朝六時。リビングの古い柱時計が鳴り、それと共に起床いたします。この時計は私が初めてご主人様にお願いして買っていただいたものでございます。私どもでも手入れが出来て、起床時間を知らせてくれる時計をとお願いしましたら、骨董市で見つけてきてくださったのです。古いこの時計はゼンマイ式でございまして、手先の器用なポケモンならば誰でも巻いて世話が出来るのです。ゼンマイを巻く係は私と決まっております。私は優秀な家令でございますゆえ、皆様からも羨望される役目をお任せいただいているのです。
朝一番にすることは、まず妻への挨拶です。あまり朝の強くない妻の角に優しく触れ、目を覚まさせてやらねばなりません。次にご主人様のパートナーの皆様と、旦那様のポケモンの皆様にお声がけを致します。旦那様のポケモンの皆様は一様に寝起きが良く、起き抜けにもバトルが出来るようなテンションでございますが、ご主人様のパートナーの皆様は個性もそれぞれにございます。ジュラルドンなどは一度起きてしまえば手がかかりませんが、起こすまでに一苦労ございます。私が揺すぶるくらいではまず起きません。起きませんので、旦那様のリザードンの助力を乞うて、少々乱暴に小突いたりしたりするのです。ヌメルゴンは起きているのかいないのか分からない状態で立ち上がるのでいけません。そのまま歩いて小さな段差に引っかかってケガをしたりしますので、食事の席に着くまで見守ってやらねばなりません。フライゴンは寝相が悪く定位置で見つけた試しがございませんし、サダイジャは寝ぼけているところにうっかり声を掛けると驚いて砂を吐き散らしたり致します。ご主人様のパートナーの皆様の中ではマトモにすっきりと起きてくれるのはコータスくらいでございましょうか。しかし起きてはくれても席に着くまでに随分時間が掛かりますので、こちらも介助が必要です。私と妻だけではとても手が回りませんので、旦那様のポケモンの皆様方にもご助力願っているのが現状です。
皆が席に着きましたら定位置からポケモンフードを取り出して皆様に振舞います。とは言いましてもパッケージから適量を取り出して皿に盛るだけでございますので、私どもにとっては造作もございません。皆様が朝食を食べている間に私と妻は角を磨いてご主人様方の寝室へ向かいます。ノックをして、お声かけ致します。
「イエエイ」
「おはよう、スチュワード。メイド。キバナの寝坊助は相変わらずだ、助けてくれ」
旦那様が欠伸を噛み殺してすぐに扉を開けてくださいます。私と妻は寝室に入りますと、ご主人様のいるベッドを一先ず目指します。ベッドの上ではシーツに包まっている大きな山が一つ。足が中途半端に飛び出しておりました。旦那様に引っぺがされそうになって抵抗したのでしょう。私と妻はベッドサイドにまとわりついて、シーツの山を軽く叩きます。
「イエ、イエーエイ!」
「フィルーウ」
「ん~。もうちょっと……」
「イエエイ!!」
毎朝のこととは言え、ご主人様は何時までもぐずぐずと寝たがるのがいけません。ご主人様のスマホロトムが飛んできて、シーツの山を撮ります。今日も勝手にSNSに上げるのでしょう。怒られるとは分かっているのに、ご主人様のロトムは奔放でございます。
「ほら、キバナ。君の愛しのポケモン達が困ってるぞ。起きろ」
「ンん……分かったよ、おはよ……」
のろのろとシーツから出てきたご主人様を、旦那様が逃がさないように力任せに立たせます。ご主人様の肩に引っかかっていたシーツを勢いよく引き剥がして床に捨て、旦那様はがっちりとご主人様の腰をホールドして寝室を出ていかれます。ご主人様の足取りがふらふらと覚束ないのもあるでしょうが、旦那様はなるべくご主人様に触れていたいようなのでございます。
私が残ってベッドのシーツを洗いたてのものと交換し、妻はご主人様と朝食の用意をいたします。最近はご主人様の影響か、妻も料理にいたく興味を持っております。少しずつではありますが、私どもも日々精進し、お任せいただける家事を増やしている途中なのです。二日前にようやく火を使った料理にも挑戦してみようということになりまして、スクランブルエッグを習得中でございます。おっとりした妻には手早く卵を混ぜると言うことが難しいらしく、上手くいかないとしょんぼりしておりますが。まあ、それを慰めるのもやぶさかではございません。焦ったところで得手不得手が急に改善されるはずも御座いませんので、気長にゆっくりお役に立てる場面を増やしていけば良いのです。
ベットメイキングが終わった私は、すぐに庭に出ます。庭に生えているきのみの木を揺らして、(ようやく最近ホシガリスが落ちてこないギリギリを見極めることが出来るようになりました!)新鮮なきのみを収穫いたします。モモンやオボンなど、スムージーにしやすいものを選別してご主人様にお渡しします。
「ん、ありがとうな。チーゴは止めといた方がいいから、好きにしてくれ」
では残ったチーゴは旦那様に。旦那様はバトルの研究に余念がないので、有効に活用してくださることでしょう。今日は美味しいスムージーが出来そうです。
旦那様は朝食が出来るのを待つ間にポケモンのメディカルチェックを致します。目の動きは正常か、爪の長さは適切か、表皮に傷や湿疹などのトラブルはないか、食欲はいつも通りか。一匹一匹細かにチェックをしていく姿は職人そのもの。手早く正確に行われるそれに、私はいつも惚れ惚れとしてしまいます。
「スチュワード、手が空いたなら君もチェックしよう」
旦那様に呼ばれましたので、私もチェックして頂きます。目の前でペンの先を数度叩きます。これを見ていろ、の合図です。そしてペンを左右に動かして、目の動きと充血がないかをチェックして頂きます。両手で握手をして爪を確認し、手を上げてゆっくりと一回転してみせます。その後優しく角に触れてくださいますので、痛みがなければ元気にお返事いたします。そうすると、旦那様はにかりと笑ってくださいます。
「うん、問題ないみたいだな。でも、何かあったらすぐに教えてくれよ」
そうしていると、キッチンからあたたかな感情が流れてきます。ご主人様は、旦那様がこうして私どもと触れ合っているのを見るのが殊の外お好きな様子。イエッサンの私どもとしましてもこの瞬間のご主人様の感情はとても心地よいものでございます。これがしあわせと言うのでしょう。
「メイド、君もチェックしよう。作業はスチュワードに引き継いでくれ」
妻が返事をして、私と角を触れ合わせます。角での情報交換は時間短縮にも便利なのです。妻は何とかスクランブルエッグ(少々焦げあり、『やや』粗め)を何とか完成させたようでございました。ご主人様はきのみを牛乳と一緒にハンドブレンダーにかけているところでございます。
「スチュワード、コップと皿の用意を頼む。それが終わったらお前らもオレさま達と飯だ」
「イエ、イエエイ」
折角のご主人様のお誘いですが、お断り申し上げました。旦那様はご主人様とお二人で食事をするのを楽しみにしております。旦那様ご本人は口に出してその事実をご自分でおっしゃることはないようですが、イエッサンの角は誤魔化せないのでございます。そんな大切な機会を私どもがお邪魔するのも無粋というもの。
それに、私どもにはまだまだ朝食前の仕事がございます。旦那様とご主人様のポケモンの力も借りまして、リビングダイニング以外の住居スペースの掃除をしなければならないのです。私と妻はその指揮と監督をせねばなりません。
「……そうか、悪いな」
ご主人様は照れたように笑って、私の頭を撫でて下さいます。ご主人様と旦那様がご在宅の間中ずっとプラスの感情でお過ごし頂けることは、私どもイエッサンに誇りと喜びを与えてくださいます。いえ、これはイエッサンだから特別と言うこともないのでしょう。横でご主人様を見ていたヌメルゴンのくすくす笑いは、私と同じ気持ちだからでございましょう。ポケモンとは、人が好きなものでございます。自らこの人を主と定め、運命を共にすると決めたのですから、当然のことではございますが。
本日の朝食はハムサラダときのみのスムージー、トーストのシンプルなメニューでございました。必要な食器を出しフォークを皿の横に置きます。旦那様のチェックが終わった妻が、庭から摘んできた野花を小さなグラスに挿してテーブルの隅に飾ります。こういうことにご主人様はとても喜んでくださるのです。トーストの横にバターと自家製のジャムを添えて、椅子を引いてお二人をお招きします。
「ああ、ありがとう」
旦那様たちが席に着くのを見届けて、私どもは退出いたします。
さて、掃除と大袈裟には言いましたが、お二人の出勤の時間に間に合わせるためにやることは簡単なことでございます。軽く箒で床を掃き清め、窓の結露を拭き、各部屋のごみ箱のごみを回収するくらいのことでございます。お手隙の皆様にも手伝っていただいて、なんとか広い家の大部分をフォローすることが出来るようになってまいりました。ご主人様と旦那様のポケモンの皆様はバトルに特化した方々でございます。鍛え、バトルに挑むのが当たり前の皆様には、私と妻のようにバトルをせず人に尽くすことを至上とするポケモンと言うものが物珍しかったようでございます。私と妻があれこれとお二人のお手伝いをするのを見て、何時の間にやら手伝っていただくようになりました。恐らく、お二人が事あるごとに私どもの頭を撫でるので羨ましくなったのでございましょう。皆褒めてもらおうと張り切って掃除をいたします。器用なドラパルトなどは掃除だけでは飽き足らず、洗濯物を干すのも覚えてしまいました。旦那様が前日の夜に予約しておいた洗濯物を、洗濯機から取り出して干すところまで一匹でやれてしまうのです。いえ、ドラメシヤたちが洗濯物の皺を協力しながら伸ばしておりますから、三匹でやっていると言った方が良いのかも知れませんが。ドラパルトの頭数の数え方は難解でございます。
お二人のお食事が終わる頃に掃除も終わります。旦那様とご主人様は身支度をなさる間に私と妻は朝食を頂きます。本当はお召し替えのお手伝いもしたいのですが、初めの頃に断られてしまいました。一仕事終えた皆様はご主人様と旦那様に褒めて頂くために行儀よく所定の位置でお二人を待ちます。食べ終えたら皿を食洗器に入れてスタートボタンを押します。その辺りで旦那様とご主人様が戻って来られます。お二人は一匹ずつに丁寧にお礼を言いながら、皆様をボールに収めていきます。最後に残ったリザードンだけはボールに戻さずに旦那様の横で待機しております。
「それじゃあ、行ってくる」
「ん、いってらっしゃい。気を付けてな」
旦那様とご主人様の唇が触れ合いました。これがお二人の挨拶のようでございます。新参者の私と妻には当たり前の光景でございますが、リザードンにとっては違うようで、どこを見ていれば良いのやらと言った風情で視線があちこちに泳いでおります。あの歴戦のリザードンのこのような姿は、恐らくこの家でしか見られないものでございましょう。旦那様はリザードンと庭に出ますと、ひらりとその背に乗って飛んでいきます。ご主人様は大きく手を振りながらそれを見送りますと、にこりと残った私どもに笑いかけます。
「さて、オレさま達も急ぐぞ。まずはランチの準備だ」
「フィルーウ!」
本日のランチは妻の作ったスクランブルエッグと今朝のサラダの残りを挟んだサンドイッチでございます。ご主人様は手早く食パンに中身を挟み込むと、適当な大きさに切っていきます。それをランチボックスに入れ、隙間には私とトロム用に余っているきのみを詰め、スープジャーに昨日の夜のかぼちゃのポタージュを入れれば完成でございます。
「あと三分で出勤の時間ロト!急ぐロト!」
「げっ、マジか!」
ご主人様のスマホロトムがけたたましく鳴って時間を知らせます。ご主人様は私の首にスタッフカードを掛けますと、もう一匹のスマホロトムを呼びます。旦那様のスマホロトムでございます。
「ダンデの!すぐにタクシー配車アプリを起動してくれ」
「了解ロト~」
「9時半に此処に来るように指定してくれ。目的地はバトルタワー。支払いはキャッスレスを選択。その他の欄にはイエッサン一匹で乗ることも添えてくれ」
「…………配車手続き通ったロト!」
「よくやった!タクシーの代金はロトム頼む。いつも通り、支払いアプリを起動すればいいから」
ご主人様がロトムとやり取りをしている間、私は妻と角をすり合わせて挨拶を致します。ご主人様のロトムがわあわあ言いながら飛び回ります。
「後一分ロト~!」
「いってくる!メイド、落ちるなよ!」
「フィルーウ」
ご主人様はご自分のスマホロトムを引っ掴んでパーカーのポケットに押し込み、妻を抱え上げて玄関から飛び出して行かれました。妻も成人したイエッサンですから学童程度の重さがあるのでございますが、それを軽々と持ち上げて行かれました。流石でございます。
残された旦那様のロトムと私には、もう一仕事ございます。ここまでは私は妻と共に協力して家事をして参りましたが、ここからは旦那様のロトムが私の「バディ」でございます。まずは食器棚の銀の食器を取り出してひとつひとつ磨きます。特別なお祝いの日にしか使われませんが、私は銀食器を磨くのを日課にしております。これを怠りますと銀製品はすぐに色が濁りますから、美しさを保つためには日頃から磨いておくのが一番なのです。特にこれはお二人がご結婚した記念の品でございますから、何はなくとも手入れをしてしかるべきものでございます。それが終わったら家中の窓の施錠の確認。これはスマホロトムに施錠したところを写真に収めてもらっています。そして最後にランチボックスとスープジャーを持って、玄関で少々待機いたします。
「そろそろタクシーが来るロト。出発するロト!」
玄関から出て、施錠するところをもう一度ロトムに撮ってもらい、私も出勤いたします。ここからの私のお仕事は、バトルタワーで旦那様のお世話でございます。
アーマーガアタクシーもバトルタワーのスタッフも、イエッサンとスマホロトムだけで出歩いている光景にも慣れたものでございます。私どもを知らぬ人がいても、ご主人様が首に掛けてくれたスタッフカードに主と行先、私の授かった任務が書かれておりますので特に困ったことはございません。タワーの受付係はすっかり馴染みの顔でございますので、スタッフカードは見せずに手を振ってご挨拶するだけでございます。顔パス、というものらしいです。受付係も私の姿を見つけるとすぐに秘書室に電話をして人を呼びます。エレベーターまで付き添っていただき、最上階のボタンを押してもらいます。最上階に到着すると、秘書室のスタッフがにこやかに私どもを迎えてくれます。皆様、本当に慣れたものでございます。
「イエエイ」
「スチュワード。今ちょうど手が空いたんだ」
出勤してまずすることは旦那様への報告でございます。私がお預かりしていた鍵をお返しすると、スマホロトムが旦那様の元に飛んでいき先程撮影した施錠する様子をお見せします。以前は動画で確認していたのですが、信用に足ると言うことでチェックも簡単な写真でご報告申し上げております。
「うん、問題ないな。そろそろ写真もなくても良いかもしれない」
「イエエイ」
私はそれに難色を示しておきます。信頼して頂けるのは光栄なのですが、それはあまりに不用心かと思われました。しかし、旦那様には通じなかったようで小首を傾げておられます。残念ながら旦那様は私の正式な主人ではございませんので、鳴き声一つで細かいニュアンスまではお伝えしきれません。こういう時に、スマホロトムが助け舟を出してくれるのです。
「『不用心だからやめろ』って言ってるロト。『せめて留守番できるポケモンを常駐させてから言え』だそうだロト」
「イエッ!」
私は抗議のために鋭く鳴いてロトムを威嚇します。そんな乱暴な言葉遣いを旦那様にしていると思われては一生の不覚。しかしロトムは知らん顔でふよふよと飛んでおります。なんて憎らしい。旦那様は鷹揚に笑いながら、私どものやり取りを見ておられました。
「留守番か。考えておこう」
ここからは旦那様の身の回りのお世話に精を出します。私がバトルタワーでお仕事を始めたときにご主人様に課された任務は二つございます。まず一つは適切なタイミングでティーブレイクを進言すること。そしてきちんとランチを召し上がっていただくことでございます。
旦那様は集中し始めると文字通り寝食を忘れてしまうお人らしく、ご主人様は旦那様があまりにご自分の体を顧みない働き方をすると心を痛めておいでだったようでございます。そこで私の出番と言うわけです。旦那様が無理をなさらぬよう、適度に息抜きの時間を設けるのでございます。
私が到着したのは旦那様が出勤してから二時間後、始業時間からは一時間が経過しております。私はすぐに給湯室に向かい、お茶の用意を始めます。茶葉の測り方、カップの温め方はイエッサンにとっての基本中の基本。スマホロトムに蒸らし時間を測ってもらい、戸棚からお菓子を取り出します。私が手の届くところにあるものは旦那様にお出ししても良いと秘書の方からは了承を頂いております。
「イエエイ」
旦那様にお声かけ致しますと、朗らかに笑って紅茶を受け取っていただけます。
「うん。君の淹れる紅茶は香りが良い」
味だけでなく、香りも楽しんでいただける余裕があるようで私は嬉しくなりました。ロトムがご主人様のSNSアカウントが更新されたと報告しましたので、ご主人はクッキーに手を伸ばしながらそれをチェックいたします。コータスのおかげで局地的晴れになった雨のナックルシティの写真でした。周囲の大雨などなかったかのように、ぽっかりとご主人様とコータスの立つ場所だけが晴れているのは、なんとも不思議な光景でございました。旦那様は微笑んで、写真の下にあるハートマークを押します。午前中の業務はこのように穏やかなことが多いのです。地獄はバトルタワーの挑戦者が増える昼辺りでございます。
11時辺りから旦那様は昇格試験のために呼び出されることが多くなります。そうなりますと書類仕事も一度中断してバトルフィールドに赴かねばなりません。私とロトムも旦那様と共にバトルフィールドに赴きます。恐らくランチタイムに食い込むだろうと予見して、ランチボックスとスープジャーも持って移動いたします。今日はランチタイムになっても中々来客の波が引きません。旦那様は合間に私どもの所に戻ってきてはポタージュを飲んだり、サンドイッチを一つ摘まんだりは出来るのですが、腰を下ろして召し上がれるような時間が中々ございません。それどころか、お召し物が埃まみれのまま次の試合に向かわれることもしばしば。旦那様ほどの美丈夫をそのような恰好で人前に出すのは大変不本意なのですが、私がお止めする前に旦那様は次のバトルに飛び込んでしまわれます。子供のようにはしゃぐ旦那様は、それはそれは楽しそうでいらっしゃいます。
「イエ……」
深々と溜息を吐いて、ロトムに写真をお願いいたします。ロトムは無言でパシャリと音を立てて、楽しげな旦那様の横顔を収めました。ただし、全身埃まみれでございますが。私の手に余ることは、ご主人様にすべて報告することになっております。今日はサンドイッチを一つだけでランチタイムが終わってしまいました。ほとんど手つかずのランチボックスもロトムに頼んで映してもらいます。そしてご主人様に写真を送信していただきます。その後すぐにご主人様から電話がございましたが、残念ながら旦那様はバトル中でございました。私が対応して、旦那様の現状をご報告いたしますと、ご主人様は
「ダンデに俺が電話してきたことは伝えなくていい。仕事片付けたらそっち行くから待ってろよ」
と言って電話を切られました。
来客が落ち着いてきたのを見計らうようにして、旦那様のデスクにはどんどん書類仕事が舞い込んできます。旦那様はそれらを猛烈な勢いで読み、決裁し、サインし、時には書類不備の大きな判を押して突っ返すのを繰り返しておられます。スタッフも入れ替わり立ち代わりで旦那様に面会を求め、報告や簡単な打ち合わせをいたします。そしてその合間にまた昇格試験の呼び出しがあったりします。その度に旦那様はバトルフィールドまで飛んでいき、全力でバトルを楽しんで戻って来られます。息つく暇もございません。なるべくサンドイッチだけでも召し上がってほしいのですが、こうも忙しないとそれも難しそうでございます。
私は旦那様がバトルで留守の間、旦那様がどんな書類を読んでいたか把握するためにスマホロトムに頼んで書類を読み上げてもらいます。最近は写真の文字をテキストに起こしてくれるアプリがあるそうなのです。テキストに起こせばロトムが読めるようになりますので、それを教えてもらっているのです。ロトムは文章を読み上げることはできますが、要点をかいつまんで説明することが苦手です。私は複雑な文章を読むことが出来ません。旦那様とご主人様のお名前、そして紅茶の銘柄を読み上げるのが精いっぱいでございます。ですが、私は話の概要を把握することは得意なのです。人の複雑な機微を察し、要求に柔軟に対応することが出来なければイエッサンの名折れでございます。私たちは「バディ」ですので、お互いの欠点と長所を補い合っているのです。
「ただいま。スチュワード、悪いが此処までの内容を教えてくれるか?」
旦那様は帰って来るなり上着を机に放り出しながら、書類の一点を指しておっしゃいました。私が慌てて上着を拾い上げ、ハンガーに掛けながら旦那様のご要望にお応えしていきます。
「イエエイ、エイ。イエエイ」
「来季のジムチャレンジ推薦に関する規定の改正についての草案ロト。改善すべき点が1点、補足をいれるべき箇所が3点、削除すべき点が1点、新たに加えるか検討すべき点が2点上がっているロト。詳細を聞くロト?」
「じゃあ検討すべき点から頼む」
「イエエイ」
「まずは年齢制限と保護者の承諾についてロト」
ご自身も忙しなく書類に目を通しながら、内容を確認していきます。旦那様は有能な方でございますが、体は一つきりでございます。なのに、部下に仕事を任せることに慣れてはいないご様子。ご主人様はジムリーダーになって長く、その辺りのバランスも御上手だそうですが(と、妻が申しておりました)、旦那様は何でも自分でやろうとなさいます。些細な事であっても一度はご自分の目で見ておきたいとのことでございますが、こだわり方が少々いきすぎでございます。なんとかならないものかと、私は内心で溜息を吐きました。これではご主人様がご心配なさるのも当然のこと。
「イエエイ」
一通りの説明が終わりました。せめてお茶請けにフルーツなどを食べていただくことは出来ないかと、私は休憩を申し出ました。私が旦那様のお傍に居ながらほぼポタージュで空腹を紛らわせておられるなど、耐えられません。
「ああ……そうだな。お茶を頼む」
旦那様は書類から目を離さず、何やら書類の隅に様々なことを書きこんでおられます。目が合わないことに少々気落ちしながらも、私は給湯室でお茶の用意しながら、冷蔵庫を漁ります。パッケージに個人名(と思われます)が書いてあるのは他のお方の私物と心得ておりますので、それらは避けます。旦那様が研究用にと保存されているきのみがいくつかございました。オボンにソクノ、マゴもございました。これなら食べやすそうでございます。きのみを盛った皿をティーワゴンに乗せて、少々配置を整えます。こういうものは見映えも大事でございます。
戻ってきても、旦那様は私に気付かないようでございました。
「……イエ?」
「………」
お声かけしましても、私の方を見てくださいません。無言でカップを受け取った旦那様は、そのままお茶を飲み始めます。思わず顔をしかめると、慌てたようにロトムが旦那様の頭の周りを煩く飛び始めました。
「お行儀が悪いロト。一端書類は置いておくロト」
「いや、今日は定時に上がりたいんだ。このままやる」
ロトムは困ったような顔で私を見ました。なんでございましょう。言いたいことがあるならば言って欲しいのですが。他者の顔色に一喜一憂するのは人の機微に聡く、人の生活に入り込んだポケモンの性でございますが、ロトムは私のことまで気を遣わなくても良いのです。ロトムはオロオロと旦那様と私を交互に見ておりますが、私が何も言うつもりがないのを尊重してくれるようでした。
「………ロトムもスチュワードも、忠告したロトよ」
せめてきのみを召し上がってほしいのですが、机の上は書類でいっぱいで置ける場所がございません。皿を持ったままうろうろしてみましたが、全く相手にして頂けなかったので諦めて皿をティーワゴンに戻します。集中し始めると本当に周りが見えなくなるのです。
「スチュワード、角砂糖を取ってくれ」
やっと書類から顔を上げて下さいました。私が喜んでティーワゴンからシュガーポッドを取り出し、蓋を開けようといたしましたが旦那様はそれをお止めになりました。
「ああ、いや。瓶ごと欲しいんだ」
……嫌な予感がいたします。しかし、私は命じられれば従うしかございません。大人しくシュガーポッドをお渡しすると、旦那様は机の隅にそれを置きます。そしておもむろに手をポッドに突っ込むと、角砂糖をいくつか口の中に放り込み、それから紅茶をぐいぐい飲んでいきます。あまりのことに、私は言葉をなくしました。なんという。こんな暴挙に出られるとは思ってもみませんでした。ざりざりと旦那様の口の中からありえない音が聞こえてきます。
「うん。ありがとう。あと、冷蔵庫のノメルの実をスライスして取ってきてくれ」
それだけ言いますと、旦那様の視線はまた書類に戻っていってしまいました。これは、どうあっても休憩していただけないようでございます。これはいけません。いえ、諦めるのは最善を尽くしてからでなければなりません。たとえこの身がポケモンで、そして旦那様にお仕えする忠実なスチュワードであっても、手を尽くす前に諦めてはなりません。夢中になっているのは結構でございますが、ご忠告を聞き入れて下さらないのであれば無理にも聞いていただかねば。
私はついでにお茶を淹れ直してくると伝えて、ティーワゴンを一度給湯室に戻しました。そして無言で付いてきたロトムに頼んで、一部始終を録画するように頼みます。それからいつも通りにお茶の用意をして、冷蔵庫からノメルの実を引っ張り出します。本来ならばスライスして添えるものですが。気持ち早めに茶葉を上げるのと同時に、ノメルの実を丸ごとポッドに落とします。ぼちゃん、と派手な音がして少々中身が飛び散りました。ワゴン台が汚れましたが、旦那様はどうせ見ても下さいません。拭かなくても良いでしょう。それと、冷蔵庫からマトマの実を少々拝借いたしまして、絞り機で果汁を絞ります。既に匂いが辛さを想像して鼻がむずむずいたします。マトマの絞り汁をティーカップに半分ほど入れて、紅茶を注ぎます。色が明らかに赤いですが、旦那様が手を休めて下されば私の些細な悪戯など回避できるのです。ご信頼頂いているということかも知れませんが、それはそれ。冷蔵庫からおいしいみずのボトルを一本拝借して、いざ出陣でございます。旦那様のお怒りは怖いですが、これならばどう転んでも仕事は中断するに違いありません。
「イエエイ」
素知らぬ顔でカップをお渡しすると、旦那様はまた角砂糖を口に放り込んで受け取りました。そして一口。
「っゥぐッ!!?ぉエッ、ア゛ッ!!」
どうやら相当に衝撃的な味だったらしく、カップを机に叩きつけるようにして置くとゲホゲホと噎せておられます。予想していた味と全く違うものを口に入れたら当然そうなるでしょう。私は旦那様にティーワゴンにある布巾とおいしいみずをお渡しします。涙目になっているところを正面からスマホロトムに撮ってもらって、録画の終了を伝えます。ロトムは自己判断でどこかに録画データを送信したようでございます。さて、どこにデータがいったのやら。私は何も言っておりませんので見当もつきませんが。
旦那様は叱ろうとしたのでしょう。顔を上げ、私の顔を見るなり一度口を閉ざしてしまいました。そして、まじまじと私の顔を見つめております。
「……怒っているのか」
「イエエイ」
私はふるふると頭を振りました。怒っているなど。とんでもないことでございます。ただ私はあらゆる手段をもってしてでも旦那様にご休憩頂きたいだけで。
「怒ってないって言ってるけど、怒ってるロト。当然ロト。スチュワードが気を利かせて色々持ってきてたのに、無視したロト」
「イ、エ、エ!」
ロトムに向かって鳴くと、ロトムはぴゅ、と妙な鳴き声を発してどこかへ飛んで行ってしまいました。余計なことは言わないで宜しいのです。別に私は自分のしたことを無視されて怒っているのではございません。ご主人様に課せられた仕事を全うさせて頂けないことに不満があるのでございます。
「ああ、分かった分かった。悪かったよ」
旦那様が降参だ、と手を上げたところでバン、と扉が開かれます。ぎらぎらとお怒りに目を吊り上げるご主人様でございました。
「ハイ、ダーリン。随分楽しいもん飲んでるな」
「キバナ。……君、仕事は?」
一瞬ご主人様の声でプラスの感情が流れましたが、それも旦那様がご主人様の顔を見るまででございました。ご主人様が怒っていらっしゃるのを見て、プラスの感情がしおしおと萎れていきます。
「有給とった。で、言い訳聞かせろよ。ランチもろくに食ってないって?」
「ポタージュは全部飲んだぜ」
「サンドイッチは一切れだけだそうだけど」
「そこまで報告が行ってるのか……」
旦那様がだらりと椅子の背に体を預けます。ご主人様はどかりとソファに腰かけてランチボックスを確認いたしますと、顔を顰められました。私は情けなさのあまり何処かに身を隠してしまいたいような気がいたしました。私はそそくさとその場から距離を取ることにいたします。旦那様の上着にブラシをかける仕事をするのです。
「そんなになるまで仕事抱え込むなら辞めろ。オレさまが養ってやるから」
「いやだ」
「じゃあもうちょっとセーブして仕事しろ。せめて食事は取れ」
「……俺がチャンピオンじゃなくなった時、君が『無職おめでとう』って言ったんだろ」
しん、と室内に不思議な沈黙が落ちました。ご主人様は少し考えるような素振りをしておりましたが、ああ、と思い出したような声を上げられました。
「そういえば言ったな」
「君なあ」
旦那様が声を上げますが、ご主人様は知らぬ顔で流されます。
「俺は捨てられるかと思ったんだ。だから必死で、」
ご主人様は無言で立ち上がると、旦那様の椅子の横に移動されました。ぐるりと椅子を回して旦那様と向き合うと、腰をかがめて旦那様の顔を覗き込みます。唇が触れそうなほどぐっと顔を近付けます。
「頼まれたって捨ててやるか」
ご主人様が深く溜息を吐くと、旦那様の頬に手を添わせて目線を合わせます。
「必死なのは良いんだけどさ、もうちょっと周り見てくれよ。こんだけ心配されてるの、分かるだろ」
「それは……悪かったと思ってる」
お二人の感情から、棘がなくなりました。苛立ちや怒りでギスギスしていた感情が和らぎ、私はホッと息を吐きました。
「で、どうする?」
「どうとは?」
「オレさまにその席譲るか、今すぐに遅いランチ取るか。選ばせてやるよ」
「君が?この席に?」
ご主人様は挑発するように旦那様を見下ろして、不敵に笑って見せました。
「ナックルジムリーダー何年やってると思ってるんだ?組織の運営、経営のノウハウも多少は持ってるんだぜ?もしかしたら、不慣れなお前よりスマートにやれちまうかもな?」
ご主人様は楽し気に笑っておられます。この感情は恐らく、愉悦でございましょう。怒られてしょげ返っている旦那様をからかって弄んで遊んでいるのでございます。ご主人様もお人が悪い。
「その時は、ダンデはバトルタワーの昇格試験員として養ってやる。好きなだけバトルだけして、夢追いかけてろ。ほら、中々魅力的な提案だろ?」
旦那様の感情が、燃え上がるようなものに変わります。バトルで窮地においやられた時のようなそれ。
「……死んでもごめんだな」
旦那様の負けず嫌いは周知のことでございますがご主人様もそこまで煽らずとも好いのではないでしょうか。闘争心はプラスの感情でもマイナスの感情でもございませんのでイエッサンとしてはほどほどになさってほしいのですが、血気盛んなお二人のことでございます。言うだけ無駄と言うものでございましょう。
「上等。じゃあ皆で楽しいランチだ。スチュワード、お茶を淹れ直してくれ」
にっこりとご主人様が笑います。そこでようやく旦那様も諦めて、重たい腰を上げたのでした。