執務室の片隅には古い放送装置が鎮座している。昔はこれがメインに使われていたのだが、新しく買い替える際に捨てるのも金が掛かると言うので此処に置かれたのだ。それからは週に一度、昼食の時間を知らせるためだけに使われている。ヒトミが慣れた手つきで放送卓の右端にある赤いスイッチを付けて、次に放送開始を知らせるためのボタンを押す。
がらん、ごろん、がらん。
重たく転がるこの音は、大昔にあったというナックル城の鐘の音だそうだ。この鐘の音を聞いていた人間は数えるほどしかいない。あのポプラだって、聞いた覚えがあるかどうか。最近はスタジアムの放送でも使われているから、コアなリーグファンはこの音を楽しみにナックルスタジアムに足を運ぶと聞く。中々ディープな世界だ。
「昼食の時間です。スタッフ一同、大食堂に集合してください」
ヒトミの生真面目なアナウンスの横から手を伸ばして、細いマイクの首をこちらに向けさせる。
「今日はローストビーフが目玉だぜ。あと、今日は客がいるからお行儀良く頼むわ」
キバナがもう一度鐘の音を響かせて、スイッチを消す。放送で言及された客であるダンデは、放送中も特に気兼ねなく執務室のソファで優雅に出された紅茶を啜っていた。何やら業務連絡があるとか何とか言ってアポもなしに押し掛けてきたのだが、用件は終ぞ言わない。これはバトルがしたくなったから付き合えと言う事だろう。オーナー業もあるだろうに自由な男だ。長い付き合いで慣れているとは言え、相変わらずこちらの事情は全く勘定に入れずに動く輩だ。別にそれを不快に思ったことはないが、他所でもこうなのかと問い詰めてやりたくなる。
「じゃあちょっと面倒かも知れねえけど、飯食いに行こうぜ」
ファストフードでも食べに行くかのように気軽に誘って見せると、ダンデはちらっとはにかんだような笑顔をした。そういう顔で笑うと、随分と幼いと思ってしまう。本人は気にしているようなので面と向かっては言わないが。
「折角だからお言葉に甘えよう。君のところは何時も盛大な食事会だから、少しばかり気後れするが」
「お前の来るタイミングが悪い。ピザの日に来てくれよ。月末の金曜日だから。気軽なもんだぜ」
「でも、お祈りはするんだろう?」
「するぜ。デリバリーのほかほかのピザの前で、大人が雁首揃えて真面目な顔して天の父よってな。カッコ付かなくてある意味見物だから来いよ」
「それは一度見てみたい」
軽口を叩きながら、二人並んで執務室を出た。
「おい、いきなり何処行くんだよ」
颯爽と逆方向へ歩き始めたダンデの襟元を捕まえて引っ張る。ぐ、と何処かが締まった声が漏れたが無視した。
今日は週に一度のナックルジム関係者一同揃っての昼食会である。
ナックルジムには、今も城だった頃の名残がある。例えば厨房、礼拝堂、客間、そして大食堂。大食堂は今でも現役で使われており、週に一度、スタッフ全員で食事をするのが伝統だ。この伝統の起源を遡れば、ナックル城が出来た頃の王侯貴族の話になる。当時の食事は、使用人も含めて城内の全員で行うのが普通であった。歴代城主は仕えてくれている全ての者と食事を共にすることで絆を深め、無類の信頼を示してきた。城主が城を去り、時代が下ってナックルジムとなった今もその伝統は生きている。城主はジムリーダーになり頻度こそ週に一度になってしまったものの、今代のキバナもそれを守り通している。
席次は決まっている。キバナが上座であり、後は重要なポスト順である。しかし、今日は上座のキバナの隣にはダンデが座すことになる。いつもならジムトレーナーの三人がキバナの傍に侍るところであるが、今日は来賓がいるということで席を下座に移していた。
七面倒なことに、入室にも順番がある。ナックルジムリーダーのキバナと客人のダンデは一番最後に入ってくるのが慣例だ。スタッフが全員入室、着席するまでキバナとダンデは横の個室で控え、声が掛かるのを待つのだ。
「本当に、君がここでジムリーダーをやれているのが不思議だ」
ぽつんと言われた言葉に、キバナは苦笑するしかない。
「オレさまも時々そう思う。お前さ、ここのジムリーダーやれる?」
「無理だ。こんなに一々色んな事に制限をかけられていたら気が滅入る。どうして君がこんなに伝統を守っていられるのか、正直言って理解できないな」
間髪入れずに返された答えに、キバナは笑った。ダンデは気が短い。即断即決即実行の男だ。悩む時間を惜しみ、思考する時間をも限りなく減らそうとする。だから凡人よりも速く進めるのだ。
「ま、やってみると意外に悪くはないぜ」
正気か、と言葉にされたわけではないが、如実に顔に出ている。それを大笑いしてやって、キバナはとん、とダンデの眉間に触れてやった。そうして初めて自分の表情を自覚したのだろう。ダンデは難しい顔をして黙り込んだ。
「オレさまが大事にしてるのは、ナックルジムの伝統じゃなくてナックルジムだからな。必要ないこととか時代に合わないものは廃止していってるし、楽しいことだけ残していってるよ」
ダンデはまだ顔を顰めたままだ。
「この時間も楽しいのか?」
狭い部屋に押し込められてただ待つこの時間が。
それにキバナは笑ってやる。食事に頓着しない男は、皿の上に乗っているものにさえ興味がない。食べられればそれで良いと言わんばかりに口に放り込んで咀嚼して終わりだ。だが、キバナはそうではない。皿の上に乗った料理を楽しむのはもちろんのこと、テーブルに添えられた気遣いやその日の天気や楽しい会話で食事を味わいたいのだ。食事をただ食べることと規定するのは勿体ない。皿の外まで味わい尽くしてこそ食事は本当に美味いものに、そして贅沢になれるのだ。そういうものは共有できる人間が多ければ多いほどに楽しく、食事の時間を鮮やかに彩る。それがキバナは好きなのだ。
「ナックルジムの全員にちゃーんとオレさまの顔を見せてやれる機会だからな。精々勿体付けて焦らして期待させて、それからきちっと応えてやりたいだろ?」
にやりと笑ってみせると、ダンデは一瞬虚を突かれたような顔をした。そして顔を顰める。
「……随分と自意識が高いな、君は」
食堂側の扉がノックされ、リョウタが声をかける。
「キバナ様、ダンデさん、大変お待たせをいたしました。準備が出来ましたのでお越しください」
キバナは立ち上がって、ダンデを見下ろす。挑発的に笑った。十年かけて作り上げた自慢のホームである。他でもないダンデに見せることが出来るならば、見せてやりたい。
「それじゃ、見せてやるよ。今、この瞬間だけはお前であっても添え物にしかならねえって証明してやる」
個室を出ると、一気にキバナに視線が集まる。ざわめいていた空間が一瞬無音になる。週に一度、このナックルジムの主が誰かをきちんと認識させる儀式だ。キバナはゆっくりと自分の席まで歩く。靴音高く響かせながら、観客がキバナの一挙一動を脳に刻み付ける時間をたっぷりと持たせてやる。着座までの一分半。押し殺したささめきと、注がれる視線。ホームスタジアムでのバトルはいつでもキバナに熱狂するが、週に一度のこの時はまた違った趣がある。それを感じるたびに背筋がむずがゆく、口の端が上がっていく。ダンデにも着席を促して、自分も席に着く。
今日のテーブルクロスは白。蔦模様の刺繍が美しい。来客用にこちらのテーブルだけ急遽変えたのだろう。スタッフのテーブルはいつものように多彩な色の花に溢れている。料理も驚くほど上品に盛り付けられている。トマトスープのバジルの散らされ方には気合いが感じられる。普段は皆と同じく、花や鳥が描かれている大皿から欲しいものだけ自分の皿に取り分けていくのに。ここのスタッフは余程ダンデと言う客を重んじているらしい。他所のジムリーダーが来たくらいではこんな事にはならない。その事実をダンデは知らないし、キバナも言う事はない。ダンデにとってそれは当たり前の待遇なのだ。そこに何かを感じる余地はない。
「全員揃ったな。それじゃあ、頂くか」
キバナのよく通る声で、食堂内が一気に静まる。キバナが手を組み、目を伏せた。一同はそれに倣って、頭を垂れる。ダンデは形だけ手を合わせるだけだろう。客人なので、別に問題はないが。
「父よ。あなたの慈しみに感謝して、この食事をいただきます――――」
最早特別に思い出さずともするすると祈りの言葉が出る。
ダンデが横にいるからか、どうしても昔のことが頭を過った。ナックルジムリーダーになったばかりの頃、ダンデとプライベートで会う時は大変だった。特にキャンプをすると、明らかにキバナの生活が変わっているのが分かる。食事のマナーだとか、道具の手入れの仕方だとか、そういう細かいことまでダンデはよく見ていて一々指摘した。最も堪えたのは、キバナが祈る度にどうかしたのかと声を掛けられることだった。それまで祈りの習慣がなかった人間が、急に事あるごとに祈り始めたのだ。ダンデの反応は当然だろう。食前、食後、就寝、起床。その度にダンデは面食らった顔をして、キバナを見ていた。ナックルジムリーダーじゃなくて修道士にでもなったのかと問われたほどだ。それが義務で、ナックルジムリーダーとして課されたものだと何度も何度も繰り返して、ようやくダンデは何も言わなくなった。納得はしなかったが、そうやってナックルジムリーダーになると決めたキバナを挫くような真似はしなくなった。
ふと、また口角が上がる。今、この瞬間もダンデはきっとあの時のまま理解していないだろう。あの時の少年のまま、釈然としない顔でキバナを見ているのだ。
「amen」
祈りが結ばれると、全員が結びの言葉を復唱する。そして静寂は賑わいに変わり、皆思い思いに自分の皿に料理を引き寄せ始めた。それを見渡しながら、キバナは満足げに目を細める。自分のポケモン達をキャンプで遊ばせているときのような、穏やかな時間だ。
「……これだけ人がいるのに全く注目されなかったのは久しぶりだな。アウェイとはいえ、ちょっと悔しいぜ」
「な、オレさま愛されてるだろ?」
ダンデは肩を竦めて口を噤む。キバナもダンデも承認欲求が強い自覚がある。お互いに観客を煽り合って過剰なパフォーマンスをすることもある。そういう人間であればこそ、ダンデには堪える体験だっただろう。
「お前の所でもこういう食事会やったらどうだ?どうせ昼食は片手で済むようなモンばっかりなんだろ。こうやって人集めれば嫌でもその習慣改善されるぜ」
「でも月末はピザなんだろう?」
「月に一回くらいは許せよ」
キバナはワイン瓶の底を持ち、軽く掲げて見せる。ダンデがグラスを差し出してきたので、惜しげもなく注いでやる。ついでに自分のグラスにも。この昼食会では飲み物は赤ワインと葡萄ジュースしか出されない。それもやはり伝統だった。
「こっちは人が多すぎるな。関係者の線引きも難しい。可能なものかな」
「じゃ、まずは秘書室に詰めてる奴らを誘うくらいの規模から始めりゃいい。そこから少しずつ増やしていけよ」
言いながら、キバナは自分の横に座す男がスタッフと食事を楽しむ姿が想像できないでいた。そこでダンデが真に食事の楽しみを知ることはないだろう。それなら本当に、ピザの日にダンデが来れば良い。あれは無礼講の場だから、今どれだけ彼が気を使われているか思い知ることができるだろう。
ダンデはローストビーフを嚥下すると、味を褒めた。そういう気遣いは出来るのだから、もう一歩のはずなのだ。
「やるなら、君も招こう。ただし、俺が主催するんだからお祈りの時間はなしだぜ」
「そりゃ最高の昼食会だな。是非とも呼んでくれ」
どちらともなくグラスを掲げて乾杯をする。気付いたスタッフがそれに倣い、波紋のように広がっていく。皆笑顔だ。ダンデも笑顔でそれに応えて、昼食会が始まった。