の鍵をあけてもらいました。
そのあと一行はここで濡れた衣服を乾かし、太田ゆくえさんの指示で接待を任せられた娘の太田妙子さんから温かいお茶のもてなしを受け、緊張状態が続く中一時の平和の休息所となりました。
海岸で見張りの番をしていた鮫島集落住民の大橋政治さんが、降伏軍使一行の乗った緑十字機の不時着を最初知らせに走った場所です。
当時、戦争には多くの若者が徴兵されていたため、10代の若者を中心に警防団組織が作られていました。不時着の日の不寝番だった山中早苗分団長と鈴木邦夫さんのもとへ緊急事態が伝えられました。
緑十字機の機長 須藤大尉が東京へ不時着を知らせる緊急電話をかけようとした場所です。空襲の影響で電話線は復旧しておらず、東京へはつながりませんでした。
電話は唯一近くの袖浦郵便局につながったため袖浦飛行場へ連絡をとり軍用トラックの手配をすることができました。
その後再び、全権の河辺虎四郎中将が東京へ連絡を試みるも同じくつながることはありませんでした。その様子を近くで見ていた警防団の鈴木邦夫さんは、河辺中将が「勅使だ、勅使だ」と電話で話していたことを鮮明に覚えていました。
降伏軍使一行が浜松航空隊(現航空自衛隊浜松基地)へと向かった道です。
唯一連絡のとれた陸軍明野飛行学校天竜文教所(袖浦飛行場)から来た軍用トラックと浜松憲兵隊上原大尉の車に降伏軍使一行15名が乗り込み、農業会鮫島出張所を後にします。
河辺中将、軍使、搭乗員一同は車に乗り込む前、お世話になった住民に対して最敬礼をして感謝をしました。
※左記の地図は現在の地図を使用しているため当時の道とは異なる可能性があります。
当時の空襲によって多くの電話線が切断されていて、全権 河辺虎四郎中将、機長 須藤大尉らが農業会鮫島出張所からかけた電話は、この旧袖浦郵便局の電話交換手までしかつながりませんでした。
しかし、深夜1時半に電話交換手は郵便局から500mほどの距離にある陸軍明野飛行学校天龍文教所(袖浦飛行場)の竹原中尉を電話口に呼んでくることができ、須藤大尉は応援の要請をすることができました。これで浜松憲兵隊への連絡と軍用トラックを手配することができました。
袖浦飛行場は1600mの滑走路が2本あるものの小型戦闘機の訓練場で大型の飛行場ではありませんでした。また終戦後に諸外国の軍隊に飛行場を使用されることを避け、再び農地として平和の地に戻したいとの考えから滑走路を塹壕に作りかえていた後で、滑走路は使用できませんでした。
須藤大尉は仕方なく袖浦飛行場留守部隊隊長の竹原中尉に、浜松憲兵隊への連絡と農業会鮫島出張所へ軍用トラックの派遣を要請しました。