七声会史
「'91 七声会史」を参考に作成
(東北学院大学グリークラブOB・千葉敏行氏ご提供)
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1957(S32)年【七声会誕生】
1958(S33)年~1959(S34)年【定演・規約成立】
1960(S35)年~1963(S38)年
1964(S39)年
1965(S40)年
1966(S41)年
1967(S41)年
1968(S43)年
1969(S44)年 [9大学12団体;600名]
1970(S45)年 [9大学12団体;500名]
1971(S46)年 [10大学13団体;500名]
1972(S47)年 [9大学12団体;400名]
1973(S48)年 [9大学12団体;400名]
1974(S49)年 [8大学11団体;300名]
1975(S50)年 [7大学10団体;250名]
1976(S51)年 [6大学8団体;250名]
1977(S52)年
1978(S53)年 [5大学6団体;170名]
1979(S54)年 [5大学6団体;180名]
1980(S55)年
1981(S56)年
1982(S57)年
1983(S58)年 [5大学6団体;180名]
1984(S59)年 [5大学6団体;180名]
1985(S60)年 [5大学6団体;180名]
1986(S61)年 [5大学6団体;180名]
1987(S62)年 [4大学5団体;170名]
1988(S63)年 [4大学5団体;150名]
1989(H1)年
1990(H2)年 [4大学5団体;140名]
戦後急速に文化が復興していく中、合唱発展にも目をみはるものがあった。楽器等を必要としないということもあって、合唱人口は急激に増加した。全国の各大学も合唱団をつくり活動を始めた。仙台でも殆どの大学に合唱団ができたが、当時は楽譜設備も指揮者も殆ど無く、各団苦しい運営状況にあった。昭和30年代になると戦後の混乱も収まり合唱界にも活気が満ちてきた。当時の在仙大学各合唱団は、各々の枠内で別々の活動を行い、相互の技術交流や連絡さえも行われないという状態にあった。しかし、各団とも、このような状態が合唱活動を行ううえで不便であり、合唱音楽全体の発展にもマイナス面が大きいと痛感するようになり、それを打開すべくお互いにコンタクトを持つようになった。そこで1957(S32)年、12月東北大学男声合唱団などが中心になって三島短大合唱団、宮城学院大グリークラブ、尚絅短大合唱団、東北大女声合唱団、東北大男声合唱団、東北学院大グリークラブ、東北薬科大合唱団の6大学7合唱団により「在仙大学合唱団懇談会」を結成した。翌年、団体の数を取ってこれを「七声会」と改称した。(尚、結成の中心となった東北大男声の側からいえば、当時のDGK<大学合唱協会>の仲間である名古屋大男声が組織している「名古屋地区大学合唱連盟」の活動、又はDGKという組織団体が刺激となって結成を促した。)そして約一年間様々な討議がなされ、大体の方針が決定した。
七声会結成の動機には、当時は未だ自団の基礎が未熟だった団が多かったため、協力して立派な演奏会を開きたいという意向もあったという。1958年11月、東北地区大学芸術祭において七声会として初めての演奏を合同演奏という形で行った。反省として、七声会というものが会員のものとなりえず、かなり消極的なものになったということがあげられたが、この演奏がその後の定期演奏会開催の直接の契機となった。そして1959年6月20日遂に第1回定期演奏会が、宮城学院女子大学講堂で行われた。各団の持ち味を生かした7ステージと、最後に合同合唱という形であった。
また、この年の10月に聖和短大合唱団が加入し8団体となった。
更に12月には「七声会規約」が制定された。ここにおいて七声会の目的というものが明確に表され意識されることとなった。この目的は、第3条にみられるように三本の柱から成り、ニュアンスの違いはあるが、現在まで一応確認されてきた。
この年は、七声会の基礎が固まった記念すべき年であるといえよう。
1960(S35)年6月5日には、仙台市公会堂(現:市民会館)で、第2回定演が行われた。形式は前年同様、合同合唱は佐藤泰平先生を迎えてのヴェルディの歌劇アイーダの「凱旋の場の合唱」であった。この年の12月、東北大混声合唱団と東北学院大キャロラーズが加入し、10団体となった。翌1961(S36)年6月18日仙台市公会堂で第3回定演、形式は前年同様で合同合唱は松原茂先生を迎え、ブルックナーの詩篇150。この年東北大男声はDGKの演奏会と重なったため不参加。第4回は翌年5月27日、川内記念講堂で、形式は前年同様。合同は福井文彦先生を迎え、「フィンランディア」、「流浪の民」、「ハレルヤサーム」の3曲を演奏。第5回は、1963(S38)年6月、東北大交響楽団と「第九」を共演した。
この頃までに、1月の追い出しコンサート、5月の新歓ピクニック及び定演といった現在まで続いている行事が確立された。しかし、結成7年目を迎えた七声会は、かなりゆきづまっていた。加盟各団とも団員が増え、団独自の活動が多くなり、七声会にかける比重が小さくなりつつあった。更には七声会結成当時の状態を身をもって経験した人間は殆ど卒会してしまい、会員にとって七声会は「もともとあるもの」になってしまった。したがって七声会を動かすのもごく一部の委員会であって、一般の会員はどこでどうなっているのかさっぱりわからず、ただ義務的に形式的な諸行事(定演、新歓ハイキング、卒会生送別演奏会)に参加するだけであった。こうした状態を打開すべくこの年結成された竹内委員会は、様々な策を打出した。一つとして定演を合同形式にしたということであった。それまでは定演は各団のステージにより構成されていたが、その形式には以前から不満が多かった。アンケート等でもそのような結果が出ていた様である。つまりステージが各団ごとであったため、どうしても全体合同ステージがおろそかになってしまうという問題が出てきて、七声会そのものの意義を考えても全体合同ステージの方が良いという意見が高まりつつあったのである。しかし、その代替案も一つにするとなると、それも困難であり、毎年討議されながらも従来の形式に落着いていた。だがこの年になって、その主旨が正式に認められ「瀕死の重病人に一か八かの大手術をする」のにも似たような覚悟で、男声、女声、混声各1ステージの合同形式を実施することになった。結果は、あまり芳しくなかった。その理由としては、やはり主旨が充分に会員に浸透しておらず、またはじめての試みであったためにもたついたということがあげられるであろう。しかしそれをやったという意義は非常に大きく今後もその方向で臨むべきだという結論が出ている。二つ目としては、七声会発足当時行ったことがある「持ち回り委員会」を復活させたことである。これは委員会と一般会員との隔たりが大きすぎるということから、七声会の委員会とはどんなものかを一般会員に知ってもらい、会員の少しでも多くの人が七声会を理解するように、また理解しようとするチャンスとなることを目指していた。内容は、七声会委員がある一つの加盟団の練習日にその団を訪問し、練習終了後、いつもの通りの委員会を開き、その団の団員がそれを見学する。そしてその後今度は委員会と団員が膝を交えてあるテーマについて話し合おうというものであった。話し合いが停滞してしまうこともあったが、大きな成果を修めた。
その他にも、各団委員の合同ミーティング、新旧七声会委員会合同合宿、会報発行など様々なことが行われ、不充分ではあったものの、それなりの成果を修めた。この年には、例年に無く多くの行事が行われたとされている。それが殆ど、その後の七声会の方向を示している重要な試みであったように思われる。
この年の目玉商品は何と言っても「統一テーマ」を設けたことであろう。これは「合唱をしていると歌うことが楽しいあまりその楽しさだけを追い求めることに性急になって、知らず知らずのうちに活動が無意識的になりがちです。このような状態に陥ることなく活動を前進させるには、常に自分を見つめ、その活動について考えてゆくことが一層必要になってきます」という意識のもとに設けられたもので、一つのテーマを定め一年間それについて討論、研究を積み重ねることによって七声会の活動をより意識的で充実したものにしようというものである。この年のテーマは「我々は、どんな姿勢で歌ったらよいか」であった。これは統一テーマ設立の趣旨に基づき「歌う姿勢」に深い関連を持つものとして、当時絶頂期にあった「うたごえ運動」が注目され、その活動の中心となって推し進めてきた藤村三郎氏を講師として迎えた。内容は「うたごえ運動」の歴史、現在の状況、将来への問題点等で、非常に興味深いものであった。その後グループミーティング(現在のグループとは違い、その場に集った人をその時になっていくつかに分けただけ)を行った。講演の感想から始まって、テーマ「我々はどんな姿勢で歌ったらよいか」についての話し合いを行った。曲の芸術性のみを追求する芸術至上主義的立場に深まるべきか、それとも広い視野に立って社会に目を向け社会と密着した活動を進めるべきかなど活発な討論がなされた。だが、その一方で「議題が高すぎて話に加われない。」「まだ何も分らないから、気易くうちとけられる雰囲気で活動してほしい。」など不満も多かった。また、テーマの範囲が広すぎて漠然としており、話が散漫になってしまったというような反省も挙げられている。統一テーマが一般会員に理解されず更に各団の音楽追及の立場の相違と相まって、結果的にうまくいかなかった。ある委員は総括において、失敗の原因は運営方法がまずかったのであって、サブテーマをいくつか挙げて、それについて分科会形式で一年間話し合えば、深い追及ができると判断した。また従来の夏休み以後は、大きな行事をやらないという慣習を破り、10月に交歓会とミーティングを開いた。しかし、これらの行事だけでは、七声会を個人レベルまで浸透させることは無理だったようで、この年の会報には七声会を巨大なサークルと把える立場などから会員同士がもっと知り合い、七声会のことなどを継続的に話し合える場、いわゆるグループというものを提案する文章がいくつか載っている。このように、現状に対する不満がうっ積していったのである。だがこの年に示された「共に考えあい、話し合って」という七声会の方向は否定されるべきものではなく、各団とも続けてゆくことに賛成している。ある人がこう言ったそうである。「昨年までの七声会は、新入生歓迎行事として、合同ハイキングをやってきたが、ハイキングをやったということからは当然何の不満も出てこない。今回は不満が多かったから失敗だったというのは、早計ではないだろうか。不満を持つことによって、七声会に対するはっきりした要求を自覚したという点で、大きな意味があった。」と…
また、この年の定演(第7回定演)は、6月5日に川内記念講堂で開催された。薬大、混声、男声が単独のステージ、グリーとキャロが合同ステージ、そして尚絅、聖和、女声、三島、宮城の女声合同ステージという変則形態であった。その理由については不明。尚、女声合同は客演指揮者に佐藤泰平氏を迎えた。
この年は、宮城教育大学混声合唱団が入会し、七声会は11団体となった。
この年の委員会に置いては、七声会の理想像として「会員同士が親睦を深める中で個人の人格向上と各団相互の発展を図り、最終的に一つのサークルにまとまること」を意志統一し、この理想を実現するために、精力的な活動を行った。
前年初めて実施され多くの問題を残しながらも、その主旨が充分に認められた統一テーマは、この年も実施ということになった。だが「我々はどんな姿勢で歌ったらよいか」というテーマで、もう一年やることになった。だが、単に前年と同じことを繰り返そうとしたのではない。前年の反省を踏まえ、統一テーマをもっと有効的なものにするために、三つのサブテーマを設けるとともに、新たな画期的な方案が打ち出された。それはグループ制の採用である。(前年のDGKのグループ別のミーティングの影響が大きい。)前年度においてもグループによるミーティングが行われたわけであるが、その場その場でメンバーを決めていたため、顔を覚えるのが精一杯という程度で、なかなか真に話し合うということができなかった。また、毎日メンバーが変るので、何度やってもゼロから始めなければならず、積み重ねということが全くなかった。こういう問題を打開するには、やはりメンバーを固定(少なくとも年間)したグループが必要となる。現在も続いているグループ制は、元はといえばかくの如き背景から生れてきたのである。勿論、そればかりではなく、会員全部(当時600人)を集めることの難しさという点、七声会の大きな目的である会員相互親睦を深めることも大きな理由となっている。即ち会員個人個人が七声会に対して、「考える場」「活動の場」を持つならば、今までよりも話し合える雰囲気が盛り上り、「話し合える七声会」に多少とも近づくことができるのではないかということで、このグループ制は採用された。そしてまた、そのグループ制を前面に押し出すことにより、熊谷委員会は、七声会全体を盛り上げようとしていた。その結果として、全く未知のものであって多少出たいという気持ちがある位では、グループの活動に出られない人が多かったこと、その意義・主旨が会員に浸透しきっていなっかったこと、日程の問題などから活動そのものはやや低調に終ったが初めての試みということも考え合せると、各委員から大きな反響があったということで大きな成果を修めたということなどが挙げられるであろう。実際、この年の年度末の会員に対して行ったアンケートでも回答者92人中73人がグループ制に賛成している。但し、問題として残ったのはある意味で音楽色が薄いこと、「社交の場」「お遊びの場」ととらえられがちであったこと、あまりにグループを前面に押し出すことの問題などであった。
この年の委員会は、とにかくこのグループ制一色であり、「会報」にもそれ以外のことはあまり載っていない。めぼしいものとしては、会員名簿、会員バッヂの作成、そして七声会瓦版の発行である。この瓦版というのは、主に一般会員に言いたい放題の場として利用され、更紙一枚程度で数回発行された。それにつけても、何とかグループ制を成功させようとした意気込み、努力のすさまじさがうかがわれる。
定演は、8回目で男声合同(学指揮)、混声合同(中野貢治先生)、女声合同Ⅰ(佐藤泰平先生)、女声合同Ⅱ(福井文彦先生)の4ステージであった。
この年、仙台白百合短大合唱団が入会して、七声会は12団体となった。
グループ制および統一テーマは、引き続き採用されることになった。この年のテーマは「七声会はどんなものか」というもので、前の2年間の「我々はどんな姿勢で歌ったらよいか」に比べて、会員にとってより身近で話しやすいテーマになった。これは、やはり前の2年間も結局テーマの範囲が広すぎて漠然としていて十分な討議が出来なかったということにもよるが、この年の須山委員会の意図は「七声会とはどんなものか」というテーマを設けることによって、その後の七声会の進むべき方向を会員全体からわき上らせようとするところにあった。グループ制についても前年の反省を生かしてグループ数を減らし、団の活動と照らし合わせて、グループの日を設けたりグループ活動の日を制限して、グループ内に歌や統一テーマを考えることを取り入れたりした。
また、この年は前年七声会内部の親睦が強調され過ぎた(具体的には、グループ制のみであった)という反省から七声会の目的の一つである「社会に対しての健全なる音楽の普及」ということにもっと目を向けようという方針で進んでいる。
その一環として、この年の第9回定演は、女声合同で東京から磯部俶氏を客演指揮者として招いた。混声合同、男声合同は学指揮であったが、それでも定演の支出の殆どは客演に喰われたという。また、その他には特に新しい試みは無かったが、会員から「中央からプロを呼んでの講習会、有名合唱団の仙台公演、市民うたごえ祭りのようなもの、七声会選抜メンバーによる演奏旅行などやりたい」という意見が活発に出た。
この年の前年のテーマを生かし、七声会全体の目標を明確にしようということで、統一スローガン「大きな力としての七声会」が掲げられた。勿論、これは「社会に対しての音楽の普及」という方向を内包するものである。その一環として、F.M.C.混声合唱団を招き、仙台で公演を主催した。主旨は「高度の合唱を聞くことによって、各団、各委員の合唱技能の向上と合唱活動の発展を図り、同時に多くの人々に聞いてもらうことによって地域文化向上の一助となす。」ということである。結果としては、収穫が多かったということであり、単によい演奏を聞いたということだけでなく、F.M.C.の活動の方向が分り、七声会及び構成各団が自らの活動及びその方向を見直すことが出来たということだ。だが、マネージにずさんな面があり赤字に終ったとのことである。
また、この年に始まったものとして指揮法講習会がある。これはもっと技術向上を図れるような行事をという各団の強い要望から始まったものである。当時、各団の技術系間には殆ど交流がなく、技術委員会などというものは有名無実であった。また各団の学指揮者は、仙台にあっては、書物等による独学及び先輩の指導しか頼るものが無く、非常に苦しい状態にあった。そのような状況を打破し、各団の技術向上に大きく貢献する指揮法講習会の実施には異論はなく、浜田徳照先生を講師として行われた。その結果、その意義が改めて確認され、更に一般の会員にも門戸を開くべきだという方向が示された。また、これを機会に、各団技系が集りを積極的に持つようになった。この指揮法講習会は第2回目から、技術系委員によって運営され現在に至っている。
更に、この年の大きな成果はグループ合宿が行われたことである。この年は、グループが任意参加制か全員参加制かの選択に時間がかかりすぎ、グループリーダーの選出方法に進歩があったくらいで、2年間の問題点に対する対策がなされなかった。そのため委員会が夏に行った合宿で頭をひねって打ち出したものである。何よりも、グループ活動の「場」を創ろうとすることに主眼が置かれ、更には徹底的に話し合えるようなものとして、「合宿」というものが出てきたわけである。委員会はその後、瓦版、持ち回り委員会を利用して強力なPRを行った。その結果、12月から1月に五つのグループで合宿が行われた。(当時は15グループまであった。)内容は、合唱、討論、ゲーム等であったが、特に2番目の討論は殆ど夜を徹して行われたようである。また、皆でメシをつくる楽しさもその盛り上りに一役かった。いずれにせよ、非常に大きな成果があったことは確かで、「もっと早い時期に実施されていれば・・・」とか「このままグループを解散してしまうのはもったいない」という意見が多かった。この年のグループ制統括は「・・・グループの発展、七声会の発展に対する大きな可能性が感じられます。来年への期待に胸をふくらませてこの総括を終ります。」としめくくられている。
定演は第10回とのことで、記念行事的に昼夜2回の公演、高校生券の作成が行われたが、あまり成果は上らなかった。ステージは4つ。女声合同が2つ、客演が地元から建部有典氏と佐藤泰平氏。混声合同が東京から木下保氏を招く。男声はグリー休会のため学指揮で単独ステージ。この年から全ステージを客演指揮にした(男性は例外)が、選曲とのからみの問題が表面化してきた。
この年、定期演奏会は11回目を迎えた。大学紛争の影響により、東北大学川内記念講堂が使用不可能となり、会場を電力ホールに移して6月8日に行われた。男声、混声、女声合同の各1ステージを持ち、男声に清水脩先生、混声に松原茂先生、女声に福井文彦先生を迎えて行われた。この年もまたグループ制がとられたわけだが、委員会はグループ<個人の相互のつながりを最少単位として、七声会という大きな輪を作るための手段であり、全体行事を円滑に運営するための基盤となるもの>と把えた。ところがグループリーダーとの連絡が密でなかったこともあって、このことが全会員によく浸透しなかった。だから結局は過去と大差のない結果になり、全員加盟制のグループの限界を感じさせることになった。このグループをより活発に活動させる手段として考えられたのが、この年に始められたサマーキャンプであった。これは、それなりの成果があり、一応成功の部類に入ると思われる。
6月6日、宮城県民会館に於いて、第12回定演が昼夜2回行われた。男声、混声、女声各1ステージを持ち、客演指揮者として、混声に熊谷弘先生、女声に福井文彦先生、客演伴奏として女性に大泉勉先生を迎えた。また7月にコール・メグ仙台公演を主催した。この年七声会内では、団相互の練習見学が行われている。
それに、7月11日、角田女子高を訪れて、東北大男声と東北学院大キャロラーズとの合同演奏会が行われている。より多くの人に、合唱のよろこび、楽しさを味わってもらおうという主旨を同じくした七声会の仲間同士の規格であった。
また、この年薬科大は、休会をしている。
第13回定演が、6月6日川内記念講堂に於いて行われた。前回同様、男声、混声、女声の各1ステージを持った。客演指揮として混声に熊谷弘先生、女声に福井文彦先生、客演伴奏として大泉勉先生を迎えて行われた。最後のステージで、G. F. Händel作曲「Hallelujah」を全体合同演奏して、幕を閉じた。この年から、合唱研究会が行われるようになった。この年、福祉大が入会した。また、キャロは休会をしている。
第14回定演が、6月10日川内記念講堂で行われた。混声、男性、女声の3ステージで、客演指揮者として混声に熊谷弘先生、女声に今井邦男先生、男声に多田武彦先生を迎えて行われた。この年、混声合同にのった3団(宮教大、薬科大、福祉大、/但し東北大混声はJoint練習の為不参加)が、4月1日~2日に混声3団合同合宿を行っている。また、この年から春の運動会が始まり、S. C. N. が創刊されている。
この年の7月9日には、F. M. C. 混声招待演奏会(於 電力ホール)を主催している。また11月12日の日本女子大学合唱団仙台演奏会に対し、後援を行っている。この演奏会について少々詳しく言うと、これは大学合唱団の集りである七声会には対外的な交流が必要であると判断したところより発生した者であり、この話しは1972年2月上旬に法政アカデミー合唱団が来仙したときにさかのぼって始められる。その頃。七声会レジュメからの招待演奏会という話と、日本女子大が演奏旅行を望んでいるという話が合ったことから始まった。初め七声会委員会に置いて反対の意見が多く、委員長一人の独走的なところも見られたが、七声会定演、F. M. C. 演奏会の成功という背景のもとで夏合宿において実現の方向性を持つに至った。そしてこの演奏会は、「川内記念講堂で東北大学大学祭参加」という形式で行われた。
尚、この年三島が脱会している。
第15回定演が、6月10日川内記念講堂で行われた。混声、男声、女声の3ステージで、客演指揮者として混声に熊谷弘先生、男声に岡崎光治先生、女声に福井文彦先生を迎えた。また、この年東京教大、御茶の水女子大の学生を中心とした「合唱団ハトの会」の人達が、二度来仙した。彼らは、世界の民俗合唱、演劇などの他の分野との結合など様々な試みをしているのだが、その裏には合唱を既成の枠からはずしナマの形でその感動を把えようとする真摯な姿勢を持っていた。彼らの来仙は、七声会各団にも有効な問題提起となった。
第16回定演が、6月8日川内記念講堂で行われた。混声、男声、女声の3ステージ構成で客演指揮者として混声に高野広治先生、男声に福井文彦先生、女声に岡崎光治先生を向かえた。また、1973年度から1974年度に移行する引継ぎ合宿において、東北大混声より七声会規約改正についての提起がなされたのは、特筆すべきことである。規約の改正は、第2章の第5条と第6条についてであり、その引継ぎ合宿に於いて述べられたことを略記すると、
① 七声会委員は各団により「全権を委任された者」としての機能をしていない。よって七声会委員会とは別に各団の責任ある地位にある人達によって「七声会責任者会
議」なるものを設ける。
② 今まで、七声会定期演奏会に参加していない団は七声会休会扱いだったことを改正して、七声会定演に不参加であっても七声会の他の行事に参加できるようにする。
この二点であった。この原案が引継ぎ合宿で討議され、①の問題に対してはほぼ全面的に認められ、②に関しては改正はせず今年度に限り、混声を特例として認めるということで決定をみた。その結果「七声会責任者会議」なるものが誕生している。
この年、宮教大が脱会している。
第17回定演が6月7日、川内記念講堂で行われた。混声、男声、女声の3 ステージ構成で、客演指揮者として混声に今井邦男先生、女声に片岡良和先生、男声に岡崎光治先生を迎えて行われた。 昨年東北大 声より提起された規約改正問題は、討論の末、5条改正案は否決され(混声の定演不参加は特例)、6条改正案についても一応採決されたもののまだかなりの検討の余地があった。 実際「現在七声会はその目的(規約第3条の目的)達成の障害となる矛盾点をふくんでいる。これは、結成以来の情勢変化に七声会定期演奏会・その他の七声 会活動の様式変化(改革)が伴わなかった為で、その為に七声会活動のみならず各団の活動が阻害されるという状況を引き起こしている。これを解決するために は、「七声会の性格自体を改善する事が必要である。」と昨年の混声レジュメに ある点を各団が認め、規約改正問題の一つの区切りをつけることを考えた。また休会・脱会問題で昨年非常に混乱してしまったことに対する反省として、それに関する条項の解釈がその主たる原因であることをあげた。これらの問題は安易に 考えては、会の存在を脅かすこともあり得るから、出来れば明文化していくべきだと考えられた。この年、福祉大が脱会した。
第18回定演が6月12日川内記念講堂で行われた。混声、女声、男声の3ス テージ形態で、客演指揮者として混声に今井邦男先生、女声に片岡良和先生、男 声に岡崎光治先生を迎えた。 この年、東北大女声と聖和が脱会した。東北大女声の脱会理由は「活動規模の縮小と、七声会に対する団内のまとまりがとれないこと」とされている。
第19回定演が、6月11日川内記念講堂で行われた。女声、男声、全体の3 ステージ形式であった。この年、東北大混声と薬科大が休会しているため、男声 団と女声団による初の混声ステージが全体合同として持たれている。客演指揮者 としては、女声に片岡良和先生、男声に松田先生、全体に岡崎光治先生を迎えた。
第20回定演が、6月10日川内記念講堂で行われた。女声、男声、全体の3ステージで、客演指揮者として女声に板橋建先生、男声に岡崎光治先生、全体に関屋晋先生を迎えた。この年も引き続き規約改正問題について討議がなされてる。やはり、規約と現 行との間の不合理性を見出して理想的な姿を求めてこの問題を手がけており、引継ぎ合宿において、七声会規約改正案第一次原案(1978年七声会引総合宿資 料に詳しい)を提案している。しかし、この問題は、当時の委員会(重永委員会) の任期中に解決がつかず、次期に持ち越された。 この年、薬科大、東北大混声が脱会している。
第21回定演は、6月9日川内記念講堂で行われた。女声、男声、全体の3ス テージ形態で、客演指揮者として女声に砂金陽子先生、男声に松田晃先生、全体 に岡崎光治先生を迎えた。 この年の1月5~7日「第1回名曲をうたう会」が開かれた。混声合唱曲「水 のいのち」を題材にし、講師として五十嵐先生を迎えて行われた。これは親睦の みが強調されているグルーブ制に新たな可能性を見出そうという議論の中から生 まれてきた。『分科会』(即ち、あるテーマや目的のもとに、有志が集って活動 を行うグループ)の一つとして発生したもので、合唱の名曲を何日かかけてじっ くり歌ってみたいという仲間の集りであった。 また、恒例の合唱研(10月10日)には、東京から菅野浩和先生を講師とし て迎えてポリフォニーの研究が行われた。また、親睦行事としては、グループ制 を活かした第1回グルーブ対抗ボーリング大会(於.勝山)が行われている。 この年も規約改正問題が重視され、それについて幾度となく討議された。第6 条〔七声会の機構] を中心とする改正具体案として、渡辺委員会による委員会案 と男声案とが提起された。(1979年11月15日発行SCN最終号に詳しい) そして12月16日代表者会議において規約改正問題に一方向性が示されるにい たった。略記すれば、「来年度(1980年度は、現状の七声会の機能を果す 機関として、運営事務局を設け、更に新たに、運営のスムーズ化とより一層の慎 重さを期して運営系委員会を設ける。尚、規約の明文化は来年度の経験をふまえ た上で行うことにする。」と言うことであった。
第22回定演は、6月14日川内記念講堂で行われた。男声、女声、全体の3 ステージ形で客演指揮者として男声に岡崎光治先生、女声に桑折金三先生、 体に松田晃先生を迎えて行われた。 この年1月5~7日、「第2回名曲をうたう会」が混声合唱曲「蔵王」を題材 に、講師として阿部先生を迎えて行われている。また活動が停滞ぎみのグループ 制充実のためにグループリーダーを2年生にするなどの方策がとられたが、あま り効果はあがらなかった。
第23回定演は、6月13日川内記念講堂で行われた。男声、女声、全体の3 ステージ形態で、客演指揮者として男声に北村協一先生、女声に今井邦男先生、 全体に岡崎光治先生を迎えた。(学院大グリーは全体合同を休ステージ) この年の1月に第3回名曲を歌う会が「筑後川」を題材に五十嵐庸夫先生を講 師として行われた。 この年は、主な活動として規約の年内成立、SCNの定期発行が予定されたが、 いずれも失敗している。共通レバを定着させるものとして「おうたの本」が刊行 されたが、時期が遅く活用されずに終った。グルーブは、グルーブリーダーを1 年生としたものの、停滞という状況を打破できなかった。
第24回定演は、6月13日川内記念講堂で行われた。混声、女声、男声の3 ステージ形態で、客演指揮者として混声に今井邦男先生、女声に松田順子先生、 男声に岡崎光治先生を迎えた。(学院大グリー、キャロは混声合同を休ステージ) この年1月に、第4回名曲を歌う会が「島よ」を題材に石川浩先生を講師とし て行われた。また、新歓運動会が激橋グランドで、ボーリング大会が勝山で、サ マーキャンプが天童で行われた。
第25回定演は、6月11日(土) 川内記念講堂で行われた。男声、女声、全 体の3ステージ形態で、客演指揮者として男声に岡崎光治先生、女声に今井邦男 先生、全体に松田晃先生を迎えた。(学院大グリーは全体合同を休ステージ) この年1月に、第5回名曲を歌う会が「心の四季」を題材に石川浩氏を講師と して行われた。(この年から名曲を歌う会は年間行事となる) 春夏2回の指揮法講習会が、新歓運動会、ボーリング大会、サマーキャンプ、1 また昨年と同様に 0月には渡辺三郎先生を迎えて合唱研が行われた。SCNは年間7回の定期発行 をある程度成功させることができた。
第26回定演は、6月9日(土)東北大学川内記念講堂で行われた。男声、女 声、全体の3ステージ形態で、客演指揮者として男声に今井邦男先生、女声に岡 崎光治先生、全体に松田晃先生を迎えた(学院大グリーは全体合同を休ステージ)。 この年1月に、第6回名曲を歌う会が「私の願い」を題材に岡崎光治氏を迎えて 行われた。また例年のように春夏2回の指揮法講習会、新歓運動会(この年は、 雨のため、ボーリング大会に変更)、レクリエーション大会(ボーリング大会)、 サマーキャンプ (於、天童高原)、10月には皆川達夫先生を迎えて合唱研究会 が行われた。
第27回定演は、6月9日(日)東北大学川内記念講堂で行われた。男声、女 声、全体の3ステージ形態で、客演指揮者として男声に今井邦男先生、女声に松 田順子先生、全体に辻正行先生を迎えた(学院大グリーは全体合同を休ステージ)。 また、この年1月に第7回名曲を歌う会が「海の詩」を題材に岡崎光治氏を講 師として行われた。そして例年の様に、春夏2回の指揮法講習会、新歓運動会 (この年は、グランドの状態が悪かったため綱引きだけとなり、その後ボーリン グ大会に変更)、お花見、レクリエーション大会(ボーリング大会)、サマーキ ャンプ(於、天童高原)、10月には皆川達夫先生を迎えて合唱研究会が行われ た。
第28回定演は、6月8日(日)東北大学川内記念講堂で行われた。全体、女 声、男声の3ステージ形態で、客演指揮者として全体に今井邦男先生、女声に石 川浩先生、男声に岡崎光治先生を迎えた。 この年1月に第8回名曲を歌う会が岡崎光治氏を講師として行われた。また、 例年のように春夏2回の指揮法講習会、新歓運動会、レクリエーション大会(ポー リング大会)、10月には増田順平氏を迎えて合唱研究会が行われた。
この年、七声会は創会30周年を迎えた。活動方針の時点では、記念文集の作成なども検討されたが、一代限りで行うことの困難などから、この案は実現されなかった。しかし、依然として低いままの会員一人一人の七 声会に対する意識を高めるためにも、30周年をアピールする必要があるとのことから、定演パンフレットやS.C.N.への掲載、30周年記念七声会マーク募集などが行われたが成果を上げるには至らなかった。
この年の運営事務局の活動の主眼は、「グループ制をより有意義なもの にする」ことであったと言えよう。そのためにこの年グループリーダーを 従来の1年生から2年生に変更し活性化を図った。さらに、グループ結成の際、グループ活動の指針(親睦面、音楽面を含むグループ活動の可能性 を示したもの)を各グループに配布し、年3回のグループリーダー会議を 設けて、活動計画の提出および活動状況の確認等が行われた。その結果ほとんどのグループが早期に名簿を作成するなどそれなりの成果が上がった が、半面この年の目標であった「グループ活動を音楽面にも」「話し合え る七声会の復活」に関しては、余り効果が上がらなかった。
また、この年東北学院大学グリークラブから「七声会の機構に関する改革案」が提出され、運営系委員会において機構についての話し合いがなされた。年度末に東北大学男声合唱団の一般会員から私案(提言)が出されるなど、一年間検討されたが「性急に結論を出すべきものではない」こと や「徐々に変更されるべきものである」などの意見から、この論議は次年度に持ち越されることとなった。(論点については、昭和62年度運営系 委員会資料に詳しい)
6月14日(日)に行われた第29回定期演奏会は、東北学院大学グリークラブが休ステージの為、東北大学男声合唱団による単独ステージ、女声合同、全体合同の3ステージ構成で、女声合同に松田順子先生、全体合同に岡崎光治先生を迎え、東北大学川内記念講堂で開催された。練習の際、 従来使用させていただいていた東北大学の法文14番教室が取り壊される予定であることや、交通費に不公平が生じていること、63年度に東北学院大学教養部が泉市に移転、64年度に尚絅短大が名取市に移転すること から、練習場、さらには定演形態の問題が表面化してきた。
年間行事としては、1月に第9回名曲を歌う会が混声合唱組曲「水のいのち」を題材に石川浩氏を講師に迎えて行われたほか、指揮法研究会、春夏2回の指揮法講習会、お花見、新歓運動会、レクリエーション大会(6 月、10月の2回)、サマーキャンプが行われ、10月には、田中信昭氏を迎 えて合唱研究会が行われた。
この年、仙台白百合短期大学合唱団が脱会している。(合唱団消滅のため)
この年、1958年より行われてきた定期演奏会も、ついに第30回をむかえた。
第30回定演は、6月12日(日)東北大学川内記念講堂で行われた。男声(1・2)、女声、全体の4ステージで、女声合同に岡崎光治先生、全体合同に田中信昭先生を迎えてそれぞれ「方舟」(東北大学男声合唱団)、「回風歌」(東北学院大学グリークラブ)、「あの日から」、「追分節考」が演奏された。特に、全体合同ステージの「追分節考」は シアターピースであり、初めての試みであった。 また、この年の引継ぎ会議においては、昨年より議論が続けられてきた七声会の機構改 革案が、運営系委員会より提出されて正式に承認され、1989年度より新機構が採用さ れることとなった。 年間行事としては、1月に第10回名曲を歌う会が石川浩先生を講師として行なわれた 他,指揮法研究会,春夏2回の指揮法講習会,新 運動会レクリエション大会(6月・1 0月の2回), サマーツアー, 合唱研究会が行なわれた。
注目すべきことのひとつは、「七声会定期演奏会」の休止であり、もうひとつは「在仙大学合唱団合同演奏会」(在仙地区大学全合唱団共同)の開催である。前者は七声会技術系委員会の判断に基づき、後者は事実上七声会技術系委員会と非加盟団との希望に充ちた活発な連絡による。
「在仙大学合唱団合同演奏会」は各団指揮者は融合し、七声会と非加盟団とは融合しなかった演奏会である。背景はこうである。指揮者同士は密な交流の機会に恵まれている。他はその事は知らない。七声会技術系委員会は非加盟団と連絡を密に取る反面、対外交流を全員に啓蒙する事はしなかった。七声会マネージ系委員会は非加盟団との連絡は疎くなりつつあった。七声会にとって非加盟団は未知であり、非加盟団にとって七声会は未知のもの、あるいは先入観の造物である。
この演奏会に関して、七声会からだされた不満の多くは非加盟団の多くが全ての練習に参加できなかったことに向けられる。この年、これを避ける唯一の方法は演奏会を開催しないことだった。
年間活動については巻末の年表を見られたい。
新機構による運営開始。
加盟団の七声会に対する姿勢が前年度に引き続きまとまらず、七声会演奏会は休止となった。在仙大学合唱団連絡会議においても、昨年の反省が生かされずに、演奏会についての意見が分かれ、開催されないこととなった。七声会の方向性が定まらなかったことの一因として、1989年度より運営開始された機構上の問題が上げられる。
また、6月には、新たに尚絅女学院短期大学合唱団が設立されたが、自団の活動も充分に行なえない状態であったため休会することとなった。
年間活動としては、1月に名曲を歌う会が今井邦男氏を講師として行われた他、指揮法研究会、春夏2回の指揮法講習会、新歓運動会、レクリエーション大会(6月に1回)、サマーキャンプ、合唱研究会が行われた。