七声会史
「'91 七声会史」を参考に作成
(東北学院大学グリークラブOB・千葉敏行氏ご提供)
「'91 七声会史」を参考に作成
(東北学院大学グリークラブOB・千葉敏行氏ご提供)
1957(S32)年【七声会誕生】
1958(S33)年~1959(S34)年【定演・規約成立】
1960(S35)年~1963(S38)年
1964(S39)年
1965(S40)年
1966(S41)年
1967(S41)年
1968(S43)年
1969(S44)年 [9大学12団体;600名]
1970(S45)年 [9大学12団体;500名]
1971(S46)年 [10大学13団体;500名]
1972(S47)年 [9大学12団体;400名]
1973(S48)年 [9大学12団体;400名]
1974(S49)年 [8大学11団体;300名]
1975(S50)年 [7大学10団体;250名]
1976(S51)年 [6大学8団体;250名]
1977(S52)年
1978(S53)年 [5大学6団体;170名]
1979(S54)年 [5大学6団体;180名]
1980(S55)年
1981(S56)年
1982(S57)年
1983(S58)年 [5大学6団体;180名]
1984(S59)年 [5大学6団体;180名]
1985(S60)年 [5大学6団体;180名]
1986(S61)年 [5大学6団体;180名]
1987(S62)年 [4大学5団体;170名]
1988(S63)年 [4大学5団体;150名]
1989(H1)年
1990(H2)年 [4大学5団体;140名]
戦後急速に文化が復興していく中、合唱発展にも目をみはるものがあった。楽器等を必要としないということもあって、合唱人口は急激に増加した。全国の各大学も合唱団をつくり活動を始めた。仙台でも殆どの大学に合唱団ができたが、当時は楽譜設備も指揮者も殆ど無く、各団苦しい運営状況にあった。昭和30年代になると戦後の混乱も収まり合唱界にも活気が満ちてきた。当時の在仙大学各合唱団は、各々の枠内で別々の活動を行い、相互の技術交流や連絡さえも行われないという状態にあった。しかし、各団とも、このような状態が合唱活動を行ううえで不便であり、合唱音楽全体の発展にもマイナス面が大きいと痛感するようになり、それを打開すべくお互いにコンタクトを持つようになった。そこで1957(S32)年、12月東北大学男声合唱団などが中心になって三島短大合唱団、宮城学院大グリークラブ、尚絅短大合唱団、東北大女声合唱団、東北大男声合唱団、東北学院大グリークラブ、東北薬科大合唱団の6大学7合唱団により「在仙大学合唱団懇談会」を結成した。翌年、団体の数を取ってこれを「七声会」と改称した。(尚、結成の中心となった東北大男声の側からいえば、当時のDGK<大学合唱協会>の仲間である名古屋大男声が組織している「名古屋地区大学合唱連盟」の活動、又はDGKという組織団体が刺激となって結成を促した。)そして約一年間様々な討議がなされ、大体の方針が決定した。
七声会結成の動機には、当時は未だ自団の基礎が未熟だった団が多かったため、協力して立派な演奏会を開きたいという意向もあったという。1958年11月、東北地区大学芸術祭において七声会として初めての演奏を合同演奏という形で行った。反省として、七声会というものが会員のものとなりえず、かなり消極的なものになったということがあげられたが、この演奏がその後の定期演奏会開催の直接の契機となった。そして1959年6月20日遂に第1回定期演奏会が、宮城学院女子大学講堂で行われた。各団の持ち味を生かした7ステージと、最後に合同合唱という形であった。
また、この年の10月に聖和短大合唱団が加入し8団体となった。
更に12月には「七声会規約」が制定された。ここにおいて七声会の目的というものが明確に表され意識されることとなった。この目的は、第3条にみられるように三本の柱から成り、ニュアンスの違いはあるが、現在まで一応確認されてきた。
この年は、七声会の基礎が固まった記念すべき年であるといえよう。
1960(S35)年6月5日には、仙台市公会堂(現:市民会館)で、第2回定演が行われた。形式は前年同様、合同合唱は佐藤泰平先生を迎えてのヴェルディの歌劇アイーダの「凱旋の場の合唱」であった。この年の12月、東北大混声合唱団と東北学院大キャロラーズが加入し、10団体となった。翌1961(S36)年6月18日仙台市公会堂で第3回定演、形式は前年同様で合同合唱は松原茂先生を迎え、ブルックナーの詩篇150。この年東北大男声はDGKの演奏会と重なったため不参加。第4回は翌年5月27日、川内記念講堂で、形式は前年同様。合同は福井文彦先生を迎え、「フィンランディア」、「流浪の民」、「ハレルヤサーム」の3曲を演奏。第5回は、1963(S38)年6月、東北大交響楽団と「第九」を共演した。
この頃までに、1月の追い出しコンサート、5月の新歓ピクニック及び定演といった現在まで続いている行事が確立された。しかし、結成7年目を迎えた七声会は、かなりゆきづまっていた。加盟各団とも団員が増え、団独自の活動が多くなり、七声会にかける比重が小さくなりつつあった。更には七声会結成当時の状態を身をもって経験した人間は殆ど卒会してしまい、会員にとって七声会は「もともとあるもの」になってしまった。したがって七声会を動かすのもごく一部の委員会であって、一般の会員はどこでどうなっているのかさっぱりわからず、ただ義務的に形式的な諸行事(定演、新歓ハイキング、卒会生送別演奏会)に参加するだけであった。こうした状態を打開すべくこの年結成された竹内委員会は、様々な策を打出した。一つとして定演を合同形式にしたということであった。それまでは定演は各団のステージにより構成されていたが、その形式には以前から不満が多かった。アンケート等でもそのような結果が出ていた様である。つまりステージが各団ごとであったため、どうしても全体合同ステージがおろそかになってしまうという問題が出てきて、七声会そのものの意義を考えても全体合同ステージの方が良いという意見が高まりつつあったのである。しかし、その代替案も一つにするとなると、それも困難であり、毎年討議されながらも従来の形式に落着いていた。だがこの年になって、その主旨が正式に認められ「瀕死の重病人に一か八かの大手術をする」のにも似たような覚悟で、男声、女声、混声各1ステージの合同形式を実施することになった。結果は、あまり芳しくなかった。その理由としては、やはり主旨が充分に会員に浸透しておらず、またはじめての試みであったためにもたついたということがあげられるであろう。しかしそれをやったという意義は非常に大きく今後もその方向で臨むべきだという結論が出ている。二つ目としては、七声会発足当時行ったことがある「持ち回り委員会」を復活させたことである。これは委員会と一般会員との隔たりが大きすぎるということから、七声会の委員会とはどんなものかを一般会員に知ってもらい、会員の少しでも多くの人が七声会を理解するように、また理解しようとするチャンスとなることを目指していた。内容は、七声会委員がある一つの加盟団の練習日にその団を訪問し、練習終了後、いつもの通りの委員会を開き、その団の団員がそれを見学する。そしてその後今度は委員会と団員が膝を交えてあるテーマについて話し合おうというものであった。話し合いが停滞してしまうこともあったが、大きな成果を修めた。
その他にも、各団委員の合同ミーティング、新旧七声会委員会合同合宿、会報発行など様々なことが行われ、不充分ではあったものの、それなりの成果を修めた。この年には、例年に無く多くの行事が行われたとされている。それが殆ど、その後の七声会の方向を示している重要な試みであったように思われる。
この年の目玉商品は何と言っても「統一テーマ」を設けたことであろう。これは「合唱をしていると歌うことが楽しいあまりその楽しさだけを追い求めることに性急になって、知らず知らずのうちに活動が無意識的になりがちです。このような状態に陥ることなく活動を前進させるには、常に自分を見つめ、その活動について考えてゆくことが一層必要になってきます」という意識のもとに設けられたもので、一つのテーマを定め一年間それについて討論、研究を積み重ねることによって七声会の活動をより意識的で充実したものにしようというものである。この年のテーマは「我々は、どんな姿勢で歌ったらよいか」であった。これは統一テーマ設立の趣旨に基づき「歌う姿勢」に深い関連を持つものとして、当時絶頂期にあった「うたごえ運動」が注目され、その活動の中心となって推し進めてきた藤村三郎氏を講師として迎えた。内容は「うたごえ運動」の歴史、現在の状況、将来への問題点等で、非常に興味深いものであった。その後グループミーティング(現在のグループとは違い、その場に集った人をその時になっていくつかに分けただけ)を行った。講演の感想から始まって、テーマ「我々はどんな姿勢で歌ったらよいか」についての話し合いを行った。曲の芸術性のみを追求する芸術至上主義的立場に深まるべきか、それとも広い視野に立って社会に目を向け社会と密着した活動を進めるべきかなど活発な討論がなされた。だが、その一方で「議題が高すぎて話に加われない。」「まだ何も分らないから、気易くうちとけられる雰囲気で活動してほしい。」など不満も多かった。また、テーマの範囲が広すぎて漠然としており、話が散漫になってしまったというような反省も挙げられている。統一テーマが一般会員に理解されず更に各団の音楽追及の立場の相違と相まって、結果的にうまくいかなかった。ある委員は総括において、失敗の原因は運営方法がまずかったのであって、サブテーマをいくつか挙げて、それについて分科会形式で一年間話し合えば、深い追及ができると判断した。また従来の夏休み以後は、大きな行事をやらないという慣習を破り、10月に交歓会とミーティングを開いた。しかし、これらの行事だけでは、七声会を個人レベルまで浸透させることは無理だったようで、この年の会報には七声会を巨大なサークルと把える立場などから会員同士がもっと知り合い、七声会のことなどを継続的に話し合える場、いわゆるグループというものを提案する文章がいくつか載っている。このように、現状に対する不満がうっ積していったのである。だがこの年に示された「共に考えあい、話し合って」という七声会の方向は否定されるべきものではなく、各団とも続けてゆくことに賛成している。ある人がこう言ったそうである。「昨年までの七声会は、新入生歓迎行事として、合同ハイキングをやってきたが、ハイキングをやったということからは当然何の不満も出てこない。今回は不満が多かったから失敗だったというのは、早計ではないだろうか。不満を持つことによって、七声会に対するはっきりした要求を自覚したという点で、大きな意味があった。」と…
また、この年の定演(第7回定演)は、6月5日に川内記念講堂で開催された。薬大、混声、男声が単独のステージ、グリーとキャロが合同ステージ、そして尚絅、聖和、女声、三島、宮城の女声合同ステージという変則形態であった。その理由については不明。尚、女声合同は客演指揮者に佐藤泰平氏を迎えた。
この年は、宮城教育大学混声合唱団が入会し、七声会は11団体となった。
この年の委員会に置いては、七声会の理想像として「会員同士が親睦を深める中で個人の人格向上と各団相互の発展を図り、最終的に一つのサークルにまとまること」を意志統一し、この理想を実現するために、精力的な活動を行った。
前年初めて実施され多くの問題を残しながらも、その主旨が充分に認められた統一テーマは、この年も実施ということになった。だが「我々はどんな姿勢で歌ったらよいか」というテーマで、もう一年やることになった。だが、単に前年と同じことを繰り返そうとしたのではない。前年の反省を踏まえ、統一テーマをもっと有効的なものにするために、三つのサブテーマを設けるとともに、新たな画期的な方案が打ち出された。それはグループ制の採用である。(前年のDGKのグループ別のミーティングの影響が大きい。)前年度においてもグループによるミーティングが行われたわけであるが、その場その場でメンバーを決めていたため、顔を覚えるのが精一杯という程度で、なかなか真に話し合うということができなかった。また、毎日メンバーが変るので、何度やってもゼロから始めなければならず、積み重ねということが全くなかった。こういう問題を打開するには、やはりメンバーを固定(少なくとも年間)したグループが必要となる。現在も続いているグループ制は、元はといえばかくの如き背景から生れてきたのである。勿論、そればかりではなく、会員全部(当時600人)を集めることの難しさという点、七声会の大きな目的である会員相互親睦を深めることも大きな理由となっている。即ち会員個人個人が七声会に対して、「考える場」「活動の場」を持つならば、今までよりも話し合える雰囲気が盛り上り、「話し合える七声会」に多少とも近づくことができるのではないかということで、このグループ制は採用された。そしてまた、そのグループ制を前面に押し出すことにより、熊谷委員会は、七声会全体を盛り上げようとしていた。その結果として、全く未知のものであって多少出たいという気持ちがある位では、グループの活動に出られない人が多かったこと、その意義・主旨が会員に浸透しきっていなっかったこと、日程の問題などから活動そのものはやや低調に終ったが初めての試みということも考え合せると、各委員から大きな反響があったということで大きな成果を修めたということなどが挙げられるであろう。実際、この年の年度末の会員に対して行ったアンケートでも回答者92人中73人がグループ制に賛成している。但し、問題として残ったのはある意味で音楽色が薄いこと、「社交の場」「お遊びの場」ととらえられがちであったこと、あまりにグループを前面に押し出すことの問題などであった。
この年の委員会は、とにかくこのグループ制一色であり、「会報」にもそれ以外のことはあまり載っていない。めぼしいものとしては、会員名簿、会員バッヂの作成、そして七声会瓦版の発行である。この瓦版というのは、主に一般会員に言いたい放題の場として利用され、更紙一枚程度で数回発行された。それにつけても、何とかグループ制を成功させようとした意気込み、努力のすさまじさがうかがわれる。
定演は、8回目で男声合同(学指揮)、混声合同(中野貢治先生)、女声合同Ⅰ(佐藤泰平先生)、女声合同Ⅱ(福井文彦先生)の4ステージであった。
この年、仙台白百合短大合唱団が入会して、七声会は12団体となった。
グループ制および統一テーマは、引き続き採用されることになった。この年のテーマは「七声会はどんなものか」というもので、前の2年間の「我々はどんな姿勢で歌ったらよいか」に比べて、会員にとってより身近で話しやすいテーマになった。これは、やはり前の2年間も結局テーマの範囲が広すぎて漠然としていて十分な討議が出来なかったということにもよるが、この年の須山委員会の意図は「七声会とはどんなものか」というテーマを設けることによって、その後の七声会の進むべき方向を会員全体からわき上らせようとするところにあった。グループ制についても前年の反省を生かしてグループ数を減らし、団の活動と照らし合わせて、グループの日を設けたりグループ活動の日を制限して、グループ内に歌や統一テーマを考えることを取り入れたりした。
また、この年は前年七声会内部の親睦が強調され過ぎた(具体的には、グループ制のみであった)という反省から七声会の目的の一つである「社会に対しての健全なる音楽の普及」ということにもっと目を向けようという方針で進んでいる。
その一環として、この年の第9回定演は、女声合同で東京から磯部俶氏を客演指揮者として招いた。混声合同、男声合同は学指揮であったが、それでも定演の支出の殆どは客演に喰われたという。また、その他には特に新しい試みは無かったが、会員から「中央からプロを呼んでの講習会、有名合唱団の仙台公演、市民うたごえ祭りのようなもの、七声会選抜メンバーによる演奏旅行などやりたい」という意見が活発に出た。
この年の前年のテーマを生かし、七声会全体の目標を明確にしようということで、統一スローガン「大きな力としての七声会」が掲げられた。勿論、これは「社会に対しての音楽の普及」という方向を内包するものである。その一環として、F.M.C.混声合唱団を招き、仙台で公演を主催した。主旨は「高度の合唱を聞くことによって、各団、各委員の合唱技能の向上と合唱活動の発展を図り、同時に多くの人々に聞いてもらうことによって地域文化向上の一助となす。」ということである。結果としては、収穫が多かったということであり、単によい演奏を聞いたということだけでなく、F.M.C.の活動の方向が分り、七声会及び構成各団が自らの活動及びその方向を見直すことが出来たということだ。だが、マネージにずさんな面があり赤字に終ったとのことである。
また、この年に始まったものとして指揮法講習会がある。これはもっと技術向上を図れるような行事をという各団の強い要望から始まったものである。当時、各団の技術系間には殆ど交流がなく、技術委員会などというものは有名無実であった。また各団の学指揮者は、仙台にあっては、書物等による独学及び先輩の指導しか頼るものが無く、非常に苦しい状態にあった。そのような状況を打破し、各団の技術向上に大きく貢献する指揮法講習会の実施には異論はなく、浜田徳照先生を講師として行われた。その結果、その意義が改めて確認され、更に一般の会員にも門戸を開くべきだという方向が示された。また、これを機会に、各団技系が集りを積極的に持つようになった。この指揮法講習会は第2回目から、技術系委員によって運営され現在に至っている。
更に、この年の大きな成果はグループ合宿が行われたことである。この年は、グループが任意参加制か全員参加制かの選択に時間がかかりすぎ、グループリーダーの選出方法に進歩があったくらいで、2年間の問題点に対する対策がなされなかった。そのため委員会が夏に行った合宿で頭をひねって打ち出したものである。何よりも、グループ活動の「場」を創ろうとすることに主眼が置かれ、更には徹底的に話し合えるようなものとして、「合宿」というものが出てきたわけである。委員会はその後、瓦版、持ち回り委員会を利用して強力なPRを行った。その結果、12月から1月に五つのグループで合宿が行われた。(当時は15グループまであった。)内容は、合唱、討論、ゲーム等であったが、特に2番目の討論は殆ど夜を徹して行われたようである。また、皆でメシをつくる楽しさもその盛り上りに一役かった。いずれにせよ、非常に大きな成果があったことは確かで、「もっと早い時期に実施されていれば・・・」とか「このままグループを解散してしまうのはもったいない」という意見が多かった。この年のグループ制統括は「・・・グループの発展、七声会の発展に対する大きな可能性が感じられます。来年への期待に胸をふくらませてこの総括を終ります。」としめくくられている。
定演は第10回とのことで、記念行事的に昼夜2回の公演、高校生券の作成が行われたが、あまり成果は上らなかった。ステージは4つ。女声合同が2つ、客演が地元から建部有典氏と佐藤泰平氏。混声合同が東京から木下保氏を招く。男声はグリー休会のため学指揮で単独ステージ。この年から全ステージを客演指揮にした(男性は例外)が、選曲とのからみの問題が表面化してきた。
この年、定期演奏会は11回目を迎えた。大学紛争の影響により、東北大学川内記念講堂が使用不可能となり、会場を電力ホールに移して6月8日に行われた。男声、混声、女声合同の各1ステージを持ち、男声に清水脩先生、混声に松原茂先生、女声に福井文彦先生を迎えて行われた。この年もまたグループ制がとられたわけだが、委員会はグループ<個人の相互のつながりを最少単位として、七声会という大きな輪を作るための手段であり、全体行事を円滑に運営するための基盤となるもの>と把えた。ところがグループリーダーとの連絡が密でなかったこともあって、このことが全会員によく浸透しなかった。だから結局は過去と大差のない結果になり、全員加盟制のグループの限界を感じさせることになった。このグループをより活発に活動させる手段として考えられたのが、この年に始められたサマーキャンプであった。これは、それなりの成果があり、一応成功の部類に入ると思われる。
注目すべきことのひとつは、「七声会定期演奏会」の休止であり、もうひとつは「在仙大学合唱団合同演奏会」(在仙地区大学全合唱団共同)の開催である。前者は七声会技術系委員会の判断に基づき、後者は事実上七声会技術系委員会と非加盟団との希望に充ちた活発な連絡による。
「在仙大学合唱団合同演奏会」は各団指揮者は融合し、七声会と非加盟団とは融合しなかった演奏会である。背景はこうである。指揮者同士は密な交流の機会に恵まれている。他はその事は知らない。七声会技術系委員会は非加盟団と連絡を密に取る反面、対外交流を全員に啓蒙する事はしなかった。七声会マネージ系委員会は非加盟団との連絡は疎くなりつつあった。七声会にとって非加盟団は未知であり、非加盟団にとって七声会は未知のもの、あるいは先入観の造物である。
この演奏会に関して、七声会からだされた不満の多くは非加盟団の多くが全ての練習に参加できなかったことに向けられる。この年、これを避ける唯一の方法は演奏会を開催しないことだった。
年間活動については巻末の年表を見られたい。
新機構による運営開始。
加盟団の七声会に対する姿勢が前年度に引き続きまとまらず、七声会演奏会は休止となった。在仙大学合唱団連絡会議においても、昨年の反省が生かされずに、演奏会についての意見が分かれ、開催されないこととなった。七声会の方向性が定まらなかったことの一因として、1989年度より運営開始された機構上の問題が上げられる。
また、6月には、新たに尚絅女学院短期大学合唱団が設立されたが、自団の活動も充分に行なえない状態であったため休会することとなった。
年間活動としては、1月に名曲を歌う会が今井邦男氏を講師として行われた他、指揮法研究会、春夏2回の指揮法講習会、新歓運動会、レクリエーション大会(6月に1回)、サマーキャンプ、合唱研究会が行われた。