キバナさんは、いつも一番乗りで控室に入り、人が来る前に着替えを済ませている。他の人が控室に入ってくるタイミングで、長く、そしてゆっくりとウォーミングアップをして、試合に挑むのがルーティーンになっているらしい。そしてどんな時でも(それこそ運悪く一回戦で自身が敗退したとしても)一番最後にシャワーを浴びて、施錠をしてから帰る。いや施錠はスタッフがやるものじゃないかと思わなくもないけれど、長くそのルーティーンを続けていてもう誰も疑問に思ったりしていないらしい。
あの時は、僕がダンデさんを招待した時だったか。
一回戦で派手にやりあったダンデさんとキバナさんの勝敗は、いつも通りのキバナさんの敗退で幕を閉じた。キバナさんは今手持無沙汰にぼんやりとベンチに座っている。いつも通りの砂まみれのままだ。
次の試合を待っている間、選手たちは何もすることがないから結構暇を持て余す。それこそ、適当に世間話をしたり、ポケモンの確認をしたり、モニターで試合を見たり、控室の隅にあるトレーニング器具を使ったり、思い思いに過ごすのが常だった。ただ、今は控室には僕とキバナさんだけしかいない。今日のメンバーは皆真面目で、別室でウォーミングアップに勤しんでいるらしい。僕も本当はウォーミングアップとかしなくちゃいけないんだけど、メンツを見て、まあ今日は良いかな、なんて思ってしまったのだ。一回戦は何度か当たったことのある毒タイプの人だ。名前は忘れた。あの人と当たるならその試合で肩慣らしして、二回戦目以後の体力を残しておきたい。先発はトリトドンで良いかな。上手いこと立ち回ればレベルが上がるかもしれない。いざとなったらキリキザンで押して……。余程のことがなければ最後はダンデさんだし、そのくらいにしておかないと集中力と僕の体力が持たない。
負けた選手は早々に荷物をまとめたり、インタビューの準備をしたりするものだ。でもキバナさんはその時、ただぼんやりとベンチに座ってモニターを見上げていた。見ている、とは思えない。ただ、なんとなく眺めているようだった。控室には僕とキバナさんだけ。モニターはカブさんが水タイプ使いの女性に悪戦苦闘しているところを映していた。うーん。相性が悪すぎる。試合展開はワンサイドゲームになりつつあった。
これ、見てて面白いかな。ちらっとキバナさんを見ると、何の表情もなくただモニターを見ている。気まずい。
「あの、先にシャワー使ってください」
勇気を出して、声を掛けた。僕は同期以外とコミュニケーションを取るのが苦手だ。ネズさんはちょっと色々アレな人だし、まあ色々あったので慣れたけれど、他のジムリーダーの人達はまだまだ気後れする。皆すごい人だ。ちょっと前までテレビの中でしか見たことがなかったスーパースター揃い。気後れするなって言われても無理な話だった。ちょっと上ずった声がバレたのか、キバナさんはパッとモニターから視線を外してニコニコ笑った。
「オレさまが先に使うとシャワー室砂まみれになるぜ? 掃除すんのも大変だし、皆が使い終わるの待ってるわ。まあ、気遣いはありがとうな」
「そんな、誰も気にしないと思いますよ?」
「んー。とは言ってもな。オレさま、パーソナルスペースは散らかってようがどうしようが全然気にならねえんだけど、パブリックスペースが散らかってたり汚れてたりするのはなんか嫌なんだよな。気になって落ち着かねえの。だから、皆が気にするからって言うよりオレさまが嫌だから待ってるんだ」
部屋の隅の埃は気になるけどロッカーとか扉付いてるから結構ぐちゃぐちゃだぜ、と言って笑う。なんていうのか、案外普通に。ダンデさんもそうだけど、キバナさんも話すと普通に良いお兄さんなんだよな。そういうとき、ああ、この人たちって本当に人間なんだなあと思ってしまう。テレビで見てたっていうのもあるけど、同じ人類とは思えないような抜群のスタイルだし、整った顔立ちしてるし、バトルの腕は言わずもがな。これが同じ世界のなかで生きてるって言うんだから凄いなあって他人事のように思ってしまう。
「君、まだそんな変な言い訳使ってるのか」
横からひょいっと入ってきたのはダンデさんだった。試合終わってから長いこと帰って来なかったから、リーグ運営のあれこれを指図してたのだろう。仕事熱心な現リーグ委員長は指示が細かいと評判だ。良くも悪くも。
キバナさんは少しムッとした顔をして、それからダンデさんにタオルを投げた。ダンデさんはそれを楽々キャッチすると、首にかける。
「なんだよ。オレさまが嘘吐いてるって?」
「君の言い訳はいつも片手落ちだ。もう少し考えて言った方が良いぜ。それに有名な話なんだし、別に教えたって支障はないだろうに」
「え、嘘なんですか?」
「嘘じゃねえよ」
間髪入れずにキバナさんに否定され、僕は当惑する。噛みつくような言い方だった。僕に対してはいつも気のいいお兄さんだったので、この反応は初めてだ。
「チャンピオン、覚えておくといい。キバナと言う男は嘘は言わないかもしれないが、言いたくないことはトコトン隠す性質だ」
そうなんですか、とキバナさんを見れば、難しい顔をしている。バトルの時みたいな鋭い目付きでダンデさんを睨み上げた。ダンデさんは慣れた様子で余裕の笑顔で見下ろしているのが信じられない。傍から見てる僕の方が絶対ビビってる。
ニコニコ笑いながらゆっくりとダンデさんがキバナさんの後ろに回り込んで、両肩に手を置く。そして耳元に顔を寄せて――――。あの、その顔僕が見ても大丈夫なヤツなんでしょうか。キバナさんからは全く見えてないと思うんですけど。あの。そんな、熱っぽいやつ。うわあ。一応、僕未成年なんだけどなあ。
「見せてやったらどうだ?」
「はあ?」
鬱陶しいと言わんばかりにダンデさんの手を払いのけようと動いたキバナさんの手が安々と取られていった。すごい。目にも止まらぬ早業だった。ダンデさんがニヤリと悪い笑顔をする。
「言うと思ったぜ!」
叫ぶや否や、そのままキバナさんの手を取ったまま上に持って行ってバンザイさせる。びろん、と猫みたいに伸びるキバナさん。ダンデさんが全力で腕を伸ばしているのに、キバナさんの腕が長すぎて余っている。うわ、キバナさんって腕もこんなに長いんだあって現実逃避してみる。中々にシュールな光景だ。キバナさんが離せ、とか何とか喚いて暴れているのにダンデさんは全然聞いていないし、掴んだ手も振りほどかれるどころか全然動かない。やばい。キバナさんだって鍛えてるのに、この人の筋力どうなってるんだ。っていうかやってる事がスクールのガキですダンデさん。
「さあマサル、真実はこの服の下だぜ!自分の目で確かめてみろ!」
「おい、ダンデ!マジでふざけんなよお前離せ!」
「………ええ~……?」
僕は一体何を見せられているのだろう。というか、めくれとおっしゃるのだろうか。キバナさんの服を、僕が? 大丈夫なんだろうか、それは。いやでも他ならぬダンデさんが言ってるんだし大丈夫と言えば大丈夫だし、いやでもダンデさんがキバナさんを押さえていてそれで僕が服をめくるって何が大丈夫なんだ何も大丈夫ではないな?
「あの、僕に真実は闇に葬っておくという選択肢はないんですかね?」
「チャンピオンたるものそんな弱腰でどうするんだ?さあ暴け!」
何なんだこの人。全然こっちの都合とか心情とか気にしてないな。そして僕がめくるまでこのままのつもりだな。じゃあもう早く終わらせよう。僕は深々と溜息を吐いて、キバナさんに失礼します、と断りを入れた。ええいままよ。
「ふっざけんなマサル!」
という罵声と共に長い脚が飛んでくる。にどげりじゃなくて、みだれづき。もう兎に角近寄らせまいと虚空をひっきりなしに蹴っている。とりあえず一歩前に出て避ける。避けながら一歩前に。避ける。避け、無理。軽く一発脛にもらってちょっと大袈裟に痛がって見せた。そうすると反撃が緩む。その隙を突いて懐に入り込んでいく。足が長すぎて近付かれすぎると反撃できなくなるって、ダンデさんとじゃれ合いを見て知ってた。後、相手が痛がったら手が緩むのも知ってる。そういう甘いところがダンデさんに付け入れられるんだろうなあとは思うんだけど、僕も面と向かって言う事はない。年下だとかひ弱そうとか思われて勝手に掌加えてくれるなら、そっちの方が都合良いし。
まあ、好奇心半分怖いもの見たさ半分。出てくるものなんて精々タトゥーくらいだろ平気平気と自分に言い訳してべろんとユニフォームをめくる。なるべく色気のない感じで。いや出せるものなら出してみたいけどね、色気。でも今この状況で出したら後が怖いし。僕にはホップもいるし。
出てきたのは予想よりも薄い腹筋と胸板と、鈍い金色の。
「―――ロザリオ?」
じゃら、と軽い音がしてロザリオが揺れる。チェーンじゃない。珠が連なっているから、お祈りに使うちゃんとしたヤツだ。ファッションで着けるような代物じゃない。しかも、結構古そうに見える。
「そうだ」
ダンデさんは満足げに笑ってキバナさんの手を放す。キバナさんは忌々しそうに舌打ちをして、僕をゆっくりと押した。僕も抵抗せずにキバナさんから離れる。キバナさんは無言で裾を直して、ぐっと襟元を引っ張って調整する。
「えーっと……ずっと身に着けてるんですか?」
「義務だからな」
不機嫌な声で返されて、僕は身を縮めた。怒ってる。全然顔がバトルの時みたいな感じから戻ってこない。
「えっと……あの、すいません。調子に乗りました」
「ホントにな。あのなあ、お前ら、さっきのはコンプライアンス的にアウトだからな。個人の信仰心は完全にプライベートとして守られる領域だ。遊びで暴くな。特にオーナー様。コンプライアンス遵守を指導する立場の人間がやっていい事じゃないからな?」
「ははは。君が探られても痛くない腹を隠したがるのが悪い。そういう事をされると、つい暴きたくなる」
ぎろりと睨めつけられているのに、ダンデさんは上機嫌に笑っている。この人、多分キバナさんに怒られたくてこういう事してるんだろうなあ、と思う。普段温厚な人だから、怒るキバナさんって言うのは貴重だと言うのは分かる。でも、怒られたいがためにちょっかいかけるのは小学生のやることではないだろうか。
「随分と良い性格していらっしゃるんですねえオーナー様は。好い加減にしとけよ」
「それに、君の信仰心はプライベートのものじゃないだろう」
え、と思わず声が漏れる。これ、聞いても大丈夫なヤツなんだろうか。
「……えーっと?」
「キバナはガラル国教信徒だ。ナックルジムリーダーになるために洗礼を受けてるんだぜ。当時は結構大々的なニュースになっていたんだが、知らなかったか?」
「そりゃお前、もう十年近く前のことだから当然だろ」
そうか、と呟いてダンデさんは目を細めた。そう言えば、この人達は十年ずっとライバルで居続けて、バトルの世界で楽しくやっていたのだった。それが僕にはちょっと、ほんのちょっとだけ羨ましい。僕も、僕のライバルと遊んでいたかったって言うのは紛れもなく本当の気持ちだから。勿論ホップの道行きは祝福するけど。やりたい事が見つかって良かったとも思うし、喜ぶけど。ホップも楽しそうだし。僕もそんなホップが見れて嬉しいし。一時期ホップは色々悩んでて、それを僕とは上手く共有できなくて。でもそれでも今晴れ晴れとした顔で僕に会ってくれるんだからそりゃ嬉しくないはずはないんだ。でもそれとこれとは話が別。僕だってホップと十年くらいどっぷりバトルだけの生活を送りたかった。今も時々バトルしてくれるから良いけど。我慢できるけど。
それでも僕は、ダンデさんとキバナさんの十年と同じものが欲しかった。もうこれは隠しようもない事実なので隠してないけど。
「ジムリーダーになるって時になって歴代がそうだったから当然オレさまもそうするだろって周りが言い始めて、まあ半分強制みたいな感じ」
「ざっくり言えばビジネス信者だと」
「び、ビジネス信者」
どういう語彙センスなんだ。絶対これダンデさんじゃなくてキバナさんが言い始めたやつだな。
「祈りの言葉も口にするし、仕事もリーグもなけりゃ礼拝に参列もする。そこで聖歌だって歌うし、坊さんの説教だって聞くけどな、でもそれは全部ナックルジムリーダーの伝統だからだな」
これもなあ、と言いながら首元のボタンを緩めてロザリオを取り出す。使い込まれて鈍く光る金色のロザリオは、キバナさんの肌に妙に馴染んでいる。
「先代が使ってたヤツなんだけど、肌身離さず身に着けろって言われたから着けてるだけで。趣味じゃないんだぜ」
こんなん託されたってなあと言いながらも、ロザリオに触れる手付きは丁寧だ。ロザリオを撫でる、長い指。視線が少し伏せがちになって、鮮やかなブルーが少し暗い色になる。するりと人差し指が十字を縦になぞって、また戻る。そうやっているだけなのに、この人がやると文句なしに絵になる。んだけど。それだけじゃなくて。その。
「……なかなか、背徳的だろ?」
何時の間にか傍に移動していたダンデさんが、俺に耳打ちをしてくる。いや、未成年にそんな話振らないでほしい。ホントに。これは何を言っても藪からサダイジャ出てくるヤツ。
でも、何となくダンデさんの言動の点と点が繋がる。暴け。暴きたくなる。なるほどなるほど。なるほどなあ。
「あくしゅみぃ……」
キバナさんに聞こえないように呟くと、ダンデさんは上機嫌に笑った。本当に、この人のこういうところ。はいはい。どうせ僕なんかはキバナさんの相手になりませんからね。存分に見せつけても大丈夫だと思われてるんですよね。分かってますよ。くそ。この人、本気で一回くらいは痛い目見てほしい。
「察する君も相当だぜ」