使徒言行録2章1-13節
ペンテコステは、私たちに深く関係がある。それまでは「私のための」救い主。けれども聖霊降臨において「私と共に働かれる神」となる。つまり他人事ではなく自分自身が生きることと関係する。いつも「したい」と「できない」の狭間に置かれ、決意が無惨にも自分自身によって崩されてしまう経験する我々。しかし、そんな私たちの内側こそが神の聖霊の送り先。故に我々は、倒れて動けなくなるのではなく、また立ち上がって歩み始める。1:8で「わたしの証人となる」これが聖霊が注がれることによって起こること。「自分はキリストと関係がある、その命を受けて救われた」ということを、世界に向けていろんな仕方で表現する。「ちいさなクレヨン」という絵本のように我々にはまだ出来ることがある。神は預言者や士師のようなリーダーを送ったのではなく、聖霊を通してみんながリーダーだとし、私たちを用いてこの地上に救いを広めるようにされた。宗教改革者のルターは「キリストに従う者は、皆、小さなキリストになる」と言ったが、我々は聖霊を力の源として、主イエスが為されたことと同じことをしようとし、それを喜びとする。聖霊は炎のような舌のかたちをして、一人一人の上にとどまった。全く同じ人間はいない。そこには人間の数だけ「様々な色があり、様々な名前があり、様々なストーリー」がある。そして私たち皆は、それぞれ違う言葉で、違う方法で、違う場所で、神の偉大な業を語り、神さまを証しする。「バベルの塔」は、人間に罰を与えたばかりでなく、違いの豊かさに生きるチャンスなのだ。「クレヨンからのお願い」という絵本で、各色はそれぞれに不平を言う。しかし最後は、すべての色を使って、海を山を空を、動物を虫を車を描いて一つの絵が描かれる。そしてそれはとても美しいのです。教会は「違う」人間の集まり。しかし心の芯に同じ一つに聖霊を宿している。だから私たちの個性は、弱さは、私たちの中で、私たちお互いの間で働いてくださる聖霊により用いられて、互いに色彩を重ね合わせられて、神によって描かれる美しい一つの絵になっていく。一つの大きな源泉から導き出される、教会のビジョン。あなたは、神が描き続けておられる大きなビジョンの決して欠かすことのできない部分。だから一人で踏み出すのではなく、聖霊と共に教会の兄弟姉妹と歩み出す。この洛陽教会の描く、神を証するという共通の絵を一緒に描いてゆきましょう。
キリストの体を造り上げていく
エフェソの信徒への手紙4:1 -16
一つを目指して召された我々には「キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と書く。具体的には11節に挙げられた役職を指すが、それは特定の人を頂点した階級制度の様なことではなく、教会全体が一致し、キリストの体なる教会が成長するためであるとする。12節、前の聖書では「ととのえて」と訳され、キリストへの信仰で欠けているところがあればそれを補い、御心にかなった姿に仕上げていく働きという意味。「キリストの体を建てる」とは、信仰によって召し出された者が整えられ、一人ひとりの人間が、キリストの体を形成するものとして用いられるということ。そこにはキリストが満ちている。キリストが満ちているとは、教会がこの世におけるキリストの具体的な体であること。キリストは神の御子に関わらず人の姿を取られた。だから教会はこの地上でのキリストの体として、キリストの目、足、手、口として働き、語らなければならない。131年を迎えた洛陽教会の目標は、キリストの豊かさに至ること。キリストの体にふさわしく、常に不断にこれからも造り上げられていかなければならない。すべての信徒がこの業に参与しなければならない。そしてキリストの満ち溢れる豊かさは私たちすべてに及び、私たちを変え、成長させるだろう。キリストの形はすでにあり、その所に私たち一人ひとりが組み込まれることによって、キリストの形が浮きあがり具体化される。賜物も恵みも、ここでは、ほぼ同様のことを示している。私たちの賜物とは私たち自身の能力ではなく、恵みが示すように、キリストの存在そのもの。つまり神の子が最も小さな者として生まれ、小さく苦しむ者と共に生き、十字架に付かれ死に、復活を通して神から離れていた私たちを神の子とし、新たに生きる者として下さったこと。恵みとは、本来愛されに値しない者が、一方的に受け入れられ愛されたこと。キリストはこの愛の基準よって私たちを呼び集めて下さっている。多様性のある私たちが、この点において一つにされる、主の愛の賜物。この愛に私たちは整えられて、主の姿を、この世界で浮き彫りにするために働いていく。それがキリストの体を造り上げること。それが、私たちの教会がこれからも歩んでいく道。
三位一体の神
イザヤ書6:1-8、ヨハネによる福音書16:12-15
イザヤ6:3では、「聖なる(サンクトゥス)、聖なる、聖なる」という天使の歌声「トリスアギオン(三聖頌)」が三一論の根拠とされ、礼拝でこれを歌うことによって、三位一体の神への感謝賛美の礼拝となる。イザヤの召命の時代、偶像礼拝が盛んに行なわれ、国は衰え、神殿は荒れ、民は疲弊していた。しかし、イザヤは神の栄光が神殿に満ちている情景を見た。イザヤは、現実の世界がどんなに残酷で、混乱し低迷を極めていようと、決して揺るがない神の存在を「見せられ、聞かされた」のだ。この情景そのものが、三位一体の神秘である。そして同じ内容の歌は、イエスがベツレヘムで生まれたときにも鳴り響いた(ルカ2:14)。イエスの十字架を前にして、弟子たちは多くのことを、理解できない、負いきれない。しかし、キリストの昇天の後で、弟子たちは、神の御子の十字架上の死は「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10:45)ことの具体性であり、このことを通してのみ罪から救い出され、そして、主の復活によって永遠の命が確立し、罪と死は支配力を失い、我々は新たに生きることが出来る、という真理がわかるようになった。これはまさに、聖霊の働きである。ただ、今もこの世には罪の力が様々な形で働いていて、神の真理を曇らせ忘れさせようとする。その時、真理全体にとどまれるよう私たちを応援してくれるのも聖霊である。聖霊はイエスにおける真理を、私たちに告げる。イエスが言う事は、父なる神の御心であり、父と子と聖霊は同じ真理を持って作用する。故に我々は、どんな時も一人ではなく、三位一体における神が共におられることを忘れてはならない。神が三位一体であるということは、神の私たちに対する愛と大いに関係がある。聖なる神は、私たち人間との間にある果てしない溝を超えて、御子イエス・キリストを通して、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちが決して、その手を離すことがないように、守り導いて下さっているからだ。三位一体で一番大切なこととは、神が、私たちをかけがえのない者として愛していることを、伝えようと強く願っておられるということ。まさに三位一体とはそのような神の抱擁を意味している。神の愛の、高さ、深さ、広さを表している。だから、私たちも一つとされていく。私たちの教会は、その恵みのもと歩んでいる。だから、途切れることなく、神を賛美し続けいく。
私たちの交わりは
ヨハネの手紙第一 1:1-10
教会暦の花の日・子どもの日は、神の恵みをどのように次の世代に伝えるかにある。かつて朝鮮のキリスト者・李樹廷(イ・スジョン)は次のような漢詩を送っている。「人に信心有るは 木に根有るが如し、仁愛有らざれば 根枯れ木萎る」。どんなに高価で良い物を与えても、根がなければ意味がない。私たちに必要なのは真の信仰という根であり、潤す真の愛である。この手紙が書かれたヨハネの共同体では、異なることを信じ、教会を分裂させて出て行った人たちがいた。混乱した信徒たちに、この手紙はキリストが来られ、血を流して私たちの罪を贖って下さった、そのことによって私たちは神と和解し、神との交わりの回復を与えられ、人との交わりを持つことが出来るのだということを伝える。逆に言えば、神との交わりを持っていると言いながら、兄弟を憎む者はうそをついているのであり、真理を行ってはいないと言う。人間は弱く罪を犯し、教会の中にも、世の価値観、法則、やり方がいとも簡単に支配する。そこでの自己主張は争いを生む。だからこそ、自分が罪を行う弱い存在であることを認めて、御子の血による贖いを受け、互いの交わりを維持しなければならない。キリストと共に歩むとは、キリストの掟に、己の生き方を変えていくこと。キリストの掟とは「愛し合う」こと。我々の知っている愛は自己愛であり、むさぼる愛。自分の期待が反映されない時には、もうその人を愛することはできない。しかしイエスが教えてくださった真の愛は、このような愛とは根本的に異なり、イスカリオテのユダの足さえ洗われた、仕え合うという愛。私たちはイエスを通して、この神の信じがたい愛を知らされた。神が人を愛されたから、人は共に涙し、共に喜び、人を愛することが出来る。神が人を赦されたからこそ、人は人を赦すことが出来ることを希望とする。こうして私たちは、主にある交わりの中で、キリストの弟子として成熟していく。イエスにつながり続ける時、この私たちも豊かに実を結ぶ者となると約束されている。そのような恵みが、我々の生きていく究極の目標が、イエス・キリストの命を通して与えられていることを覚え、伝えていく日なのだ。
我々の土台
マタイによる福音書7:24-29
この「岩の上に建てた家と砂の上に建てた家」は山上の垂訓の締めくくりであり、主イエスの願いが込められているとも言える。人生の土台となるべき岩とは何か。ある人にとっては、それは富みや繁栄、名誉、強さや、武力、支配かもしれない。つまり、自分の出来ることを基準にしている。対して主イエスは「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことこそ、我々が土台とすべき岩だと言われる。聞くことと、行うことを分けることは出来ない。イエスを「主よ」と呼ぶことは、イエスの言葉は神の言葉であると告白することであり、聞くだけでなく、従い行わなければならない権威がある。行うということは、自分が何者であるか、その正体から目をそらさないこと。高ぶることなく、自分の弱さを知らされ、同時にだからこそ自分はいつも神の力によらなければ歩めないという真の謙虚さを持つこと。レメク(強い者)ではなくエノシュ(弱い者)こそが、人に「主の御名を呼ぶ」ことを始めさせたと聖書は書く。今、我々には、エノシュとしての生き方が必要とされる。イエスの言われる「これらの言葉」とは、5章から語られてきた山上の説教の全体を指す。すぐに、自分には出来ないと考えるが、大事なのは「あなたがたの天の父」と繰り返し言われること。主イエスは御自分の父である神を「あなたがたの天の父」と呼んで下さる。だから山上の垂訓とは、父なる神の子どもとして、神の「父」としての愛を受けて生きること。人の親にはるかに勝る父なる神は、我々以上に、我々に必要なものを知っていて下さり、必ず「良いもの」を相応しい形で与えて下さる。故に「これらの言葉を聞いて行う者」とは、自分の力・能力にではなく、父なる神が私たちに必ず良いものを下さるという土台において、自由、希望の中で生きること。それは、どんな時にも倒れず、否定しかなかった生き方が、肯定へと変えられていく。この土台は、肉体の死においても失われてしまうことがない、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったイエスこそ、父なる神の、我々へ与えられる最もよいもの。この恵みを信じて生きるのか、信じないままで生きるのか、神の子として生かされるのか、どこまでも自分にこそより頼んで生きようとするのか? 必ず明らかにされる時がくる。今こそ、主イエスにおいて、新しい命に生かされ、真の平和、自由、喜び、希望の中でその一歩を踏み出したい。
生れる前から
エレミヤ書1:4-8、ガラテヤの信徒への手紙1:6-10
エレミヤ書を学ぶ。預言者エレミヤが神から召命を受けたのは、ヨシヤ王の治世13年(ヨシア王21歳)のことであり、恐らく15歳前後という若さだと思われる。ヨシヤ王がその治世18年に発見された律法の書をもとに申命記改革を行ったことは有名で、エレミヤがヨシヤ王を尊敬し、その改革を支持し参与したことは間違いないと思われるが、エレミヤについて列王記は記述しないし、エレミヤ自身もヨシヤ王についての言及がない。沈黙は謎だが、この改革がエルサレム神殿や祭司の地位を必然的に高めることになり、それが、律法さえ守っていれば、という安易な自己満足主義といった負の側面を招いたことを示しているのかもしれない。若いエレミヤが神から託された預言は、自分の民の滅亡の預言で、そんな役割は、誰でも辞退したい。ただ、神はエレミヤに「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と言われる。神がエレミヤを預言者として選んだのは、エレミヤが立派な人間だからではなく、そういうことの、すでに前に、神はエレミヤを預言者として選んでいた。それほど「神なる主が、エレミヤと共にいて、必ず救い出して下さる」ことは、確かなことであることを示している。ガラテヤの手紙の冒頭で、パウロが使徒となったのは、人間から出たことでなく、すべては「死者の中からよみがえらされたキリスト」を通してであることを言う。パウロはイエスの直弟子ではないし、かつて迫害者でもあった。だから人の判断や基準や方法では、彼が「使徒」と呼ばれることはありえない。では、人の判断や基準や方法ではない、神の判断、基準、方法とは何か?そのことを見失えば、「ほかの福音」に陥ってしまう。「他の福音」とは、イエスキリストの十字架と復活という、神の憐れみを無駄にし、軽んじていること。神の恵みと平和は、神が成し遂げてくださった十字架と復活によってもたらされる以外にはない。どれほどもっともらしいことを言っても、このことが根っこにない限り、人に恵みと平和を与えるものはない。そして、これこそが、生まれる前から神によって関りをもたれてきた預言者エレミヤが伝える「建てる」「植える」ことであり、使徒パウロが、すべての人に生きて欲しいと願ってやまない、「まことの福音」であろう。
主 我を愛す
エレミヤ書2:1-13、コリントの信徒への手紙二 13:5-10
コリント教会はパウロが設立し、集う人も多く、経済的にも大きな、いわゆる成功した教会だが、教会は重大な問題、つまり「キリストの福音」を見失ってしまう。そこには人の傲慢さ、悪意やねたみ、さみしさによる敵意があった。パウロは誤解を解く努力もしているが、嫌われてしまうかもしれないと弱気になっている。しかし、キリストの福音に関してはそうではない。「キリストは弱さ故に十字架に付けられたが、神の力によって生きておられる」、このことだけは、絶対譲れない。もし、教会に、争いや妬み、驕りが、傲慢さ、自己への誇りがあるとすれば、それはこのことを見失っている、軽んじている証拠であるとパウロは言うのだ。エレミヤは、アナトトというエルサレム近くの寒村出身の祭司の家系。時代は最も不安定な時代で、人々は再び偶像により頼み始める。エレミヤはその罪を語り、そして神の裁きの必然性を人々に告げる。しかし、忠実に語れば語るほど、民には受け入れられず、エレミヤはよりいっそう強く迫害を受ける。2:13には「二つの悪」が指摘される。「真の神を捨てる」という罪に止まらず、それは空しいものを追い求め続ける悲劇へと続いていく。偶像礼拝は次のことが問われる①あなたは何を信じているのか?生きる神を礼拝するものは生きるが、死んだ偶像を信じるものは、同じく死んでいる②無関心としての偶像③「神を知りながら、神をあがめず感謝しない」こと。我々は「初めの愛」に帰らなければならない。それは主なる神を「尋ね求めること」、「知ること」、「従うこと」。そのために、エレミヤは辛い思いをしながらも、罪の本質を世に問い、荒廃の現実社会の中で「建て、植える」という神の計画を告知し、希望を告げる先触れであろうとする。
「キリストがパウロを通して語っている、その証拠を見せろ」と言うコリントの人々に、パウロは「そう言うあなたこそ、自分が信仰者であることの証拠が、自分の内にあるかどうか考えて見よ」と投げ返す。しかし、パウロはそう言いながら、すぐさま、キリストの話に持っていく。信仰とは、我々の漠然とした憧れ、尊敬ではなく、その前提となるキリストの私への関わり、これが大前提にある。我々は、いつも「自分は失格者か?成功者か?」との議論に終始する。しかし、真理とはその逆であって、救いを受けるに値しないのにも関わらず、神の側からによって一方的に恵みに与かる、救いに入れられることにあり、故に人は、その真理のためにどう生きようかということになる。だからパウロの言っている吟味」とは、「今生きる自分自身が、すでに先行する神の恵みの中に入れられている」ことに気づくことに他ならない。信仰を持つ者は皆、キリストの強さを経験している。そしてキリストの強さとは、いわば弱さと強さという矛盾の中に示される。キリストは十字架という「弱さ」に死んで、復活という力を示されたから。単に言葉のレトリックではなく、まさにパウロの弱さはキリストの十字架であり、復活の命に生かされるパウロは、まさにキリストの力の働きなのだ。すべての信仰者はパウロと同じように、弱い我々の中に、確かにイエス・キリストが生きて働いておられることをいつも、どんな時も覚えるべきなのだ。エレミヤもパウロも愛すれば愛するほど、相手に愛されないという現実の残酷さの中で、最後まで希望を神の救いを語り続ける。神の目的は「壊すためではなく、造り上げるため」にこそ、あることを。パウロは最後に祝福の言葉を述べる。それは「互いに~し合いなさい」と訳せる。 わたし達は決して忘れてはならない。等しく弱さを持つ私たちが、主に生かされていることを。愛されていることを、その弱さの中に、確かな希望、神の創造の力があることを。「主 我を愛す、主は強ければ、我 弱くとも、恐れはあらじ、 わが主イエス、われを愛す」と力強く歌いたい。
部落解放祈りの日
歩みの未来
ヨハネによる福音書 12:1-8
部落解放祈りの日のパンフレットに長年「部落解放祈りの原点」として、初代部落差別問題特別委員長、小野一郎牧師の文章を載せてきた。それはいわば教団の、キリスト教の汚辱の歴史。しかし、あえてこれを書くのは、それがたとえ汚辱の歴史であってもこれを直視し、むしろ汚辱の歴史から教えられたことを大切にし、抱きしめて生きていこう、という呼びかけに聞こえる。目を背けたい、あなたの、私の弱さの中にこそ、本当の解放はある。「ベタニアで香油を注がれる」話は伝統的に、マルコとマタイでは、イエスがメシアであることの告白。ルカにおいては、イエスの足にすがりつくしかないような、そういう救いを求める者の真剣な姿勢を示す。別の2つ点から見ると、「共感」と「共苦」がある。皮膚病を患うシモンと一緒に食事をすることは考えられない。日本のハンセン氏病の歴史もそうだ。しかしイエスはその場にいて、そのことに深い共感を覚えた女性は、その共感の印として、彼女の一番大切なものを差し出した。それして、それが、彼女自身の解放であった。イエスの立つ場は十字架で苦しみを受けるということへと進んでいく。だから女性の共感の告白は、十字架のキリストに対する告白となる。イエスの十字架の死は、メシア的な栄光や英雄的な行為ではなくて、まずそこに「あなたの苦しみを、わたしが共にし、抱きしめる」「共苦」のキリストの姿である。この話しに、わたし達の共感と、主の十字架を通して、わたし達が共に苦しむという生き方をどこかで求めていかなければならない。そうでなければ、この話は、記念としては語り継がれることはなく、封印される。
本来、関田寛雄牧師は「人の住まない所、多摩川の堤防の内側に川崎戸手教会を建てたのは、戦後行き場を失った数百名の在日朝鮮の人たちとの寄り添いを目指したからであり、一緒に泥をかぶることで、心が繋がった」と言う。石川早智子さんは、石川一雄さんの闘いに出会い、殻に閉じこもりがちだった「自分」と決別しようと思った。「心を解き放てば、人を信じられる。自分も変われる」と言う。
ヨハネ福音書の油を注ぐ話は、すでに一歩進んでいると私は信じる。そこにラザロがいるのだから。死んでいたものが、共感と共に苦しみを分かち合うことにおいて、生かされる。そんな、教会の未来が、私たちが歩んでいる未来が、この先が描かれている、そしてこれからも確かに語り継がれるのだと、私は信じている。
立ち返る
エレミヤ書3:12-18、使徒言行録17:24-31
エレミヤ書のキーワードの一つは「帰る」「立ち帰る・戻る」がある。そこには人は、神との真の関係次第で、立ちもし倒れもするということ。律法によれば、一度離縁した妻を再び妻としてめとることができない。ところが、神は背信の女イスラエルと裏切りの女ユダに「立ち帰れ」と呼びかけている。さらに驚くことに、14~18節には、すでにその祝福が預言されている。ここには、北イスラエルと南ユダだけではなく、あらゆる民族が含められる。この約束は、やがて「その日」つまり「終わりの時、神の国の完成の時」、すなわち、聖霊が注がれる新しい時代の到来によって始まる、まさに神のうちに一つとなる共同体=教会である。これこそ神の驚くべき計画。新しい契約、それはつまり、キリストの十字架の血潮において「新しい一人の人」となり、共に神の救いの同相続人とされる重要な約束、ビジョンである。使徒17:16以下、偶像の像が沢山あったアテネで、「『知られざる神に』という祭壇さえあった。笑い話のようだが、今私たちが生きているこの社会も、ある意味同じ。各哲学の教説の問題ではなく、人間が自らの価値基準によって信じる対象造り出すのでは、いくら多くの偶像を拝んでも、心には安心はない。さらに安易に支配者や民衆の欲求に迎合している現実の問題。真の神でない様々なものが人々を捕え、支配している。そのようなことを目にして、パウロは霊において揺り動かされ、主イエス・キリストによる救いの恵みを語る。「知られざる神」ではない、生けるまことの神を示していく。この神が、世界とその中の万物を造り、すべての人に命と息を与え、生かされることには目的がある。「人間から神へ」ではなく、「神から人間へ」という正しいベクトルをもって生き始めるならば、神は「知られざる」存在ではなくなる。神を身近に、また自分を愛し、生かし、支えてくれる存在として知ることができる。だから真の神を知るために、私たちは悔い改めること、本来のあるべき場所に帰ること、心の向きを変えられることを求められる。「主の方に向き直る」(Ⅱコリ3:16)とは十字架の福音の言葉を受けいれること。それによって心の覆いが取り去られること。そのためにキリストの所有とされなければならない。それが贖われること。帰るべきところは、死後の世界ではない。神との関係における現在。現在の中で死も起こるが、この関係は断たれない。キリストの救いの出来事を通して、今、帰るところを見出す我々は、全ての人と合流し、この神の臨在を証していく。この神の奇跡の恵みに、生きていくのだ。
満たされたのは
列王記下4:1-7、ルカによる福音書10:36-37
このエリシャの奇跡物語はどういう意味があるのか。4章は「エリシャの力だけを誇示する話」とも言えるし、「模範的な預言者なら出来るであろう姿をデザインしている」とも分析できる。だがこの話で、エリシャはただ「器を借りてくるように」そして「その器に油を注ぐように」と命じただけ。婦人は近所を走り回って器を借りてきた。実は、この話で最も重要なことは「この時、この婦人のために多くの空の器が差し出された」ということ。もしこの集められた空の器が存在しなければ、この奇跡物語は始まらない。周りの人々から差し出された空の器に、神様からの救いが注ぎ入れられたのだから。空の器、それこそが私たち一人一人の姿であり、教会の姿ではないか。それは1つではあまり意味がないかも知れない。しかし、それが隣人のために差し出されるとき、その空の器が集められ神の前に差し出されるとき、そこに神の救いがそそぎ込まれるのだと聖書は教える。この話をエリシャの力だけの話のように思うのは、私たちが力ある人物の姿だけに目をとらわれてしまっている結果。「エリシャのように力があれば」「私には力がないから」という意識によって、この話の中心点を見失ってしまった。この話に本当に必要だったもの、それはとるにたらない空の器。ルカ福音書の「良きサマリア人」の譬えも同じではないか。私たちはいつしかこの譬えを「サマリア人はあそこまで出来る人だったから」とか「あそこまでしなければ隣人にはなれない」というふうに読み替えていないか。それは自らが他者との比較によって作り出したコンプレックスという盾に、自分の身を隠してしまっているようなものではないか。しかし、差し出す器は、大きさや見た目は関係ない。大切なことは器が空であること、何故ならもしその器に自らの思いが既に入っていたら、どこに神様の恵みが注がれるのか。そして、その器を差し出すこと。器を差し出さなければ何一つ始まらない。人は自らの優れた点、他者より勝っている点をもって神を見ようとしても、実は見えているようで何も見えていない。しかし勇気をもって自らの欠けている穴から神を見たとき、その空の器を差し出すとき、私たちはきっと知ることが出来るはず。この器を神様は何よりも必要として下さっている。そしてその空の器に、私の隣人となった人を通して、神様のつきない救いが注ぎこまれることを。だから、満たされたのは、「空の器」の 私たち一人一人なのだ。
抱いている希望
ペトロの手紙第一 3:8-18
ペトロの手紙一は、教会に対する迫害や弾圧が強くなり始めた時、困難のキリスト者を励ますために書かれた。重要なことは、主イエスにおいて、お互いの考えを一つにすること。つまり、十字架の主イエスと共に苦しみ、主イエスのように人に仕え、十字架に至る最も低い所において救いとなって下さったことにおいて、我々が一つとなること。故に、そこに相手の滅びを願う呪いは存在しない。侮辱に対して祝福で応答する。祝福は福音で応答すると言ってもいい。敵を祝福し、敵のために祈れとは、まさにイエス・キリストの生きざまであり、福音そのもの。また詩編34編から、命の源である神と共に過ごすことを求めるなら、人は悪や策略から離れ、神に対する愛に基づいて、自分や隣人の命を大切にすると言う。悪をやめるためには、善を行うという積極的な行動が必要であり、それは善そのものであるイエス・キリストに倣うこと。「平和」は旧・新聖書を貫く重要な概念。イエスにおいて「神の国」「福音」「平和」は福音告知の構成要素であり、初期教会での、イエスの宣教理解の中心。平和の根拠は、キリストの十字架であり、このことを通して異なる民族・文化が、キリストにあって一つとなった「新しい平和の実現」が提唱されている。だからキリストの福音は、内的・霊的領域と外的・社会的領域を切り離すことは不可能。特にキリストの復活は、個人を越えた広い救済、つまりこの世界の中に平和が達成されるという希望を持つことを、我々に可能にさせる。だから、もっと「平和」をダイナミックに、わくわくするような、そしてそのプロセスこそが、実は平和そのものなのだと気づくべき。祝福を受け継ぐために、我々はキリストの福音を受け継いでキリストの命に生きる者として招かれている。キリストは自身の罪のためではなく、「正しくない人の罪」のために死んだ。しかしだからこそ、私やあなたがここにいる。だから、我々は如何にして敵をやっつけるかではなく、「もはや戦うことを学ばない」のであり、キリストの残した平和にこそ生きる。そして我々が抱いている、このキリストの支配、希望について証していくことが求められる。この世で人と人がお互いの交わりを尊び、成長し続けながら生きていけるように。そういう人の繋がり、プロセスに生きていくということ。そのために、我々はあきらめてはならない。語ることをやめてはならない。その勇気を持とうではないか。平和のための、新しい一歩を踏み出そうではないか。
民全体に与えられる大きな喜び
マタイによる福音書 28:11-15
森田 喜基牧師
世界には歴史として表に出てくる物語と、その背景にある民衆の物語の2つが存在すると言える。歴史として語られることの多くは、権力を持つ者たちを主人公とする物語であるが、その時代を生きた民衆の思いや葛藤はかき消される場合がほとんどである。オリンピックという表の物語のその傍らで、野宿者は東京や横浜の中心から追いやられていることからも、これは今日にも当てはまる。しかし民衆は命じられるままに生きて来たのか。語る言葉を持っていなかったのか。そうではない。どんなに小さな存在であったとしても、どんなにその存在が見失われていたとしても、民衆は自分たちの物語を紡ぎだしてきた。福音書はまさにそのような民衆の物語、そして民衆と共に生きたイエスの物語である。ローマ、そしてその傀儡政権であるユダヤの王の二重支配に苦しむ民衆と、イエスは共に生きた人であった。そのイエスが、十字架にかかり、墓へ葬られた。しかしイエスは復活し、それを目の当たりにしたのはイエスに従っていた婦人たちだけではなかった。墓を守っていた番兵たちがいたのだ。祭司長たちは「遺体は弟子たちが盗んだ」とデマを流すために、金を番兵に渡した買収をした。しかしどんなに権力者の意図が働いたとしても、イエスの復活の出来事は、名もなき民衆たちによって語り伝えられ、そして私たちの時代にまで伝えられているのである。未だにこの世界は本当の事を隠蔽しようとする力に覆われている。しかし神は小さくされたものの物語におられる。私たちの声を聴いてくださる主に生かされ、私たちの人生の物語に共にいてくださる主と共に歩み、私たちはその主に従って歩むものでありたい。
難 題
ローマの信徒への手紙 13:1-10
76年目の終戦・敗戦の日を迎えた。ドイツでは敗戦日を「ナショナリズムの誘惑、権威主義的な政治、各国間の相互不信、分断、敵対、憎悪、外国人敵視、民主主義軽視」から「解放」される日とし、そのために過去の犯罪に目をそらさないこと、そして自由への追求が、今の私たちに託され続けている」とする。ローマ13章は、誤解される福音による自由に対する教えであったのだろうが、教会が支配側に立った時、教会はこれを「政府(教会)は神により立てられ、全てのキリスト者は自分たちの政府(教会)に従うべきであり、国家(教会)の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と教えた。この考え方が大きく揺らいだのは、1933年にナチスが権威者として教会に服従を要求した時。出エジプトのモーセの十戒の第二戒は、偽りの神を礼拝することの禁止だけでなく、真の神に間違った表現を与えることでもある。ナチスの支配のもとで、多くの教会が「アーリア人種とドイツ国土への忠誠」という国家思想の中に、聖書の神の目的を見出したと思い込んでしまう。聖書は全体の文脈の中で読むべき12-13章でパウロは「キリスト者のあるべき生き方」をいろいろな角度から教えている。この文脈の中で、この世の秩序維持のためであれば、戦争も含めた悪、この世的な権威にも従いなさいという考えはありえない。キリスト者は現実の世に生きる者だからその秩序に従う。しかし同時に、神のものは神に納めるべき。当時の時代背景では「ローマ皇帝が信仰を捨てよと命令しても、それを拒否する。そしてその結果相手が迫害するのであれば、それに対抗して戦争をするのではなく、愛をもってそれを受けなさい」と教えていることになる。まさに難題である。問題は、関係を一切断つというような単純なことではない。語学や思想文化の単一化、法や規則の厳格化だけでは、何も解決しないのだから、入る側だけでなく、キリストに受け入れられた者としての、意識変化が必要。それに気づくことの方が、この難題の答えへの近道なのかもしれない。パウロは貸し借りが弊害しか生まない常識の中で、一つの例外を並列して置く。それは互いに愛し合うこと、つまり、愛の借り、愛の負債を持つことについては許されると言うのだ。むしろ愛の負債は尊く価値あるものであるがゆえにこれを積極的に勧め、キリスト者はこの負債にこそ生きるべきだとする。愛の負債とは、一方的に赦され、愛されるという出来事の体験。12章のはじまりは、全ての救いは、主イエス・キリストの十字架と復活の命によって示される、神の愛によるものであることを前提としている。13:14争いとねたみを捨て「イエス・キリストを身にまといなさい」と教えている。それは、「愛さなければならない」という義務ではなく、積極的にキリストの愛の負債を負うこと。そうやって、我々は少しずつでも、この現実の難題の中で、解放への過程を、進んでいかなければならない。
混沌の中に
エレミヤ書4:23-31 ヨハネによる福音書3:16-21
エレミヤの預言は、単なる未来予知ではなく、人が生きることにおいて本質的なことを問うもの。神によってもたらされる災いは、偽預言者をあばき、エレミヤの正しさを人々に知らしめる。まるで、イエスを十字架に付けた者たちが、その実際は「神について何も知らなかった」と知らされたことを思う。進軍してくる敵の徹底的な破壊が描かれる。民は自身の、神への不信仰、不従順の結末を苦痛をもって受け取るしかない。もはや豊かさ美しさ、武力は何一つ助けにはならない。背信のエルサレムの最期の叫びが、混沌の暗闇が支配する世界に響き渡る。エレミヤは、このことの単なる傍観者ではない。エレミヤも当事者として、その災いを共することで神の裁きの重大さを語る。まさにその言葉は、ゲッセマネで汗を血のように滴らせて祈るイエスの姿を思わされる。そしてエレミヤの苦痛は、共に苦しむ神の愛を証している。民の苦しみを、神ご自身が共にしつつ、神自身の悲痛な叫びとして語られている。23節「混沌」(トーフー・ワ・ボーフ)は、ここ以外には、創世記1章2節しかない。エレミヤが見たのは単なる町の破壊ではなく、天地創造以前の恐るべき混沌と言える。しかし創世記において、神は混沌の世界に「光あれ」と言われ、光を与えた。光は、単なる照明器具ではない。「私自身の存在を理解し、また途方に暮れないための、自分がいかなる状況かを知ることができる、明るさ。命のために必要な明るさ」。混沌と無秩序の闇の中に「いのち」がもたらされた。いのちである光はまさに神と人との関りのこと。私たちは、光に照らされ、光の中に招かれ、光の中にとどまり、光の子どもとして、今度は世を照らす光として用いられていく。ヨハネ福音書で「世」は特徴的な言葉。それは本来、神に「良いもの」として創られ私たち人間が、神に従わずに自分の欲望を通し、他者を支配し、その結果、神をも隣人をも愛することができなくなっている世界。しかし、福音のメッセージの中心は、この闇となった「世」を神が愛して下さった、愛される資格などない者を、神が愛して下さったことにこそある。それは、神は決して傍観者ではなく「その独り子をお与えになったほどに」神は世を愛して下さった。そのことによって、神は私たちの罪を赦し、私たちをもう一度、神との「関り」で生きる者として下さった。私たちも今、神の裁きに直面している。しかしそれは神が私たちを裁いて滅ぼそうとしておられるということではない。元々私たちは、罪による滅びへの道を歩んでいたのだ。しかしその私たちに、神が「光あれ」と言われた。驚くべき愛によって独り子を与えられた。確かに光は、我々自身を照しその罪を明らかにするだろう。しかし、そのことを通してはじめて、主イエスの十字架による赦しの恵みに生きる「いのち」「希望・喜び」を知らされる。エレミヤ書で、徹底した裁きの中で、恵みの約束を、主自身が与えてくださる。その神から遣わされた御子イエスは、「すべての人を照らし、生かすまことの光」。ならば我々は、この日も、このまことの光=イエス・キリストの希望にこそ、生きる者でありたい 。
愛による葛藤
エレミヤ書5:9-19 ルカによる福音書13:6-9
エレミヤ5章は、神の恵みに反する、エルサレムの現実が描かれている。エレミヤが神の動機にまで入り込んで理解しようとするのは、それがエレミヤの信仰にとって必要だからであり、同時にエレミヤが民を愛し、救いへと導きたいから。聖書の中では、神の支配の理念を、神の恵み(へセド)、真実(エムーナー)、義(ツェデェク)、慰め(ナハムー) 、裁き・公正(ミシュパート)と結びつけ示している。神は神の支配理念において、正義を行い、真実を求める者が一人でもいないかを探し求めている。エレミヤはまさにこのために呼び出されている。それは貧しい人にも富める者にも、等しく求められる。しかし、預言者の得る成果は望ましい状況ではない。民は自ら離反して「神でないもの」に向かってゆく。故にその責任は神の側にはない。だから「罰せずにいられようか」と言う。神自身が神の支配の理念に真剣になればなるほど、民への裁きは免れないものとなる。そして支配者と民の傲慢な姿が、白日のもとに晒される。しかし、ソドムの町は滅ぼされつくされたが、ここではそうでないことが語られる。ここには、神の激しい怒りを語りながら、神が躊躇していることが描かれている。そして我々はこのことを通して、現実における「何故、我々の主なる神はこのようなことをされたのか」という信仰の問いに答えを求めなければならない。神の支配理念は、はじめから報復にあるのではなく、赦しにこそ向けられている。だから、主に立ち帰るなら、主は必ず救い出してくださるという信仰と希望が残される。いちじくの木に「実」がならなかったというのは、「神への愛、隣人への愛」が見当たらないこと。ルカ10:25 「サマリア人の譬え」には、「愛」が二つの方向性をもって書かれているが、それは「はらわたをつき動かされる思い」という、地を這い、弱くてみっともない、泥まみれの、それでも人に手を差し伸べざるをえないような、主イエスにおいて(神の愛の葛藤において)、一つとされている。この「神の愛における葛藤」は、エレミヤにとって、私たちにとって、信じられないほどの衝撃を与える。人はハード面だけでなく、その中身、ソフトを知らされるからこそ、また立ち上がれる。私たちは、どちらかと言うと、ほとんど「期待外れ」に生きている。その、私たちが何とかやっていけるのは、私たちが、知ると知らざるとにかかわらず、誰かに執り成されて、赦されているから。キリストの十字架の贖いという、神の支配の理念の中に、期待のなかで、今の私たちがある。人生はたしかに厳しいものだが、あなたはすでにイエス・キリストの命の贖いの中に生かされている、この期待に生きていけることに、確かな希望を抱く。
分かれ道
エレミヤ書6:16-21 ルカによる福音書13:22-30
エレミヤの時代、アッシリアの衰退から偏狭なナショナリズムが興った。宗教改革の本質は見失われ、歪んだ国粋主義が広まり、悪や背教,指導者の偽善,誤った神殿信仰など腐敗と堕落が広まっていく。偽の預言者は、神の思い抜きに、人におもねり、受け入れられることばかり言って賞賛を受け、もはや何の羞恥心さえ感じない。聖書における「平和・シャーローム」は神の思い抜きでは考えられない。単に、争いのない状態を表わすだけでなく、神との関係における、力と生命に溢れた動的な状態。和解、安心、 繁栄、 健康、充足、霊的知恵、愛、罪に対する勝利それらすべてが神との関係にある。そしてエレミヤが見ているものは、やがて直面するユダヤの国の破滅、しかしその破滅をも乗り越え、ユダヤ教をも越えて与えられる「新しい契約」。このように、全く異なるものを希望とするエレミヤの語る預言は、人々に聞き入れられることがない。そういう中で、エレミヤが求める信仰が16節。前の聖書では「分かれ道に立って」。英語ではcrossroad十字路。そこで、人の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分自身でどの道に歩むべきかを見極めなければならない。それは昔も今も、将来も、永遠に代わることのない道。良い道。「魂の安らぎ・いこい」は、神によって与えられるもの。まさにイエスは「たましいの安らぎ、安息」を得られる道を示している(マタイ11:28,29)。それはつまり十字路で「十字架のイエスを見出す」こと。マタイにおける狭い門と細い道は、イエスの山上の垂訓の教え全てを示していると言える。しかし、ルカの示すものは、もっと大きく、根本的なことである。「狭い戸口」それは、イエスが歩む道、つまり十字架の道である。人々に嘲られ、罵られ、ついには全ての人に裏切られて死ぬ道である。しかし、その道故に、私たちは赦され、救われたのである。この私が、確かに愛されたということを知らされたのである。その戸口が私たちの目の前に示されている。そのイエスという戸口をくぐるか否かは、今私たち一人一人の問題である。私たちはもともと「愛」を知らない。自分の快適さだけを求める道は、一見正しそうで、歩きやすいが、「愛」を知らない。愛を知らない者は「愛する」ことは出来ない。だからこそ、私たちはイエスの十字架に触れなければならない。エレミヤが私たちに思い起こさせようとしたのは、「わたし達が愛された」存在であるということ。一見、私たちには歩むべき道がたくさんあるように思われる。しかし、聖書ははっきりと、私たちの歩むべき道はただ一つだと示している。ただ私たちがその道から目を逸らさず、葛藤をしながらも、その戸口をくぐるだけだ。
わたしたちのベン・ヒノム
エレミヤ書7:1-11 マルコによる福音書9:42-50
人々は敗戦と大国の抑圧に不安を覚えつつも、エルサレム神殿は永久に滅びないという迷信のもと集まっていた。その民に、3節エレミヤはヤハウェの名をもって、神の言葉を語り、神との契約関係の本質を問題にしている。いかなる状況においても神は約束を堅持される。ただし、神の救済の業は、あくまでも神の支配理念と結びついている。この理念のもと人が生きることが、その社会の間に平和と喜びのある状態を生みだす。神の公正・裁きは、弱い立場にある人々への愛を基準としていて、これに対しての人の態度が、生と死の境目となる。30節以下にベン・ヒノム(悲嘆の子)の谷の高所で行われた幼児犠牲が指摘されている。生贄は、権力者が神から特別な富と力を与えられることを誇示するもの。神は、神から祝福を強奪しようとする人の強欲さに、強い嫌悪感を示される。この谷は、永遠の刑罰を受ける場所、復活の見込みのない完全な滅びの象徴「ゲヘナ」「地獄」という語を生み出した。イエスが「地獄」ことを語るのは、ほとんどないが、地獄の恐ろしさを取り上げるのは、「いのちに入る」ことの真剣さの裏側だから。イエスの受難予告にもかかわらず、弟子たちは誰が一番偉いかと論じ合っている。それに対し、イエスは誰でも「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われる。イエスご自身が「仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げる」ために十字架に至る道を歩んでいる。これが、神の支配理念における物差しとなり、人の生死に関わる。幼子は不完全で、社会で軽んじられ、無視されている「小さい者」を示す。そのような小さい者を受け入れることは、自分をそのような小さい場に置くことになる。そしてキリスト者はそのことに定義される。「イエスの名において」、己の快適さに反して、イエスがそのようにされるからという理由だけで、受け入れる。それはイエスを自分の中に受け入れることになる。「神の国」は単なる思想ではなく、神との交わりという現実。その現実に入るか否かは、人生にとって最も真剣な問題。名誉や権力、富や健康、肉体の生死より、はるかに重要。逆に、そのことを知らなければ、まさに我々にとっての「ベン・ヒノム」となる。キリストの十字架(我々の身代金としての贖い)と復活を通して与えられる聖霊だけが、「キリストの名において受け入れ、受け入れられている」ことを知らしめ、人がまことに生きる道を示す。イエス・キリストによって、もはやゲリジム山でもなく、エルサレム神殿でもなく、霊と真理によって父なる神を礼拝する時が来た。イエスの十字架の道という、命の道を嵐の夜も歩み続けたい。
「私は泣く」
エレミヤ8:18-23、ルカ19:41-44
ユダ王国は、何度も同じ過ちを繰り返していく。エレミヤは、民の罪を厳しく指摘している。それは、「主の定め(ミシュパート:神の支配理念、主権、裁き、はからい、導き)」に到らせるため。神の支配は専制君主のようなものではなく、驚くべき愛の理念に満ちている。しかし、そのことを民は知ろうともしない。人は本来、倒れれば起き上がり、迷えば立ち返る。鳥も本能にしたがって、自分たちの故郷に立ち帰る。だが、この民はその罪を知りながら、なおもかたくなに神に背き続ける。エレミヤは「どうして」と問わずにはおられないが、それこそが「罪の定め」。13節の葡萄といちじくの不毛性は、神の定めを、人間の知恵の定めに置き換えた結果の惨めな姿であり、実を結ぶことを期待したのに、それを得られなかった神の深い嘆き悲しみが暗示されている。エレミヤの神義論は発想を反転させていて、人間の悪における、神の大いなる苦痛を我々に思わせる。18節以下の嘆きがエレミヤのものか、神のものか区別が難しい。区別がつかないのは、エレミヤが「とりなす者」である故で、エレミヤは民の苦しみだけでなく、滅ぶ者のために昼も夜も泣き続ける神を知っている。神は分裂しているのではなく、二律背反(論理的にも事実的にも同等の根拠をもって成り立ちながら,両立することのできない矛盾)こそが、神の全能と全知の前提条件だと言える。考えてみれば、キリストの十字架の出来は、我々を裁く主体が、罪のために滅ぶべき我々を、その独り子をお与えになったほど愛された出来事。エルサレムに入場するイエスは、一人息子を失った母親ほどの悲しみを覚え、泣かれる。「平和の町」を意味するエルサレムが、平和を知らない。「平和への道」は、主イエス・キリストが私たちの罪のために死に渡され、わたしたちの義のために 復活させられたことにおいて成し遂げられる。それは命による「とりなし」であり、人と神との和解。その平和が私たちそれぞれに与えられている。だからこそ、我々は平和のために、仕え生きることが出来る。パウロがそうであったように、目に見える世界の苦難を克服する力を、キリストの命という、神の愛の支配から得るのだ。「ギレアドに乳香がないというのか?」、その問いに、エレミヤは32章で敵の手にあるアナトトの土地を買うことによって答えている。何が、罪に病んだ魂に癒しをもたらすのか。それは奇跡ではなく、イエスの死であり、そこに現れ出た神の愛である。エレミヤにおける神の嘆きと、アナトトの畑の購入は、まさにイエスの十字架の死と復活に、神の愛を通して見事に呼応している。そうであるならば、今、我々は、この神の定めのもとに、生きていくだけだ。
「嘆きの歌」
エレミヤ書9:22-23 ローマの信徒への手紙8:31ー39
エレミヤは、民の不誠実の根には神への認識の欠如があると語る。神認識とは、単なる知的な活動を指すのではなく、神に対する生の関わり全体を含む。生におけるこの基礎を欠いたところでは、人間同士の信頼関係も瓦解する。隣人への不誠実は、神への不信仰さであり、故に神の人間に対する裁きが行われる。神の裁きにおいて、人は裁きの火に直面し、誰も偽り続けることは出来ない。9-21節に歌われているのは、差し迫る神の審判に対する哀歌であり、嘆きを歌えと要請されている。旧約聖書において死の力について語るものの中で、最も印象的なものの一つ。哀歌は、単に愛する人への悲嘆の歌ではなく、嘆きを通して神に、再び立ち帰る、神に対する信仰と希望を表わしている。だからエレミヤは「神を知ること」を最重要視している。人間が誇るものといえば「自分の知恵、自分の・・・」。しかし、神が喜ばれるのは「目覚めさせられて、神を知ること」。「神が愛、裁き、正義」の存在であり、神が愛するがゆえに、滅ぶ者を、誰よりも嘆かれる存在であることを知ること。この神の支配理念を、生涯の起点に置き、そこから人生を方向づけ、組み立てることこそが、真に生きること。パウロは「誇るものは主を誇れ」と言い、キリストの十字架こそが、見かけだけの偽りの人間の知恵を滅ぼし、神の知恵としてなされた救いの業(義と聖と贖い)であると言う。ローマ8:31以下は、「神が私たちの味方である」と強調する。それは「何をしても許される」ということではない。神は、私たちの欲望を満たすものではなく、神ご自身のみ心によって私たちに本当に必要な救いを与えて下さる方。私たちは絶望にあっても、傲慢であっても、いともたやすく神から離れ、背き、罪に陥いる。その私たちの救いのための戦いは、私たちの罪のために、神がご自分の独り子を身代わりとして渡して下さったことによって行われる。復活された主イエスの執り成しによって勝利を得ている。それは私たちがキリストの愛の中に(神の支配理念の中に)置かれているということ。その愛から私たちを引き離すことができるものは何もない。死も苦しみであり、命もまた苦しみだ。しかしその死も命も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない。我々は、その生涯の起点を、この神の支配理念に置き、そこから人生を方向づけ、組み立てることが出来る。今の我々がこの嘆きに満ちた世界で、生きるために、「主イエスを知ること」が求められている。
「何をして欲しいのか?」
マルコによる福音書10:46-52
「この人こそメシヤ、王位に就かれるためにエルサレム行かれる」と思い、イエスを取り囲む弟子と群衆。対して目の不自由な物乞いの人は、神に呪われた罪人として町の中、城壁の中には入れない。だからバルティマイの「主よ、私を憐れんで下さい」(キリエ・エレイソン)は「当たり前の人間として生きていきたい」という人間としての尊厳の叫び=祈りと言える。新聞によれば、日本社会で障がいを理由とした差別や偏見が「ある」と思うのは83.9パーセントにもなる。「誰もが差別はいけないこと」と思っているが、残念ながら差別と思われることがたくさん起きている。障がいを理由として差別されることなく、お互いを尊重し、勉強したり、働いたりできる、誰もが安心して暮らせる共生社会の実現を目指す必要がある。バルティマイとは誰か?と思わされる。権威主義的な教会指導者に対する、真の信仰者の姿を示しているかもしれない。あるいは、①持たない②知らない③出来ない④存在しないという4つの「ない」で特徴づけられている人が、「わたしはある」という名の神への叫びを通して「在る者」になっていくことを示しているのかもしれない。だからキリストの福音は「ない」という生活の座から、もう一度解き直していく作業が必要。パウロは人間区分を「性」と「身分」と「人種」に区分し、「イエス・キリストにおいて一つ」という接点においてのみ、差別対立を根本的に乗り越える事が出来ると示す。人は目に映ることを見る故に、本質が見えていない。イエスラエルの民は、もともと最も小さく、弱い民であったのに、ただ神の愛ゆえに選び出され、神に応答して生きる民とされた。その神の恵みを、自分は見えていると誇るとき、見えなくしてしまった。ルカ24章で、2人の弟子がエマオ途上、主と共に食事をした時、十字架の死と復活の意味が同一の救済の物語となって示され、心の目を開かれる。バルティマイは見ることが出来るようになり、十字架のキリストに従う弟子になった。つまり十字架のキリストを見るために、見えるようにされた。私たちも憐れみを受け、今や私たちが一体誰であるかが、ハッキリ示された。私たちはキリストの十字架の命に結ばれた、キリストの体、教会である。キリストの十字架の赦しと復活のいのちを与えられた、キリストの体のかけがえのない存在として、世界にキリストの救いを証しする者だ。
「キリストの秘められた計画」
エレミヤ書10:6-11、コロサイの信徒への手紙4:2-6
エレミヤ書10章は偶像を辛辣に批判している。イザヤ46章で、偶像は自身で歩けず、人間や動物によって負われる。そのような偶像には人を救い出す力などないし、愛もない。その偶像を信じる者も滅びていく。エレミヤ10章にはコヘレトに有名な「ヘヴェル・空しさ」が出てくる。これは無価値、無意味さである。コヘレトはこの「空しさ」と「虚無」の中で、「神を畏れ、その戒めを守れ」と言う。それは今日のエレミヤの、神(わたしは自分が有ろうとする者として有るもの)は、「大いなる方」「諸国の民の王」「真理神」「命の神」「永遠の王」、「万物の創造者」「万軍の主」であることを知らされること。パウロはコロサイの人々の為に祈りながら、同時に「自分たちのために祈って欲しい」と伝えている。共に祈りあうことにおいて、主にある交わりが成立する。そして我々がこの世界で、キリストを証しするには、祈りが欠かせない。有名な讃美歌「いつくしみ深き」も「祈り」が主題。パウロは「私たちがキリストの秘められた計画を語ることができるように」と祈りを求めている。キリストを通しての神の計画が明らかにされることによって、和解と平和が与えられる。そして教会は一つになり、教会は教会の外にこの福音を宣べ伝えていく。恐れることはない。私たちはすでに「十字架の命」という塩で味付けされている。「秘められた計画」の中心は「贖い」である。イエス・キリストは自分の命を差し出し、罪の奴隷であった私たちを買い取り、我々は完全に自由な者とされた。十字架と復活の中に、神の愛は十全に示されている。故に、今パウロは、たとえ獄中にあっても、福音の希望から離れることない。むしろキリストの故に喜ぶ。しかし、多くの人は、キリストの救いより目に見える人の力を信頼する。それが世の支配と結びつく時、社会を破壊する恐ろしい力を持つ。悪的諸霊に我々は、様々に支配されている。しかし教会は、キリストの十字架を見上げることによって、この世の悪的霊力から解放され、信仰・希望・愛の世界に生きることの出来ることを信じ、歩む。正しい信仰は常に他者に向かって開かれていく。「相手が何をしてくれるか」を求めることではなく、「自分は、相手に何が出来るか」を求めていく。コロサイ4:7以降から多くの人が共同して福音のために働いていることを知る。教会は多くの人々の祈りの輪の中にある。そして、主キリストが教会の頭である。「イエスは何と素晴らしい友でしょうか」。教会はこの祈りを続けていく。キリストの秘められた計画が、一人でも多くの人にあかされるように。そしてキリストの温かさを誰かに伝えるために。
「私の愛する者」
エレミヤ書11:15-17 ヨハネによる福音書21:15-19
エレミヤが攻撃を受けた理由の一つに、エレミヤが人々の律法に対する姿勢を非難したことがある。イスラエルにとって、犠牲の供え物を捧げることは、自分の罪の悔い改めの徴としてとても重要なことである。しかし、それが単なる儀式となり、単なる義務になれば、本来の意味が見失われる。「聞け」で始まるシェマは、主なる神を、心をつくし、思いを尽くして愛するということ。そしてその律法は、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいと不可分なもの。ところが 「わたしの愛する者」は、無価値なものを拝み、力があり富める悪智恵の者が、弱者から奪い取っている。さらにエレミヤに対する殺害の計画が親族の間でなされていたという、残酷で不条理な空しさを覚えさせられる。家族間の争いを思う時、旧約のカインとアベルの話を思う。この話のポイントに、我々が「不平等の謎と共に生きていく道」をどのように見出していくか?ということがある。もし、それを己の力と知恵、正義、公平さだけに拠る時、まさに罪は戸口で待ち受けている。しかし、そのように人にどうしようもない状況において、我々は主にあってこそ「(罪を支配)するであろう」という希望を持つ。何故なら、我々は、イエスキリストの命によって、贖いと救いを、新たに生きることを得るからである。カインは、神に憎まれ不当に扱われたと思ったが、神は初めから終わりまで、カインに語り掛け、そしてその愛を示している。ヨハネ21:15以下は、復活のイエスが弟子のペトロに出会われる場面であるが、驚くべきことは、この話において全てが「愛しているか」という事だけを中心にしているということ。人は神に対してとても愛しているとは言えないような存在だが、神がいかに我々を愛しているかを知らされる。エレミヤは「わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを」と祈る。確かにこの祈りは聞かれる。しかし、「まことの神」「命の神」「この主に並ぶものはありえない」を知るエレミヤは、民族の運命を超えて、はるかその先に生きる。それにもまして、最後まで残るものを見る。「その独りを与えるほどにこの世を愛される」ということ。いわばそれが神のなされるまことの復讐。創世記で、神に似せて創られ、「それは極めて良かった」と言われた人間、罪を犯し死ぬ者となりながら、それでも「主によって」得られたカイン、3度も裏切りながら「私を愛するか」との言葉を聞いたペトロ、そして背き続ける者でありながら「私の愛する者」と呼ばれる私たち。 この途方もない愛の中に「聞く」という信仰があり、「罪を支配するだろう」という希望はある。 この途方もない愛の中に「共に生きていく」という道がある。
「二つの中に生きる」
使徒言行録 8:26-39
フィリポはサマリアの伝道を行っていた。「しかし」、サマリアから全く逆の場所に行くように命じられる。「ガザ」は当時、廃墟で「荒れ果てた」不毛な寂しい道。しかし聖書はその道で「そして、見よ」と語る。神に御言葉を信じ、それに一歩を踏み出す者に、神の御心が確かに示される。この高官は地位があり裕福な人だが、異邦人で宦官である。異邦人は神殿に来ても外側からしか礼拝をすることができない。さらに宦官は、律法的には主の会衆に加わることはできない。だからこそ「異邦人や宦官が主の民に加えられる」ことを預言するイザヤ書を彼は読んでいた。そしてイザヤ書53章「苦難の僕の歌」が示される。死に至るまでの沈黙も、黙って辱めを受けたのも全ては、私たちの痛み、私たちの病、私たちの罪のためであり、その死によって私たちに平和といやしが与えられたと。しかし、それは一体誰について言っているのか?その預言は、イエス・キリストの出来事において実現される。このイエスへの信仰によって、神の民が新しく立てられる。そこには、異邦人や宦官を排除する隔てはない。人の力ではどうすることも出来ない、不毛のような絶望の道を歩む人に、希望が生まれる。その救いが、イエス・キリストの十字架の死と、そして復活によって実現している。今やあなたも、この主イエス・キリストによって、神の喜びの共同体へ招かれている。高官とフィリポの出会いが、イエス・キリストを生かした。人と人との交わりの中で、聖書の御言葉が命をもち、イエス・キリストを指し示した瞬間。そして同時に、そのイエス・キリストが私たち一人一人を真に生かしていることを知らされた瞬間でもある。この話の主役、それはイエス・キリストをおいて他にはない。しかし、その主役の登場のために、私たちが必要とされている。人は皆どこか寂しい道を歩んでいる。だからそこに出会いが必要。だから自分もまたこの寂しい道で、誰かに出会うべく呼び出された存在であることに気づいていきたい。そしてそこにイエス・キリストの命が輝き、私たちを「喜びの道」へと導いていくと信じる。
「『種をまく人の譬』を読む」
マルコによる福音書 4:1-12
千葉宣義牧師
洛陽教会の礼拝で説教する機会が与えられた。ここにその時の説教について、「説教から」ということで、著者マルコがこの譬で語ろうとした事について少しだけ述べてみたい。マルコは4:33-34で、イエスは「こういった多くの譬えで、彼らの聞くことのできる仕方で彼らに言葉を語った」(田川建三訳)と述べている。マルコは、この4章にイエスの譬話をまとめている。今日のテキストは、その中で最初の譬話だが、それも三つに分けて書いている。①一つは、「種まく人の譬話」そのもの。②二つ目は、なぜ譬話で語るのかその理由を並べたもの、いわゆる「譬話論」と言われているもの。③三つめは、この譬話の解説である(①は4:1-9、②は4:10-12、③は4:13-20)。なぜ譬話に解説が必要なのか。譬話というのは本来分かり易いものであるはずだが、それに解説が必要となるのはなぜか。
マルコは、種まく人の譬えのあとに、イエスの12人の弟子とまわりにいた人々がこの譬えについて「尋ねた」として、当時、初期の教会で語られていた「譬話が必要なわけ」(「譬話論」)をわざわざここで挿入している。その譬話論によれば、あなたがた(弟子達、そして教会の内の人々)には「神の国の秘密(口語訳「奥義」、田川訳「秘儀」)が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」(このあとイザヤ書6:9-10が引用されている)というのである。この譬話の意味が分からなくて弟子たちが尋ねているそのすぐ後に、この「譬話論」を挿入したのはマルコである。弟子たちは「神の国の秘儀」が打ち明けられた中心にいる人々である。しかもこの「譬話論」を外の人々に語っていたのは、弟子たち自身であっただろう。彼らは、自分たちこそイエスの語ることを最も理解している者たちだと自認していたはずである。
このあとマルコは、弟子たちが、イエスから「このたとえがわからないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」と言われていると述べた上で、当時語られていたであろう「解説」を述べている。この解説は、弟子達及び当時の教会(エルサレム教会)が、「外の人々」として、「神の国の秘儀」が分かっていないとされた人々に向かって語っていた説明である。しかし、この解説は「種まく人の譬」を理解してなされた説明とはとても思えない。この解説は、種は神の言葉。道端に落ちた種とは、それをサタンが奪い取ったのだ。石地に落ちた種は、艱難・迫害にすぐ躓いてしまう場合。茨の中の種は、世の思い煩い、富の誘惑、また欲望などで実らない。良い地の種は、神の言葉を受け入れた人々だ、と。これではこの譬が人々を教会に引き込むには好都合な譬となってしまう。この譬は、道端、石地、茨の中に落ちた種は単数で表現されているが、良い地に落ちた種だけが複数で表現され、種は良い地に落ちさえすれば豊かに実を結ぶものだという、神の恵みと守りによってほとんどの種は多くの実を豊かに結ぶものだとイエスは述べ、人々を励ましたのだと読むことができる。
「今日も、明日も」
ルカによる福音書 13:31-35
古代ケルト民族は一年の終わりを10月31日と定め、その夜を死者の祭りとした。この習俗がキリスト教信仰に取りこまれたが、それは単なる祖先崇拝ではなく、信仰の交わりを覚え、感謝する時。若くして召された人も長生きした人も、誰もが何かの思いを残しこの世の生を終えていく。残された者はそれを受け止め、担い、生きていく。そのようにして人の営みは、今日も明日も続いていく。エルサレム途上にあるイエスは、ヘロデに「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と言われる。イエスが行っているのは、ヘロデの全く正反対のこと。たとえヘロデが死をもって脅そうとも、イエスはこの業を、これまでと同じように続けていく。しかし、同時にそれは「三日目にすべてを終える」ことになっている。この言葉は次の33節で説明されている。イエスは今日も、明日も、「しかし」、「その次の日も」自分の歩むべき道を歩んでいかねばならない。それが、エルサレムへの道、十字架の道であり、神の御旨の必然。そして、神は三日目にイエスを死の中から起こし復活させてくださる。イエスの宣教のみ業は、三日目に神によって完成される。イエスがエルサレムで死に復活することによって、人には死からの救いがもたらされる。生老病死が私たちの人生にどのように存在するのか、その理由は分からない。旧約聖書のヨブの苦しみには、明確な答えがない。その苦しみに、神の真の御心を見るためには、神と人を執成してくれる存在、贖う存在が必要である。神の裁きを軽んじてはならない。確かにデッドラインは存在する。ただ、ヨブが求めた贖い主、「まことの羊飼い」であるイエス・キリストが、己の命を懸けて、最大のリスクをもって1匹の羊を探してくれる。その方が、時代を超え、いつもあなたの傍らにいて、共に涙し、あなたの自責の痛みを背負い、導いてくれている。それは不条理な世界の中で、唯一真の神は確かに存在すること、あなたを愛し、あなたが生きることを願われていることを知らせてくれる。神は今も、そのみ翼を大きく拡げて、我々を招いておられる。だから復活の希望を決して見失わないで、むしろその恵みに喜びと、感謝をもって生きていくことを思わされる。教会の暦は死者の記念から、命の誕生を待ち望む時となる。信仰の先達、友、家族、その一人一人が、今私たちのこれから歩んでいく道を、照らし励ましている。主の福音に生きる素晴らしさを伝えてくれている。主において、希望をもって明日を生きていく。
「その傲慢を砕く」
エレミヤ書13:1-11 フィリピの信徒への手紙2:1-11
エレミヤは南ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされていく時代に活動した。「麻の帯」と「かめにぶどう酒を満たす」における比喩に不明な点があるが、その言わんとする事は明確で、イスラエルの民は本来、主なる神に従うべき筈なのに、それを知っていながら、まるで酔って正気でないように偶像を拝んでいることが裁かれている。そして15節「その傲慢に泣く」と言われる。「傲慢」は、新約において人の肉の生き方、罪の生き方の事例に見出す。それは、単なる自尊心、誇りや倫理的な姿勢の問題ではなく、あなたが何に依拠して生きているかと言うことへの問い。傲慢の反対は、聖書では「へりくだり・謙遜」。それは三谷隆正が言ったように「うなだれた首が謙遜の印ではない。子どものように快活に、小鳥のように喜べる、晴れ晴れとのびのびとした心こそ、謙遜なる人の心」である。「へりくだり・謙遜」の本来の意味は、神との関係から来るもの。フィリピ2:8節で「へりくだり・謙遜」は、明らかに「十字架の死に至るまで」ということを示している。へりくだるとは、十字架で死ぬこと。神と等しい存在が、人の罪のために、十字架の死に至るまで従順だったということ。それは、罪人である我々が、御子イエスキリストの十字架の命において、神に愛されている者として、生きるということ。その恵みの豊かさと関係している。だから「へりくだり」はいついかなる時も、キリストの十字架を思い起こすもの。決して他人事ではない。私たちがこのキリストを模範とし、このキリストの思いに従いゆくことこそが我々にとって自然なことなのだ。逆に、その自然な状態でないことが、「傲慢」だということができる。その傲慢になってしまったイスラエルの民を、神は今、裁かないわけにはいかない。しかし、同時に神は「その傲慢に泣く」と言われるのだ。神の流される涙はどういう結末を見出したのか。それがキリストの十字架。そしてその結果、地上の者も、天上の者も、すべてがイエス・キリストが主であると告白し、主イエス・キリストを通して、真の神の義を教えられる。だから主イエス・キリストの愛に従順でありたいと願う。その愛に生きていくことこそが、私たちを自由にし、私の傲慢さを打ち砕き、私たちを本当に生かすものであり、私たちの何よりもの喜びであると知らされる。
「ありがとうの思い」
詩編126編 ヨハネによる福音書 4:35-38
収穫感謝thanksgiving dayの由来にはいくつか説がある。それが、ネイティブ・アメリカンの助けに対する感謝であろうと、収穫が少なくても、まず神に感謝を捧げた出来事であっても、「感謝」ということが問題。詩編の126篇は、収穫感謝の日によく用いられる詩篇で、ネゲブという砂漠の地帯に雨が降ると、川が突然奇跡のように出現するように奇跡が起こって自分たちをバビロンから解放してくださる、そういう希望を歌う。しかし、現実には依然苦しい状況の中であり、すぐに何とかなるわけではない。解放されて、初めて感謝し、喜んだというのではない。最近、「『ありがとう』ということが無性に腹立たしい」という記事を読んだ。「ありがとう」にはもともと「滅多にないもの」「珍しく貴重なもの」という意味がある。聖書において、thanksgivingは最後の晩餐で「感謝の祈りをささげて」の訳として用いられる。だからイエスは「ありがとうの祈りを捧げて」と言い換えてもいいだろう。私たちは、いつの間にか、ありがとうの本当の意味を見落としているのかもしれない。それは、真実に種を蒔いても、むしろそれが報われない、裏切られることが多い人生のように思えるから。しかしイエスは、蒔いた本人ではなく、別の人がそれを刈り取る、人生の皮肉なことを表現した喩えを、種を蒔く人も刈る人も共に喜ぶという意味で用いる。それは、イエスがその命をもって蒔いた種は、決して自分の喜びのためではないから。最後の晩餐で、自らの命を失うことを知りつつ、主は神様に「ありがとう」の思いを伝えるように、自らの命が隣人への喜びにつながっていることを知っておられるから。だからこの言葉はもはや裁きの諺ではなく、喜びの言葉。たった一人でも、神の真の愛を知ることが出来た人がいた。それは天地を創り、命運を転じる神への確固たる信仰となった。そしてその信仰が希望として受け継がれていく。すでに私たちの教会はその喜びの環の中にいるのだから「ありがとう」と言うのだ。本来、人はどう生きるかということを、幼いとき砂場で学んだと言う。しかし、人はいつの間にかおごり高ぶり、感謝を忘れていく。人は生まれた時から、一人ではなく、誰かに支えられ、生かされて生きている。人を愛される神様はたとえ絶望の中にでさえ、確かに共にいてくださるのだから、あなたの当たり前と思っている日常の中にも、神の大きな恵みが働いていることを知るべき。「珍しく貴重なもの」が、あなたの当たり前の日々の日常に、いつも与えられている。だからこそ、今、人種、国、言葉、時を超えて、「ありがとうの思い」を大切にしたい。
「平和のヴィジョン」
イザヤ書11:1-10 コリントの信徒への手紙二 4:7-15
アドヴェントに入るこの時、我々は何をすべきなのだろう。それは、自ら根をしっかりと張って、精一杯生きることだ。使途パウロは様々な苦労・苦難に直面したが、それでも「行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と語っている。それはパウロが「土の器」にキリストの福音という「宝」を納めていたから。イザヤ書11章1-10節の中心にあるのは、弱い人々や貧しい人々に対する主なる神の正義と公平である。その神の正しさが始める新しいこと、それが「エッサイの株」についての言及。エッサイはダビデの父で、この歴史を生きる人間。その人間は、罪に敗れ、間違いを犯す。しかし、このような破れの中にある人間を神は覚え、一つの若枝を育て、実りをもたらす。それは神との和解を与えられ、命を与えられ、再び地に満ち繁栄する回復のヴィジョン。そして、そのヴィジョンは主の霊と共に与えられるメシアによって実現される。それは「畏れ敬う霊に満たされる」者として、「知恵と識別」「思慮と勇気」を発揮する者。主の霊が留まるものは、目に見えるところによらず、弱い人のために正当な裁きを行い、耳にするところによらず、貧しい人を公平に弁護する。人が思いあがっていれば、そこに正しい弁護も裁判もないし、真の解決策はない。結局、人の王では真の平和は実現されることない。必要なのは、神を信頼すること=立つべき所に立つことを通して、神の平和のヴィジョンにおいて生きること。11:6節以下には、あらゆる敵対する存在が、小さいものに導かれ共存しているヴィジョンが描かれる。この平和を実現する救い主は、羊飼いである。羊飼いは、敵対する者同士であふれている現実の世界に平和を打ち立てる。そこでは、すべての命ある者の間に、互いの生の尊厳が保たれる。それは単にロマンチックな単なる空想ではない。この新しく生まれるメシアは、人が負うべき罪の裁きと代償すべてを負い、鞭と死とを自身の身に引き受けて、この平和を実現する。その痛みと赦しによって人の内に「平和」を作り出す。ここにこそ、クリスマスの意味がある。イエス・キリストにしっかりと根を張った生き方は、平和を力の支配や軍事力と見誤ることはない。一見ひ弱そうにみえて、むしろ、嵐の中でこそ、より豊かに根をキリストに伸ばし、そこから得たものによって新たな命を育んで行くことが出来る。イエスが、キリストとして告白されるところでは、必ず正義と平和が問われる。そして、この主において、我々は必ず、一つに結び合わされていく。この救いのヴィジョンを我々は持ち、進んでいかねばならない。そういうアドヴェントの時を、歩んでいる。
「くらきより 遥かに照らせ」
イザヤ書60:1-7 マルコによる福音書1:1-8
人が黒目で見るのは、人生の暗いところから明るいものを見るように神が創ったからだと言う。アドヴェントの教会色は紫で、悔い改め、心備えの時。ルターは、悔い改めなき救いを、十字架なき救いであると批判した。手軽な救いを求めて満足するのではなく、キリストとの出会いによる喜びを取り戻し、罪を悔い改めて神のみもとに帰る、まさに教会はこの福音に生き、宣べ伝えることを使命とする。イエスの誕生を描かないマルコ福音書は、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と伝える。「悔い改め」とは「人の痛み・苦しみ・寂しさ、悔しさ、怒りに共感・共有できる所に、視点を移す」ことと言える。我々自身が後生大事にしてきた価値観を捨てなければならない。なぜなら、救いは自分のこれまでの生き方の延長にはないから。洗礼者ヨハネは、イエスが聖霊によってバプテスマを授けるから優れていると言う。イエスは洗礼を受けた時、イザヤの苦難の僕としての声を聞き、聖霊によって己の内に実現した神の国を人々に宣べ伝えた。そしてその先の十字架にイエスを送り出すのは聖霊である。故に、イエスが授ける「聖霊によるバプテスマ」は、十字架のイエスの死に浸されて共に死に、復活のイエスの命に新しく生き始めることに他ならない。旧約聖書イザヤ書60章は、クリスマスシーズンによく読まれる。第二イザヤと異なり、神の救いは、帰還してからのシオンの人々と諸国民の反応、生き方こそに見出されるべきだとする。悲しみに疲れ果てた人々へのかけ、そして悲しみから喜びへの呼びかけ。しかし人自身にはそのような力も輝きもない。私達は発光体ではないが、主の栄光を反映して輝くことが出来る。主ご自身が悲しむその人を照らす光となり、力を与える。互いに裁き合う悪循環の世界にあって、本来唯一人を裁くことの出来る神が裁かれない。それどころか、御子イエス・キリストが人間の罪を負い、身代わりとなり、赦しを与えられた。故に我々は「互いに赦されているのだから、裁きあう必要はないのだ」という積極的な教えに生きる。私たちの痛みはキリストがすでに受けられた。だから私たちは暗闇から解放され、この頭上に、共に生きるための光をいただいている。すべての人がこの光をあこがれ、慕い求めてやってくる。クリスマスのように「黄金と乳香を携え」、すべては主に栄光を帰すために。そして「あなたの嘆き悲しむ日が終わる」。何という慰め、何という希望。人生の暗いところから明るいものを見るのは、喜びはいつも、暗闇に来て下さったイエス・キリストを通して生み出されるように神が創って下さったから。ならば我々は、この現実の世界で、視点を変えてみたいと願わずにおられない。主の十字架の命によって、クリスマスの光に照らし出されたい。その光に照らされて、新たな一歩を踏み出したいと、願わずにはおられない。
「恐れるな」
イザヤ書41:8-10 マタイによる福音書1:20-25
ヨセフの「正しさ」こそが問題。創世記によれば、神は「人が独りでいるのは良くない」としエバを創造された。しかし二人の関係は、自己愛や保身によって崩壊し、ヨセフもまた、己の「正しさ」故にマリアを受け入れるという選択肢はなく、そこに根源的な人間の孤独が生まれる。これは現在の我々のプロトタイプだ。人はどう愛を回復し関係を修復できるのか?預言者ホセアは、裏切りの妻ゴメルを買い戻すことを通して、神の痛みと愛を知らされ、真の預言者に成長していったのではないかと考える。ヨセフがなぜマリアを受け入れたのか、それは福音書全体を読めば明確だ。そこには、御子イエスキリストの十字架の命という代価によって、我々は買い戻されたのだという救が、神が神ゆえに救いを与えてくれる神の必然性が描かれている。「恐れるな」とは、叱っているのではなく、「私は何も出来ない」という思いにとらわれる人を、自由にする力。そしてその根拠が、「神には出来ないことは何もない、必ず今も、神はあなたのために働いて下さっている」ということにある。自分の中には救いの根拠は全くないのだが、神が神故に救いを与えてくれるという神の必然性故に神を信じることにある。ホセアでは、それを「わたしは神であり、人間ではない」と語り、イザヤは「誰か?」という問いとする。「王たちを従わせたのは誰か?」「成し遂げたのは誰か?」。そしてこの答えは「主なるわたし」。人は様々に不安を抱き、口々にいろんなことを問い、主張し、予想するが、すべての答えは「それは、主なるわたし」という答えにのみ帰結するのだと言う。そしてこの主なる神は、わたしを取り巻く状況がどんなに困難に思えても、決して見捨てることはなく、全身の力で、私たちをその胸にだきしめて下さる方。ついに、我々の救いのために、その独り子を十字架に付けて下さる方。イザヤ書42章では神の支えと選びと喜びを与えられた僕は、その上に霊を置かれる。霊は、人を新たに生きるものとし、活力を与える。そして霊は我々に、隣人、弱った者を励まし、共に喜びに導く力を与える。アドヴェント、我々は皆「恐れが変えられる所」に立たされている。それは「神がわたしたちと共におられる」という喜びを知らされる時。その時、我々は「恐れ」から解放され、神における希望・愛・救いへの信頼の中で、互いの関係の回復を与えられ、希望をもって歩み始める。
「平和の君の誕生 」
イザヤ書 9:1-5 マタイによる福音書1:18-25
イザヤ7-9章はシリヤ・エフライム戦争を歴史的背景とする。それは北イスラエルの滅亡へと続き、生きのびる南ユダもまたアッシリアの力と支配の前に屈伏し、神殿に異教の偶像崇拝の祭壇までも作った。危機と不安定な情勢の中で人々は「神の教えと証」に力はないと言う。だから、彼らは苦しみ、飢え、そしてまた神を呪う。いわば、悪循環の極みで、まさに破壊、貧困、差別の世界、見渡せば「苦難と苦悩と追放」の暗闇が広がっている。しかし、その逃れるすべのないような暗闇に光を見る。インマヌエル、キリストの誕生の預言。すべてはここから始まっていくのだと。イエスが宣教の拠点としたのはエルサレムではなくガリラヤ。クリスマスに羊飼いたちが、救い主の誕生の光を示されたように、この世界で小さく弱い立場の人に光が示されることにおいて、ガリラヤは光栄を受けた。同じように、イエスはあなたの人生の苦難、あなたの弱さの中に来てくださる。我々がイエスを信じたその時から、この光に照らされ生きていく。ギデオンの話のように、人の目には不可能であり得ないと思えることが、ただただ神の熱意によって成し遂げられる。だから「神が共にいて下さる」ことへの喜び。そして、それはイエスの誕生において具体化される。悲しみ痛さ、辛さを知る人の子として生まれ、神の息子が与えられる。それは「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」である。イザヤが現実の世界の中で確かに生きたように、我々もこの現実の世界の中でこの預言を聞く。だから我々はこの世に対して無関心であったり、社会的に弱い立場の人に対する圧迫の現実に口を閉ざしてはならない。何故なら我々が生きるこの世界の主人公はこの最も小さい者として生まれる、イエス・キリストだからだ。この事だけが平和を実現する。これを神の熱意のみが可能にする。現実的に依然苦しみ、悲しみ、無力さというものが存在していたとしても、主イエス・キリストがこの私たちと一緒に歩んで下さっている「インマヌエル」こそが私たちを生かしめてくれるという信頼。だから答えは、あなたが信じたその時、すでに与えられている。それは、憎しみ、争い、許さないこと、否定と失意と孤独にあることではなく、それは感謝と喜びと赦し合と、平和と愛と祈りの希望をもって、共に歩ゆんでいくことの始まり。この年が終わっていくけれど、私たちの歩みは、キリストが生まれたその時から始まっていくのだ。神と人間の間に平和が結ばれ、人と人が共に生きていくことが出来ることを、この歴史の中で、この時代に、この時に、確信するべきだ。このキリストの平和に、共に歩んでいきたい。
「帰り道」
テトスへの手紙2:11-14
1月6日は通常エピファニーと呼ばれ、日本語では「顕現」「公現日」と訳される。全世界の人々が(人種・民族・宗教を越えて)、イエスを見る日。しかし私は思うのだが、学者らは自分の研究や考えを肯定するために来たのであって、信仰心からではなかったのかもしれないと。教会も同じで、来る人はいろいろな理由から来ている。教会という所は、人に会ってみるまでは、何もわからないところ。実際出会って、話して、そこに住んで、共に食事して、笑って、怒って、初めて相手を知っていく。だから互いに赦し、受け入れあうためには、たった一つの希望しかない。それはキリストへの信仰だ。博士の場合も同じ。すべてはイエス・キリストと会った後。彼らはヘロデ王を避けて、別の道を帰っていく。私はこのとき彼らが今までの生き方、歩みと違った道を歩み始めたのではないかと思う。救い主に出会い、神に指し示される道を歩むことを選び取った。テトスヘの手紙で語られていることも同じ。第一のポイントは、それが「すべての人々」を対象としていること。すべての人が救いを必要としている。第二のポイントは「現れた」。つまり、あなたもすでに出会ったということ。それは、ちょっと顔を見たということではなく、イエスという方の人生、赤ん坊で誕生し、十字架で終わるというという生涯を通して、神自身が低くなられたことを通して出会ったということ。第三のポイントは、「救いをもたらす」ということ。イエスの十字架によってもたらされた救いは、あなたの喜びだ。そしてその者は「イエス・キリストの栄光の現われを待ち望む」と告白する。学者たちがイエスに出会う話の結末は、時代を超えて私達、一人一人に問われている。御子の誕生に招かれたあなたは、どう感じたのですか。喜んだのですか。悲しんだのですか。この上ない喜びを感じたのなら、それはあなたが心から何かを感じ、恵みを受けたのだ。そしてその恵みは、私達を確かに変えてくれる。行きと帰りでは、あなたは確かに変えられている。だから、今あなたが歩んでいる道は、自分の思いだけにとらわれる道ではなく、神様の恵みに応えていこうとする道。キリストを通して、キリストへの信仰を通して、新たに生きる者と変えられることの喜びを抱きつつ、「イエス・キリストの栄光の現われを待ち望む」と、共に告白するのだ。