朴慶植氏の資料収集活動の結果、自宅は蔵書で一杯となり、段ボール箱に詰めて風呂場や屋外の廊下にまで山積みにする状態であったという。1994年頃、静岡県清水市で「ミラノ文庫」を主宰する金弘茂氏が保管を申し出、数百箱の資料を発送した。金弘茂氏は「ミラノ文庫」を拡充して在日朝鮮人関係の図書館・資料室のような文化事業を始めたいと考えており、在日朝鮮人運動に古くから関わってきた金広志氏の蔵書数千冊も引き取った。
「ミラノ文庫」は、スペースは広かったが東京から離れすぎているという問題があったため、朴慶植氏と金弘茂氏が話し合った結果、東京か神奈川に在日同胞歴史資料館を設立する方針が打ち出された。
1995年7月と12月に東京都神田の韓国YMCA会館で有志による意見交換会を行い、在日同胞歴史資料館設立準備委員会が発足した。1996年3月には東京都調布市布田に事務所も開設した。事務所運営に関わる費用はすべて金弘茂氏が負担したという。同年11月、金広志氏が逝去されると、自宅に残されていた蔵書は、この布田の事務所に運ばれた。
1996年9月には設立準備委員会の『会報』が創刊されたが、財政支援を行ってきた金弘茂氏が、折からの経済不況で設立準備委員会への財政的援助を行うことができなくなるという事態が発生。『会報』などで支援を求め続けたが、代わりの篤志家は簡単には見つからなかったという。1997年12月に『会報』5号が発行されたが、1998年2月に朴慶植氏が突然の交通事故で急逝した。
【参考】崔碩義「「在日同胞歴史資料館」のことなど」『在日朝鮮人史研究』29、1999年10月