『ダンデがね、今度キバナさんをうちに連れてくるらしいの』
いやにゆっくりとスマホロトムが母親の声を吐き出す。ホップは告げられた言葉が上手く咀嚼出来ずに瞬きをした。兄が帰って来る、というのは昨日の夕飯の席で聞かされていた。だが、もたらされた追加情報はホップを大いに困惑させた。母はよほどのことがなければポケモン研究所で勉強中のホップに電話をすることはない。だから何か緊急事態だと思って取ったのだが、一体なにを聞かされたのだろう。よく、わからない。
「キバナさんを?え、なんでだ?」
持っていたペンを置いて、スマホロトムを掴む。賢いロトムはそれだけでスピーカーモードを切った。電話の向こうの母親は、ホップよりもよほど困惑しているようだった。
脳裏に普段のキバナを思い描いてみる。試合から離れたかの人は温和で、そして柔らかく笑う人だというのがホップの認識だった。兄の長年のライバル。そして兄の最も親しい友人の一人。オシャレで洗練されている都会人。ナックルジムリーダー。宝物庫の番人。そして間違いなく多忙な人。その人を、あの何もないハロンの田舎に連れてくるという。何もなくて連れまわして良い人ではない。
思い返せば、ダンデが家に友人を連れてくることはなかった。少なくともホップの記憶の限り、ダンデがただの『友人』を実家に連れてきたことはない。迷子になったときにはソニアに家まで送ってもらっていた覚えはあれど、ソニアは用件が終わればサッと帰っていった。あの短い訪問を『友達を家に連れてくる』というものに含めるかどうか。ホップは完全に含めない派だ。玄関口で母にダンデを引き渡して、その場で母と少し世間話をしていただけだ。あれは別に兄の友人として訪れていたわけではなかったと思う。どれかと言えば、同級のお守り役の学級委員長だとか、そういう振る舞いだ。友人がいないわけではなかったが、家に連れてきて遊ぶような存在はいなかった。
母の狼狽もそういうところにあるのだろう。あの兄が。同年代の友達を連れてくる。ソニアの送迎を含めなければ、本当に一体何年ぶりのことになるのだろう。
『それが分からないのよ……。ダンデから話を聞いてもぜんぜん要領を得なくて。キバナさんを自慢したいんだって、そればっかり。ねえホップ、あなたなにか聞いてない?何の用事だと思う?』
何の用事があって?……わからない。しらない。母親の声は弱弱しく、半分息子に縋るような調子だった。
「なにかって……。俺もアニキと全然連絡取ってなかったし、なにも聞いてないぞ」
『そうよねえ……。ねえ、ちょっとソニアちゃんに代わってくれない?相談したいの』
え、と今度はホップが困惑の声を出す。どうしてソニア、と思わなくもないが、母が把握している兄の友好範囲は十歳のジムチャレンジの旅立ちで時を止めているのだ。慌てて電話口を押さえて、周囲に会話が聞こえないようにする。
「母さん。ソニア、今勤務時間中なんだぞ……」
『そこをなんとか。ね、おねがいよ。私、どうしたらいいか……』
こんなに弱っている母を見るのは父が亡くなった時以来かもしれない。その記憶はホップにとっては薄っすらとしたものだったが、それでも普段は気丈な母が泣きながらホップとダンデを抱きしめていたことだけは覚えている。
「……頼んでみるけど、期待しないでほしいんだぞ……」
ホップは溜息を吐いて、ひとまず立ち上がる。ソニアは自分のデスクでお気に入りのワンパチカップで紅茶を飲んでいるところだった。片手でカップを持ち、片手でパソコンのキーボードを忙しなく叩いて論文を埋めている。確か、そろそろ論文雑誌の締切だとか言っていた。集中できているなら、それを邪魔するのは申し訳ない。
「ソニア。あの……母さんが電話に代わってほしいって」
小さな声で言ってみると、ソニアはパッと視線をホップに移した。彼女の明るいグリーンの瞳はいつも好奇心で輝いていたが、今日は少し訝しげな光を宿していた。当然だ。
「え、なんで?」
「アニキが今度ウチに帰ってくるんだけど、その時キバナさん連れてくるらしいんだ。それで相談させてくれって」
「へー……。……?」
ソニアは話を聞きながら、少しずつ首を傾げていく。情報が繋がらないのだろう。ソニアの周囲にクエスチョンマークが乱れ飛んでいるのを幻視しながら、ホップはまた溜息を吐いた。
「やっぱそうなるよなあ。母さんも何で連れてくるのかよく分かんないらしくて、混乱中なんだぞ」
「それでわたしに?え?どういうことなの?」
「多分、アニキのこと分かってるのは俺とソニアって認識なんだろ」
「私だってそんなに分かってる自信ないけどなあ」
そう言いながらも、ソニアはホップに向かって掌を突き出した。ん、と催促されて、ホップはスマホロトムを渡す。
「もしもし?今代わりましたー。あーはい、お久しぶりですー。それで?……はい、」
一段高くなるソニアの声に、女のひとってなんで電話口で声作るんだろ、とホップはしょうもないことを考える。普通に顔見知りなのだから、そんな声まで気張る必要はないと思うのに。女のひとって不思議だ。
「はい、……いや聞いてないですよ。………うーん……どうなんでしょうね。少なくとも私は全然。ないとは思いますけど、うーん。……はい、はい」
なにかホップには告げなかった込み合った事情について確認しているのだろうか。ソニアはちらりとホップを見て、そしてふいっと視線を外した。気まずそうな顔をしている。隠しごとが出来ないのはソニアらしいところではあるものの、もうちょっと取り繕ってもいいと思う。
「どうでしょうね。でも、ダンデ君のことだからホントに何にも考えてないんじゃないですか?」
ソニアは軽く流したようだったが、ホップはそれに疑問を挟みたくなった。ダンデは常に思慮深くなにかを考えているような気もするし、単純に願望だけで動いているような気もする。ホップはジムチャレンジを経て、自分の兄のことが分からなくなった。前は漠然とこういう風に考えているんじゃないかと予想が出来たのに、兄と同じトレーナーという立場になってからは、もう全く分からない。あの明るい笑顔の下で、兄は一体どんな風にこの一年の風景を見詰めていたのだろう。
「はーい。それじゃ、何か分かったら連絡しますね。はい、はい」
ぴ、と軽快な音と共に通話を切る。自分のスマホを使う時のような流れるような手つきだった。そのままホップのスマホを白衣のポケットに突っ込もうとして、あ、と声を上げた。気付いたか。ソニアのうっかりは今に始まったことではないので気にしてないが、ソニアは少ししょんぼりとした顔でホップにスマホを差し出した。そういう表情は少しだけ彼女のワンパチに似ている。特にマグノリア博士に静かに怒られたときの顔だ。
「ごめん、間違えて切っちゃった」
「別に気にしてないぞ。ありがとう、ソニア」
「それは全然大丈夫。おばさん、これでちょっとは落ち着くと良いね」
それはどうだろう。母はずっとダンデのことで気を揉んでいるから、今更な気もする。十年以上、いつだって母は祈るように手を組んでダンデの試合を見つめていた。十歳で手放した息子の活躍を喜ぶよりも心配の方が先に立ってしまうようだった。ダンデが満面の笑顔でトロフィーを持ち帰ってくると、母も一応の安心はするようだった。だがその一方で、母の顔を見たダンデの顔からはみるみるうちに晴れがましさが消えていく。その光景をホップは見ていた。どうして兄がそんな顔をするのかホップには分からなかったが、恐らくダンデが滅多に家に帰って来ない理由はその辺りにあるのだろう。
「ホントのところ、ソニアはアニキが何でキバナさん連れてくるんだと思う?」
そんな兄が、どうして急に友人を連れて家に帰るだなんて言い出したのか。ホップには分かるはずもない。
「うーん。ホントになーんにも考えてなくて、ライバル自慢したいだけに一票」
ソニアは深く考えもせずに言い切った。だよなあ、とホップは笑う。確かに、ダンデと一緒にジムチャレンジを駆け抜けたソニアに担保してもらえると、少しは気持ちが軽いような気がした。
結局、何度確認してもダンデは『ちゃんとした』理由を言わなかった。
長男と客人を待ちながら、その日は朝から家中が浮足立っていた。ダンデが帰る日はいつもそうだったが、今日は特別だ。ホップは朝食を食べ終わってからずっと玄関とリビング、キッチンを何度も往復している。ブラッシータウンの方角にある窓を覗き込んではパッと身を翻して、また向こう側へ歩いていく。その忙しないこと。落ち着きなさいと注意しながら、自分もさっきから窓枠のささいな汚れが気になってしょうがなかった。でももう約束の時間が近い。今更掃除道具を出して拭いて、なんてやっていたらお客様が来てしまう。チョロネコが足元にすり寄って、なーんと甘えた声を出した。ご飯が欲しいときばかり甘えてくる子だ。困った子ね、と呟きながら頭を撫でる。
こういうところは家を出る前のダンデに似ている気がする。小さい頃、あの子は私に話しかけてくるときは必ずおやつやご飯の時間を尋ねたものだ。帰ってくるなり「ただいま」の一言もなしに、ねえ、ごはんまだ。今日のおやつなに。お腹減ったんだけど、なんか食べるものある?と言ってきたものだ。もっと言うべきことがあるでしょう、と何度注意しても直らなかった。そんな子が、十歳でジムチャレンジをしてチャンピオン。冗談みたいな話だ。
「もう。ご飯はさっきあげましたよ」
チョロネコを抱き上げてソファに腰かける。それでもにゃふにゃふと甘えてくるので優しく喉あたりを撫でる。ごろごろと上機嫌に喉を鳴らした。チョロネコの毛並みの色は、どこか息子たちを思い出させた。だからと言ってはなんだが、息子が二人とも旅立っても寂しい気持ちに沈むことも少なかったと思う。今もこうして、そわそわと浮き立つ気分を少し紛らわせることが出来る。こういう風に、生活や人生に寄り添ってくれる子がいて良かったと思える。すん、と毛並みに鼻を突っ込んで匂いを嗅ぐ。いつもの、獣臭いチョロネコの匂いだ。嗅ぐと落ち着くような気がする。
ぴんぽーん。
来た、と思う間もなかった。空腹のキテルグマのようにリビングをうろついていたホップは機敏に方向転換して、風のように玄関まで走っていく。
「キバナさん、いらっしゃい!遅いぞアニキ、待ちくたびれたんだぞ!」
インターホンが鳴って三秒もなかった。勢いよく玄関が開けて、ホップが客人を招く。
「待ちくたびれたって、約束の時間までまだ5分あるぞ」
「よう、ホップ。久しぶりだな」
チャンピオンの時よりも静かに話すようになった長男の声に、反射的にどきりと胸が跳ねる。チャンピオンの時から少しだけ思っていたが、年々、息子の声は亡き夫の声音とダブるようになっていっていた。今のも夫の若い頃そっくりの言いようだった。
これまでも、インタビューのときには物言いを真似ていると思わせる瞬間があった。端的で単純。それでいて無難で、快活で、綺麗な言葉ばかり並べるところだとか。本当のところは違ったことも多かっただろうに。そういう、嘘ではないけれど本心でもない言葉を言う時の物言いは、夫そっくりだった。
チャンピオンとしてのダンデだけではなく、こういう素に近いところまで似てくることに、何か落ち着かない気分にさせられる。体格も声も、どんどん似てくる。近頃はスタジアムに立つ後ろ姿が特に似てきていた。
ダンデが一番に玄関を跨ぎ、次にホップが客人の荷物を持って入ってきた。最後に、少し身を屈めるようにして玄関をくぐったのは、間違えようもない、ナックルジムリーダーのキバナだった。ばっちりと目が合って、キバナはにこりと人好きのする笑顔で笑った。
「お邪魔します」
チョロネコが膝の上から飛び降りて、客人とすれ違うように二階へするりと駆けていった。きっとホップの部屋に行ったのだろう。自分も慌てて立ち上がって、お客様を迎える。
「今日はお招きいただいてありがとうございます。ナックルジムのキバナです」
「ご丁寧にありがとうございます。ダンデの……、母です」
さりげなく差し出された手はとても大きくて、どぎまぎしてしまう。テレビで見たよりも背が高いような気がする。少し屈められた背中に、きっと自分をあまり怖がらせないためだ、と気が付いた。スタジアムの姿ばかり見てきた自分には、驚くほど穏やかに笑う人に見えた。
そう言えば、こうして『ダンデの母』と名乗ったのは何年ぶりだろうか。あの子がこうしてきちんと自分の友達を紹介するのも初めてのような気がする。ハロンやブラッシーの狭いコミュニティは子供も親も皆顔見知りばかりだから、こうしてダンデが自分のまったく知らない友達を連れてくるのは本当に初めてのことだ。
ダンデはぎこちなくキバナさんと握手をしている母親を見ながら笑っている。キバナも涼やかに笑っているし、ホップもいつも通りの屈託のなさでニコニコしている。なんだか、自分ばかりが気を揉んでいるような気がしてしまう。
「バーベキューの用意、もう出来てるんだぞ!」
ホップが明るく言って、庭を指さす。それに当惑したのはキバナだった。
「え、今日バーベキュー?」
「聞いてないのか?アニキが帰ってくるときはいつもバーベキューだぞ」
「言ってなかったか?」
「聞いてない。それなら肉持ってきたのに、お前、言えよ!」
「え、もしかしてわざわざ何か買ってきてくれたのか?」
キバナはダンデの肩を軽くホップは預かった荷物のひとつの紙袋を無遠慮に覗き込む。こら、そういうのはお客様に声をかけてもらってから……、とお説教しようとして、その当のお客様が目の前にいることを思い出す。ここで言うのはあんまりにもみっともない。息子は二人とももうジムチャレンジを終えたのだから、人目のあるところでは大人と同じように扱ってやらなければいけない。お客様の前で叱り飛ばすなんて、きっと聞く耳を持つどころか反発されるか流されるかだろう。けれど、胸のもやもやはどうすることも出来ない。後でこっそり注意しても聞く耳を持ってくれるかどうか。20年以上子供を育てている筈なのに、こういう場面では今でも悩む。
男たちはそういうホップの不躾な振る舞いを気にした様子もなくけろりと話を続けていた。そういうところは小憎らしい。自分が小うるさい中年女だと厭と言うほど思い知らされる。
「そう。ナックルで評判のシュークリームなんだけど、完全にチョイスミスったな。悪い」
「別にバーベキューの後でも余裕で食えるだろ」
「……食えるかなあ、オレさま」
「食える食える。まあすぐには無理でも時間置けばいいだろ」
ダンデはホップから紙袋を取り上げると、紙袋ごと無造作に冷蔵庫に入れた。お礼も言っていない。それに酷く当惑する。慌ててキバナの顔色を伺うが、別に気にした様子もないのが救いだった。けれど、それはそれで男同士の距離感が分からなくなる。若い男の子たちの間では、こういう雑さがが普通なのだろうか。それはそれで、どうなのだろう。親しきなかにも礼儀ありという言葉と共に、息子たちを座らせて説教してやりたい。
「で、キバナさん今日はハロンまで何しに来たんだ?」
「俺がキバナを自慢しようと思って」
え、と話の輪から外れたところから当惑の声を上げてしまう。電話越しには真意を測りかねたが、こうして顔を突き合わせるとダンデがそれを本気で言っているのが分かった。
「まだおふくろやホップには直接聞かせてなかっただろ。だから、十年分たっぷり聞いてもらおうと思ってな!」
ホップは兄の言いように少し唖然として、そしていつものように笑った。ダンデの横に立っているキバナは複雑そうな顔で行儀よく沈黙している。その顔はあまりテレビの中のナックルジムリーダーが見せることのないアルカイックスマイル。何か別に本題があるとかではなく、本当に友達を自慢するためだけに帰ってきたのだ。
「……それマジだったのか。何かの冗談かと思ってたぞ」
「マジに決まってるだろ。他に何があるんだ?」
ダンデはホップの沈黙の間に気にした風でもない。ホップの方が、今度は妙に大人びた顔でダンデとキバナをちらりと見上げた。
「俺もソニアも知らない事情が何かあるのかと思ってたんだけど……。アニキがそう言うなら良いや。じゃあ、キバナさん。今日はゆっくりしていってくれよな!」
ホップは明るく言いながら、勝手口を開け放った。ひ、と思わず喉が引きつる。そこはお客様にお通り頂くような場所ではないとすぐに叫び出したかったが、招いてしまった後で言っても仕方がない。そもそも、顔見知りばかりの小さな田舎町で、気心知れた人しか家にお招きしてこなかったのが悪い。ご近所さんがひょいと勝手口から顔を出して、野菜のおすそわけをしたりするのが日常の町なのだ。ちゃんとしたお客様は初訪問でいきなりバーベキューに招いたりしないし、ティーパーティーなんて小洒落たものもしたことがない。あまりにも『普段と違うこと』が多すぎるのだ。だから多少の無作法は仕方ない。仕方ないけれど。けれども、もうちょっと息子たちには考えてほしいと切に思う。
キバナは流石に当惑したのか、一歩を踏み出すのに少し時間があった。それを見て、頭を抱えたくなる。呆れられた。田舎の不作法者どもと罵られても仕方がない。ダンデは客人を置いて颯爽と勝手口から庭に出ていった。外から、おふくろ、と声がかかる。そうなるともう、どうにでもして、という投げやりな気分になっていった。