ごあいさつ

告別式ご挨拶   (那須美栄子)


告別式ご挨拶 


 本日は皆さま お忙しい中、夫・那須耕介のために、御会葬くださいまして、誠にありがとうございました。

 

 夫は2017年6月に、すい癌と診断されました。すぐに治療を開始し、9月に手術の後、1ヶ月後には仕事に復帰し、苦しい抗がん剤治療を受けながら年を越しました。同僚の先生方と学生に迷惑をかけたくない一心だったと思います。そしてその気持ちは、最後まで変わらず、夫の支えの一つでした。

     2019年9月に肝臓に転移し、抗がん剤治療を再開しました。しかし次第に体が耐えられなくなり、今年3月から九州の病院に通い、体に負担の少ない治療を7月末まで受けていました。

 京都に戻って、座談会をひとつ、家族旅行を1泊した後、8月から急に容態が悪くなり、自宅で緩和ケアを受けるようになりました。思えば、夫は、がんになってからずっと、鍼灸治療の先生をはじめとして、医療関係者に大変恵まれていました。

 緩和ケアのスタッフも、夫の意思をその都度丁寧に確認し、それがおそらく本来の治療方針から外れることでも、可能性を探って対応していただきました。

 

 最後の1週間は痛みも増し、モルヒネの量が日に日に増えていきましたが、夫は頭が朦朧として話せなくなるのが嫌で、「モルヒネをやめてくれ」と看護士に直接訴えました。すると、別の方法を使って、モルヒネの量を減らしてもらうことができ、夫はとても満足そうにその日、いろいろなことを溢れるように話し続けました。夜中、日付が変わっても、目を見開いてしゃべり続ける夫が心配になり、看護師を呼びました。眠れるように少しの座薬を入れて体を戻した途端、夫はあっという間に息を引き取りました。

 先程の(牧師)先生のお言葉をお借りするなら、夫は最後まで主体的であり、自立していました。そんな夫の尊厳を守っていただいたからか、目を閉じられたその顔は、微笑んでいるようでした。

 

 思えば、夫は結婚式で、恩師から「しぶとい」という評価を賜りそれをずっと自慢にしておりました。病を得てからも、五年生存率の数字を打ち消すように、明るく、責任感を持って、学生や仕事に向き合っておりました。

 仕事だけに限らず、夫を必要としてくださる皆さまのお声がけや、叱咤激励のおかげで、闘病中も、それまで以上に人と会い、新たな企画を立て、楽しい充実した生活を送れました。たくさんの方にお礼を申し上げます。

 ただ、最後の方は、教授としての仕事が叶わず、同僚の先生方や他の学部にも、大変なご負担をおかけしたと聞いています。恩返しができず、本人もくやしい思いでいっぱいだったと思います。

 そして何より、途中で指導ができなくなってしまった学生の皆さまに、この場をお借りして深くお詫び申し上げます。

 

 また私達夫婦は、病気の再発とほぼ同時に、京都市の養育里親として、当時4歳の女の子と交流をはじめ、去年の4月から一緒に暮らし始めました。それからたった1年5ヶ月の暮らしでしたが、夫は子供を、文字通り全力で愛してくれました。きっと子供の心の中に、優しく面白いパパが生き続けると思います。

 いつだったか、この子にどんな大人になって欲しいかと聞いたところ、夫は即座に、「どんな時も一番弱い人のがわに立てるような人になってほしい」と言いました。夫はその通りの人でしたが、私一人では、育てるのは難しいと思います。どうぞ皆様、いつかこの子に必要となった時に、お力添えいただければとお願いいたします。

 長くなりましたが、夫が生前賜りましたご厚誼に改めて御礼申し上げて、挨拶とさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。


                                                           喪主 那須美栄子

  京都 典礼会館  2021年9月10日


納骨ご挨拶   (那須美栄子)


納骨ご挨拶


拝啓

 

爽やかな高い空を見上げ、樹々の葉の色が変わってきたことに気付きます。いつまでも半袖を着続ける小学一年生と暮らしていましても、季節は確かに移ってゆきます。

 

先般 那須耕介 召天に際しましては、ご芳情のほど 誠にありがとうございました。

本来ならば、それぞれにお礼を申し上げるべきところですが、いまだに各名簿を統一することが叶わず一律の文面を差し上げますこと、何卒ご容赦いただけましたら幸いです。

 

 

葬儀の際は、皆さまお忙しい中、また遠方からもたくさんの方に御参列いただきまして、その数は遺族の予想を遥かに越えました。受付から長時間にわたってお待たせし、椅子の数も少なくお疲れになったであろうことなど、万事不行き届きであったことを心よりお詫び申し上げます。

   皆様の心のこもったお参りに、親族一同ただ驚き、今も深く感謝しております。

 

それから、葬儀の連絡が届かなかったり、コロナ禍で参列を見合わせていただいた方々、後日に手紙でお悔やみをいただいたり、御供花や御供物、御香典を届けてくださった方々にも、お詫びやお返事・お礼状をなかなか出せず、誠に申し訳ございません。確かにお受け取りし、居間の祭壇に供えさせていただきました。

 

また、事前に辞退しておりましたが、どうしても…といただいた御香典は全て子どもの通帳に入金し、ご芳名を記させていただきました。同じく、葬儀へのご供花も写真に残して、お名前とお返しの金額を子どもの通帳に記させていただきました。 

後日 心ばかりの品をお送りします。何かと無断でご無礼をいたしますこと、どうぞご了承いただき、ご受納くださいますよう、よろしくお願いいたします。

 

そして、葬儀の後は、キリスト教の『50日祭』と『納骨式』を 10月 31日に予定しておりましたが、諸般の事情により延期となり、11月14日に無事執り行われましたことを謹んでご報告いたします。

遺骨は、比叡山の『びわ湖霊園』内にあります、草津教会の共同墓地に埋葬していただきました。


[ 公益財団法人 びわ湖霊園 ]   滋賀県大津市南滋賀町1059

 

夫はいわゆるキリスト教信者ではありませんでしたが、教会内の幼稚園に通ったご縁から、小学5年生まで教会学校にも通い、祈りや音楽と共にキリスト教の世界を自分の中に持ち続けました。聖書に関わることもおそらくコツコツと自分の中に構築し、年齢を重ねるほどに故郷のように慕い、病を得てからは更に心の拠り所になっていたのではないかと、今になって想像しています。

長年住み慣れた京都と、幼い日を過ごした草津の間にある墓地に埋骨していただいたこと、教会の墓碑に名を刻んでいただいたことを、夫もきっと喜んでいると思います。草津教会の皆さまには大変感謝しております。

ただ、息子に先立たれた那須の両親の寂しさと悲しさは慰めようもなく、夫の分骨と共に入るお墓を京都市内にて検討中であることも 合わせてご報告いたします。

 

ながらく皆さまにご連絡できなかった言い訳になりますが、葬儀前後の子どものことを少し書かせていただきます。

 

夫が在宅看護で過ごした8月は、子どもが小学生になって初めての夏休みでした。兄弟家族や事情を察した友人・近所の保護者の方々がかわるがわる毎日のように子どもを預かって遊びに連れ出してくれ、子どもは夏休みを満喫しているかに見えました。しかし夏休みが終わり 夫が亡くなる数日前に、子どもから「ママはパパにだけ優しい!」と泣かれ、どうしようもなさに しばし絶句しました。

 それで葬儀の翌日には子どもを水族館に連れてゆき、その後も子どもへ寄り添うことを第一に規則正しく生活しようと心掛けています。双方の親族をはじめ、遠く近くに関わらず 皆さん、夫の生前と変わらず、あるいはそれ以上に気にかけ、助けてくださって、大変有り難く思っています。

 

6歳の子どもがどのように死を受け止めるのか、想像するしかありませんが、「パパはいつもみんなの心の中にいるよ」と伝えています。ある時、出かけた先で、夫の好物を買って祭壇に供えようとしたら、子どもが「パパは一緒に行っていたから お土産、要らんよ」と言いました。

一方で、葬儀からひと月半ほど経った頃、「今度はママがそうなったらどうなる?」と遠慮気味に聞いてくることがありました。「そうなったら祖母にこの家にきてもらって、変わらない生活を送れるよう頼んでおく。周りのみんなも絶対に助けてくれる。そもそもママはなるべく元気でいるよ」と伝えました。しかし、この不安はおそらく打ち消しようがありません。 

 今も、少しでも私の気持ちが子どもから離れて別のことを考えていようものなら、敏感に察知して わざと手を掛けさせるため、寝かしつけるまで気が抜けません。

   皆さまへの無沙汰を心中で詫びつつ、賑やかに過ごさせるために、週に4日は近所の小学生を誘って ご飯とお風呂を一緒に過ごしてもらい、子どもが寝てから家事をしています。週に2日は、高齢の母に掃除洗濯を手伝いに来てもらい、毎週木曜はどちらかの実家に子どもを夜まで預かってもらいます。夫の弟家族も何かと連絡をくれ、里子を可愛がってくれています。飼い犬と散歩し、笑って怒って、親子の成長を夫に報告し、日々を過ごしています。

そしてこれからも、夫が最期まで思い続けていた『人の集まれる家』にしていきたいと願っています。平日夕方は大抵2人以上の子供がいて乱雑になっていますが、かえってお気軽にお立ち寄りいただければ嬉しいです。

 

また話は変わりますが、この手紙と、追悼文集の執筆依頼の順序が逆になってしまいましたこと、取りまとめ役の浅野様にも申し訳なく、皆様には心よりお詫びいたします。諸事情ご賢察の上、何卒ご寛容くださいますようお願いいたします。

親族でも意外と夫の外の顔は知らないことが多く、とりわけ夫が可愛がっておりました姪甥たちと、幼い里子が成長後に夫の人となりを知ることができますよう、いろいろな側面を伝えてやれたらと思っています。ご多忙とは存じますが、ご無理のない範囲で書いていただければ幸いです。どうぞよろしくお願い申しあげます。

 

それでは、長々と失礼いたしました。

末筆になりましたが、今後とも変わらぬご厚誼を賜りますよう よろしくお願い申し上げます。そして、どうぞ皆様がお元気で、穏やかにお過ごしくださいますよう陰ながら祈念しております。

 

敬具

 

那須美栄子


2021年 11月

 

 

追悼文集送付ご挨拶 (那須美栄子)

 

追悼文集送付ご挨拶


拝啓

 

    子どもの夏休みも終わり、夜の庭には秋の虫が元気よく鳴いています。

    皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

この度、那須耕介の追悼文集を、編集委員の皆様のご厚意と並々ならぬご尽力により作成いただきました。

文集にご寄稿をお願いしました皆様には、ご多用のところ、心のこもった力強い追悼文をお寄せいただき、本当にありがとうございました。言葉は人を支えるのだと実感いたしました。

また一方で、長いお付き合いで 思い出とお気持ちがまとまらず、どうしても寄稿できない、と辞退された方々にも、気持ちを向けていただいた御礼と、お心を煩わせてしまったお詫びを申し上げます。

どちらのお気持ちも、私たち遺族にとりましては大変有り難いものでした。

 

那須は交流のあった方の人となりを、尊敬や親しみをこめて、家でも楽しそうに話していました。それで、この度の追悼文も、直接いただいたお手紙のように読みました。過分なお褒めの言葉や、良いように捉えて書いてくださっているものには恐縮しつつ、おかげさまでこれまで知らなかった那須の行動や言葉を新たにたくさん知ることができました。心から感謝申し上げます。

 

亡くなって1年が経とうとしている今も、日々の生活に追われて、実感もなく落ち着きませんが、皆様の追悼文を読んで思い出したことや、那須が折に触れて言っていたことなども、子どものために少しずつ記録に残しておこうと思っています。個人的な内容ばかりになりますが、那須を想ってくださった皆様にも 良ければ見ていただけるようにと、お忙しい橋本努先生に大変ご親切にご教示いただきながら、Googleのホームページを準備しているところです。書いたもの、本棚の写真、聴いていた音楽の紹介なども、ゆっくり進めて参ります。皆様には余分なことながら、完成の際にはお知らせしたいと思っております。

 

また、同封しました本は、生前に京都新聞夕刊の『現代のことば』に書いていたエッセイをまとめた物です。唯一、ボツになった一編も入っており、ご高覧いただけましたら幸いです。

 

最後になりますが、追悼文集の作成に際しまして、服部高宏先生には、想像もつかないような膨大な時間を掛けて取材・編集作業に取り組んでいただき、最後まで大変に細やかなお心遣いを重ねていただきましたことと、今回の発送作業も編集委員の皆様に助けていただきましたこと、感謝してお伝えいたします。

 

 末筆ながら、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

    敬具 

 

                      那須 美栄子

                                親族一同

 2022年9月7日

 

追悼文

追悼文集那須耕介さんの「ま、そんなもんやで」』

編集・発行  那須耕介さん追悼文集編集委員会    2022.9.7(非売品)

                                                           目次


はしがき[田中成明]


第1章 政策的思考と法的思考の特質と相互関係について――公共政策学の法哲学への示唆に関する覚書[田中成明]

 はじめに

 1 政治・政策・法への視点と思考様式をどのように理解するか

 2 実践学における古典的思慮概念の現代的継承の諸相

 3 公共的課題への対応とパターナリズム

 4 実践学の諸分野と合理性概念の多元化・重層化傾向

 むすびに代えて


第2章 法多元主義における法・政治・政策の位置づけ[浅野有紀]

   はじめに

 1 法多元主義

 2 法多元主義におけるリーガリティとインターリーガリティの概念

 3 那須論文と佐野論文とから得られる示唆


第3章 政策的思考の二つの理解と法、政治、政策の自立性[濱 真一郎]

 1 政策的思考の二つの理解

 2 ハート対ドゥオーキン論争――予備的考察

 3 法の自立性への注目

 4 政策的思考の二つの理解と政治、法、政策の自立性


第4章 那須耕介の「内在/関係論」を読み解く[佐野 亘]

 はじめに

 1 内在/関係論に対する疑問

 2 ステインバーガーと那須の政治的判断論

 3 加藤典洋の内在/関係論

 4 考察


第5章 一人称複数における法・政策・政治[近藤圭介]

 はじめに

 1 一人称複数の法理論の構想

 2 一人称複数の法理論の意義と課題

 3 一人称複数の法理論から見た法・政策・政治

 おわりに


第6章 ナッジの内在道徳論への応答[若松良樹]

 1 「でも」の続き

 2 那須の賢慮論

 3 ナッジの性能評価を待ち受ける困難

 4 ナッジの内在道徳

 5 麗しき幻想

 6 学習する知性

 7 論争の続き


第7章 政治的思考のなかでの法的思考の役割[亀本 洋]

 1 那須論文への違和感

 2 法治主義と法の支配

 3 法治主義

 4 軍事的安全保障研究政策をめぐる法的思考

 5 法的思考の強み


第8章 政治的思考・政策的思考と政策デザイン――エビデンスに基づく政策形成(EBPM)のための思考様式[奥田 恒]

 1 政策目的と政策デザイン

 2 EBPMにおける政策目的とその熟慮

 3 政治的思考とサンダーソンのEBPM論

 4 EBPMを支える政策的思考

 おわりに


第9章 卓越的自由主義[橋本 努]

 はじめに

 1 ロールズ理論の卓越主義的解釈

 2 自尊心の問題

 3 中立型と卓越型――二つの自由主義の関係

 4 啓発教化型と願望型

 5 価値選択型と未知挑戦型――文化政策をめぐって

 おわりに――自尊心の代理的性格


第10章 「政策」をどのように捉えるか――法と政治との関係で[服部高宏]

 はじめに

 1 政策・政策的思考の捉え方をめぐって

 2 Politikの三側面

 おわりに


第11章 AI裁判官――技術・機能・原理[宇佐美 誠]

 1 AI裁判官という主題

 2 技術的にどこまで可能か

 3 いかなる機能を果たしうるか

 4 基本原理に適合するか

 5 未来の司法


第12章 法学教育と法哲学、そして法的・政治的・政策的思考[中山竜一]

 はじめに

 1 那須の法学部教育論

 2 法学教育と法哲学をめぐる思想史的断片――大陸ヨーロッパ、イングランド、アメリカ

 3 法的思考・政治的思考・政策的思考と法学部教育


第13章 民主主義の病理の克服に向けての立法府及び立法者の役割――「立法学」への誘い[足立幸男]

はじめに

 1 立法理学(Legisprudence)と立法学(Legislative Studies)

 2 民主主義の近視眼

 3 (超)長期的な選好の育成・強化

 4 (超)長期的視野に立った政策選択・実施の可能性を高めるための制度デザイン・リデザイン

 5 長期的諸問題に対処することへの立法者の意志と能力


那須耕介略歴

那須耕介主要著作目録

編著者・執筆者紹介


追悼文集に載せられなかった追悼文はこちらに掲載させていただきます。
    (もし思い出されるエピソードなどがありましたら、

コメント欄からご連絡いただけたら有り難いです。)

亀井英樹さん(幼馴染)        那須君の想い出            

   

   那須君の想い出            

             亀井英樹

 

 

那須君とは、滋賀県草津市立笠縫小学校3年生の時に同じ組になったことで知り合いまし

た。特に5年生の時に那須君が京都に引っ越すまでの2年間は毎日のように一緒に過ごしま

した。

 通学路が途中まで同じだったことから、よく那須君と2人で学校から帰りました。

学校から家に帰る途中、上笠2丁目交差点の本屋に寄り道しては、外の陳列棚の少年チャン

ピオンを二人並んで立ち読みしました。一方が爆笑すると、「どれどれ?」と言いながら覗き

見るとたいてい連載中の「がきデカ」で、覗き見ながらやはり爆笑することを交互に繰り返

しておりました。陳列棚の裏にはガラスをはさんで店番の席がありましたから、小学生2人

が爆笑してるのが聞こえていたはずですが、立ち読みをとがめられたことはありませんでし

た。

 また、この頃の那須君は何かにつけ小松政夫のしらけ鳥音頭を楽しそうに歌っていました。

 

 草津市の那須君の自宅にはよく遊びに行きました。当時としても珍しいメゾネットタイプ

2階建の社宅でした。リビングには僕の家にはない暖かそうなブランケットやクッションが

置かれたソファーや那須君が習っていたエレクトーンがありました。

 那須君が一度エレクトーンで弾いてくれた「愛は世界を変える(Con Todo Mi Amor)」に

僕は大変感動し、その一度だけでメロディーを初めから終いまで覚えてしまいました。今で

もそのメロディーを口ずさむことがあります。

  那須君が家族で彦根城にドライブに行った時に僕も一緒に連れて行ってもらったことが

ありました。彦根城近くの荒神山公園に遊具として設置された大きなタイヤにも那須君と弟

の学君、末っ子の良太君ら三兄弟と登りました。

 また、那須君が教会に通っていた縁で、僕と僕の弟とを教会で催されるイースター祭に連

れて行ってくれたこともありました。

 

那須君や町内の同年代の子たちとは時々草野球もしました。那須君は阪神タイガースの掛

布雅之選手の大ファンでしたので、時々、掛布選手のバッティングフォームの真似をして喝

采を浴びていました。

 高度経済成長期にあった当時はクラスメイト同士のお誕生日会がよくあり、僕も、那須君

を含めて他のクラスメイトに自宅に来てもらったり、お呼ばれしたりしていました。

一度、那須君のお誕生日会に行った時は、ご両親からのプレゼントだった掛布選手のバッテ

ィングフォームの大きなフォトパネルを、那須君は嬉しそうにずっと抱えていました。フォ

トパネルはその後も長い間那須君の部屋に掛けられていました。

 

 那須君とはケンカもしました。

冒頭でも記しましたように、毎日のように一緒に帰ったり、遊んだりしていたのは、那須君

が京都に転校する前の小学3~4年生の2年間でした。その期間で、2度、トラブルがあり

ました。

 引き金は那須君との会話の中での僕の何気ない受け答えにありました。

1度目は那須君の自宅横の石原グランドと呼ばれた原っぱで草野球の最中でのことでした。

2度目は学校の授業と授業との間の休み時間でのことでした。僕と那須君を含む同学年の内

の数組は、第二次ベビーブームで小学校がマンモス化したため、運動場に数戸建てられたプ

レハブ教室で1~2年間過ごしたのですが、そのプレハブ教室の黒板前の教壇でのことでし

た。

 2回とも、不意に激昂して歯をむいた柴犬のような顔の那須君に顔面パンチを一発入れら

れて、僕はその場に崩れました。

 ただ、当時も今も、那須君が何に激昂したのかが分からないままです。訳もわからず殴り

倒された僕も腹の虫が治りません。僕は同じクラスのガキ大将に那須君の「無いこと無いこ

と」を吹き込んで、激怒して弁明などに耳に貸さないガキ大将に追いかけ回される恐怖を那

須君に味わわせました。

 それが、よほど那須君の嫌な思い出だったようで、後に、大学院博士課程在学中だった那

須君が学会に出席するため上京して、社会人生活を東京で過ごしていた僕と桂花ラーメン新

宿末広店に入って小学校同級生の風の便りや思い出話になった時、那須君が以心伝心で「よ

くもあの時あんなことしてくれたな」と言いたげだったので、僕は薄ら笑いを浮かべながら、

「那須は学生さん、俺は社会人ということで、ここは俺のおごり!」

と言うと、那須君は

「へへーっ」

と、テーブルにひれ伏したのでした。

 

 那須君が小学5年生の時に京都に引っ越して行き、他に仲の良かった自宅近所のクラスメ

イト2人も相次いで京都に引っ越して行きました。

那須君が京都に引っ越してからも、時々連絡を取り合っては、何度も京都のお宅に泊りがけ

で遊びに行きました。

2階の那須君の部屋で、昼下がりから夕方にかけて那須君と他愛もない会話をしたり、僕の

家には無い手塚治虫の「ブラックジャック」を読み耽ったりしました。

朝食時には那須君のお母さんに、

「亀井君、うちはお客さん扱いせえへんえ。パン自分で取って焼きよし。」

などと言われながら、那須君や弟の学君、良太君とワイワイ言いながらオーブントースター

で食パンをピザトーストにして食べました。

 小学6年生の時には、僕と僕の弟とで京都のお宅に泊めてもらい、那須君のお母さんの引

率で近所の橘公園プールに、那須君と下の弟の良太君、那須君のいとこの竜太郎君と僕と弟

とで泳ぎに行ったりもしました。

 

 高校生時代、京都の那須君の家に遊びに行くと、先に記した阪神タイガースの掛布雅之選

手のフォトパネルに加え、フォークシンガーの沢田聖子やかぐや姫の大きなポスターが那須

君の部屋の壁に貼られていました。

 那須君は新聞配達のアルバイトをして、中古でアメリカ建国200周年記念モデルのマー

ティンD76を購入していました。また、どこにそんな物を買うお金があるのかと思うくら

い大きなオーディオも部屋に置かれていました。

 この頃から、僕は那須君の部屋でブルーグラスのカントリージェントルマン、セルダムシ

ーン、トニーライスや、高石ともやとザ・ナターシャ・セブン、憂歌団等多くの音楽を紹介

してもらい、ことごとく魅了され、その後の僕の生活の大きな楽しみとなりました。

 那須君は円山音楽堂でのザ・ナターシャセブンや永六輔などの宵々山コンサートは殆ど毎

年のように行っていたようでした。

 トヨタ自動車のクレスタのCMのBGMで使用されたウィンダムヒル・レーベルのピアノ

のジョージ・ウィンストンも那須君経由で僕の耳に入りました。

 また、当時、那須君のお母さんのご学友のご主人が大阪大学基礎工学部教授を務めておら

れたことから、大学とはどんなところか聞きに行こうと誘われ、那須君のお母さんと3人で

北摂の先生のお宅に伺ったこともありました。

 

 那須君は一浪後、京大法学部に入学しましたが、京大を受験するとは聞いていなかったの

で、後に那須君に、

「ようそんなとこに合格ったなぁ」

と言うと、那須君は、合格発表を見に行って掲示板の前で喜んでいたら、合格者を祝福する

ために来ていた京大生達に酒の入ったコップを渡されたので、一気に飲み干して正面を向い

たところをTVクルーのカメラにアップで撮られてニュースで放映されてしまい、それを視

た高校の先生にえらく怒られたと言っていました。

 

 僕は那須君に遅れること一年、ようやくのことで大学に入学しました。

大学入学が決まった春先に京都の那須君に会いに行きました。那須君は待ち合わせ場所で会

うなり「ようやった、ようやった」とねぎらってくれ、それが大変胸にしみました。

僕はそれ以来、知り合いから進路が決まった連絡を受けるたびに「ようやった、ようやった」

と言うようにしています。

 また、続けて那須君はお祖母さんの介護が大変なことをぼやき始めたのですが、それが何

とも言えず温かい雰囲気に包まれており、僕はほっこりしながらまだ寒い京都の町を那須君

に付いて歩きました。

 那須君はこの頃には相当にジャズ音楽を聴きこんでいるようでした。ジャズ関連のレコー

ドも相当数部屋に置かれていました。

 僕は東京の大学に通っていましたが、学生時代も何度か京都の那須君に会いに行きました。

そのたびに那須君の部屋で音楽を紹介されました。那須君はかなりの数のジャズ音楽関連の

レコードを持っていましたが、僕にはキース・ジャレットの「ケルンコンサート」や「パリ・

コンサート」を紹介してくれました。やはり、ことごとく魅了され、クラシック音楽志向の

僕がその後ジャズ音楽を楽しむことになるきっかけとなりました。

 

 学生時代に東京でも那須君と一度会いました。大学院修士課程に在学中だった那須君は東

京で開催される学会に出席するため、上京する機会があったのです。その空き時間に、高田

馬場駅前のマイルストーンという老舗のジャズ喫茶で待ち合わせをして会い、近況を報告し

合いました。

(マイルストーンは2019年7月に閉店しました。)

 

 僕は学生時代に、大学を卒業するまでの2年間、岩波書店の「よむ」という書評雑誌の編

集部でアルバイトをしていました。編集の初歩的なお手伝い、使いっ走り、企画会議での提

案などを行いました。

 ある日、編集長と二人で、大作家の生誕・没後○〇周年記念企画のための調査で社内の資

料室に行った時に、那須君の名前が表紙に載っていた雑誌「思想の科学」がちょうど表紙を

こちらに向けて立てかけてありましたので、那須君の名前を指差して、

「Sさん、僕の幼馴染です。」

と紹介しました。編集長は立ち止まってちょっと顔を引きつらせましたが、今後の企画の見

通しや彼の考え等とマッチしなかったようで何も言わず、すぐに二人で資料室を出ました。

内心、他の企画で那須君に書いてもらえたらと期待してしまった僕としては大変残念な思い

を味わいました。

 

 先にも記しましたが、大学院博士課程に在学中の那須君とは一度、学会が東京で開催され

るから空き時間に会おうということになり、新宿の紀伊国屋前で待ち合わせて会いました。

僕は就職して会社勤めを始めたところでした。桂花ラーメン新宿末広店に行き、近況を報告

し合いました。

 また、この頃前後して那須君は高校の同級生の美栄子さんと結婚しました。

 

 那須君は博士課程修了後、ポスドク(ポストドクター:任期付き博士研究員)を経て、摂

南大学に就職しました。

 僕の実家は大阪府寝屋川市にあり、実家から摂南大学までは3キロメートルくらいしか離

れておりませんでしたので、その話を那須君から聞かされた時は、数多くある大学のうちで、

よりによって僕の実家の目と鼻の先の大学に決まったのかと大変驚きました。ただし、僕は

東京で生活しておりましたので、盆暮れ正月に帰省した時ですら、大阪で那須君と会うこと

はありませんでした。

 とは言うものの、京都では何度か那須君と会いました。

2005年前後の夏に、久しぶりに会おうということになり、那須君は京都、三条の赤垣屋

という老舗の居酒屋に連れて行ってくれたのですが、夕方まだ明るいころなのにすでに満席

で入れず、祇園の大衆居酒屋に入りました。

大学教員生活について色々話を聞きました。学生や保護者から進路相談を受けることもあっ

たようで、彼らと向き合う那須君の厳しくも愛情に満ちた接し方に胸打たれました。教育と

はどうあるべきかを熟慮し、それを目に見えて実践しているように思われました。

「偉いやつだ。」

と、心底そう思いました。また、口に出して那須君にそう言いました。

 那須君が亡くなった後に掲載された、勁草書房編集部ウェブサイト「けいそうビブリオフ

ィル」の『追悼・那須耕介さん』という2018年の那須君へのインタビュー記事に、

「最初に就職した大学が教育一本でいかざるをえない大学だった。でも、教育はやりだすと

おもしろい。かなりコミットして、それで学問観が変わった感じがあります。」

とのくだりがあり、非常に驚かされるとともに、むべなるかなとも思いました。

  その一方で、2011年の那須君からの年賀状には、幼い姪っ子姉妹と3人で大笑いしな

がらの写真付きで、「姪っ子に『おじさま』と呼ばせています。」とあり、笑ってしまいまし

た。

 

 東日本大震災後の2012年の正月に那須君に会った時には新京極の狭い店で呑んだ後、

三条のれんこん屋に入りました。かなり酔いましたが、その足で那須君の実家に向かいまし

た。

実家には那須君のすぐ下の弟の学君が家族で帰省中でした。学君とは僕の学生時代に那須君

の実家で顔を合わせて以来でしたので、20数年ぶりの再会となりました。学君も幼馴染の

ようなものなので、大いに再会を喜び合い、医師になっていた学君をあらためて祝福しまし

た。

 

 2012年9月、那須君は京都大学大学院に着任しました。

2016年3月には第四回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」に、那須君はコ

メンテータとして、総長の山極壽一氏や建築家で作家の坂口恭平氏らとともに登壇し、大学

によりYou Tube上にその模様が公開されました。僕は偶然にその動画を見つけて、自

宅で食事時や作業時にラジオ代わりによく再生しました。

 

人生100年時代、さぁこれからという2018年の那須君からの年賀状に「去年はちょ

っと大病してしまいました」と書かれていました。それを読んで僕は「ああ大変なことにな

った」と思いました。何か黒いもやが未来に立ち込めるような気がしました。とはいえ、直

ちに連絡を取って病状を問いただすこともできませんでした。那須君の気持ちに土足で踏込

みたくなかったからです。

 その年の夏に僕は大阪に帰省する際、那須君に「大病したそうですね。京都で呑めません

か?」とLINEでメッセージを送りました。那須君から「なるべくなら昼間が希望です。

酒はやめました。」と返事がありました。

 北白川の那須君の自宅にはこの時初めて訪れました。出町柳駅へは那須君が車で迎えに来

てくれました。

 助手席に乗り込み、まずは一旦、上京区の那須君の実家に向かう中、運転する那須君に病

名や進行状況などについて問いかけたところ、すい炎の手術の際にすい臓がんが見つかった

こと、意外にも治療がうまくいっており病巣もほとんどなく、明るい見通しであるように説

明を受け、大変安心しました。

 那須君のご両親に久方ぶりの挨拶を済ませた後、彼の自宅に向かいました。

この日、奥さんの美栄子さんは外出していて不在でした。

那須君の自宅は木造の注文住宅でした。格子戸の玄関をしつらえた吹き抜け二階建てで、

薪ストーブのある大変凝ったものでした。一階リビングの吹き抜けと2階寝室の配置が吉村

順三設計の園田高弘邸のようでした。住み始めて七年とのことでしたが、自宅の完成時には

建築にかかわった職人の方々を招いて宴会を開いたようでした。

 家の裏には薪がうず高く積まれていましたが、一冬で無くなってしまうようでした。薪は

近くの山の所有者から自由に持って行っていいといわれているらしく、その山を利用してい

ました。

 今から考えると、2018年から2019年の秋までは、那須君の病状は小康状態だった

ようでした。2017年6月に医師から宣告を受けたものの、2018年8月に僕と会った

時には先に記したように明るい見通しだったのですから。

 那須君は出してくれた丸ごとグレープフルーツゼリーを口に運びながら「わしは学者とし

ては全然大したことあらへん」と言っていましたが、その後、少なくとも2019年7月、

8月に京都新聞夕刊の「現代のことば」に寄稿、9月には東京で狂言の舞台に復帰、共著の

出版、と、飛ぶ鳥を落とす勢いで那須君は活躍し続けました。

(「現代のことば」には亡くなる2週間前まで掲載され続けていました。)

 

 2019年11月に美栄子さんから治療再開の便りがありました。体調の波はあるが仕事

にもなんとか行っているとのことでした。それを読んで僕は「そんなに酷いのか」と思いま

した。大病をしたことが書かれていた2018年の年賀状を読んだ時のように、また何か黒

いもやが未来に立ち込めるような気がしました。とはいえ、その時と同様に、直ちに連絡を

取って病状を問いただすこともできませんでした。

 それから一か月半後、その年の暮れに僕は大阪へ帰省するにあたって、那須君に正月三が

日のどこかで会いたい旨をLINEで伝えました。すると

「1日でも2日でもどちらでも大丈夫です。体調のことも考えると、家に来ていただけると

助かります。」

との返事がありました。

 2020年1月2日(木)の昼過ぎに、2018年の夏と同様、那須君が出町柳駅に車で

迎えに来てくれました。抗がん剤治療で頭髪が抜けてしまったため、那須君は黒いニットの

帽子をかぶっていましたが、この時はまだまだとても元気そうでした。

 北白川の那須君の自宅に着くと、美栄子さんは外出中でした。

那須君と僕は板の間のリビングの座卓に向かい合って腰を下ろし、那須君が出してくれたイ

チゴとシフォンケーキとコーヒーに手を付けながら、病状を聞いたり、お互いの近況につい

て話しました。那須君の治療再開は、2019年10月頃に癌の肝臓への転移が発覚したこ

とによるものでした。

 この日、那須君から初めて、施設から五歳の女の子を迎えて育てることになったと打明け

られました。明後日の1月4日(土)に実家で家族へのお披露目会を行うことになっている

ようでした。僕は非常に驚き、どういう経緯でそのようなことになったのか聞きました。す

ると那須君は、知り合いの施設経営者との会話の中で「何かお手伝いしましょうか」と申し

出たことがきっかけで、このような流れになったのだと言いました。

 「この子が大きくなる頃までには、わしは死んどるし・・・・」

その子の写真を見ながら那須君はそう言って無口になり、ギターを手に取ってこちらを向い

て弾き始めました。アイリッシュ・フォークのようなインストゥルメンタル曲を何分も弾い

ていました。

「ジョン・レンボーンみたいな曲やな」

と、僕は言いました。

「高校の時に弾いていた曲や。当時、よう聴いてたねん。」

と、那須君は言いました。

「昼飯、どこで食ってきたん?」

と、那須君は言いました。

「さっき、寿司買って賀茂川べりに座って食ってきた。」

と、僕は答えました。

すると那須君は急に追い詰められた表情になり、絞り出すような声で、

「˝あ~っ、言うてくれたら、かに道楽にでも行ったのにぃっ!」

と言いました。

「おおっ!そうや!次に会った時は飯食おうぜ!」

と、僕は言いました。那須君もうなずきました。

 まさかその時には、このやりとりが那須君と最後に会った日のことになるとは考えもしま

せんでした。

 冷えてきたからと、那須君は薪ストーブに火をくべ始めました。そうこうするうちに美栄

子さんが帰ってきました。

  帰りは三条のブックオフまで那須君に車で送ってもらいました。那須君はニットの黒い帽

子をアフロヘアのかつらに被り替えて、照れ隠しなのか、少しおどけた様子でした。

 

 その後は何ヶ月かおきに、那須君にLINEでご機嫌伺いをして、病状を聞きました。那

須君が心配なのはもちろんですが、僕の知らないうちに病状が悪化して、前触れもなく那須

君が亡くなった知らせを聞くことになることは何としても避けたかったのです。

 その年のゴールデンウィークには、

「ありがとう。こちらは元気にしてます。幼稚園が休園のため、ステイ・ホームどころか毎

日近所の児童公園を渡り歩いて陽を浴びています。今日も午前中いっぱい鴨川河川敷で過ご

しました。副作用はいまのところコントロールできています。明後日からは大学のリモート

講義も始めますが、子育て中心の生活は変わらないでしょう。天気がいいので助かります。」

と、子育てに全力投球している様子でしたので、僕はてっきり那須君が快復基調にあるので

はないかと安心してしまいました。

 ところが、8月にはLINEでメッセージを送っても反応が遅く、

「連絡ありがとう。体調はまずまずですが、毎週の投薬後の副作用は程度も種類も様々で先

が読めない感じです。癌の進行、新たな転移は今のところ見つかっていません。もっぱら副

作用との戦いといったところです。」

と、投薬による副作用で日常生活もままならなくなっているようでした。

 その後、11月の那須君の誕生日には、

「ありがとう。体調はまあまあ、体力は低下気味です。抗がん剤が効いたらしく、急遽入院

手術が決まりました。いろいろリスクはありますが、可能性がある以上は試してみるつもり

です。入院は来月中旬、最短で半月です。」

 今になってみると、この頃、那須君の容体は悪化の傾向にあったように思われるのですが、

正月に会って以来、顔も見ていない上に、これまでの数えるほどのLINEのやり取りから、

僕は勝手に那須君の容体は安定基調に向かっているのだと思い込んでいました。12月に手

術すれば那須君の容体はますます安定基調になるのだろうとたかを括っていました。

 

 それから2021年7月になるまで、那須君の容体を気にしながらも、連絡はしませんで

した。煩わしく思われるのは本意ではありませんし、看病する奥さんや家族もいます。

 美栄子さんの喪主挨拶に、

「2019年9月に肝臓に転移し、抗がん剤治療を再開しました。しかし次第に体が耐えら

れなくなり、今年3月から九州の病院に通い、体に負担の少ない治療を7月末まで受けてい

ました。京都に戻って、座談会をひとつ、家族旅行を一泊した後、8月から急に容態が悪く

なり、自宅で緩和ケアを受けるようになりました。」

とあり、この頃の那須君の容体は安定基調どころか悪化の一途をたどっていたのでした。

 

 2021年7月下旬になって、久しぶりに那須君にLINEでこちらの近況報告と那須君

の病状、体調をたずねるメッセージを送りました。

 ところがその日のうちに既読表示があったものの、一週間経っても返信はありませんでし

た。僕は、那須君は薬の副作用と戦っているのに加えて、仕事が忙しいのだろうと思うよう

にしていました。

 8月9日(月)、メッセージを送ってから二週間が過ぎた頃になって、ようやく那須君から

返信がありました。

「たいへん返事が遅れてしまいました。ご心配おかけしたかもしれません。ここのところ体

調が安定せず、今日ようやく溜まったメール等に返信しはじめたというところです。

病状は一段悪化してしまったことは確かで、秋からは仕事を休むことも考えねばなりません。

もうちょっと回復すれば詳しくお話しできるのですが。すみませんね。また近々。」

僕は、秋から仕事を休むことも考えねばならないとは一体どう言うことなのか、そんなに具

合が悪いのか、と暗たんたる気持になりました。直ぐに

「便りのないのは良い便り、と考えていましたが、心配です。」

と返信したところ、

「ごめんね。」

と、那須君から返信がありました。

これが那須君との今生の別れになりました。

 

僕には耕佑という名の甥っ子がいます。もちろん那須君の名前に因んだ名前です。僕の9

才下の妹の長男で、生まれた時に姓名判断の先生から提示された名前の一つでした。僕は、

妹が0~1才の頃、草津の実家で那須君に抱っこされたことがあること、那須君は学者にな

ったこと等を挙げ、那須君にあやかれるよう、字は違いますが耕佑という名前を強く推しま

した。

その耕佑は、2021年に中学生になってからというもの、数学オリンピックの問題を解

くこと等に関心を示し、僕の父や弟に解けるかどうか吹っ掛けて、僕も巻き込まれて往生し

ています。那須君が亡くなってからは、新聞に掲載された那須君の写真や記事を見せて、耕

佑に名前の由来を聞かせています。

 

 僕は、那須君と知り合ってから毎日のように仲良く過ごし、那須君が京都に引っ越した後

も、那須君に紹介してもらった音楽にことごとく魅了され、親しんできました。その那須君

が学者への道に進んでいくうちに、那須君は僕にとって段々と北極星のような存在になっていきました。

それは今も変わりません。

                                 ❘ 幼馴染 ❘


尾崎(旧姓 浅野)美子さん(幼稚園の担任)

 那須の母へのお手紙より

寒さの中にも水仙が咲き始めたり、梅の硬いつぼみが色づいていたり、春の兆しが感じられるこの頃です。

 この度は、おたよりと追悼文集やご本、お写真など耕ちゃんの想い出の数々を贈っていただきありがとうございます。

 年の暮れに登貴子先生のお声掛けによって思いがけないお出会いをさせていただき感謝しております。私は、耕ちゃんのご逝去については同封の「朝日新聞・多事奏論」で知ることになりました。それまで『ナッジ!?』の出版(これも朝日新聞より知りました)などで耕ちゃんのご活躍にはふれていたのですが。

 お正月は集まった娘達とのお喋りの中で次々と耕ちゃんや学ちゃんの話が出てきました。夫は教会学校の先生をしていたのでキャンプなどでご一緒させていただきました。長女は教会の一泊修養会で雨の木曽駒に一緒に登った想い出、次女は耕ちゃんと誕生日が同じで血液型も同じ、手相のますかけ線まで同じやーって話したことなど、その時だけはもうこの世でお会いできないということを忘れていました。

 耕ちゃんとの出会いは忘れられません。信愛幼稚園に就職が決まっていた私は、来年受け持つだろう子ども達の発表会を見に行っていたのです。耕ちゃんは、ばら組さんでした。そのときに、劇の最中だったのかどうか記憶が怪しいのですが、プラスティックのおもちゃの槌で輪になって座っている子ども達の頭をピコピコ(音の出る槌・叩いても痛くない)と叩いて回ったのです。みんな唖然としてだれも止めに入らないので、耕ちゃんも止めるきっかけを失ったかのように続けていて、とうとう見かねたお父さんの「こうすけー」という叱責によって止めることができたのでした。その日は他に2組くらい喧嘩を始める児達、おふざけが止まらない児が現れました。そして迎えた新学期。この騒動の3人がゆり2組、私のクラスでした。新米先生にやれるだろうかと心配ひとしきりでした。ゆり2組は個性豊かな児が多かったです。自分が納得したらとことん力を出すが、納得いかないことは「いやだ!」とはっきりしていました。正義感も頗る旺盛。耕ちゃんはその筆頭。ですから、間違ったことやずるいことには怒りを露わにするのでトラブルは絶えません。でも、困っている児や泣いている児にはおせっかいと思うくらい声をかける児でした。ゆり組最後の発表会では、耕ちゃんはいっぱいアイディアを出してくれました。「あひるは鳥なんだからほんとうに泳いでいるみたいにしないと…」と、本番ではできませんが保育室ではみんなでスケートのように滑りました。(靴下に穴が空いていたらきっとそのせい)みんなで作った「みにくいアヒルの子」でした。先生は効果音のピアノを弾くくらい。みんな自分をしっかり持っていて力のある子ども達でした。

 ゆり2組さんを担当していた一年間はちょうど夫と付き合っていた頃で、デートの度に「耕ちゃんがねー」と耕ちゃんの話ばかりする私に、夫は呆れ顔でそれでも参考になる意見をもらっていました。

 あれから家庭に入って子育てをし40歳からの再出発で教育相談の仕事を始めましたが、こういう仕事に就いた根っこにはあの一年間に耕ちゃんや他の個性豊かな子ども達から投げかけられた宿題があったからだと思います。

 今の職場(養護施設)の隣の部署の人は里親さんの支援をしていて、里親さんの悩みや楽しいお話を聞くことが多く、櫻子ちゃんの記事を読んで耕ちゃんや奥様といい関係が築けている様子が目に浮かびました。

 私にとっては5歳の耕ちゃんばかりが思い浮かんでいたのですが、今『ま、そんなもんやで』を読ませていただいて、小学校以降の歩んできた道のりを辿ることができました。「歯をむいた柴犬のような」は、そうそう、そうでした!と耕ちゃんの怒った時の顔を思い出したり、「言いたいことがうまく言葉にできないもどかしさこそが、あらゆる思考への入り口であり、原動力です」と教え子に語る耕ちゃんには、その血の通った言葉に耕ちゃんらしい人と正直にまっすぐ向き合ってこられた姿を想像したり、「曖昧なものは曖昧に語るしかなく、明快に答えられないままにしておく方がいいという哲学」…もう耕ちゃんではなくて那須先生でした。新しいお家作りにも耕ちゃんの生き方があふれていて…たくさんの人々に生きた言葉や生き方、学び方、考え方など影響を与えてこられたのだなーと、こんなに多くの人の心の中で耕ちゃんは生き続けているような気持ちにさせられました。

 生きてて欲しかったです。お話ししたかったです。『つたなさの方へ』は娘達も欲しいというのでプレゼントしました。次女は友人にプレゼントするとのことです。ひとびとが自分で考えるのではなく、大きな力に頼るようになっている今の時代に、「個人が自立・自律して生きられる社会への道筋を考え続けていた」耕ちゃんの本に多くの人が出会って欲しいと思っています。この時代にこそ絶対存在して導いていただきたい人です。生きてて欲しかったです。ほんとに残念でなりません。