バーベキューは恙なく終わりを迎えた。
ホップがずっとダンデに話をせがんでくれたので場はずっと明るく保たれていた。正直に言えば、ホップの振る舞いには随分助けられた。語り手は主にダンデだった。キバナは途中で捕捉を入れたり合いの手や茶々を入れたくらいのもので、こんなにしゃべる男だったかと驚くほどダンデは饒舌にキバナを褒めた。お決まりの、強い、から始まり、諦めない。切り替えが早い。向上心がある。研究熱心。準備に余念がない。手持ちのポケモン達に対する愛情と知識が群を抜いている、など。隣で聞いていても胸がすくほどすらすらと賛辞を並べ立ててみせた。
ダンデはそんな蛇足だらけの思い出話を弟に語って聞かせ、弟も目を輝かせてそれを聞いていた。その輝きは強いトレーナーへの憧れの光ではなく、好奇心の光だった。ポケモン達の、自分がまったく知らない一面を知る。トレーナーとしての育成環境の一例を知る。その喜びの光だった。その光景に、仲の良い兄弟だとキバナはしみじみと思う。年が離れているとはいえ、兄弟でこんなにも仲が良いのも珍しいのではないだろうか。
しかし、どうにも家族との間にわだかまりがあるようには見えなかった。一方的なものだとダンデは言っていたが、それにしてもダンデの方も別段変わったところはない。ぎこちないとか、そういうところはなかった。少し離れたところでアウトドア用の椅子に腰かけているダンデの母が、時折ダンデの方を少し懐かしむような顔で見ていたくらいである。
皿を運び終えて、後は庭で網の処理やら火の始末の確認をしているところだった。洗い場から戻ったホップは、網を何枚か抱えて戻ってきた。食べ盛りの男が三人もいるということで、出てくる肉の量も大量だった。網を替えながら焼き、焼きながら食べ、大いに笑った一日だった。特にバーベキュー以外のことなどしなかったが、それでも何とでもなるものだな、というのが素直な感想だった。考えてみればキャンプとやっていることは殆ど変わらないのだから当然だが。
ダンデと二人がかりで炭を安全な場所まで運び、ざあ、とひっくり返す。いくぞ、おう、の短いやり取りでも作業に滞りがない。何年もこういう交流ばかりしていたのだから当たり前だが。腰を伸ばして、ふう、と息を吐く。見上げた空は茜色だった。随分と長いことお邪魔していたらしい。
「日が暮れちゃったな」
「そうだな。キバナ、泊っていくだろ?」
あまりにも無造作に言われて、キバナは体を硬直させた。その脇をホップが軽やかに駆けて行き、引っ張ってきたホースで炭に念入りに水をかけ始める。キバナはその間も、目を瞬かせるばかりで、思考が追い付かない。
「……いやオレさま初耳だけど」
やっと言えたのはそれだけだった。ダンデはいつもの通り、底を見せない顔で笑っている。そこへホップがフォローするように口を挟んだ。
「キバナさん、たぶんこの後雨が降ると思うんだぞ。しかも結構激しく。ほら」
ホップは二階の窓を指さす。窓辺にはチョロネコが佇んでおり、空模様を見ながらゆらゆらとしっぽを揺らしているところだった。
「チョロネコ?」
「あいつ、大雨が来る直前は絶対にあの窓にいるんだ。あの様子じゃ、もう10分もしないうちに降るんじゃないかな?」
「へえ……」
天気予報では雨が降るとは一言も言っていなかったが、そういうものだろうか、とキバナは内心で首を傾げる。水タイプでも何でもないのに、雨が来るのが分かるものだろうか。確かに、人間よりもポケモンの方がずっと自然の変化に敏感だ。ワイルドエリアの激しい気候変動でも多くのポケモンが適応していることを思うと、きっとそういうこともあるのだろう。
「それで、どうする?傘を貸しても良いんだが、雨の田舎道をその足元で歩きたくないだろ?」
ダンデは揶揄するようにキバナの靴を指さした。初めて訪問するのだから、ということでキバナにしては少し遊びの少ない恰好を選んだのだ。足元もかっちりと革靴でキメてきた。バーベキューだと分かっていたらこんな靴は選ばなかったのに。
キバナはブラッシータウンの駅からここまでの道のりを思い出す。舗装されていないむき出しの土の道が、ずっと続いていた。これから雨が降るとして、10分では流石に辿り着かないだろう。
アーマーガアタクシー、と言いかけて、10分もしないうちに降られるなら同じことかと思い直す。アーマーガアの巨体が泊まれそうな場所は限られている。庭に出るなら、いくらかはぬかるみに足を取られるだろう。
「…………………それじゃ、お世話になります」
なんだか嵌められているような気分になりながらも、キバナは絞り出した。ダンデは何が楽しいのか、明るい笑い声を上げてキバナの肩を小突く。
「俺の部屋になるけど、良いよな」
「別に良いけど」
ぶっきらぼうに返せば、ダンデは満足そうにもう一度キバナの肩を押した。それを見てホップも笑い、家の方に駆けだしながらキバナに声を掛ける。
「オレ、母さんに言って来るんだぞ!」
ホップを見送り、キバナはじろりとダンデを睨み付けた。ダンデはさっきの上機嫌さのかけらも見当たらない、真顔でキバナのその視線を受け止めた。そして低く、呟くような調子で囁いた。
「夜に話をしよう」
チョロネコの天気予報は見事に当たった。
雨は夜半になってもまったく止む気配がなく、キバナはダンデを始めとする一家全員の勧めもあって一晩の宿を借りることになった。簡易ベッドを試したりしたものの、キバナの身長に合うものが見当たらず、結局は床に寝袋を敷くことになった。古い寝袋だった。寝袋の縁に縫い取られている名前は見覚えがなかったが、遠縁の人のものだろうか、と気楽に考えてキバナはその寝袋を借りることにした。ダンデやダンデの母は、何故か執拗にダンデが寝袋で寝るからベッドを譲ると言ってきたが、丁重に断った。ダンデはせっかく実家に帰ったのだから、慣れたベッドで寝た方が良いに決まっている。あまりにもしつこいので、キバナは話が終わる前に寝袋をダンデの部屋に持ち込んで、くるまってみせた。少し小さいが、それでも合わないベッドで寝るよりかは良いだろう。そう言ってやると、ようやくダンデの母たちは諦めたようだった。ダンデだけは何か言いたげにちらちらとキバナの方を見てきたが、無視してスマホをいじるのに夢中になっている振りをした。そうして家中が静まるまで、キバナはダラダラと時間を過ごした。
家中が寝静まったころ、ダンデとキバナはリビングへと降りた。夜、そろそろと足音を立てないように人の家を移動するのはなにか悪いことをしているような気分になる。泥棒にでもなったような。ダンデのヒトモシに足元を照らしてもらいながら階段を降りていく。光量をなるべく絞ってくれという、炎タイプにとって相当に難しい注文をダンデのヒトモシは忠実に守っていた。ダンデの方も、ヒトモシが挫けそうになるタイミングを見逃さず、声を掛けて励ましてやっている。対応が的確で、ポケモンをよく見ている。こういう時、ダンデという男は天性のトレーナーなのだと思わされる。
二人が玄関に降り立つと、ヒトモシはふわりと飛び上がって回る。まるで、良く出来たでしょう、と主張するかのように。それにダンデは笑って、ヒトモシを招いた。グッボーイ、と小さな声で褒める。その低い声。自分でも驚くほど何でもない瞬間に、ダンデのことが好きなのだと強く思う。どうしようもないな、と胸中で苦く笑うしかない。
ヒトモシが光を強めて玄関が明るくなる。キバナは改めてダンデの家をじっくりと観察する機会を得た。きょろきょろしているキバナをよそに、ダンデはヒトモシと共にリビングに入っていってしまった。キバナはゆっくりとそれを追いかける。リビングに入って一番に目に入ったのは、まず盾がずらりと並ぶ棚だった。そしてその横の暖炉には、トロフィーが三つ置いてある。そのトロフィーには見覚えがあった。どれもダンデのものだ。
そして次に思ったのは「写真が多い」だった。棚に飾られているのは主にダンデの写真だが、階段の傍の一枚だけはダンデの父親と思わしき人物が収められていた。後ろ姿はよく似ているが、あの一つだけ色褪せていて古いものだった。そこで初めて、そう言えば彼から父親の話を聞いたことがないな、と思い至った。これが、わだかまりの一端なのだろうか。
ダンデはソファに体を預けて、リビングでヒトモシを遊ばせている。キバナはダンデの隣に座るべきかどうか迷って、結局立っていることにした。なんとなく、棚を見ておいた方が良いような気がしたのだ。
キバナがゆっくりと棚に近付くと、後ろからダンデの声がかかる。
「棚の方は親父のだ。こっちのトロフィーが俺の」
それはそうだ、と内心で相槌を打つ。ダンデはチャンピオンの間、ずっとトロフィーしか授与されていないのだから。そして、ある年を境に、ダンデに授与されたトロフィーはすべて宝物庫で保管している。それにしても、たった三つ。ダンデがこの家に持ち帰ったトロフィーは三つだけなのだ。そのトロフィーは一番目立つようにと暖炉に置かれているが、それでも物寂しさを覚えずにはいられない。額縁に飾られている古いユニフォームが目に入った。盾と剣の意匠がない。ダンデの父はチャンピオンではなかったのだろう。胸にあるメダルは、リーグから贈られたものだと思われた。何らかの功績ある人なのかもしれないが、生憎キバナは聞いたことがなかった。これが、ガラルのチャンピオンを10年以上荷った男の生家のリビング。
「……お前の、少ないな」
光源であるヒトモシがふらふら遊んでいるので、棚の中が急に翳ったり、明るくなったして文字が読みづらい。それでも何とか読もうと腰を屈めてみる。
「大体は君のところに寄付してるからな」
「オレさまに管理を押し付けてる、の間違いじゃなくて?」
「だから毎年宝物庫には上納金払ってるだろ」
盾に刻まれた年には、キバナは全く覚えがなかった。しかし盾の数から鑑みるに、ダンデの父はチャンピオンにこそならなかったものの随分と長い間スタジアムに立っていたらしい。
問題は名前だった。キバナが借りている寝袋の縁に縫い取られていた名前と同じだ。まさか、と思う。そして、キバナがあの寝袋を使うと言った時に躊躇したのはそういうことだったのか、というのも合点が行った。
「あのな、いいかげん引き取れよ。エントランスがオレさまの盾とお前のトロフィーで溢れそうになってるんだぞ」
「俺は引退したから、これ以上は増えないさ」
気楽に返されて、キバナはムッと顔を顰める。振り向くと、ダンデは闇の中で皮肉気に笑っていた。珍しい表情に一瞬怯む。
「……オレさまのは増えるだろ」
「じゃあ今度また棚を寄付しよう。それで許してくれ」
軽く笑っていなされて、キバナはもやもやとした苛立ちを抱えることになった。キバナの表情を見て、ダンデは笑みを引っ込めた。軽い調子から、少しトーンを落として静かに話し始めた。
「これ以上ここにものを増やすと、親父の盾をしまわなくちゃいけなくなるんだ」
ダンデはゆっくりと立ち上がり、キバナの横に立った。そして棚に飾られている盾を見て、複雑そうな顔をする。その横顔に、キバナの胸の内がざわめくような感覚がした。
「……だからな、俺のは君のところへ預けたままにしたい。君なら俺のは蔑ろにしないだろうし」
ダンデは言いながら、盾の一つを手に取った。この中では一番新しい盾だ。銀にひかる盾を、ダンデは目を細めてゆっくりと撫でる。そのらしくない仕草で、キバナはダンデが抱えている『家族に対するわだかまり』がここにあることを知った。
「……聞いてほしいのって、これ?」
「まあ、これもひとつだけどな。……みんな寝たかな」
ダンデは少し上を向いて、目を閉じる。どうやら耳を澄ませているようだった。窓が雨を叩く音が激しい。時折、強い風にがたりと窓が揺れた。誰かが起きているような気配がしないことを確認すると、ダンデはゆっくりと目を開けてキバナの顔を見上げた。
「少し、俺の感傷に付き合ってくれないか?」
それにキバナは間髪入れずに頷いた。滅多に自分のことを話さない男だ。そんな男に乞われたならば、これ以上の名誉はない。絶対的に信頼されている証だ。キバナは、それに応えてやりたいと思う。どこまでも付き合ってやりたいと思う。
ダンデはキバナが頷いたのを見て、ほっとしたように息を吐き出す。
「俺は、親父に似ているらしくて」
「……うん」
「……悪い、ちょっと待ってくれ……整理する……」
ダンデは明らか後悔した顔をして頭を抱えた。そのままふらふらとソファへ戻り、倒れ込むように体を投げ出した。視線が忙しなく動き回り、口の中で素早く何かを言っていたがキバナにはよく聞こえなかった。
やがてダンデは困り果てた顔でキバナを見上げた。
「……どこから話したらいいんだろうな……」
それにキバナは笑ってやって、隣に腰かける。そして安心させるために膝を二、三度叩いた。
「整理なんかしなくて良いからとりあえず垂れ流せ。考えるな。思いつくまま言え。そっちのが楽だろ」
「良いのか」
「お前が話してくれるなら、なんでも」
本当に、心の底からそう思った。別に整理されている話が聞きたいわけではない。ただ単純に、今日この夜にダンデがずっと苦く思っていたものが少しでも晴れれば良いと、ただそれだけのことしかキバナは考えていない。話すことで楽になれるのだったら、それで良いと。だから別に、話の内容はどうだっていいのだ。支離滅裂だろうと荒唐無稽だろうと、ダンデが感ずるままに話してくれるのであればそれで良い。
ダンデはそんなキバナを、何故か泣きそうな顔で見つめた。そんな顔をされて、キバナの方が一瞬焦った。
「……あのな、俺の親父は選手だったんだ」
ダンデは静かに、ゆっくりと話し始めた。
「バトルが何より好きな人だったよ。ポケモンを心から愛していて、バトルを何よりも優先する人だった。だから、家に全然帰って来なかったんだ。家族といるより、スタジアムでバトルをしている時の方が楽しそうな人だった。たまに帰ってきてもどっか上の空でさ、スタジアムの中継とか、過去の試合の録画とかを延々と見てた。そんなだから、遊んでもらった覚えはあんまりないな」
そりゃあ似てる、と茶々を入れようとして、やめた。ダンデは心の底から弱り切ったような顔で、ぎこちなく笑っている。笑顔を無理矢理貼り付けている、と言った方が良いかもしれない。そういう顔は近年見ていなかった。いつから、と記憶を探ると少年だったダンデの顔が記憶から掘り起こされる。あの時も確か、実家に顔を出してきたと言っていなかったか。
「親父が生きているときは、俺はまだバトルに出会ってなかったから親父がどうして家に帰って来てくれないのか分からなかったんだ。全然帰って来ない親父を恨んでた。でも憧れでもあったんだよ。テレビのなかの親父は最高にカッコよかった。あのキラキラしたスタジアムで楽しそうにバトルしてる親父は、俺のヒーローだった。父親としては大嫌いだったけど、テレビで見てると別人みたいで。そう、選手のあの人は最高のヒーローだったんだ」
「……うん」
「――――急に死んだんだ。ダイマックスの事故だったよ」
それを聞いて、どう返事をするべきか迷った。最後の一年、ダンデはパワースポットの暴走事件を多く解決してきた。どういう気持ちで、彼はガラルを駆けまわったのだろう。想像してみようとしたが、できるはずもない。
その時のダンデの表情は澄んだものだった。微笑ともただの無表情とも違う。老人が昔を語るかのような穏やかさと静けさがあった。
「……そうか」
結局キバナは無難な返答しか出来なかった。何かを付け加えても、それでも何も言わずにいることも出来なかった。どちらもダンデを傷付けてしまいそうで。話してくれると決意した男の心を踏みにじってしまいそうな気がして、それ以上のことは出来なかった。
「おふくろは葬式で泣いてたけど、俺はホップの面倒を見なくちゃいけなくって泣けなかったな」
言いながら、ダンデはリビングの壁を見る。その目は昔の様子を思い出しているのだろう。
「家にいるとさ、どうしても親父の写真が目に入るんだよ。それに、俺やホップの顔見ておふくろはまた泣くんだ。あの頃は家全体が暗くて嫌になったな。それで俺は、ジムチャレンジが出来る年になったらすぐに家を飛び出した」
立ち上がって、トロフィーの一つをさらりと撫でた。ダンデは振り向くと、キバナを見て笑ってみせた。
「ジムチャレンジは楽しかったな……。君は?」
「オレさまはいつだって今が最高に楽しいけど?」
キバナも立ち上がって、暖炉へ歩み寄る。本心だった。ポケモンバトルに関しては、いつでも今以上の瞬間はないと思いながらスタジアムに立っている。楽しさで言うなら、常に自己最高記録を更新し続けている。そういう人間だからダンデはキバナをライバルと呼んでいるのだと思った。
「君らしいな」
キバナの返しに、ダンデは笑った。少し引き攣れてはいたが、それでも明るく笑おうとしたのだと思う。その笑みも、すぐに消えてしまった。
「親父みたいにはならないって誓ってこの町を出たんだ。絶対に親父みたいに薄情な真似はしないって。ホップの面倒だってちゃんとみるし、おふくろにも小まめに連絡入れて、家族を大事にしようって……」
言いながら、ダンデの頭はどんどんと前へと倒れていく。長い髪がばさりと落ちて、キバナからは完全に表情が見えなくなった。項垂れるダンデなど、何度も見たものではない。
「でも、チャンピオンになったら、やろうと思ってたことは何にも出来なかった。……出来なかったんだよ……。親父と同じで」
もう、キバナに話しているというよりも自分に言い含めるような調子になりつつあった。
「家を放り出すくらいバトルが楽しいってことも、俺は、わかってしまって。そんな俺をさ、おふくろは父親を見る時とそっくりの目で見たよ。そこから、なんとなくこの家から足が遠のいて……」
そこでダンデは一旦言葉を切った。部屋が静まる。ざあざあと激しい雨音だけがリビングに響いた。沈黙の中で、何を言おうか、何を言うべきでないかキバナは必死で考える。答えはなかった。どうにもできない。ただ聞くことしか出来ない。
「雑誌の取材で、一回だけ親父の話を振られたことがあるんだ。お父様はご立派なポケモントレーナーで選手でしたけれども、ご家庭ではどんなお父様でしたか、なんてな。でも、そんなこと聞かれても何かを答えられるほど親父のこと知らなかったんだよ。……だから、ローズさんと相談して、この手の質問は事前に撥ねてもらうことにした」
最後の方は、冷たい声音だった。それにキバナはハッと息を呑む。胸が塞ぐ。
「俺はどこでもそういう態度を取ったんだ。ホップに親父の話を強請られるのが嫌で、親父の生きてた頃の思い出話はどれも憂鬱で、この家にもどんどん顔を出さなくなって。リビングには親父の写真より俺の写真が増えていったけど、俺はどれもこれも嫌だったんだ……。俺が親父を思い出すのも、皆が親父を思い出さなくなるのも嫌だった。我儘な話だけど」
どんどん自嘲的になる口調に、やめてくれと言い出したかった。けれども、これはキバナが背中を押してしまったことなのだ。少しでもダンデの胸のつっかえがなくなれば良いと思った。完全な善意だった。そんな風に自分自身を傷付けてほしいわけではなかった。それでも、ここで話を止めてしまうのは、それは、話をさせる以上に酷いことのように思える。それではダンデも何も変わらないままになってしまう。それだけは駄目だと思う。けれど、どうしたら良いのかキバナには分からない。
「でもそれは間違いだったんだよ。スタジアムの親父が好きだったなら、ちゃんとみんなの前でそう言うべきだった。言葉にするべきだった。語られて、慕われて、懐かしがられて……そうやって、親父がどこかで残る形があったはずなんだ……」
ダンデの言うような選手はいる。マスタードやピオニーはその典型のような選手だった。華々しいキャリアと強烈な個性で人の記憶に残り、そして語られていく人々だ。だがその一方で、スタジアムを去ればその途端に人口に膾炙することのない選手もいる。―――というよりも、忘れられていく選手の方が圧倒的に多い。時の流れのなかで、それは仕方のないことだ。ダンデもそれは分かっている。10年もチャンピオンをやってきて、分からないはずがない。出会い、別れ、そして思い出しもしなくなった選手の多さを、ダンデこそが知っている。自分も含めて、すべての人が当たり前にやっていることに、彼は傷付いているのだ。そのどうしようもなさ。頭では理解していても、感情として追い付けない領域があることに対するものなのだ。
「もう、誰も俺の親父のことを話さないんだ。俺を見ても、誰も親父を思い出さない」
「……そうだな」
「十年以上経つから、仕方ないよな」
「……うん」
「わかっていても、整理がつけられないんだ。理屈じゃないところで、ずっとわだかまってる」
ダンデは顔を上げた。そして泣きそうな顔をして、自分の口の端を舐めた。唇がかさついている。そんなに口が渇くほど喋っただろうか。昼間の方がよほど饒舌だった。こんな、途切れ途切れの語り口ではなかった。滑るように、暗記でもしてきたかのようにすらすらとキバナとの冒険譚を語ってみせた男とは思えなかった。
「俺がころしたような気がするよ。一番好きだった『選手の親父』を、俺は自分で殺したんだって……」
言いながら、ダンデはキバナに向けて笑ってみせた。無理に笑った顔を向けられて、キバナは胸が潰れるような思いがする。
「……」
「もう、俺の親父はここにしかいないんだ。ここにいる親父は俺の好きな一番キラキラしてた親父じゃなくて、ただの、滅多に家に帰って来てくれない薄情な父親で。それを、俺はいま、後悔してるんだ」
キバナは必死で頭を回そうとする。想像しようとする。ダンデが言わんとすることの一端を捉えようとする。抱えるわだかまりを、どうにか理解してやりたいと思う。心の底からの言葉で共感を示して、労ってやりたい。出来るならば、癒してやりたい。だがそれは無理なことだ。そこに無遠慮に踏み込むほど、キバナは無恥にはなれない。
「キバナ。俺の死に方もきっと親父と同じなんだ。俺もすぐに忘れられていく。そしたら、残るのは家を捨てた薄情者の俺だけだ」
忘れられる。その言い様だけは、許せなかった。衝動的に、腕を伸ばしていた。あんまりにも痛々しくて、見たくなかった。
そんなダンデを見ないために、気が付けばダンデの体を引き寄せて抱きしめていた。
「……同じじゃない」
荒唐無稽でも支離滅裂でも、何かを言わなければならない瞬間がある。その言葉だけは、ライバルであるキバナは誰よりも強く否定しなければならない。
「お前は死ぬまでオレさまと楽しくバトルしてるんだろ。だから、大丈夫だ。オレさまが生きてる限り、誰もお前を忘れない」
「キバナ」
「大丈夫。大丈夫だよ。お前はずっと死なない。オレさまが死なせない」
大丈夫だと言いながら、ぎゅうっとダンデの頭を胸に抱え込んでやる。酷く腹立たしかった。そんな無様な否定を、ダンデが自分自身に向けてほしくはなかった。ライバルとして、友人として、それだけは許容できない。
「ガラルの人間が、お前を、お前のバトルを忘れるなんてオレさまが許さない」
それだけは、いくらキバナでも許せない。想像することすら拒絶する。ガラルが、この男を忘れるなんてあってはならないことだと半ば本気で思っている。忘れて、次に現れた選手たちに熱狂して――――チャンピオン・ダンデを風化させるだなんて、キバナには耐えられない。忘れさせない。
誰が忘れさせてやるか、と吠えたかった。
自らの吐く息が熱い気がする。
「ずっと、オレさまとバトルしてるんだろ。それをずっと見せていくんだろ。どんな形でも、ずっと。そしたら死んでる暇なんてないはずだろ」
言いながら、腕の力を強める。ダンデがキバナの腕の中で身動ぎをして、微かに笑ったような気配がした。
「俺とずっと――――死ぬまでバトルしてくれるのか?」
「そっちこそ。オレさま、ずっと公式で勝ててないけど、それでも良いのかよ」
キバナの背中に腕が回ってきた。そしてそのまま、しっかりとキバナを抱きしめる。二つの体が密着する。ダンデの体は熱かった。キャンプの夜に、炎に当たっているときのようだ。
「俺はキバナがいい」
「それ聞いて安心したわ。……お前、ホント、ああいうこと言うの、もうやめろよ。ダンデを追いかけてるオレさまが可哀そうだろ」
「それは悪かった。これっきりにする」
いつもの調子でけろりと言われて、キバナは少し顔を歪めた。少し体を離そうとしてみたが、今度はダンデががっちりと組みついてきて離れない。
「……なあ、そろそろ離してくれねえ?」
「んん……もうちょっと。君、体温低いなあ」
「お前が高いんだよ。離れろ、熱い」
「やだ」
ダンデは言いながら、ぐいぐいと熱い体をキバナに押し付けてくる。それを鷹揚に受け止めてやりながら、キバナはダンデの背中を叩いた。ゆっくりと、落ち着かせるように。母親が幼児にしてやるように、一定のリズムで優しく叩き続ける。
「お前なあ……。おばさんに見られたらどう弁明するんだよ」
誰かが起きてくる気配はないが、それでもこの場所でこの状況はリスクが高すぎる。そういう仲でもないのに、夜中に二人で抱き合ってただなんて言い繕いようもない。
「そうだな……、うん、あんまりしたくないな」
「だろ?」
「だからその時は、堂々とそういうことだって言う」
「……えっ?」
思わずダンデの顔を覗き込もうとすると、ダンデの上目遣いの瞳と目が合った。いつもよりも何か、楽し気な光を宿している気がする。
「駄目か?」
「いや、駄目って言うか……。え?うそだろ。そういうって……はあ?」
慌てて離れようとするキバナの体を、今度はダンデにがっちりとホールドされる。逃げられない。痛いほどの抱擁に身を捩ろうとした瞬間、少しだけダンデは体を離してキバナを見上げた。そして、いつものように――――少年のように屈託なく、明るく笑った。耳が、熱い。
「キバナ。俺、君のことが好きみたいだ」
ダンデの手が、何時の間にかキバナの耳を包み込むように掴んでいた。耳が熱いと思ったのはこれか、と思う間もない。そのまま、逆らうことも躊躇われるほどやんわりとダンデの方に引き寄せられていった。