寛政の三博士の一人柴栗山







元文元年(1736年)~文化4年(1807年)12月1日
 香川県高松牟礼町(讃岐国)の生まれで姓を柴、名を邦彦、字を彦輔という。八栗山(やくりさん)の近くで生まれたので栗山と号した。俗称を柴野彦助と言ったことから一般に柴野栗山と称されるが、後に自ら修して柴栗山とする。
 寛政の三博士の一人で、儒学者として徳島藩に仕え、天明7年(1787)には江戸幕府老中松平定信に招へいされ幕府に仕える。その後、寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなどの評価が高まり、寛政2年(1790)に日本の学校教育発祥の地と言われている湯島聖堂の最高責任者となった。

🔷   の 鷹 野 浜 来 遊 🔷

賀嶋公園駐車場の脇、日本海を見て左手に建つ睨満の碑

 文化四年(1807)71歳の時、5月7日に江戸を発した栗山は天橋立・城崎温に遊行し、7月23日帰着する。10月臥病、12月1日未の刻(昼過ぎ)に卒す。

 この来遊で6月に竹野を訪れた栗山は、ここで日本海を見渡し遠く清国まで望むようだとその感動を読んでいる。この詩は今でもその時に世話をした轟の大庄屋細田家に残されているという。またこの来遊で栗山が「玄武洞」を命名したことでも広く知られる。

(1) 睨満の碑 (栗山の顕彰碑)

 この碑は栗山から贈られた詩を出石藩老中圡岐久義が、師を偲んで没後10年の文化十四年(1817)八月十日に栗山から贈られた詩を刻みここに顕彰したものである。

栗山が詠んだ詩が刻まれている

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文化四年六月十日、幕府の儒者、讃岐の柴邦彦々輔が、同じく儒者で播磨の高見恭、但馬の医師黒崎擇らと来遊し肘、腋越しに隠岐、佐渡、三越を左右に睨み、はるか彼方に満州女直を望んで浩然と酒を汲む世にもまれなことなり門人三上順憲、養子允升を従いて。

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ここ住吉屋には、世話になった主である永田氏に栗山から贈られた書「睨満」(詩の題名)が額に入れられ掲げられている。

・この詩の冒頭に職名、出身、本名を次のように記されている。

征夷府待 問儒員 讃岐 柴邦彦々輔

・本州とはここ但馬国のこと

・満州女直とは少数民族であるが強力な軍事力で瞬く間に清を治めた満州族、又は満州皇帝そのものを指すと思われる。

・浩然とは孟子の説いた説で「浩然の気」といい、人の内部より発する気のこと

・曠世(こうせい)とは世にまれなことをいう「曠世之懐」で世にまれなことと思う

・及児とは養子のこと

・允升(さねのり)は栗山の養子で号を碧海(へきかい)と称し、徳島藩の儒者であった


(2) 村瀬藤城の詩碑【嘉永元年(1848)頃造立】

 栗山の睨満の碑の横に立つ碑が村瀬藤城の詩碑である。敬愛する栗山の碑が風雨にさらされているのを嘆き大切な碑なので東屋を建て後世に残すようにと詠んでいる。

栗山が詠んだ詩が刻まれている

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嶧山の野火で焼かれるのを免れるといえども、風霜氷雪が入り乱れる。考えが未熟だが、ただこの石刻が要るのだと急を要した。誰がこの文を草屋根で庇ったのであろうか。

城崎の諸友が我が気持ちに共感し、遂に一小亭を建て、博士の文字を保護せんと計画している。今、これを記録して驥に託すのみ。これは望外の事にして、ただ文字を庇うだけでなく、私の喜びである。 村瀬褧

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嶧(えき)山…始皇帝が郡県を東巡して嶧山を登った時に丞相李斯らがその功徳を称えるために立てた刻石がある。孔子が毎年登ったという

紛紛…入り乱れる

博士…我が師と慕う栗山のこと

驥(き)…才能の優れた者、賢い者


※「草屋根を誰が被せたのか」と書いているが、本人であることは間違いない

瀬藤城 寛政6年(1853)~嘉永6年(1791)

江戸時代末期の漢学者で私塾による教育や庄屋として民政に尽くした。美濃市上有知二の上町に生まれ、5代目平治郎を襲名、通称敬治、名は褧(けい)、字は士錦、藤城と号した。嘉永6年城崎温泉で没す。享年63歳。戒名藤城宗一居士、墓碑は美濃市円通寺の村瀬家墓地にあり、昭和6年小倉公園の藤城彰功碑と共に立てられている。ほかに藤城詩碑が同市港町の上有知湊(こうずちみなと)跡、小倉公園にも立つ。

(3) 村瀬藤城の詩碑と書画【嘉永元年戊申(1848)仲夏下弦(6月下旬)

 岐阜市歴史博物館に藤城の書が掛け軸として残されている。この掛軸には栗山の詩碑を屋根で覆った絵が添えられているが、この詩の後半部分が竹野町に立つ詩碑とは異なっていて「今より石を建てて無欠を保ち一亭を安築して此の文を庇はん」となっている。 つまり藤城はこれから栗山の詩碑に絵のような覆い被せ、隣に自分の詩碑を立てようとしているものと思われる。

 従って、竹野町の藤城の詩碑は、この年の6月以降に立てられたものと考えられ、藤城によってこのような簡易的な覆いが実際に作られたものと思われる。ただ、竹野町の藤城の詩碑にあるように城崎の有志によって東屋が建てられることは残念ながら無かったようだ。

雖免嶧山野火焚、風霜氷雪亦紛々、従今建石保無缺、安築一亭庇此文

與湯島諸君同遊鷹濱有拙詩如是、諸君善領会詩意謀築亭甚急、乃使吾写此詩一冊子端以換募縁疎焉爾、隗始之任吾亦義不可辞也目併贅識 時

嘉永元年戊申仲夏下弦 藤城褧

━━━━━━━━━ 解 釈 ━━━━━━━━━━

嶧山の野火に焚かるを免るると雖も風霜氷雪また紛々たり今より石を建てて無欠を保ち一亭を安築して此の文を庇わん

湯島諸君と同に鷹濱(竹野浜)に遊び拙詩是くのごとく有り。諸君、善く詩意を領会し、亭を築くこと謀る甚だ急なり。乃ち吾をして此の詩を写さしめ、一冊子端を以て募縁疎に換ふるのみ。隗始の任、吾また義にして辞すべからざる也。目して併せ識を贅す。

時に嘉永元年(1848)戊申仲夏下弦(6月下旬) 藤城褧

  • 無欠   … 完全な状態

  • 領会   … 了解

  • 募縁疎  … 募金帳

  • 隗始之任 … 大きな事業や計画を始めるときには、まずは手近なところから始めるのがよい

  • 目併贅識 … 余計なことをいうがごとく

(4) 櫻井東門の書(村瀬藤城の詩碑の右側面)

 出石藩老中の圡岐久義が文化14年(1817)8月10日に栗山の詩碑を立てたときに詠んだ句である。櫻井東門がその句を31年後の嘉永元年(1848)に藤城と共にこの碑に刻んだものがこれである。

櫻井東門の書

━━━━━━ 解 釈 ━━━━━━

柴先生の名が最初に書かれ、海を隔てた遠くを眺めたその一瞬の気持ちよさを詠んでいる。私の書は普通の人とは変わっていて激しく、その品格が出るかのようで、周囲から孤立している。私は城崎に浴湯に来て先生に会った。また共にどこかで巡り会い必ずここに遊ぶことになる。先生が逝ってしまわれてからあっという間に一紀ほど流れ、独りそれをなげかずにいるが、はるか長く深く思っているとどうして言うことができようか。長く後世に残らんが者のために

出石藩家老、圡岐久義、文化14年8月10日

出石教授櫻井維温跋幷書

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奇矯  …行動・思想傾向が普通の人とは変

     わっていて激しい

気韻  …書に湛えられた品格・気品

探奇訪幽…亡くなった方と出会うこと?

一紀  …およそ12年

緬然  …はるか遠く

跋幷書 …跋文ならびに書