朴慶植氏が資料収集にかけた「執念」とも言える情熱は有名だ。民族教育に携わって定収を得るようになっても、薄給であり、それさえも1970年には退職して、組織から何の支援もない一歴史家となり、古本屋稼業などを営みながら、50刷を越えるロングセラーとなった『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)の印税などの限られた厳しい財源で本代以外の支出はとことん節約し、食べるものを食べなくても古本を買うという形で集められたという。
古書展などで氏に出会わないことはなく、また氏の後を通っても価値のある資料は何も残っていないとの逸話もある。また、本の表題からは、朝鮮に関する内容が含まれているかどうか全く判断できないような資料を見つけ出す名人であったとも言われている。その一つの証拠に、朴慶植文庫を整理していると、継続的ではなく突然ある号だけが存在する雑誌があり、「なぜこの雑誌が朴慶植文庫に?」と思って中身をめくってみると、必ず朝鮮に関する記事や特集がある。
朴慶植文庫の資料がカバーする範囲は広く、在日朝鮮人史関連も運動史だけでなく生活史、文化史に関するものや、また朝鮮近現代史全般に及ぶ。当初は古代史・中世史関係の古書も収集しておられたが、1970年に朝鮮大学校教員を辞められる際に生活のために手放されたという。
そのような朴慶植氏のそのような資料収集への情熱を知る方々の回顧を一部紹介する。
次は、朴宗根氏による、古書展等で共に「古書漁り」をしたことをに関する回想である。
…朴さんが史料収集にかけた執念の一端をここに紹介して、多くの課題をかかえ無念の死をとげた朴さんの遺志を継ぎ、せめて貴重な史料の活用に役たてればと思うのである。(略)
朴さんの史料収集も、やはり神田の古本屋をこまめに探し歩くことが主であった。時たま、私と神田で一緒になることもあったが、とりわけ、お茶の水駅近くにある古書会館の古書展だった。この古本漁りを通じて、色々教えられるとともに、朴さんとの格の違いを思い知らされた。まず、私は朝鮮関係の初歩的な安い本を探していたのにたいし、朴さんは、朝鮮近現代史の史料について該博であり、すでに入手しにくい資料を探す段階であった。(略)
朴さんは当時、朝鮮高校・朝鮮大学校の教員をしていたので、勤務の合い間を利用して古書展などに駆け付けていた。(略)朴さんとは、古書会館を出て神田の古本屋界隈をまわることも、しばしばあった。私も負けじと目を皿のようにして書棚を見上げて探すのだが、とても朴さんにはかなわないことを、いやというほど感じさせられていた。とりわけ感心させられたのは、店先のぞっき本の書台のところを軽くいじくっては、ぱらぱらと頁をめくって買うが、見せてもらうと、一部に朝鮮近現代史関係の貴重な史料が含まれ、うんとうなることになる。朴さんよりも若い私でも、本やまわりは足・目など疲れてぞっき本などは面倒臭くなるが、朴さんはこまめで根気がある。
小柄な朴さんが何時もおおきなショルダバックに本を詰め込んでかつぎ、さらに片手には布バック(以前は風呂敷)の本を重たそうにして神田の古本屋界隈を歩いていた姿が、いまでも目に浮かぶ。
古本屋街での昼食になると、一誠堂の向かい側の軽食堂で、肉まん二個づつとコップの水ですましてた。(略)高価の古本と肉まんの昼食、このアンバランスな場面は異様に思えたが、これが朴さんにとっては古本のためにはすべての支出をけずる生きかたの一端であった。(略)
朴さんの貴重な蔵書は、「終戦」直後に朝鮮高校の教員として朝鮮史を担当したこともあって、史料の裏付けによる日本の朝鮮侵略を説得的に教えることを痛感して、古本漁りをはじめたことからである。その頃は社会の混乱で、古本の掘り出しものがあった。これが朴さんの蔵書の土台になっており、後進の研究者よりも第一の強みとなっていた。…
【典拠】朴宗根「朴慶植さんと史料収集の執念」『朝鮮史研究会会報』132号、1998年8月
また次は、姜徳相氏による回想で、同じく「古書漁り」の話に加えて、集会のビラ等の資料的価値についての朴慶植氏の思いが述べられている。
先に私は「先生の歴史の特徴は史料の博捜にある」と述べたが、先生の史資料学的造詣の深さの一面を語ろう。
私は古書展で先生とぶつかることがたびたびあった。目当ての本を求めて開館を待つ何十人が一斉に入場するのだが、先生の本の選び方の速いこと、遅れをとってカスばかりつかみ、残念無念な思いをしたことがしばしばあった。ある人は先生に生きたニワトリを献呈して、本を譲ってもらったこともあった。こんなものをもらってしまったと言っていたが、あれは小さな賄賂であった。
古本屋を歩いても店頭の安売り本から関連の資料を内包する本を発見する名人であった。タイトルでは決して探せない資料を探す、その目の確かさはどんな古本屋さんや書誌学者も顔負けで、掘り出し本の喜びを一番多く経験した人であった。またある集会で配られたビラを大事にしまっていたことがあった。理由を聞くと、大原社研の1920年代の労働運動のビラ資料の資料価値の話をされた。ビラなどはみんなすぐ捨ててしまうが、この集会に来た人を知るにはどんな官憲資料よりも直接的な資料なのだ。20年、30年後にその価値がわかると言われた。歴史と資料を大事にする先生の真骨頂を見る思いがして、私は今でもこの話を後輩たちによくする。…
【典拠】姜徳相「朴慶植先生のこと」『セヌリ』29号、1998年5月(朴鉄民編『在日を生きる思想 ― 『セヌリ』対談集』東方出版、2004年に再録)
朴慶植文庫は、単にある研究者が収集したコレクションということではすまされず、朴慶植氏自身が、在日朝鮮人として、運動や教育に身を投じながら生き抜いてきた人生そのものが反映されたコレクションであると言える。自ら携わった解放直後の民族教育で使用した教科書、参加した集会のビラも大切に保管されたというが、この姜徳相氏の述懐の後半はそれを証言するものであろう。