車体長 6.2M
全幅 3.2M
全高 2.6M
重量 30トン
懸架方式 トーションバー式
速度 55km/h(路上) 40km/h(オフロード)
加速性能: 200m区間(0-200m区間)の加速走行時間28秒
行動距離 350km
主砲 53式43口径90mm戦車砲 ×1 (APC・HEATFS・HE・WP 45発)
副武装 7.62mm機関銃(主砲同軸)・12.7mm重機関銃(砲塔上部、車長展望ハッチ)
装甲 砲塔装甲: 主砲防盾: 90mm(空間装甲含む)
側面: 60mm 後面: 35mm 上面前端: 40mm(30°)
上面中央部: 18mm
車体装甲: 前面上部: 75mm(空間装甲: 50mm空間 + 25mm外装甲)
前面下部: 50mm(52°)
側面上部: 40mm + 空間装甲(30mm空間 + 15mm外装甲)
側面下部: 35mm 後面上部: 25mm(78°)
後面下部: 20mm(60°) 上面: 12mm
底面前端: 25mm 底面中央部: 35mm
底面後端: 10mm(30°)
エンジン 西養12VD-0 800hp/3620rpm(試験での値)
乗員 4名 (車長、砲手、装填手、操縦手)
第二次世界大戦後、初めて開発された国産戦車であり、第一世代主力戦車に分類される。 それまでの西日本国民軍(WJNA)の主力戦車であったM-24(アメリカ供与)との共用、置き換えにより1951年設計・開発、1953年正式採用された。
1951年(昭和26年)9月に開発が開始され 1953年(昭和28年)6月に正式採用された。 採用された西暦の下二桁の年をとり、53式戦車と命名された。主砲に「53式43口径90mm戦車砲」を装備しており、これはアメリカから研究のため供与された M-47 を元に設計されている。
第二次世界大戦終結後、GHQにより全ての軍需産業を廃された日本は、戦前から培ってきた戦車や装甲車の技術を失おうとしていた。後に 八月嵐クーデター により日本で内戦が勃発、西日本はGHQに再武装の指示され1948年(昭和23年)に西日本軍が創立された。同年3月に急遽アメリカから供与された M-24軽戦車が、当時戦闘中であった長野方面へ送られた。長野の戦いにおいて西日本軍と対峙したT-34-85中戦車に対して、M-24軽戦車では対抗できず、M-24軽戦車の更新が課題となっていた。 90mm砲を搭載するM-47パットン中戦車の導入を指示する声も存在したが、その当時のアメリカ陸軍は朝鮮戦争の結果をうけて戦車ならびに対戦車兵器の更新に取り組んでおり、ヨーロッパ第一主義の方針もあって日本に戦車を供与する余裕を完全に失っていた。
1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い在日米軍駐留経費の日本への返還がおこなわれることになり、また、MSA協定に基づくアメリカによる対外援助により開発の目処が立った。 1951年(昭和26年)陸軍軍部などの装備計画委員による議論が始まり、9月に次の開発目標案が示された。 ・重量:30トン ・火砲:90mm砲 ・強力なエンジン、低接地圧 ・空間装甲を用いた、対成形炸薬弾装甲。 30トンという重量とそれを実現するためには不可欠な軽装甲は、朝鮮戦争におけるバズーカや無反動砲の成形炸薬弾などの歩兵用携行対戦車兵器の活躍による、装甲模様論を受けたもので、当時西日本国民軍内部においては一定の勢力を持っていた。
西日本の主要な幹線道路において高速な展開が可能とするため、低接地圧の実現と機動性確保の面からも車体の軽量化は強く求められていた。アメリカからの技術援助を受け、国産の90mm戦車砲を装備する計画が進められていた。 研究用サンプルとして西日本国民軍にM-47が供与されたが、供与された時期がとても遅く、実際に設計に影響を与えてはいないと考えられる。