中大江小学校旧校舎

 大阪市の小学校は、江戸時代からの教育施設であった懐徳堂1724年(享保9年)や寺子屋が、明治の学制(1872年(明治5年)日本の教育制度の規則が定められた)によって廃止され、小学校の設置がされました。この学制によって、中大江小学校は、1873年(明治6年)3月に東大組第六番小学校(徳井小学校)、6月に東大組第七番小学校(松江小学校)、12月に東大組第八番小学校(亀山小学校)、翌年2月には東大組第九番小学校(大手小学校)が設置されました。(大阪市教育センター資料の中大江尋常小学校の建設記録に創立年月日は1873年(明治6年)6月10日との記載があります。)

 1884年(明治17年)には区の管理区域改訂が行われ、9つの小学校区に分かれ、南大江、中大江、北大江、北船場東(のちに今橋、さらに集英と改称)、愛日、中船場東(のちに汎愛と改称)、南船場東(のちに浪華と改称)、南船場(のちに百済、さらに久宝と改称)、中船場(のちに船場と改称)の9つの小学校が設置されることになりました。これを受けて、1885年(明治18年)7月に大手小学校を公立中大江小学校本校、松江小学校を第一分校、亀山小学校を第二分校、徳井小学校を第三分校としました。この時、第三分校に中大江小学校付属幼稚園科が設けられました。1887年(明治20年)には名前を中大江尋常小学校と中大江幼稚園としています。

 1890年(明治23年)には第一分校へ本校を移転し、1894年(明治27年)5月13日には現在地に新築校舎が落成しました。

 1898年(明治31年)の火災によって翌年11月25日に建物が再建されました。大阪市指定文化財の大阪市立愛珠幼稚園(1880年(明治13年))の設計者と同じ中村竹松氏 といわれています。

 中大江幼稚園は1907年(明治40年)に現在地へ移転しています。

 1927年(昭和2年)4月大阪府泉佐野市日根野(現在は日根野公民館)に移築され、2005年(平成17年)に解体されるまで村役場や公民館、図書館として活躍していました。

 建物はなくなってしまいましたが、建物を移築し役場や公民館、そして図書館として活用されてきた人々の愛着が残る建物は、全国的にも数少ない明治期の建築様式という歴史的価値だけでなく、新たな(受け継がれてゆく)価値のある、貴重な歴史的建築物の木造学校建築でした。

 江友会では、130周年記念事業として2003年(平成15年)7月20日に見学を行いました。また、建物の屋根を支えていた柱の一部を譲り受けて、ケースに収めて小学校へ寄贈しました。現在、中大江小学校の廊下に展示されています。

正面(西側)入口

旧中大江小学校玄関

全景:南側

全景:北西側

入口御影石(一枚板)の段

玄関のタイル(現在の小学校玄関に一部使用)

玄関から内部を見る

玄関から外を見る

130周年記念見学会

130周年記念事業見学会

130周年記念事業見学会

1932年(昭和7年)頃の正門前での臨海学校記念写真。このころには建物が泉佐野へ移築されているので、泉南方面への臨海学校の時に旧校舎を使わせていただいたのかもしれません。

新聞記事:産経新聞

階段手すり支柱

西側立面図

南側立面図

中大江尋常小学校創立時のすがた

1階平面図

出入口は南側にあり、玄関を入ると正面に職員室、玄関の左右に2階に上がる階段があります。正面の左側に教室、右側に屋内運動場があります。屋外運動場は職員室の横から外に出ます。中庭のような運動場です。

2階平面図

左右の階段を上がると教室ですが、左の階段と右の階段は、中央の講堂で分けられ、左右の教室への階段を使い分けできるようになっていました。

現在の中大江小学校の場所に中大江尋常小学校が1873年(明治6年)6月10日に設立され、1899年(明治32年)11月25日に校舎の新築がされました。2階建て、教室数25室、約1,538m2の大きさで、洋燈(らんぷ)置場、がありました。井戸家形と記載があるので、井戸もあったようです。建設費は47,378円62銭6里でした。(大阪市教育センター資料から)

中大江幼稚園は中大江小学校の設立当時から併設されていましたが、校名は中大江裁縫学校にもなっています。2階建てと平屋建ての建物で、普通教室4、保育室6、面積約707m2の大きさでした。設立は1885年(明治18年)11月、建設日の記載はありませんが1903年(明治35年)10月13日でしょうか。(大阪市教育センター資料から)