神社と勧進相撲

下枩(くだりまつ)荘兵衛の碑

隣因生産窮業當里

文久三亥 九月十三日建立

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 江戸後期から明治にかけて大坂相撲の興行が度々行われという。なかでも因幡出身で地元出石藩召し抱えの力士、下枩荘兵衛は人気が絶大であり将来を嘱望されていたというが若くして急逝した。

 地元三浦太左衛門が追悼のため、文久三年(1863)に建てたこの碑には「隣国因幡の生産、この里にて業にきわまる」と刻んでいる。

この碑は賀嶋公園への登り口、五社神社の左手に建つが、元は八坂神社の前の大御神灯の横に並んであったという。

賀嶋勘三郎の碑

賀嶋勘三郎

明治十五年四月五日建之

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龍海寺の境内入り口に2mほどの石碑が立っている。隣にある宇日神社では明治、大正にかけて毎年大阪相撲を勧進していたという。その勧進元であった山本茂左エ門が明治15年4月に地元出身の力士を記念して建てたものである。

鷹野神社に伝わる相撲甚句

鷹野神社では春の祭礼で相撲が奉納され、その際に勇ましい相撲甚句が歌われていた。□□□□年を最後に奉納相撲が行われなくなってからも「竹野町相撲甚句保存会」によって歌い継がれていたが、会員の高齢化もあり現在はその勇壮な姿を見ることができなくなってしまった。

芦谷の葦田兵主神社に残る勧進相撲の番付表

年号が記されていないのでいつ頃に催されたものか定かではないが、大関が最高番付であった明治中期以前のものであることは確かである。大阪相撲は江戸時代元禄年間である1700年ごろに勧進相撲として始まったという。これらの文化も北前船によってもたらされたものといえよう。

大坂、京、但馬、丹後などの出身者が名を連ねている