地区の歴史

縄文時代から飛鳥時代までの周辺地域の状況

●縄文時代

 紀元前3000年ごろに三瓶山の最後の噴火が起き、このときに小豆原の埋没林ができました。

 このときにできた縄文杉の埋没林は、下の写真のように、現在は掘り出され当時のままの姿で保存されています。

 この地区にも縄文時代の遺跡が発見されており、このころから人が住み着いていたことがわかります。

●弥生時代

 紀元前200年ごろから農耕生活が始まっています。

 この地区でも、このころから稲作が始まっていると考えられます。

●古墳時代

 515年に、宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)をまつる物部神社が創建されました。

 物部神社は、石見国一宮(いちのみや)として今も多くの人の信仰を集めています。

●飛鳥時代

奈良時代 安濃郡川合郷

 律令制のもとで、地方では、国、郡、里の制度が敷かれ、都からやってきた国司の下で、郡司、里長が地方政治にあたっていました。

 石見の国は、5つの郡に分かれ、36の郷がありました。現在の大田市の区域は、次のとおり安濃郡(あんのぐん)、簸川郡、邇摩郡に分かれていました。この地区(市野原)は、安濃郡の川合郷(かわいごう)に属していました。

■安濃郡

 この地区では、延暦年間(782年~806年)に市が開かれていたことから「市野原」と名付けられたと伝わっています。

川合へ向かう道。川合町瓜坂地区との境。 

平安時代 「円城寺」創立

 市野原村から三瓶川を少し上った甘屋(あまや)という地区にある「円城寺」が創立されたのは930年ごろです。

 円城寺は、朝満上人によって開かれました。寺院を開く場所を探していた上人は、一度この地を訪れた際、持っていた椿杖を投げて、もしこの山に因縁があればその杖が伸び栄えるだろうと言われ、数年後に椿が根を張り枝葉が茂っているのを見て感激し寺院を建立されたと伝わっています。それにちなんで山号が「霊椿山(れいちんざん)」となりました。

 本尊の千手観音は僧行基の作で、大田市の指定文化財となっています。

 安濃郡誌によると、かつては円城寺には48坊あり、円城寺一円から小屋原、池田、多根、市野原及び大田町の一部にわたって寺領三千石を有していた、とあります。それが、1562年に尼子と毛利の争いで兵火にかかって焼け、寺領も減らされ、今は円城寺一坊だけとなっています。

 市野原の円立寺、川合の福城寺、同浄光寺も48坊のひとつだったと伝えられています。

★円城寺に関する情報は、昭和42年に発行された「霊椿山円城寺由来記」に詳しく書かれています。

戦国時代 石見銀山争奪戦

 石見銀山は、1526年に博多の商人神谷寿貞によって発見されたとされています。1533

年には中国から灰吹法という技術を導入し現地で精錬できるようになりました。その後、銀の生産量は増加し、1539年には年間500枚を産出し日本一の銀山となりました。

 銀山をめぐっては、山口の大内、尼子、地元の小笠原という武将による争奪戦が繰り広げられてきました。そこに、広島から毛利が加わり、最終的に1562年に山吹城を落とし、それ以降は、銀山は毛利元就が支配しています。

 この間の石見銀山争奪戦で、市野原村も合戦場になりました。地区内には、武将の塚墓が点在しています。また、武将が落ちのびるために落ち合う場所になったということで「落屋(おちや)」という屋号もあります。

合戦場になった法事が原(ほじがはら)という場所 

江戸時代・吉永藩

 1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いで豊臣方が敗れたことにより、山陰地方から毛利氏の勢力が一掃され、この地区を含む石見銀山周辺は天領(幕府の直轄地)となりました。1601年には、大久保長安が天領2万石を治める石見銀山初代奉行として赴任しています。

 1643年(寛永20年)から1682年(天和2年)の40年間だけは、この地区を含む安濃郡は「吉永藩」となり、会津から移ってきた加藤家が支配しました。吉永藩の所領は、次のとおり、安濃郡20カ村の1万石でした。

 1682年に吉永藩が廃藩になった後は、再び天領に編入されました。

●会津との文化交流

 吉永藩の藩主となった加藤家が会津若松から移ってきた関係で会津との文化的な交流がありました。

 大田の名物の一つである「天ぷら饅頭」は会津から伝わったと考えられています。会津には信州から伝わってきたようです。このあたりの解説は市役所のホームページにあります。

●吉永藩政が残したもの(島根県史から)

江戸時代・天領内の地域の状況

 江戸時代には、市野原村は、吉永藩の領地となった40年間を除いて天領でした。

 江戸時代には、農村を支配する仕組みとして「地方(じかた)制度」がありました。天領では代官所に地方役所を置き、そこの役人が今の村長格である庄屋(しょうや)・組頭(くみがしら)・百姓代など地方(じかた)三役を通じて、年貢徴収を行っていました。また、村内に五人組が組織され、年貢米の納入などすべての面で連帯責任を取らされました。

 年貢の基礎となるのが村高でした。田・畠・屋敷を一筆ごとに測量して面積を出し、村高を決めていました。

■周辺の村ごとの石高(1819年の記録から)

・市野原村  138石

・大田北村 1280石

・大田南村  706石

・円城寺村  235石

市内大森町にある石見銀山代官所跡 

明治初期の地域

●行政区域

 この地域は、明治維新後は長州藩の支配を受けていましたが、明治2年(1869年)には版籍奉還(諸大名から天皇への領地と領民の返還)が行われ、明治政府のもとに組み込まれ、8月には大森県が生まれました。大森県は、石見銀山領と浜田藩、さらに隠岐まで含んでいました。

 明治3年(1870年)には、大森県は浜田県と改められ、県庁所在地も大森から浜田に移りました。

 明治9年(1876年)には、浜田県は、出雲地方にできていた島根県と合併し、この地域は島根県に所属することととなり、現在に至ります。

●地域の産業

 明治政府は、盛んに殖産興業を進めていましたが、この地域は江戸時代末期と変わらず、次のように第一次産業が中心でした。

<明治前期の周辺各村の物産>

・野城村 薪炭 55,000貫

・大田村 米 3,824石、陶器 20,000個、瓦 35,000枚

・多根村 米 112石

・川合村 米、炭、薪

・吉永村 米、麦

 この地区は、農林業が盛んで、明治4年には杉の人工造林試験が県下で初めて行われ、現在の灰取の市有林四百町歩の大半は、地元の人の手で植栽されたものです。

灰取地区 

明治から昭和 市内各町の移り変わり

当地区は、明治初期までは「市野原村」でしたが、明治8年に東隣の円城寺村と合併して「野城村」となりました。

そして、明治22年に合併して「大田村」となりました。

大田村は明治36年に「大田町」となり、昭和29年には「大田市」が誕生し、現在に至っています。

併せて、近隣の市内各町の移り変わりもまとめると次のようになります。

明治10年の地図

明治10年に当時の野城村が作成した「山林原野図」が残っています。

赤色は道路、青色は川、橙色は耕作地です。残る白色の部分が山林・原野で、地番と字名が書かれています。

字名を見ると、この狭い地域にたくさんの地名がつけられていたことがわかります。現在も使っている地名もありますが、もう忘れられてしまうかもしれないような地名もあります。また、地名がそのまま屋号になっている家もあります。

川は基本的に今と変わりませんが、道路は一部今とは違っています。幹線道路は、この図面左下に伸びているのが大田へ行く方向、上に向かっているのは今の三瓶町野城から多根方向、右下に向かっているのが川合方向になります。

この地図、詳しく分析すれば新しい発見があるかもしれません。

明治41年の大田野城

明治41年にこの地区を撮った写真を発見しました。

三瓶川の流れは今も変わりません。

左上にうっすらと三瓶山が見えます。これは今も変わりません。

ただ、今は川の両側に木が伸びていて、同じ眺望は得られません。

野城の地名

野城には、たくさんの地名があります。

それらのいわれを調べてみると歴史の経過がわかります。

明治時代の「野城村」が作成した地図を元に地名をまとめてみました。

この中から次のようなことがわかります。

20200216timei.pdf

大田小学校(分校)の歴史

この地区の子どもは、大田小学校に通いますが、昔は分校が近くにありました。

その歴史をまとめました。


明治6年  大田町の円応寺に小学校仮校舎開設(大田小学校の前身)

明治17年 野城村に「野城分校」を開設

明治20年 大田村唐炭(からすみ)に民舎を借用、野城分校を移し「唐炭分教場」とする

明治21年 唐炭分教場を「第二簡易小学校」に改称(校区は、出口、唐炭、長谷、牛ヶ峠、下野城)

明治25年 第二簡易小学校を「唐炭分教場」に改称

明治40年 唐炭分教場を新築(昭和27年まで使用)

昭和27年 出口分校を新築

昭和43年 出口分校廃校、本校に統合

昭和初期の唐炭分教場 

「大歳神社」の由来

 大歳神社はこの地域の氏神として、元々は現在の三瓶町野城にあったが、明治の神仏分離令により円城寺から分離してできた神社と合併して「野城神社」となり、昭和20年に現在の場所で再建され現在に至っています。

 大歳神社のこれまでの経過を調べてみると、次のようなことがわかりました。

ootosijinja.pdf