次の日の朝はとても気まずかった。キッチンで朝食の準備をしているダンデの母の後ろ姿を見た瞬間、キバナは逃げ出したくなった。ポケモンバトルならどんな相手も大歓迎なのだが、けれども昨日の今日でそういうことになった今、一体どんな顔をすれば良いのだろう。
「おはよう」
「……おは、ようございます」
横にいるダンデは涼しい顔だ。それを恨めしく思いながらも、キバナは絞り出すように挨拶に続いた。婦人が振り返り、朗らかに笑った。
「おはよう。あら、昨日はあんまり寝れてなかった?ちょっと寒かったかしら」
隣で欠伸を噛み殺しているダンデを見て、婦人は顔を少しだけ曇らせた。横のキバナは欠伸どころではない。どう婦人に接するのが正解か分からず、ダンデの後ろで控えめにしているしかない。なるべく良い印象を持って欲しいが、今更な気もする。それに、急に寝泊まりすることになったのでシャツも皺だらけ。こんな恰好で取り繕おうとしても度台無理な話ではある。それでも、何とかしたいものなのだ。
ダンデの方はまったく慌てることなく、寝癖だらけの頭を掻いてのんびりと答える。
「ちょっとキバナと日付が変わってからも色々話してたんだ。今朝は豪勢だな」
「お客様にパンとミルクだけじゃ恥ずかしいでしょ。好きな席について」
手際よくダンデの母は朝食を整えていく。野菜とハムとチーズたっぷりのホットサンド。温かい湯気の立つシンプルなコンソメスープ。ダンデの家のダイニングテーブルは剥き出しだった。無地のランチョンマットの上に丁寧に並べられていく皿をぼんやりと見ながら、キバナは半ばやけっぱちで、こうなったら食事中はずっと木目でも数えていようかと考えたりする。
「ホップは?」
「もうソニアちゃんのとこ行ったわよ」
「そうなのか。ホップとも話したかったんだけど」
「また帰って来なさいよ。それか、帰りしなポケモン研究所に寄って行ったら?」
ああ、とかうん、とか適当な生返事を返してダンデはちらりとキバナを見た。視線の意味を図りかねて、キバナは少し不安になる。母親の前で取り繕うように笑うことはなくなったようだが、それでも今朝のダンデは何かおかしいような気がする。何というか、いつも以上に分からない。何を考えているのか不安になる。こういう時のダンデは、やらかすのだ。
婦人は忙しなくキッチンに舞い戻り、フライパンに卵を二つ落とした。
「おふくろ、いま忙しいか?」
「御覧の通り、卵焼いてるの。どうかした?」
「俺、キバナと付き合うことになった」
しん、とダイニングが静まり返り、じゅう、と卵が焼ける音だけがした。キバナは一瞬息を詰めた。婦人は勢いよくダンデを振り返って、凝視したまま無言で固まっている。
「…………………は?」
たっぷりと沈黙したのち、ダンデの母はそれだけ言った。ダンデは何時の間にか、しゃあしゃあとホットサンドに齧り付いている。素早く咀嚼して、飲み下す。それをキバナは唖然と見守っていた。
「結婚を前提に付き合うことになったから、言っておこうと思って」
ダンデの母は、畳みかけられた情報に混乱しているようで中々動かなかった。「おふくろ、こげるぜ」とダンデが声を掛けたのでようやくハッと硬直が解け、フライパンを一度火から離して、空いている席の一つに座った。丁度ダンデの正面に来るように位置取り、ダンデを凝視したまま目を離さない。瞬きが異様に少ない気がする。視界の端にしかいないはずのキバナも何やら不思議なプレッシャーを感じた。
キバナはダンデの突拍子もなさに頭を抱えたくなった。そういう話は、確かにした。したが、その報告は今だろうか。せめて、食後のコーヒーを頂きながらだとか、タイミングはもっと他にもあったはずだ。
「待って。……待って?そういう話だったの?だからキバナさん連れてくるって、そういうことなの?」
「いや、きのうの夜に付き合うことになって」
ホットサンドを食べるのを止めないダンデは、咀嚼の合間に短く答える。
「昨日!?きのう、キバナさんとそういう話して、あなた、今日の朝それ私に言うの!?」
「言うだろ。またキバナと休み合わせて帰る日なんか待ってたら何時になるか分かんないし、電話口で話すことでもないし。だったら今しかないだろ」
「だとしても。だとしてもよ……。ああもう、信じられない……」
ダンデの母は溜息まじりに頭を抱えながら机にもたれかかる。婦人は急に老け込んだように見えた。溌溂と立ち働いているときは年相応に見えたのだが、こうして疲れた顔をすると本来の年齢よりもずっと上に見える。
「あの、おかあさん。オレ、」
何かを言わなくては、とキバナは口を開いたが、婦人の方がそれを手で制した。そしてゆっくりと顔を上げると申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい、キバナさん。気を悪くしたわよね。あのね、本当に悪気はないとは思うんだけど、こういう子なの。恋人や夫にしてしまうと、この子はあなたにとっても苦労をかけると思うの。ごめんなさい。ごめんなさいね」
急に謝罪されて、キバナの方が慌てる。これは、交際を許容してもらっているということなのだろうか。それとも遠回しに反対されているのだろうか。婦人の言いようからはどちらとも分からない。
「えーっと、あの……。急な話なんですけど、息子さんとこういうことになってしまって、その、」
「良いの。分かってるわ。何も言わないで。この子ってホントそういうところばっかり死んだお父さんに似てるの。ホント、やんなっちゃう」
その言いようにダンデは眉を上げて、含み笑いをした。そしてキバナの方に意味深長な視線を寄越して笑ってみせる。それに母が軽く眉を寄せる。そういう表情の動き方が、少しダンデに似ている気がするな、とキバナは思考を飛ばして見せる。
「……なに、その顔」
ダンデは椅子の背もたれに体を預けてにやにやと笑った。その顔で、キバナはまあ良いかという気になる。根が単純なので、そういう顔が出来るようになっただけ良いか、と思ってしまう。
「……いや。俺、そんなに親父に似てるかな」
「もう、嫌になるくらいそっくり!だから私はキバナさんを心配してるの。キバナさん、本当に、この子のことが嫌になったら別れてね。それで、私にお話聞かせてちょうだい。話してくれたこと、きっと全部共感できるわ」
婦人は言いながら、キバナに同情的な目をして見せる。息子の交際報告を受けた親が、交際相手にするような顔ではない。なるほど、経験者なのか、とキバナは納得する。たぶん、ダンデの父も大方はこの調子だったのだろう。婦人の気苦労が偲ばれるところだ。
「それ俺の前で言うか?」
「あなたの前だから言うのよ!いい?その性格今すぐ改めないと、キバナさんにすぐ愛想尽かされるわよ!」
「……すごい言いようだな。いやまあ、善処するよ」
ダンデは肩を竦めて苦く笑ってみせる。スープの入ったマグに口を付けている様子はとても優雅だが、何時食べたのか分からないほどダンデの前の皿は綺麗になっていた。マグを置くと、ダンデは立ち上がった。
「ごちそうさま。次、キバナと泊まるときはそんなにはりきらなくて良いぜ。家族になるって報告になるだろうから」
すっかり自分の朝食を終え、ダンデは颯爽とダイニングを出て行った。置いていかれたキバナは、おろおろとダンデの母を見やる。そういう話も、した。したにはしたが、やっぱり今だろうか。
ダンデの母が爆発した。
「そういうところなのよ!」
婦人の渾身の絶叫の後、ダンデの笑い声が階段から聞こえてキバナは肩を竦めた。そういうところだ。ダンデの困ったところも、惚れてしまったところも。
ダンデの母は朝食の席から何かが吹っ切れたようで、ダンデにがみがみと噛みつくようになっていた。どうやらキバナの前だからと遠慮していたらしいのだが、久しぶりに会った息子に物申したいことが色々とあったらしい。ダンデはそれをゆったりと笑っていなして、聞いているのか聞いていないのか分からない態度でのらりくらりと躱していた。見ているこちらが冷や冷やするほどの火に油を注ぐような態度を取った。
何だかんだと時間が経っていき、昼前にダンデの家を出た。帰り道、ぬかるみを避けながらハロンタウンからブラッシータウンまでの道をえっちらおっちらと歩いていく。それでもいくらか泥が撥ねて付いてしまった。これは駅に着いたら一度軽く拭いておこう、と心に決める。対するダンデはぬかるみも殆ど気にせずに軽やかに歩いている。足元は見覚えがあるスニーカーだ。プライベート中はいつでも似たようなスニーカーで過ごしているな、と思う。
先を行くリザードンを追いかけながら、ダンデはやや後方のキバナを見る。丘の下には、ブラッシータウンが見え始めていた。
「キバナ、それでどうする?ついでだから、ポケモン研究所にも寄って行くか?」
「もう好きにしろよ。おかあさんに言ったらもう誰に言っても同じだろ」
キバナが投げやりに返すと、ダンデは明るい笑い声を上げた。
「君、迂闊すぎやしないか。俺にそういう事言うもんじゃないぜ」
「なに、なんでだよ」
「誰に言っても同じなら、もう公表するかって話になるだろ」
思わずキバナの足が止まる。何を言われたのか考えようとする。どうしてこうも直情的で単略的なのだ。キバナは思わず叫んでいた。
「ならない!なんでそうなるんだよ!」
「突き詰めればそうなると俺は考えるぜ。だから迂闊なんだ。君は俺を知ってるようで全然分かってない。気を付けないと痛い目見ることになるぜ」
「それ、自分で言うのかよ」
「初回限定サービスってやつだ。次はないってことだから覚えておいてくれ」
「え、こわ……。オレさま何されんの?」
二人でじゃれあいながら、だらだらと坂を下る。リザードンが振り向いて、呆れたように、ばぎゅあ、と鳴いた。そしてばさりと大きな羽ばたきをして飛んでいく。ダンデは、リザードン、と声を掛けたが無駄だった。リザードンは大きく羽ばたきながらゆっくりとブラッシータウンへ飛んでいった。もう目的地は見えてるから大丈夫だろ、キバナもいるし、ということだろうか。
「愛想尽かされたな」
「気を遣ってくれたんだと思うぜ」
ダンデの前向きな言いように笑ってしまう。振り返ったリザードンの顔を見なかったわけではないだろうに、その解釈は斬新過ぎる。
「キバナ!」
不意に手を取られ、強く引かれる。ダンデはそのまま坂を全力で駆け下り始めた。
「う、わっ!」
やや前傾にさせられて、キバナは危うく転びそうになりながらも何とか体勢を整える。ダンデは笑い声を上げながら、キバナと手を繋いだまま走った。ぬかるみを飛び越え損ねて、泥が思いっきり撥ねる。靴が、と思う間もなく次の一歩を強要される。ダンデは気にした様子もなくどんどんスピードを上げていく。もう気にしても仕方ないか、と思い始めた。
「俺、親父に似てるんだそうだ!」
その声はどこまでも明るい。昨日の夜が嘘のように、わだかまりもなく父親のことを口にした。自分が似ているのだと、屈託なく受け入れることが出来たのだ。
「……ッらしいな!でも、そんなんオレさまが知るか!」
本心から言えば、ダンデは「それもそうだ!」と言って笑い声を上げた。そうして二人で笑いながらリザードンが待っているだろう駅まで走っていった。
END.