二人称視点神経科学
ヒトの社会性の神経基盤を探る研究は今世紀に入り急速に拡大し,現在では社会神経科学という1つの分野にまでなっている。これらの研究のほとんどは、その当初から現在に至るまで一般的な認知科学的実験手法の枠組みで行われている。つまり,要素として切り出された社会認知能力や社会性に関わる認知や行動が個人の脳内でどのような神経基盤を持つか,あるいはどのような脳内・身体表現になっているのかをその要素が含まれる(と考える)絵や写真・あるいは文章を用いた課題として作成し,その刺激に反応する脳部位や脳機能ネットワークあるいは脳活動の変化を調べる研究である。そしてこのような研究から,今まで実に多くの社会性に関する神経基盤が明らかにされてきた。
一方,ヒトの社会認知や社会性を考える上で,上記の様なアプローチでは限界があることも指摘されている (Redcay & Schilbach, 2019)。その中の重要な指摘の1つは,多くのコミュニケーション場面でのやりとりはリアルタイム性を持ち,ダイナミックで相互作用的であるということである。このことは認知神経科学や心理学にとどまらず,もっと根源的な問題として哲学分野でも議論されている。例えば,哲学者の田口茂は身体的な響き合いとしての他者が間主観性のベースであるとし,別々の身体である「私」と「あなた」が関係し合うというのではなく,私とあなたという「対」そのものが媒介として働き間主観性を生むとしている (田口茂『現象学という思考』2014)。これは現象学的精神医学者の木村敏による私的間主観性の議論 (木村敏『からだ・こころ・生命』2015など) にも通じ,脳と身体に関するクラークの議論 (アンディ・クラーク『現れる存在』2012) ,さらにはエナクティヴィズム (吉田正俊・田口茂『行為する意識』2025) にまで接続する。このような見方でコミュニケーションを考えると,「リアルタイムの相互作用」は非常に重要でコミュニケーションにとって本質的なものであるにもかかわらず,実験参加者が実際の他者と関わることなくその事象を観察する従来の実験パラダイムではこの点がこぼれ落ちてしまっている。そしてこのこぼれ落ちたものに対応する,あるいはそれ自身の神経基盤を探ることには大きな意味がある(と我々は考える)。
こうした考えのもと,目の前の「あなた」と「私」のリアルタイム相互作用を重視する研究者を中心に,自他相互作用の神経メカニズムを探る研究が急激に増えている。生理学研究所(当時)の定藤規弘教授(現 立命館大学)をリーダーとする我々のグループも早くからこの考えに基づき,実際に二人の人間が視線や言葉を介して相互作用ができる二個体同時脳活動MRI計測システム(ハイパースキャンMRIシステム)を構築し,リアルタイムで相互作用をしている二人の課題関連脳活動や個人内/間の状態としての脳活動の機能的結合(脳活動同期),それらと視線や言葉のやりとりの関係を検討する研究を,解析手法の開発と共に進めてきた。そしてこれまでの一連の研究により,共同注意のような二人がやりとりする課題を遂行する際には,課題遂行中の二者において右半球の下前頭回・上側頭溝・側頭-頭頂接合部・前頭前野内側部などの部位の両者の脳活動の同期が高まること,高機能自閉スペクトラム症者と定型発達者の間ではそのような脳活動の同期が減少すること,共同注意課題の前後においてお互いを見つめ合っている際の瞬きの同期の増加と二者の脳活動同期の増加が見られることなどを次々に明らかにしてきた (Saito, Tanabe et al., 2010; Tanabe, Kosaka et al., 2012; Koike, Tanabe et al., 2016; Koike et al., 2019; Yoshioka et al., 2021; Yoshioka et al., 2023)。このような相互作用する二者において脳活動の同期が高まる現象は,我々が行ったfMRI研究だけでなく脳波 (EEG) や近赤外光スペクトロスコピー (NIRS) などを用いた多くの二者同時計測研究で報告されている (Nam et al., 2020)。そして現在は,二者の関係性や課題の違いによって脳活動の同期がどのように変化するかなど,より状況依存的な相互作用場面の神経基盤研究へと拡がっている。我々のグループも,ハイパースキャンMRIシステムを用いて互いの嗜好や絵画における話し言葉ベースの情報のやりとりといった相互作用場面での二者の神経メカニズムの研究を続けているほか,名古屋大学の実験室において二者の脳波/視線同時計測システムを構築し,ダイナミクスを重視した研究へとその幅を拡げている。さらに最近では,現実のコミュニケーション場面において他者との関係性は常に「私」と「あなた」の二者しかいない状況は意外に少なく,多くは私以外に二人以上の他者がいる場面であることに着目し,三者の相互作用の心理・神経メカニズムの基礎的研究にも取り組み始めている。
生理学研究所に設置されているハイパースキャンMRIシステム
名大の実験室に設置されているハイパースキャン脳波/視線計測システム
脳イメージングと計算解剖学を用いた化石人類の脳形態復元と古神経学
研究室主催者の田邊は2010年から2015年にかけて高知工科大学(当時) の赤澤威教授が代表を務めた新学術領域研究『ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相』に計画班の一員として参画し,神経科学の観点から旧人と新人の交替劇の真相を探るため 慶應義塾大学(現:東京大学)の荻原直道教授,国際電気通信基礎技術研究所 (ATR) の河内山隆紀氏と協力して旧人ホモネアンデルターレンシスと同時代に生きていた新人ホモサピエンスの化石頭蓋ならびに脳形態を推定・復元し,両者の比較さらには現生人類の脳機能イメージングデータが利用できる統合解析プラットフォームの構築を行った。復元した両者の脳形態の定量的比較をおこなった結果,旧人よりも新人の方が小脳半球と頭頂葉の一部が大きく,予想された前頭葉には統計的に有意な差がないことが明らかとなった。また現代人の脳機能イメージング研究から,小脳は言語・注意・ワーキングメモリ・社会認知・創造性などのさまざまな認知機能に関与していること,さらに小脳の大きさと一部の認知能力には正の相関があることも明らかとなり,旧人と新人の運命を分けた原因の1つに小脳の機能差がある可能性を示した (Bruner, Ogihara, Tanabe (eds) “Digital Endocasts: From Skulls to Brains”, Springer Tokyo 2018; Kochiyama, Ogihara, Tanabe et al., 2018; 荻原直道・田邊宏樹, 2018)。プロジェクト終了後も荻原教授と共同研究を続けており, ニホンザル,チンパンジー,現生人類(ヒト)の脳形態を比較し,ヒトはチンパンジーと比べ前頭極・背側前頭前野・下前頭回後部・中側頭回・下側頭回後部・角回・楔前部などの領域が相対的に拡大していることを明らかにした (Amano, Tanabe, Ogihara, 2025)。現在は,猿人と初期ホモ属の化石頭蓋骨のエンドキャストとそこに収まっていた脳の形態を計算解剖学的手法により推定し,脳の各領野の大きさの比較から猿人や初期ホモ属の認知能力を推測する試みを続けている。
我々が構築した統合解析プラットフォーム(上)と,推定したネアンデルタール人と早期ホモサピエンスの復元脳(右上),三者(ネアンデルタール人(NT)・早期ホモ・サピエンス(EH)・現生人類 (MH))の形態比較の結果(右下)