髙橋雄宇さん

基本情報

所属(現):NASA/Jet Propulsion Laboratory (ジェット推進研究所)

最終学位:博士

性別:男

年齢:33歳

出身地:東京都東久留米市

経歴

2004年 国際基督教大学高等学校卒業。JPLで惑星探査に関わることを目指して渡米。Embry-Riddle Aeronautical University(アリゾナ校)に入学。専攻はAerospace Engineering。

2007年 同大学卒業。

2008年 University of Colorado at Boulder, Aerospace Engineering Sciences Departmentの博士課程に入学。

2013年 同博士課程卒業。JPLに就職。Mission Design and Navigation(部署)のOuter Planet Navigation Group(課)に所属。衛星軌道のナビゲーションを担う。現在まで準惑星ミッションDawn、木星ミッションJuno、小惑星ミッションOSIRIS-RExに関わっている。

インタビュー

留学に至った理由を教えて下さい

話は小学校まで遡ります.幼稚園の頃に親の転勤でシンガポールに引越しました. 家の目の前がアメリカンスクールだったのですが,私が通っていた日本人学校に比べると建物や施設がとても豪華でした.アメリカは凄い国なのかもしれない,という印象が当時の私に残りました.

小学校を卒業してから日本に帰国し,中学は地元の学校,そして高校はICU High School(国際基督教大学高等学校)に通い,6年間は日本で過ごしました.そして高校二年生の時にJPL がやっていた MARS exploration Rover という計画を知ります.これは火星探査のために車輪の付いたローバーという無人探査機を火星に着陸させる計画です.当時高校生だった私はテレビでその計画のイメージ映像を見たのですが,あまりの格好良さに衝撃を受けました.ローバーがエアバッグに包まれており,それが火星の上をバウンスしながら着陸するんです.(https://www.youtube.com/watch?v=6t3IARmIdOI)エアバックなんて車に使用されるイメージしかなかった私は,エアバッグをローバーの着陸に使用する大胆な発想に驚きました.

その時ちょうど,物理の授業で重力について習っていて,まさに宇宙の話題はタイムリーでした.ロケットの打ち上げ,火星への軌道設計,そしてパラシュートやエアバッグを駆使した着陸.これは全て数学や物理,そして化学など理系の学問のなせる業です.当時は学校で習った内容を使って具体的に将来何をしたいか考えはありませんでしたが,その延長線上にはローバーを火星に着陸させるという現実世界が広がっているんだと,自分の中で道筋が見えとても感動しました.僕が見たものは本物の着陸ではなくイメージ映像でしかありませんでしたが,それがきっかけで JPL で働こうと決心しました.

決心したときは,まだロケットの打ち上げもされていない頃でした.実際にロケットが打ち上がり火星に着陸したのが2004年の1月で,私は高校3年生でした.JPLの司令室の様子がニュース番組で放送されたのですが,火星に無事着陸したことが分かった瞬間に大の大人が飛び上がっては抱き合い,泣きじゃくるんです.それを見て,これは本当に凄いことを成し遂げたんだなと思いました.大人が泣くシーンなんて滅多に見ないじゃないですか.そんなことは普通はオリンピックとかワールドカップとか,スポーツイベントぐらいだと思います.自分たちの成功に嬉し泣きするほどの感動がある仕事なんだ,そしてそれだけの情熱を捧げいている人間がいる職場なのだと思い,更にJPLで働きたいという思いが強くなりました.JPLがあるのはアメリカなのだからアメリカ人が働いているだろう.それならばアメリカ人が受けている教育を受けなければいけない,という単純な理由でアメリカ留学を決意しました.迷いや不安は特にありませんでした.


学校選択の基準決め手は何ですか?

留学すると家族に伝えたら,父親がある一言を言ってくれました.それは,「目的がないなら留学をするな」です.僕が高校生の時には「グローバル」という言葉が流行っていて,漠然とグローバルになったらかっこいいんだ,海外で英語が使えたらかっこいいんだ,というイメージがありました.そんな中途半端な理由で留学して欲しくないと,親が心配したのかもしれません.目的がないなら留学をするなと釘を刺されました.例えば英語活用能力について言うと,アメリカ人の小学生でもペラペラ英語をしゃべるわけです.その子たちの英語の方が,僕が一生かかって習得する英語よりも明らかに自然で上手なわけです.だから英語能力を上げて戦うのではなくて,自分の持っている技術を高めて戦いなさい,英語に惑わされるなと親に言われました.英語はただの手段であって目的では無い.そのことを肝に命じて,自分が学びたい宇宙工学の分野で一番の教育を求めないといけないと思いました.

その一番選びですが,大学選びは大学ランキングを指標にしました.アメリカ人は何でもランキングを出したがります.数字に表すことが好きで,住みやすい街ランキングなんかも出ています.競争を大事にする文化の表れかもしれません.大学ランキングについても,大学だけではなくて学部や分野ごとのランキングまで出ます.僕が高校生の頃はサーチエンジンが非力だったので,ヤフー検索のコツとかを授業を習っていた時代です.当然,情報収集は本でした.池袋のジュンク堂で US NEWS を買ったりして情報を集めました.自分の行きたい Aerospace Engineeringという分野のランキングを見つけ,毎年一番を取っていた学部は,アリゾナにあるEmbry-Riddle Aeronautical University(エンブリー・リドル航空大学)だったので,そこの学部に入ろうと決めました.MITといった世界的に有名な大学も受験しましたが,全て落ちてしまったので,結局は一番行きたかった大学にしか受かりませんでした.そういうのも運命なのかもしれません.もしたまたまでもハーバードに受かっていたりしたら,邪念が入ってそっちに行ってしまったかもしれません(笑)


留学前に大変だったことどのようにそれを克服したか?

先ほども話しましたが,家族の説得はとても簡単でした.英語の勉強ではなく,宇宙工学を学ぶために留学したいと伝えたので親は反対する理由がありませんでした.金銭面についても,両親は何も言わずに払ってくれました.親にはとても感謝しています.これは私の想像ですが,両親が海外に駐在していた間に,知り合いの子どもが留学するといったケースの話を聞いていたのでしょう.うちの子ども達が留学したいと言い出すかもしれない,と思って親は貯金をしていたのだと思います.僕は3人兄弟ですので,実際問題として,3兄弟全員が留学するのは不可能だと思います.僕は長男ですので,何でもできたというのはあると思います.仮に私に兄がいて,先に留学をしていたら自分は留学できなかったと思いますよ.それは本当に幸運だったと言うに尽きます.

推薦状については高校の先生に書いてもらいました.私が通った ICUHSにはネイティブの先生もいましたし,日本語で書いたものを翻訳してくれる先生もいたので特に苦労することはありませんでした.僕の在籍中は帰国子女と日本教育を受けてきた生徒の熟練度の差を考え,英語・数学・国語は4段階にクラスが分かれていました.中には日本語が第二言語で英語が第一言語というような生徒もいますし,全員に対して同じ授業をするわけにはいかないので,当然なことではあると思います.英語に関しては4番目のレベルのクラスでもハリーポッターの原著を英語で読んだりするんです.僕は英語のクラスは3番目のレベルにいましたが,今思えばレベルは高かったのだと思います.当時自分が授業を受けているときはそんなこと夢にも思いませんけどね.英語で書く文章は日本語に比べてルールが多いですから,エッセイの書き方なども習いました.それは実際に出願時のStatement of Purposeを書く時にも役立ちました.そういう意味ではとても恵まれた環境にいたと思います.


他に何か不安や大変だったことはありますか?

英語については,僕は日本の平均から見ると英語ができるレベルですけども,焦りはありました.アメリカに行ったことがなかったので,どんな国か知らない不安もありました.TOEFLも点を取るのに少々苦労しましたね.TOEFLは留学生の英語の熟練度を証明するための試験ですが,点数を上げるために,塾に2,3ヶ月くらい通いました.高校生は僕だけでしたから,おそらく社費留学とかでTOEFLが必要な人が来ていたのではないでしょうか.当時のTOEFLは文章読解がメインだったので,コツを掴めば簡単に点数を上げることができました.これは受験勉強の賜物だと思います.最初に受験したTOEFLはとても点数が悪くて焦りましたが,とりあえずTOEFLは何回でも受けて基準点をクリアすればいいので,足切りを超えたところで勉強をやめました.

TOEFLより大切なのが, SAT という共通の試験で,数学と英語の2科目でした.いわゆる,アメリカのセンター試験です.SAT試験は,高校3年生の時に受けました.TOEFL同様受験は何回でもできますので,一番いいスコアを送ります.そういう意味では1回勝負ではないので日本の受験に比べるとはるかに簡単だと思います.TOEFLは足切り点を超えれば良いですが,SAT は満点に近ければ近いほど良いです.数学はとても簡単で,小学生でも出来るような数学でした.ですが英語は本当に難しかったです.単語帳等を使って英語の点数をちょっとずつ上げましたが,これ以上は点が伸びないと気づいたので,勉強をやめました.ICUHS の同級生で,ネイティブレベルで英語を話す友人が難しいと言っていました.それを聞いて数ヶ月勉強しただけの付け焼刃の英語ではお話にならないと思い,努力することを止めました.諦めるのとは違い,まぁなるようになるだろうという開き直りに近いものです.おそらく2,3回はSATを受けたと思いますが,でもこれ以上点数は上がらないと思ったのでその後も無意味に繰り返し受験することはしませんでした.


日本を離れて留学することに不安はありませんでしたか?

特にありませんでした.アメリカの大学を受けて全てダメだったら,次の年にまた受ければいいかな,と思っていました.その時は日本の大学も候補に入れて.一般の人からすると留学は,知らない場所にいく勇気のある人がするものだ,という感覚があると思います.でも僕はそんなこと思っていません.日本人は,何かあれば日本に戻ることができるんですよ.だから留学は特別すごいことでは無いと思います. どなたが言ったのか分かりませんが、「喧嘩するときは相手に絶対に逃げ道を作れ」という言葉を聞いたことがあります。 逃げ道をなくすと,冷静さを失ってムキになり信じられないような力を出すので,絶対に逃げ道は作れということです.喧嘩と留学を並べるのは乱暴かもしれませんが,留学については,逃げ道として日本に戻ることができます.結局は,日本に戻ることはできるし,日本の大学に行くことも出来るという思いがあったので,留学に不安や恐怖心はありませんでした.

両親から,あんたアメリカ行って大丈夫なの?と言われたこともありませんでした.親が不安がっていたら,子どもにその不安が伝わると思います.それを考えて,親はそのような態度を見せなかったのかもしれません.日本を旅発つ時も,いってらっしゃいと言われただけです.私は思い詰めるタイプではないので,失敗すれば戻ってくればいいやと思っていました.ただし失敗するとめちゃくちゃカッコ悪いので,留学したら留学したで絶対に頑張ろうと思っていました.実際,大学にいたときは人生で一番勉強したと思います.


実際に大学にいって,学んで良かったことを教えてください.

私の実体験からすると,学部から留学する必要は無いと思います.やはり,留学の目的は,自分のスキルを磨くことです.私がJPL に雇われたのは,英語が出来るからでは無く,エンジニアのスキルがあるから雇われたわけです.言葉のスキルではなく技術を評価されたわけです.大学の本来の目的は自分のスペシャリティを高めるため,技術を専門的に習得することです.ですが,実際に大学の学部の授業で学ぶことは,全て教科書に入っていることです.別に大学に行く必要さえないという考え方も一理あります.ホリエモンじゃないですが,自分で勉強しとけばいいじゃん,という意見も一理あります.

しかし私が学部留学で何も得ることが無かったかと言うと,決してそうではありません.私が留学することで得た1番のメリットは授業では無く,人との出会いです.アメリカで多くの人に出会い,いろんな生き方を見て,日本では考えられないような人達に出会えたことは良かったと思います.例えば,エンブリー・リドル航空大学の学生の半分ぐらいは,軍隊から奨学金をもらっている人がいて,彼らは軍服を着て学校に来ていました.あと,日本ではみんな大学に行くのが普通ですよね.でも,同級生の中には,家族の中で自分が初めて大学に来たという学生もいました.驚きました.自分が大学に行って,職について家族のために稼がないとダメなんだという人もいました.日本で育っていると,そのような話を聞くことはあまり無いと思います.そして学生達の国籍もバラバラです.アフリカやインド,さらにお前の国どこにあるのって思う国から来ている人もいました.そのような人たちと出会えた事はとても良い経験になりました.

もう一つ大学で大切な事があります.それは,大学では出会う人のサンプルサイズが大きいということです.小学生,中学校はその近くに住んでいる人が集まるので,バックグラウンドも似たり寄ったりで,出会う人数も少ない,つまりサンプルサイズは小さいです.大学になると県外からも多くの人が集まり,バックグラウンドも様々で,つまりサンプルサイズが大きくなります.アメリカの大学となると,海外からの学生も多いので,日本の大学に比べて更にサンプルサイズが大きくなります.面白いことに,大学を卒業して仕事を始めると,サンプルサイズが小さくなります.なぜなら,同じ会社で同じような目的意識を持った人と仕事をするからです.だから,大学というものはどんな人にとってもサンプルサイズが一番大きくなる時だと思います.その時に多くの人と出会うことによって,自分とは異なる生活,性格,考え方を学ぶ事が出来ます.

留学して何も苦労が無かったかといえばそうではありませんでした.外国人はJPLで働けないということがわかり,当時危機感を感じました.留学する前は,良い成績を取って卒業すればJPLに採用されるだろうと,安易に思っていました.アメリカは自由の国だって言うじゃないですか.それを信じ切っていた私は,留学前に一番大事なところを調べ損ねていました.考えてみると当たり前ですが,国の機関だから外国人は働けません.外国人は日本の公務員になれないですよね,それと同じです.これはヤバイ,と思いました.ですがラッキーなことに,私が大学3年生の時に取った授業の先生がドイツ人だったのですが,昔はNASAで働いていたと言っていたんです.それを聞いて私は,この人はドイツ人なのにどうしてNASAで働けたんだろうと思いました.すぐその先生に話を聞いてみると,私は PhDを持っていて,NASAが欲しい技術を持っていたから雇ってもらえたんだ,と話してくれました.そこで私も PhD を取ろうと決断しました.以前からもPhDに興味がありましたが,先生の話を聞いてからPhDの取得が必要条件になり,PhDを取らないと自分が留学をした意味が無いことが分かりました.

当時,大学3年生で将来のことを考える時期でしたので,その先生が思い出話をしてくれなかったら,私は大学院の重要さに気付かなかったわけです.巡り合わせが良かったなと思います.大学の同級生は大学1年生の時からインターンシップに行っている友達もいました.私も真似をしてボーイングやロッキードという航空関係を探しましたが,最低でもグリーンカードほとんどは US CITIZEN(市民権)が必要という条件でした.日本にいる時にはそのようなことを全く知らなかったので驚きました.チャンスは一度失ったけど,チャンスを与えてくれる巡り合わせがあったこと.その出会いには本当に感謝しています.


残念だったこと,苦労したこと,

がっかりしたことで言うと,アメリカ人は思ったほど学力が高くなくて期待はずれでした.アメリカでは日本人が高校3年生で習う数学Ⅲや数学 C を,大学1,2年生で学習したりするわけです.日本ですでに教わった内容でしたから,僕は勉強しなくてもテストで点が取れます.大学2年生までは英語の勉強だと思って数学を受けていました.アメリカでさえ大学の授業のレベルは低い.それは逆に言えば日本の教育レベルが高いということかもしれないと,日本の教育を見直す機会にもなりました.

これは僕の感覚ですが,アメリカでは大学最初の1年間を乗り越える人が全体の70%ぐらいしかいません.日本では落第する人が何人かいるのか知りませんが,日本の方が少ないと思います.アメリカには SAT 等がありますが,基本的にはアメリカ人は受験勉強をせずに大学に入ってきます.日本人みたいに根詰めて勉強した経験が少ないんです.だから大学の早い授業のペースについて行けず,脱落していく人が多いんです.多くの人はそこで諦めて,這い上がれない.メンタルが弱い人が多いなと思いました.アメリカ人は何にするにしても口上手ですから,言い訳も上手です.僕はそんなに言い訳考える暇があったら勉強しろよ,とか思ってましたけど(笑)

メンタルが弱い,につながるかもしれませんが,アメリカでは高校生まで学校の送り迎えは親がします.日本だったら小学生や中学生が自転車等で通学するのが普通で,帰りにスーパーやコンビニで寄り道しますよね.アメリカ人はマザコンかと心配になるぐらい親が大好きな人が多くて,用事もないのに親と毎日電話する人も沢山います.そんな友人を見て,この子達は小学生かと思いましたよ.なんでそんな家族に甘えているんだと思いました.僕は日本から自分一人で覚悟を決めて来たのに,なぜこの人たちはたかが隣の州に住んでる親と毎日電話してるんだろうと思いました.そんなに精神が不安定なのかとも思いましたね.数年住んでいればそれはアメリカの文化なのだ,と理解出来るのですが,最初渡米した時はとても驚きました.


PhDの大学はどのように選びましたか?

僕はナビゲーションでPhDを取りたいと思っていました.先ほど話した大学ランキングではエアロスペース(航空宇宙工学)という分野ではランキングがありましたが,ナビゲーションはありませんでした.エアロスペースより細かい分野までランキングが出ていなかったんです.そもそも大学院選びにはランキングは重要では無く,指導教官が大事だということは聞いていたので,大学選びの時のようにランキングを指標にすることはしませんでした.

コロラド大学を選んだ理由ですが,それも運の巡り合わせです.私が大学4年生の時の先生がナビゲーションに関して強い大学院を数校,勧めてくれました.その先生もコロラド大学の卒業生だったのですが,結局はミシガン大学にいる先生と研究がしたいと思うようになりました.そして長い夏休みを利用してミシガン大学まで直接目的の教授に会いに行きました.ミシガン大学はAnn Arborというとても綺麗な町にあり,この町なら住みたいなぁと思っていたのですが,面談が始まるや否や翌年からコロラド大学に移る予定だということを告げられました.その後帰り道にコロラド経由でアリゾナに戻りましたが,ボルダーという町もとても綺麗な場所で,キャンパスの目の前に広がる山脈の美しさに一瞬で心を奪われました.ミシガンからコロラドまで行くだけで20時間以上運転しましたから,中々気合が入っていたなと当時の自分を振り返って思います(笑)

幸運にもその指導教官と大学院で研究できることになったのですが,さらに幸運だったのはその指導教官が昔 JPLで働いていた経験があったことです.最初に携わっていた研究は,研究費がJPL から来ていましたので,研究している過程で JPL の職員と何人か繋がりができました. コロラド大学には高橋というやつがいる,ということをJPLの何人かに覚えてもらいました.JPL に働きたいと思ってアメリカに来て, PhD研究の最初の研究費が JPLだったというのはすごいラッキーだったと思います.例えば再度学校に入り直して同じことを二度やれと言われても,絶対無理でしょう(笑)その研究は指導教員が書いたプロポーザルだったので,自分が書いたわけでありません.そのファンディングは2年だったので博士課程の途中で終わりましたが,その後3年間の研究費をスポンサーしてもらった小惑星ミッション(OSIRIS-REx)はJPLで働いている今でも継続して行なっており,無事に打ち上げも見届けました.現在は目的地の小惑星ベンヌを周回していますが,最初から最後まで見届けることができると思うととても幸運です.


先ほどから高橋さんが言われている,巡り合わせが良かったというのはなぜだと思いますか?

先ほども話しましたがサンプルサイズが多く,色々な人に出会って吸収する機会が多かったからだと思います.パーティーでも何でも誘われたら断らず,顔を出すようにしていました.あと,それ以上に大切なことは,自分が何をしたいかというのを伝えることです.これは日本人が苦手な事かもしれません.私も日本人の社会人と会う機会が多いですが,会社の名前を言ったり,名刺を頂いたりしますが,結局その人が何をしたいのかわかりません.個人として何者なのかを伝えることが大切です.私はアメリカに来て学んだことは,自分が何をしたいのか,何に興味があるのかを相手に伝えないと,相手から興味を得てもらえないということです.

私は物理法則で人生に役立つものはたくさんあると思っているのですが,物理法則で作用・反作用という言葉があります.英語ではアクション・リアクションといいます.リアクションするというのは受動的なものです.誰かが話してたら,それに反応する.というのは受動的なものですよね.リアクションというのは,野球に例えるとただ単にキャッチャーになってるだけです.一方,アクションは能動的です.こちらからアクションを起こし,私はこういうことがしたい,将来何をしたいです,という話を能動的にします.すると相手は,こいつはこういう志を持っている人間なんだと把握してくれますし,聞いていて嬉しくなりますよね.そのような人間は,相手の心を打つのだと思います.いろんな人に会った時,まず自分からアクションして自分は何者かを明確にすることで,どんどんリアクションが広がっていくと思っています.ただその場にいるだけではなく,自分のアクションを起こすことが大事.そこで初めて,相手から助けてもらえる可能性があるわけです.

私は昔から,自分自身が何をしたいかをとずっと口に出してきました.具体的に JPL で働きたいということを周りに言い続けてきました.そうすると,周りの人間から,高橋はJPLで働きたいんだ,ということを覚えてもらえます.すると周りから,JPLにコネがある人を紹介してもらえるというリアクションが入ってきました.もちろんラッキーという部分もあると思いますが,自分からアクションを起こす,自分が何をしたいかを伝えることが大事だと思います.何をやりたいかが分からないと,助けようがないですよね.


留学の結果,何がどう変わって結果がどうやられたか結果を得るためにと動いたか

留学している間,特にPhDの間は研究を頑張るしかありません.エンジニアという職業はチームの職業なので,人間関係も大事です.あと,先ほどから繰り返していますが,自分からアクションを起こさないと,なにも得られません.例を挙げると,ある学会に参加した時,ディナーの席でJPLの方が隣の席でした.初対面だったのでその人がJPLで何をしているのかよく分からない状態でしたが,私はその人に対して,僕は JPLで働くために留学に来て,今はPhDで研究をしていて将来はJPLで働きたいという話をしました. もちろん突発的にそういう話をするのではなくて、自然な流れの中でやります。いきなり自分の夢を語り出すのは不自然ですから(笑)すると,実はその相手の人は僕が働きたいと思っていた部署の部長で,高橋はやる気があるやつだと認識してくれたのでしょう,私がJPLに行くことを助けてくれました.これも自分からアクションを起こした結果だと思います.これは僕個人の見解ですが,私がやっぱり見てて気持ちがいいのは,目的意識を持ってる人や自分から行動を起こしている人です.そういう人たちのエネルギーは波及効果があるとおもいます.

留学の結果についてですが,私は大学の学部はあまり関係ないと思います.就職には大学院でやった研究や学会で発表した内容,また学会で会った人,そういう要因が大きいです.だから,大学院留学というのはとても価値があると思います.私の場合は,国籍の問題をクリアするためにも大学院留学をしなければいけませんでした.


お給料に関して何か博士課程をやっていてメリットはありましたか?

当然博士課程まで行けば学部卒や修士卒の学生よりも年収は高いです.アメリカでは普通,仕事のオファーがあるとまずは給料を上げてくださいと交渉します.引っ越し手当を増やしてくださいとか.私は何も言わずにオファーさえあれば何でもいいと言って,仕事のオファーを取りました.だから,お金の面で待遇が変わったか特にわかりません.


高橋さんは一貫していますね

研究内容は変わってもいいと思うのですが,最後のゴールはぶれない方がいいと思います.ぶれると,手助けしてくれた人も損だと思うのではないでしょうか.私はアメリカの大学院に留学したい学生からアドバイスを請われて手助けすることがありますが,そういう子たちが大学院を辞めたりすると,少し残念な気持ちになりますね.まぁ他人の人生なのでとやかくは言いませんが,せっかく手伝ったのだから最後までやってほしいという気持ちもあります.私は初めからJPL で働きたいと言って変わらなかったから,私を助けてくれた人たちは見ていて気持ちが良かったんじゃないでしょうか.首尾一貫していたので助けてくれたのかなという気持ちもあります.個人的な感想ですが,助け甲斐がある人と無い人はいると思います.


今後どうしたいかをお聞かせください

実は,今の仕事は趣味だと思っています.私みたいに宇宙の仕事をする人間からすると,宇宙の歴史は130億年あって,その中で自分の人生は100年だとすると一瞬なわけです.自分が生きている間に人類が火星に移住するだとか,地球外生命のサインを検出すると言った,宇宙の大発見を自分が全部見届けることができるとは思っていません.期待はしていますが,「それは時の流れに任せる」といった感じです.研究するモチベーションとしては面白いですし,それはそれで素晴らしいことなのですが,それと同時にこんなでかいスケールで宇宙があるのに,自分の短い一生で全てを知ろうと思うのはおこがましいとも思っています.野心がある上で,宇宙のスケールに照らし合わせて謙虚にならないといけないなと思っています.今の仕事は趣味の延長線上で,少しずつ人間の知識に貢献できればいいと思っています.だからそこまで宇宙の仕事に関することで野望はありません.部長になりたいとか偉くなりたいという気持ちもありません.むしろ偉くなるとエンジニアの仕事ができなくなるから嫌ですね.私は常にエンジニアとして計算しているほうが楽しいです.今やっている仕事では,色々なプロジェクトに関わり,色々な側面から宇宙を見ることが出来るのでとても満足しています.今は小惑星と木星のプロジェクトにかかっていますが,星が変わると宇宙の違う側面が見えてきます.

宇宙以外にやりたいことと言えばビール屋さんを開くことです.ですがビジネスで成功したいともあまり思わないし,経営にも興味ありません.毎日行きたくなるようなビール屋さんが近くに無いので,自分で作ろうかなとか,そんな感じです(笑)もうかれこれ7年ぐらい家でビールを作っていますが,結構美味しく作れるんですよ.ビール好きが集まるお店で,ある程度の生活が出来れば良いなと思っています.いずれにせよ,何かを作ることに関わっていきたいと思っています.作る仕事というのはゼロをイチに変える仕事だと思っています.否定するつもりは全くありませんが,お金を左から右に流して利益を得ることに,私は何もモチベーションを感じません.それは形がある物を何も作っていないからです.「私が作ったプロダクトはこれです」と言えるような,手に残る物を作り続けていきたいと思っています.

私が学生の時はJPL に憧れがありました.JPLは自分の手の届かない所にありました.ですが PhD を通してエンジニアとしての能力も身についてきて,全てやりたいことは実現可能だと思うようになりました.何か成功したと人というのは,基本的なことを続けていった結果成功したのだと思います.今はゴールを設定して,着実にステップを踏めば何でも達成できるという自信があります.学生の時は JPL で働きたいということは大きなモチベーションであり,そこに絶対到達したいゴールがありました.そのような大きな目標を今立ててくださいと言われても難しいです.やりたいことが無いとか道がないとかと言いたいわけではなく,なんでも実現可能な範囲で物が動いている感覚があるということです.もう少しリラックスして人生と向き合うことができているということかもしれません.問題は,ではいつ物事を行うのか,そのタイミングだと思います.何か大きな目標を言えるとかっこいいと思うんですが,特に無いんですよね.ビール作りをやりたいっていう話をしていると,友人からじゃあデザインを手伝いますよと,何かお手伝いしますよ,という人がいてくれます.これもやはりサンプルサイズを増やしてアクションを増やしリアクションを増やすということを続けている結果だと思います.世の中には,アインシュタインのように一人で式を解いてしまう人間もいますが,ほとんどの人間はチームで仕事をしています.人に頼るところ,自分でやるところ,そんな境界線も今は自分の能力が大体分かってきたので,割とはっきり見えるようになってきた気がします.


将来アメリカで何かしたいけども,一歩が踏み出せない人にどういうエールを送りますか.

人間の50%以上はスタートしないと思っています.スタートした時点で半分以上にはなれると思っています.いや80%ぐらいかもしれません.動き始めた瞬間にトップ20%にいます.だから絶対に動いた方がいいです.考えるなとは言いませんが,動く方が大事ということを伝えたいです.考えることに時間を費やすよりは,絶対に動くことに時間を費やす方が良いです.先ほどのアクション・リアクションの話にもつながりますが,自分から動かないと始まりません.


英語の勉強について

僕は英語の勉強を全然してません.勉強してないと言うのは,実際に勉強していない訳ではなくて,勉強したと頭で思っていないということです.どういうことかと言うと,例えばTOEFL の点数といった途中にあるゴールというのはただの必要条件です.その勉強で燃え尽きてしまうのは本末転倒ですよね.英語に集中しすぎてエンジニアの勉強を怠ってしまうというのは,目的を履き違えています.そのように付随してくる勉強,絶対にしないといけない勉強というのは時間を使わないといけないかもしれませんが,メンタリティとしてはランニングと一緒で惰性でやるぐらいがいいと思います.本気で集中して頑張るのではなく,とりあえずやらなきゃいけないなと.食器洗いと同じです.そこに気持ちを入れすぎると,人間は疲れてしまいます.全てのことに100%の力で取り組むことはできません.だから,一番力を入れるところと,第2,第3と自分で優先順位をつけて把握することで,頑張りすぎないというもの大事だと思います.頑張ってしまうと,自分はこんなに勉強した!と言う事実に満足してしまいますから,とりあえず雑用を片付けた,ぐらいの感覚で英語を勉強すれば良いと思います.


目標について

目標というのは設定の仕方が大事です.私は JPLに就職する,というわかりやすい目標がありました.これが例えば年商10億円を稼ぐ,という風に目標を掲げたとします.でもそれって,何をどこからスタートしていいか,具体的にわからないですよね. JPLで働きたいんだったら,宇宙の勉強をするとか,なんとなくわかります.ですがお金だけだと,何がしたいのか分かりません.

例えば麻薬を売ってお金を儲ける人もいますし,自動車を作ってお金を儲ける人もいます.同じ10億円でも,手段が全く異なります.そこのコアになる,何をしたいのかという動機が大事です.高い目標を立てることは全然構わないと思います. 例えば自動車だったら機械工学だったり材料工学だったり,色々道が見えてきますよね.そのように具体的なステップが描ける目標がいいと思います.抽象的な目的と具体的な目的を認識出来ないと,目標設定がぶれてしまうかなと思います.

話は戻りますが,私は昔から自分がやると決めたら,何も考えずに動く性格でした.今,アメリカに来て15年経ちますが,改めて,何事もまず動いた方が良いと思います.失敗することもありますよ.でもほとんどの人は,動かない.考えてない人は動かないし,考えている人も動きません.考えながら動ける,もしくは動きながら考える人間になることが大事だと思います.僕も高校生の時にとりあえず行動に起こしてアメリカに来た.あの時の自分は無知でしたが行動力があった,それは今でも誇れることです.

インタビュアー:笘野哲史