ごそり、と隣で寝ていた男が動き出す気配がする。隣にあった熱がするりと離れて行く感覚で、ダンデはゆるゆると覚醒した。欠伸をかみ殺した息と共に、適当に脱ぎ捨てられていた衣服を探る衣擦れの音がする。着替えているらしい。そして、もう一度大きな欠伸。ダンデはうっすらと目を開けて、その姿を盗み見る。寝室の壁に飾られた、小さな十字架。それに向かってキバナは跪いている。ぼさぼさの髪。余程面倒だったのか、上半身は裸のままだ。目を伏せて、ぴんと背筋を伸ばして、姿勢だけなら誰から見ても敬虔な信徒に見えるように。じゃら、と音を立てて珠が揺れ、ロザリオが握りこまれる。
「―――天にまします我らのちちよ、」
欠伸を噛み殺しながら唱えられる祈り。どんなになっても一度も怠ったことがないのだから律儀なものだ。それが気に食わなくて、一度無茶苦茶に抱いてやったことがある。明日の朝は祈れないようにしてやろうと、指一本も動かせぬように。祈りの言葉なんて唱えられないように散々喘がせて泣かせて叫ばせて丹念に丹念に愛して壊したのに。それでもキバナは翌朝無理矢理ベッドから転がり落ちて、全裸で這いつくばりながら祈った。潰れたガラガラの声を振り絞って、ベッドに戻そうとするダンデを鋭く睨み付けて、それでも祈ったのだ。一体何が君をそこまでさせるんだと思ったが、あれはダンデへの当てつけだ。そういう男なのだ。プライドが高く、一度決めたことを曲げず、誰かの力で以て膝を折るなどありえない。
キバナは信心とは無縁の男だ。それでも信者になったのは、偏にナックルジムリーダーになるためだった。その時に課された多くの習慣をキバナは律儀に守り続けている。例えば起床時。食事の前。就寝の祈りを果たされたところをダンデは最近見たことはないが、ダンデが抱き潰さなければきっと律儀に祈っているのだろう。若しくはダンデが家に来る前に済ませているか。後者のような気がするが、面白くないので考えないことにする。
キバナは課された義務は忠実に果たす人間だ。例えば、それが形式的で無意味なことであっても。ダンデから見れば、キバナの祈りは無意味で無価値だ。何故なら彼自身が神の存在を信じていないから。死後は天の国に招かれるという、きっと信仰の中で最も大事な部分を実感として得ていない。祈るキバナを眺めながら、不信心者に祈られたところで神の方も困っているだろうと確信めいたことを思う。ダンデもキバナと同じく神とかいう正体不明の生物を信じるわけではないが、自分の存在を信じぬ者に何かを分け与えるほど優しい存在とは思えなかった。
それはダンデがそうだったからだ。無敵のチャンピオンと望まれ、ダンデも望まれるままに与えたが、望まぬ者にも与えてやれるほど懐深くはなれなかった。
ダンデがガラルの民に与えたのは夢と安寧だ。強さを以て自己を証明し、この腕の内にいる間は何があろうと大丈夫だと言ってやる。守ってやろうと誓ってやる。それがダンデの与えるものの全てであり、救いだった。そして事実、誓いも言葉も違えたことはなかった。何かがあれば飛んでいき、奇跡を起こして見せる。どんな困難も覆して、勝利する。人々が夢想する強く優しいチャンピオンを見せてやる。ダンデという存在で、強さを、自己を、正しさを、善良さを示してやる。人間はこのようにあれる。そう望むならその形をいくらでも見せてやる。望めば容易く手に入るそれは、人々を熱狂させた。そういうダンデを見れば、皆安堵して平らかに日々を過ごせるのだ。ダンデのもたらす福音とは、そういうものだった。ダンデのもたらしたものはダンデ自身に万能感を与え、日に日に肥大化していった。そうあれという望みが大きくなればなるほど、ダンデは大きくなる。万能になる。すべてに打ち勝つ光となる。それをその時のダンデは苦とは思わなかったし、むしろ万能感と高揚感を心地よいとさえ思っていた。何者にも勝ると言うのは、甘い甘い幻想だった。人が夢を見るように、ダンデも夢を見ていたのだ。
ある人は神と呼び、ある人は希望と呼び、ある人は奇跡と呼ぶ。それがダンデの十年だった。
――――ムゲンダイナを前にするまで。
病院で目覚めて窓の外にこの上なく晴れた空が広がっているのを見て、十年自分を満たしてきた万能感が失われた。それで、今しかないと思ったのだ。ダンデの十年にピリオドを打つのは、きっとこの瞬間だと。
そしてダンデは何者も救わなくなった。与えなくなった。望まれてはいるかも知れないが、それに応えることはなくなった。肥大化しすぎた自分をどこかで持て余していたのも事実だった。丁度良い辞め時だったのだ。新しい時代のチャンピオンの到来は、チャンピオン・ダンデを廃業するのにうってつけの機会だった。誰もが納得できるその機会に乗じて、ダンデはただの人になった。負けた悔しさはあれど、チャンピオンの座を惜しむことはなかった。あんなに陶酔していた万能感も、もう二度と味わいたくはなかった。ただの人になってから、初めてその重責が自分には苦しかったのだと知った。
どうしてその重みを放り出すまで忘れていたかと言えば、楽しかったからだ。この十年、ダンデはただ楽しかった。苦しさを忘れるほどに。義務を厭わないほどに。施しを当然だと思うほどに。ただただ、バトルがあって、望まれて、人がダンデに望むままに、ダンデが自分自身に望むままに在れた。とても単純で綺麗で清潔な世界の一端として君臨できた。そしてそれは何処かで絶対的に間違っていた。
救う者でなくなったダンデは、自分と言う存在がこんなにもシンプルな形に収まってしまうのが惜しくなった。清潔すぎる世界だけでは物足りなくなってきた。もっと刺激的で訳が分からなくて無秩序で理不尽で面白くなければ満足できない。簡単な形は見飽きてしまった。だから、もっと複雑にしてやろうと自分を捏ねる。ダンデは日に日に傲慢で欲深くなっていく。それでも、以前よりは真っ当に人間らしい形だと思う。それがダンデにとっての人間らしさだ。
ダンデが人になったその代わりに、ダンデはたった一人に望まれたくなった。それがキバナだった。
ただ、万能であった時でさえチャンピオン・ダンデを夢見ない者には一欠けらであっても何かを与えてやることは出来なかった。信じぬ者は救われぬ。悲しいことに、キバナも与えさせてはくれなかった。そして救わせてもくれなかった。彼にダンデが与えてやれる安寧はなかったし、それどころか如何なるものも施すことは不可能だった。十年も追いかけておきながら、彼は本当にただ追いかけることしかダンデにしてくれなかった。ダンデがどんな形をしているかなんて頓着していないのだ。ただ自分の前を行くものに噛み付こうと全速力で走っているだけ。彼は無神論者で酷い不信心者なので。
そうだったはずなのに、ある日突然キバナは祈るということを覚えた。ダンデではなく、神とやらに。存在未証明の存在に。ダンデは確固たる存在証明を十年も繰り返していたというのに、二千年の時を以てしても未だに発見されない存在に祈っている。ナックルジムリーダーとしての責務だと言いながら。そういうところが好ましく、いじらしく、愚かだと思うと同時に、そしてどうしようもなく疎ましい。ぼんやりと横顔をベッドの上から眺めながら、ダンデは考える。無粋な朝寝だ。第一声が恋人への挨拶でも睦言めいた言葉でもなく、神への祈りだとは。蔑ろにされているとは言わないが、それでもダンデは不満だった。この十年、凡そのことは自分の意のままにしてきたし、全てにおいて優先されてきた。それなのに、キバナはダンデに祈ることもしなければ望みもしなかった。一度で良いから、彼に望まれているという言葉が欲しい。彼からは多くの感情を貰っているが、欲深なダンデはそれだけでは嫌なのだ。彼のすべてになりたい。友人にもライバルにも恋人にも、信仰対象にだってなりたかった。そうしてキバナの全部になったら、もっと深いところに招いて、出来る限りの力で抱き込んで、ダンデが出来うるすべてを与えたかった。ダンデの与えるものだけで彼を満たしたかった。彼の心を占めているダンデ以外の不純物はきれいに流して、一度原型がなくなるまでどろどろに溶かして、ダンデのためのキバナとしてもう一度成形したかった。自分だけを望んでくれる形に。ダンデだけが救いになれるキバナにしてやりたい。
祈りの言葉が結ばれて、キバナの目がぱかりと開けられる。鮮やかなブルー。暖かで豊かな海の色だ。光の当たり方によっては、グリーンとも言えそうな。ロザリオを首にかけて、起きているダンデに微笑んだ。素肌に揺れる十字架が朝日を弾いて眩しい。
「悪い、起こしたか?」
「いや。大丈夫だ」
腕を伸ばして、彼の唇に二回軽く触れた。キスがしてほしい時のお決まりの仕草。キバナはちょっと笑って、ダンデの望みを叶えてくれた。じゃらりとキバナの首に掛ったロザリオがダンデの胸に落ちてくる。さっきまでキバナが握っていたからか、金属の滑らかな触り心地が肌を撫でるばかりで冷たさを感じなかった。
「どうした?今日は甘えたい日か?」
丁寧に寝癖を撫でられながら、ダンデは笑った。祈っている彼を思い出す。あれは好きになれないが、もし彼が自分にああやって祈ってくれたならば。それはとても自分を満たすだろう。
「そうかも知れない」
それは愉しい愉しい夢想だ。そして生涯、彼にだけは打ち明けることのない願望でもある。