西村滋 年譜

1925年

4月7日、名古屋市に生まれる。(本籍は両親の出身地である滋賀県)


<1926年12月 大正から昭和へ>


1932年

母、死去。

翌年、父が後妻をもらうが、継母とうまくいかず家出を繰り返す。

数年後父が死去すると、 継母に見捨てられ、施設での生活が始まる。

軍国主義教育に馴染めず、ものを書いたり空想に耽ったりするのが好きな少年であったため、反骨精神というよりは外の世界に憧れて脱走を繰り返し、その度に施設を転々として「トンズラ小僧」と呼ばれる。


<1941年12月8日 太平洋戦争始まる>


1942年

この頃、名古屋の施設を脱走し上京するも補導され、結核にかかっていることがわかり、世田谷の有隣療護院に保護される。

そこで出会った院長の石井敬一郎氏を父と慕うようになり、療養後、保護少年の身ではあったが、院長の指示で療護院の仕事を手伝い始める。


1945年

3月10日、外出先の台東区で空襲にあう。炎の中を逃げ惑い、九死に一生を得る。


<1945年8月15日 終戦>


戦後、政府の要請で、有隣療護院は戦争孤児収容施設となる。

空襲で家を焼かれ親を失いながらも生き延びてきた子供たちが街で当局に補導され(これは「浮浪児狩り」と呼ばれた)、トラックに乗せられたまま毎日送り込まれてくる。

石井院長の独断の下、施設の補導員になり、戦争孤児たちの面倒を見ながら、ともに過ごす。

院長が亡くなり、その頃制定された国家公務員法により資格のない補導員は認められず、やむなく有隣療護院を去る。

以後、戦争孤児を書くために、さまざまな仕事をしながら作家を志す。

この時期の「さまざまな仕事」の中には、地方廻りの楽団の歌手や新宿の流しなどもあった。


<1950年6月 朝鮮戦争勃発>


1952年

初めての小説『青春廃業』が出版される。


1955年

『笑わない青春の記』出版。翌年映画化、舞台化。


1956年

結婚。杉並の借地に居を構える。


1957年

『やくざ先生』出版。1960年に映画化。

この頃からテレビドラマの脚本を書くが、書きたいものを書かせてもらえず、やがて局の制作部長と大げんかしてテレビ業界を去り、小説に専念することに。

この年のラジオ番組をきっかけに、生き別れだった弟と再会。


1959年

長女誕生。


1960年

結核の再発を機に、知り合いのツテで静岡県沼津市に移住。執筆と療養のかたわら、看護師の妻に代わって家事・育児の日々。


1965年

長男誕生。


1975年

『雨にも負けて風にも負けて』出版。第二回日本ノンフィクション賞受賞。


1976年

『お菓子放浪記』出版。全国青少年読書感想文コンクール課題図書に選定される。

憧れの木下恵介監督の企画で、テレビドラマ化もされる。


1977年

この頃から、自身の孤児体験、戦争体験を語る講演活動を始める。歌を交えた講演は好評を博す♪


1980年

講演で出会った難病(筋ジストロフィー)の少年、山田哲也君に感銘を受け、翌年17歳で逝った哲也君との交流がきっかけで、チャリティーコンサートをライフワークにする。

執筆のかたわら毎年コンサートを開催し、筋無力症患者会等に寄付を続ける。

チャリティーコンサートは2000年頃まで続け、その寄付金は「西村基金」として、現在までNPO法人静岡県難病連に引き継がれている。


1985年

『母恋い放浪記』で、第七回山本有三記念 路傍の石文学賞を受賞。


1986年

『それぞれの富士』出版。後年これを原作に舞台の台本を書き、劇団希望舞台にて「みなし子」のタイトルで全国巡演。(のちに「焼け跡から」に改題)

沼津市民有志による「さよなら核兵器の会」の代表に就任。(翌1987年、沼津市議会は「核兵器廃絶平和都市宣言」をする)



<1989年1月 昭和から平成へ>


1993年

沼津市から静岡市油山へ移住。


1994年

『続 お菓子放浪記』出版。


1995年

『SOSの季節』出版を機に、親しい方々による後援会「西村滋と愉快な仲間たち」を結成し、季刊誌「三日月だより」発行。


1999年

『もうひとつの放浪記――エッセイ的自分史』を後援会より発行。


2003年

『完結 お菓子放浪記』出版。


2009年

『戦火をくぐった唄』出版。


2011年

『お菓子放浪記』が映画化され、全国公開に先駆け東京大空襲のあった3月10日に虎の門ホールにて試写会が行われる。奇しくも翌11日、東日本大震災により東北地方が壊滅的な被害を受ける。その光景が66年前に見た焼け野原の東京と重なる。


2012 年

一人芝居「雛・切符拝見」の台本を手掛け、チーム・クレセントで上演。翌年再演。


2014年

『お菓子放浪記』三部作がミュージカルになり、チーム・クレセントで全国3か所の上演。


2015年

月刊機関紙「和気愛会」に連載していた『エッセイ的自分史 ふしあわせという幸福』を一冊にまとめる。(トータルライフデザインより発行)


2016年

1月、ミュージカル「お菓子放浪記」全国4か所で再演。うち沼津と広島で原作者として舞台挨拶。

4月7日 、油山「元湯館」での誕生会(毎年恒例で多くの人々の出会いと交流の場でもあった)終了後、体調を崩して自宅で療養。

4月26日、体調悪化のため救急車で静岡赤十字病院に搬送、そのまま入院。

5月21日未明、多臓器不全により永眠。91歳。同日、本人の生前からの強い希望により遺体は浜松医科大学に献体。