あなたの立つ場所
ヨシュア記5:10-15 コリントの信徒への手紙一 3:10 -17
2021年も不安と恐れ、混乱の年であった。新型コロナウイルスだけでなく、人の世界の冷たさ、無関心さ、残酷さを思わされることが多かった。このような状況に、終末の到来だという声も聞く。マルコ13章は、騒乱や戦争、地震や飢饉、迫害の出来事に対して、終末、裁きの時が近いことを主張する人々がいたことを示唆している。ところが、13章は「そのようなことは必ず起こる」と言うが、すぐに「まだ終りではない」と断言している。つまり、戦争や災害、病、騒動はいつの時代にも必ずあり、それが終末の到来を特定するものではない。マルコが論点にするのは、いかなる現実の状況においても、「人の子」が来られるという希望を失うことなく(すでに神の国はキリストの受肉、十字架と復活の出来事においてすでに示されている)、今の現実の世を、キリストの弟子として精一杯生きていくことこそが言われている。ヨシュアは頑なで難しい民を約束の地に導くことができるか不安や恐怖を感じていた。しかしヨシュアに現れ神の使いは「あなたの味方」とは言わない。そもそも我々にとっての「味方」は、自分に都合のいい存在である場合。しかし、神が我々の味方であるということは、ただ私たちを聖なる存在の前にひれ伏せさせるということだと聖書は言う。神が味方か敵か、信じるか否かと問うのではなく、神の前にひれ伏し、神を拝む、そこからすべてのことが始まる。パウロは「自分は熟練した建築家として、建物の土台を据えた」と言う。「教会」は、神社仏閣のような建物のことではない。「熟練した」とは、「知恵ある」という言葉で、我々の土台は人の知恵ではなく、十字架のキリストという「神の知恵」によって据えられた。だから我々は、キリストの十字架に己の罪の姿を示されるが、キリストが復活させられたように、罪を赦され、新たに生きる者とされる。これこそが、神の愛であり神の義であり、神の知恵。この土台に立つ者は、その上に建てる素材を注意する必要がある。ただし、仮に私たちが間違ってしまっても、神の裁きに耐えないものしか建てることが出来なくても、この土台の上に立つ限り、終わりの日の裁きの火をくぐりぬけて、復活のキリストの新しい命、永遠の命にあずかることができる。聖書の「場所」とは単に一定の区画を示すのではなく、「人が立つ所」つまり、その人がその人として立つ、次の行動に移るために立つ そういう場所を示している。新しい年を迎え、新しい歩みを始めていく我々は、今こそ、自分たちの立つ所をしっかりと覚えたい。今、平伏し、神を拝むそのことから、共に始めたいと願う。そのことが、何より私たちに新たな力を与えてくれるはずだ。
あなたこそすべてを成し遂げる
エレミヤ書 14:17-22 ヨハネによる福音書 7:37 -39
エレミヤは、裏切りと迫害を受けつつも、そのイスラエルの民のために執り成しの祈りをささげ、真の希望を語る。イスラエル側には、罪の赦し、希望の根拠はない。ただ、主なる神ご自身の御名と契約だけが、救いの根拠である。神の愛と赦しに望みをかける以外にない。ところが神はエレミヤの祈りが聞かれないだけでなく、執り成しの祈りをすること自体をも禁じられる。ただ、神は17、18節で、エレミヤに決定的なことを伝えられる。恐らく背景には、紀元前597年のバビロニア軍の攻撃とその前後の日照りによる飢饉がある。干ばつ、飢饉は民の不従順に対する神の裁きであり、決定的な滅びの時が告げられている。しかし、それ以上に驚くべきことは、「わたしの目は夜も昼も涙を流し とどまることがない」と神ご自身が言われることだ。そこには、「悲しい」などという簡単な言葉では言い表せない神の切実な、真の深い深い憐れみ、まさに「命に共感して下さる存在」がある。三大祭りである仮庵祭の祭りは、捕囚期以降の時代、シロアムの池から運び上げられた水が神殿の祭壇に注がれ、「命としての水」を祈り求める要素が強くなった。その祭の最終日に、イエスは立ち上がり、復活者イエスに自分の全存在を投げ入れて生きる者は、その渇きを癒すだけでなく、その人の内から生きた水が川となって流れ出ることが約束される。「いのちの水の泉」は、エレミヤ書2:13、17:13に出てくる。そこではイスラエルの民が生ける水の泉をわざわざ捨てて、水をためることのできない無意味な水溜を選んだことが厳しく批判されている。エレミヤは、我々が生きるための「いのちの水の源泉」は、主なる神ご自身だと明確に示す。「生きた水」はヨハネ福音書全体に織り込まれている、重要なテーマ。「言=イエス・キリスト」への信仰を通して、神の子として生まれることを言う。それは、上から生まれなければならない、つまり誰でも水と霊とによって生まれなければならない。そしてそれは、十字架でイエスの脇腹から流れ出す血と水によって示される。イエスの十字架の死は、新しい命の到来を告げる「生みの苦しみ」である。エレミヤにおける真の神も、生みの苦しみのために涙を流す。新たな信仰共同体は、イエスの脇腹から誕生したのである。「生きた水」は、エレミヤが言うように、命の源泉である神から湧き出る水。希望とは「生ける水の源」。イエスの脇腹から流れ出す命の水であり、イエスの脇腹から誕生した者、そしてこの者ら自身もまた、他の人たちのための新しい命の源となることである。人がこれまで歩んでいた古い道は、自身のエゴによって行き止まりであり、他者に至ることはなかった。それは自らの力によって解決されることはできない。だからイエスは「渇いている人は誰でも私のもとに来て、飲みなさい」と招く。救いは、希望は、「生ける水の源」なる神の切実な愛によって、つまりキリストの十字架の苦しみによって与えられるから。そして、イエスの命を通して、私たちはいつも新しい命へと、隣人との出会いへと導かれていく。「あなたこそ、すべてを成し遂げる方です」。エレミヤが知らされた、真の神への希望は、主イエス・キリストによって示され、あなたから隣人へと受け継がれ、愛と絆が完成していく。
私の心は喜び踊りました
エレミヤ書 15:15-21 ルカによる福音書 19:1 -10
15章は執り成しの祈りさえも神によって拒絶される残酷さに始まっている。エレミヤはこの不条理の中で「あなたの御言葉が見いだし、むさぼり食べた時、それはわたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました」と言う。「見出す」とは、神がその所で出会って下さることであり、単に知識ではなく、信仰の本質にかかわる出来事。エレミヤは、我々の唯一の支配者であり、唯一の救いである主なる神に出会ったということ。それは腹に収めて「わたしのもの」となり「喜びと歓喜」になる。しかし、多くの場合、人は「新しいブドウ酒」を喜ぼうとはしない「古い革袋」。ザアカイは同胞から裏切り者、罪人と見なされていたが、木に登ってまでもイエスに出会いたいと思っていた。イエスに声をかけられた彼は、まさに喜びと歓喜に満たされただろう。ザアカイの名を知らないと思われるイエスが、その名(純粋な者の意)を呼び、知っているはずの人が「罪人だ」と見下し名を呼ばない、皮肉で残酷な世界。神学者アンビヨンムは「この世界は、今どの時代よりも、押しひしがれた者たちの絶叫に満ちている。『神は死んだ』という。しかし、まさにこのような叫びに呼応して、その苦難に共にあずかる者は、かえって、この現場に隠れて存在したもうキリストに出会うことが出来る」。み言葉を食べるという表現には他にも見られる。そこには、人に対する神ご自身の、想像を絶する悲しみ、嘆き、叫びが記されている。そして神の言葉は、人の願望をはるかに超えた、この世界に生きる我々を造り変える真の言葉。それは神の愛そのもの。それを食べてそしゃくすればするほど、この世界とのギャップは大きくなる。しかし聖書の言葉は、明日からの自分を変えていく力をもっている。そして他人をも変革していく。だからエレミヤは、その神の言葉を人々に伝えなくてはならない。その葛藤中でまさに「神は死んだ」と言う絶叫が、体中に反響する。しかし神は、エレミヤが「主なる神こそ、我々の唯一の支配者であり、唯一我々に救いを与える存在」という神に再び出会わせて下さる。その時、エレミヤの召命の時からの約束「わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す」に再び出会うのだ。我々が神の言葉を食べることが出来るようにされるのは、神の独り子イエス・キリストの十字架での絶叫、命の贖いという、神の愛によるものだ。キリストの命によって肯定され、赦されたことを知らされる我々は、その十字架の福音を確かにこの胸に収め、自己を改革せざるを得ない者である。「神は死んだ」というこの世界の中で、今日もキリストに出会うことが出来るはずだ。
信仰のない私を
エレミヤ書 17:14-18 マルコによる福音書 9:22 -29
我々は、罪の赦しということをどこで実感するのか。パウロは神に創造された人間の不可欠な構成要素の「良心」に責められることのない生き方を尊重し、勧める。ただし、人は多くの場合はこれと逆のことをしてしまう。例えば神への意識を持つことにある安息日は、おろそかにされたり、逆に原理主義的に陥って他者を裁く特別な日になってしまった。儀式もまた欺瞞に陥いるが、我々の良心もいつも罪の影響に危険にさらされている。新約ヘブライ人の手紙は、キリストが私たちの救いのためにご自身をいけにえとしてささげ、これによって私たちは、救いのために誰かの血を流す必要がなくなったことを言う。それが「私たちの良心が死んだ業から清められる」(ヘブライ9:14)と表現される。マルコ9章の子どもの癒しは、他の福音書と異なり父親とイエスとのやり取りを載せる。私たちの生きる現実には、偽りの善意を売り込んで、全てを・命さえ、むしり取ろうとする悪人がいる。この父親もそういう現実にさらされてきたのだろう。その苦悩が「もしおできになるなら」に表されるのかもしれないし、意地悪な見方をすれば、別にイエスが何者であろうと治してくれるなら何でもいいのだとも言える。イエスは「なんと不信仰な時代であろうか」と嘆かれる。信仰とは、人が人との現実の関係の中で、神を覚え関わる事。しかし、人は安易にこの信仰を見失い、自己本位に生きている。ただイエスのこの嘆きは同時に深い憐れみをも示すのだろう。イエスはその子を連れてくるよう言われる。私たちの苦悩はイエスのもとに来るのでなければ解決されない。それはイエスが十字架に死に復活するイエス・キリストだから。これがなければ本末転倒となるのだが、父親も弟子も、私達にもよくわかっていない。父親の「信じる」と「信仰のないわたし」という矛盾した叫びは、我々の信仰を見事に表現している。人の世界は「もしできれば」という条件付の世界である。しかしイエスが伝える神の国、福音は、神の能力に基づくもの。「神は独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」という神に基づいている。この生ける神との交わりの中では不可能はない。子どもの癒しの根底に、神はイエスを死者から復活させる方であるという福音がある。祈りはとは神の愛=十字架のイエス・キリストの命に生かされていることの表れである。生きることに様々に困難を覚える。その中で共に神を知ることが求められている。神は、キリスト・イエスの十字架の命によって私たちに、神と交わる道を開いて下さった。「信じます、信仰の私をお助け下さい」との祈りを主が聞き届けて下さったのだ。だから、神がその御心を必ず行われることにおいて、我々の進むべき道を示して下さると信じる。