地区の紹介

 大田野城自治会は、島根県大田市大田町野城地区の住民で構成しています。

 野城は大田町の中心部から三瓶山の方向に車で10分ほど三瓶川を上ったところにある30世帯80人ほどの集落です。

 この地区は、明治初期までは、「市野原(いちのはら)村」という独自の地域でした。その後、野城村となり、更に合併して大田村(のちに大田町となる)の一部となり現在に至っています。

 高齢化が進み、人口は減少傾向にはありますが、Uターン・Iターン者もあり、地域の活力はまだしばらくは維持できると思っています。

 自治会としては、皆さんが安心して楽しく暮らすことができて、また、この地区から出た人も帰ってきたいと思う地域になるように取り組んでいるところです。

  自治会長 福田卓夫

「野城の今昔」 水本寛治

 野城は三瓶山から北西に流れるニ瓶川流域のやや開けた所に位置し、耕地は少なく、山林が大半を占めている純農村地域です。古文書によると、ここは、かって「市原(いちのはら)村」と言い、延暦年間(782年から806年までの期間)に市を開いたとあります。明治8年、「甘屋(あまや)円寺村」と合併し、村名を一字ずつ採って「野城村」としました。明治22年、大田南村、北村と吉永村、野城村の一部が合併し、「大田村大字野城」となりました。

 川上善吉氏宅付近で縄文中期の夏焼(なっやけ)遺跡が発見されており、当時から開けていたと考えられます。

 南に三瓶山の正面を仰ぎ、年間を通じて朝タの陽光に恵まれ、近くを流れる三瓶川を隔てて地区内を一望できる地です。古くは物部氏の所領でした。引の子(ひきのこ)鈩遺跡(たたらいせき)や円城寺の盛期にあったと言われている四十八聖坊跡などの地名だけが残っています。

 また、尼子、毛利の銀山争乱の歴史が繰り返された武将の塚墓がひっそりと点在しています。幕府直轄地となり、一時期には吉永藩の治世下で銀山領の御用材として木材を銀山に供していたと言います。

 明治以来農林業が盛んで、明治4年、杉の人エ造林試験が県下で初めて行われ、現在の灰取(はいとり)の市有林四百町歩の大半は、地元全戸の人々の手で植栽されたものです。

大正4年に大田駅が開通し、その鉄道建設用石材は灰取地区から搬出されたもので、それを四国から石エが来て当時は賑わったそうです。

 米、椎茸、栗、白菜等が栽培され、戦後、特産のお茶は大田銘茶として皆さんに愛飲されていますが、近頃の農業は、いわば連休農業、日曜農業といったものでしょうか。

 学校は、明治17年に開校された野城分校が明治20年出ロ唐炭(からすみ)分教場に移転され、昭和43年に大田小学校本校に統合されました。統合されるまで、野城、押ヶ峠、長谷、出ロ区域の子供は、2年間複式授業を受け、3年生から本校へ約5キロ余りを道草を食いながら通学しました。したがって、子供たちは連帯感が強く、健脚でした。大正14年、山陰オリンピックに出場されたマラソンの岩佐健之助氏は、当時石見出身唯一の最高記録保持者で、記憶されている方も多いと思います。

 昭和40年代には44戸あり、現在は38戸の小自治会ですが、最高齢98歳から2歳までが暮らしています。世代ごとに共有会、城友会、婦人会があり、それぞれ親睦を深めています。子供会は終戦直後、野城子供協議会として発足し、今日まで活動を続けています。

 県道三瓶公園線と大田三刀屋線の改良が進み、三瓶山観光客の車も増えております。三瓶川上流に建設中の三瓶ダム完成時には、生活用水の確保が待たれているところです。

 高齢化と過疎の中で、私達はわが野城自治会の発展に努めております。

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※この紹介文は、平成5年11月25日発行の大田公民館報に掲載されたもので、当時の自治会長から依頼されて水本寛治さんが書かれたものです。