悪質商法が萩山町で広がっています。気になることがあれば市の消費者生活センターまで 042-395-8383(相談直通)、または042-393-5111(市役所代表)
令和5年9月3日
西萩山町会担当 茂呂
はじめに
地域ごとに地形、河川などの状態は異なる。それ故その地域にあった対策が必要
できるだけ自宅で避難生活ができるように準備する
避難所はそもそも収容能力が不足、プライバシーがない、気が休まらない、などの問題
まずは震度や被害の想定を知る(東京都被害想定ホームページから)
東京都の想定では、この地域の震度は最大で震度6強。建物の全壊は、1~10棟。焼失棟数も、1~10棟(東村山市全体で630棟)。このことから、建物が倒壊しないこと、火災を発生させないことが大事と言える。
震度6強の地震が発生すると
人の体感・行動、屋内の状況、木造建物の状況など、別表で確認を。
自分の力で生き残るためには、何が必要か!
第一に、建物が倒壊しないために
昭和56年以前に建てられた建物は要注意!耐震補強が必要。
*対象の家には市役所から勧奨の書類が届いていると思います。
第二に、初期消火!
自宅に消火器を常備する。いざという時は近所の協力で初期消火を!
第三に、家具の転倒防止、ガラスの飛散防止
家具の下敷きにならないように!
広域的なライフラインの被害対策も重要。電気、ガス、水道が停止した時のために備品を揃える(できれば一週間分)
簡易トイレの準備
大きいビニール袋で良い。吸水材としてのネコ砂、トイレットペッパーも。水や食料の救援物資は届いても、トイレは自分で準備するしかない!
飲料水の準備
一人一日3リットルで計算。使いながら補充していく。
食料の準備
レトルト食品、缶詰などを使いながら補充していく。カセットコンロも。
その他
各家庭の事情によって紙おむつ、薬、ミルクなどを使いながら補充して、常に備蓄してある状態にしておくと良いと思います。
むやみに怖がらず、しっかり準備を
東村山市は、東日本大震災の時は震度5弱だった。関東大震災の時には、震災に絶対安全という触れ込みで郊外住宅が計画された(参考:図説 東村山市史ー萩山図書館にあります)
以上
2024/3/10 東村山中央公園にて「そらいち」が開催されているそばで公園事務所の一角に東日本大地震の写真が展示されていたので撮影しました。写真に添付されている文章についても文字に起こしましたのでご覧ください。
「災害現場で活躍するプロは、想像を超え刻々とへんかする事態に立ち向かっていた。それは、ひとりのヒーローではなく、ひとりひとりの人間の姿でもあった。」
津波被災現場の最前線に立っていた仙台市消防局若林消防職員が、2011年5月から7月にかけて書いた手記を展示しています。
企画・制作:せんだい3.11メモリアル交流館
企画協力:仙台市消防局若林消防署
このタイトルは、仙台市消防局のレスキュー隊員が、東日本大震災後に初めて東北で行われた「第46回全国消防救助技術大会」(仙台・宮崎大会)のスローガンとして考案したものです。消防救助の基本である結び(結索(けっさく))や、全国から駆け付けてくれた関係者だけではない、語り尽くせないいない方々との結束や、支援への感謝が込められています。
私たちは、東日本大震災で「何を失ってしまったのか」「何が失われていないのか」「何が新しく生まれているのか」。年月が過ぎて見失いかけている「何か」とは、失ってはならない「何か」とは、何なのでしょうか。
あの震災がなければ気づけなかった「何か」という空白に「結{ゆい}」の一字が浮かびます。救助の現場で対峙していた命と命。そしてその生存を祈っていた人の命。この三つの命の関係は、距離(世界規模)も、時間(心と噛み合わない)も、あまりに様々で、不安と割り切れない葛藤を抱えながら、自然との猛威のまっただ中を巡った、三角点のそれぞれでありました。無数のそれらの点こそ「結び目」なのではないでしょうか。
そして今。現実と関わる生き方の実感は、私たち一人ひとりが自分で感じるしかありません。人間と人間、人間と自然との命の「結(ゆい)」を、自然と共に生きる私たちの幸せのために、真摯に、素朴に、見直せたならと願います。
せんだい3.11メモリアル交流館
暗闇の中の赤色灯を目標に、ボートで進入していた隊員たちと合流し、隊員の確認と併行し、東部道路から東側に目を向けた。
その光景は、まさに平坦な風景、何も無い風景、水平線まで見えそうな風景等、今までの人生観を一変するような壮絶な景色であり、隊員もたたただ無言であり、静寂の中にあった。
ふっと我に返り、直ちに拡声器による呼び掛けを実施する。
それに呼応するようにあちこちから「助けて、ここにます。助けて」の悲痛な叫び声が私の耳の奥の方まで刻まれるように飛び込んできた。
「今から助ける」「居場所を教えてくれ」「消防隊が見えるか」と問いかける。
隊員の「要救助者発見」「こちらにも要救助者発見」に合わせて隊員を投入する。
一人また一人と無我夢中で私たちは持参した資機材をフルに活用し、時間の限り救助活動を繰り返し実施した。
そんな中においても、冷静なもう一人の自分が「また津波が来るかもしれない」「周囲に気を配れ」「隊員の安全確保を図れ」と呟いていた。
隊員の士気は高く、要救助者にも勇気が伝わる。
救出の合間をみて署隊本部に情報と増援を一報する。
今泉インターから続々と進入する各隊と伴に救助に当たった。
時間の経過と伴に、多数の被害者を東部道路上に引揚げ、消防隊に引継ぎ、搬送されていく。
気がつけば夜中の2時を過ぎ、周囲には雪が降り足元に白く広がっていた。
仙台中心部に目を向けると、いつもはキラキラと輝く夜景のはずが、この日は漆黒の闇に包まれていた。
このとき、初めて心の底から湧き上がる「恐怖」とメラメラと湧き上がる「奮起」が交差した。
その後、続く長い戦いをこの時点では、想像することすらできないでいた。
Y
発災後から署隊本部要員として活動し、現場に初めて入ったのは2日後の13日早朝でした。東部道路上から津波被災地区の様子を目の当たりにしたとき、現実をすぐには受け止れなかったのと同時に、連絡が取れていない実家の両親と姉家族の安否が気になってしかたなかった。私の実家は名取市で、今回の津波で壊滅的な被害を受けた地区でした。はじめて若林区の被災地区の状況を見た時から、実家の建物の壊滅は予想でき、家族の安否が確認出来ていない中での活動は辛いものがあったが、「きっと無事に避難している」「きっと誰かが救助してくれる」そう信じて任務をこなす日々が続いた。こんな思いの職員は私だけではなく、多くの職員が色んな思いを抱えながら現場で活動をしていたと思う。
その願いは通じず、発災から5日後に、母が遺体で発見されたとの連絡が私に届いた。その連絡が入ったとき、まだ誰一人帰宅していない状況の中、「母に会って来い」と私の仕事を分担してくれた同僚たちのお陰で、気持ちの整理を付けることが出来たし、「最後の一人まで家族帰す」を合言葉に強く活動することが出来た。
私は3月11日を一生忘れないでしょう。それは母を亡くし実家を無くしたからだけではなく、多くの仲間とこの大震災の活動を頑張れたこと、消防職員として市民の為に活動できたことを誇りに思うからです。この震災を経験し、自然の怖さ、人の優しさ、人の強さ、当たり前にあるものの大切さ等、色んな事を感じた。私にとって無くしたものは大きいが、人として色んな意味で成長し、これからの人生を考えるきっかけになり、自分の中で人生観が大きく変わった気がする。それは、この大惨事を目の当たりにし、普段の悩みなどちっぽけなことに思えるようになったことだ。時間はかかると思うが東北はきっと立ち直り、今以上に復興すると信じている。これからの消防人生、今回の震災で亡くなった方々のご冥福をお祈りし、微力ながら復興のために頑張りたい。
H
形状は異なりますが、萩山西地区自主防災隊倉庫にも同様な防災トイレが保管されています。
東村山中央公園に隣接して設置
所在地:東村山市富士見町5-4-46
電話番号:042-394-2333
所在地:東村山市美住町2-20-236
電話番号:042-397-8203
ピンを外すのは消化器を火元近くまでもってきてから!