※ 画像はWikimediaより。
秋葉原がラジオオタクの聖地であったのは遥か昔。オタク文化の主流がモノづくりから離れてしまったのはいつからだろうか。
確かに、我々は豊かになったのだろう。消費しきれないコンテンツの波に溺れ、刺激に溢れたマーケットで電子データを貪るように取り入れる。だがそれは、彼ら彼女らがその人自身から何かを生み出し得たかもしれない大切な時間とトレードオフなのだ。
或いはそれは、豊かさで塗りつぶされた貧しさがもたらす個々人の存在の痛みが、何かを消費し続けることでしか誤魔化せない程に深く、暗く膿んでしまっていることの表出なのかもしれない。見上げた先の重苦しい鉛色の空から思わず目を逸らし、おろした視線の先で見つけた雑踏に我知らず吸い込まれていくような、安堵に似た甘い停滞だ。
ところで現在、IoT ガジェット作りが中々にブームである。8bit コンピュータと外部装置を RS-232C で繋ぎ、雑誌記事とにらめっこしながらあれこれと作っていたあの時代の空気が、形を変えて今我々の前に立ち現れているのだとしたら。ほんの少しの晴れ間かもしれないが、私はそこに希望を見たいと思う。
誰かが言っていたが、SF とは未来への逃避なのだそうだ。ならば希望であれ絶望であれ、人々が未来を思い描くことは既に SF であり、その先にモノづくりの可能性も失われることなくあり続ける。あり続けて欲しい。
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※ ステレオタイプかもしれないが、こういうオタク像に少なからず憧れるところがある。