僕の趣味について
#14 僕の趣味について
僕は大阪の岸里というところで生まれ育ちました。
その岸里に千本通りという通りがあり、そこに東京堂という模型屋さんがあったのです。
現在もあるはずです。
僕が小学校に通っていた頃だから1950年の後半の頃に、仲のよかった何人かの同級生達と、
放課後になると毎日のようにこの東京堂に入り浸っていました。
この時の同級生の名前はなぜか今でも鮮明に憶えているのです。
飛行機や船の絵を描くのが上手だった島田君。
西鉄ライオンズが大好きだった宮野君。
成績はいつもトップ・クラスだった野村君。
南海電鉄の天下茶屋車庫の敷地内に家があった長野君。
こんな11 -1 2歳のやんちゃ坊主五人の相手を、東京堂のオッチャンはいつも嫌な顔ひとつせずしてくれました。
当時は木を削って作る模型というのが主流で、お小遣いを貯めて戦闘機や軍艦のキットを購入し、
作り方はいつもオッチャンに教えてもらっていました。
初めの頃はいきなりセメダインで接着しそのまま直ぐにラッカーを塗るという、
子供ならではの無茶苦茶な作り方をしていました。
でもオッチャンに教えてもらった先にラッカー・パテで目止めをし、
次にサーフェイサーというラッカーの乗りを良くする下地塗料を塗るというやり方が
とても大人っぽくて、格好良く見えたのでした。
又、水ペーパーという物の存在を知ったのもこの頃です。
その後この木製の軍艦作りは中学生になってからも続き、
その頃には当時の木製スケール・キットでは最もサイズの大きかった
静岡理工社製の200分の1という軍艦のスケール・モデルを作ったりしていました。
特に憶えているのは1/200の"鳥海"という巡洋艦と、同じく1/200の戦艦"長門"という二隻の軍艦の事です。
というのはこの二隻の模型を模型コンテストに出品したところ、なんと優勝してしまったのです。
それも二年連続で!
もちろんオッチャンが長年に渡る模型作りのノウハウを僕に全て教えてくれたからだと今でも思っています。
何しろ毎年夏に行われる模型コンテストに出品する為に、一年掛かりで作るのですから
普段は放課後そして日曜日は朝からといった具合に、
それこそ東京堂に居る時間の方が多かったように記憶しています。
僕の何かやりだすとのめり込むという性格は、この頃に出来たのかも知れない。
そしてプラモデルに出逢ったのもこの頃でした。
マルサン、三共、田宮そして当時最も感動したのがレベル、モノグラムといったアメリカ製のプラモデルでした。
そのディテールの素晴らしさは、それまで木製の飛行機しか作った事のなかった僕にとって
大変なカルチャー・ショックだった。
特にモノグラムのキットは群を抜いていて、1/50のSBD・ドーントレス、TBF・アベンジャー、
F6F・ヘルキャッ卜、F4F・ワイルドキャット、F4U・コルセアなど可動部分も含めて絶句したものだ。
今でこそハセガワ、タミヤと言えば世界に通用するプラモデル・メーカーだが、
1961-1962年頃の日本製のキットはスケール・モデルと呼ぶには程遠い物であった。
でもマルサンの1/50の百式司偵や零式三座水偵なんかそれなりに良いキットだったように思う。
確か零式三座水偵なんかマブチ・モーターを胴体に組み込んでプロペラが回るようになっていたんじゃないかな。
そして1963-1964年頃に1/32スケールのキットがレベル社から発売されたのです。
スピットファイアとメッサーシュミット・Bf 1 0 9 F。
これにはまずそのサイズの大きさに驚きました。
そして点検パネルやリベットといった細部まできっちりとモールドされ、
当時は究極のプラモデルと呼ばれていたように思います。
これらの沢山のプラモデルや前述の鳥海、長門は岸里の実家に置いてあったのですが、
1972-1973年頃に実家を出てから全て処分されたようです。
そしてその実家もなくなりました。
でも千本通りは今でもあるし、東京堂も何年か前に訪れたことがあるので今でも店を聞いていると恩います。
ただオッチャンがかなり高齢なので、元気でおられる事を願っています。
目を限ると東京堂の奥の工作室で、それこそ一生懸命ペーパー掛けしたり、
朴の木を削ったりしている僕や島田君の姿が鮮やかに蘇ります。
この数年、時聞がある時に再びプラモデル作りを始めました。
これって何処かで昔の自分を再確認しようとしているのかも知れません。
2000.8.02
中川イサト
PS それにしても最近のタミヤ、ハセガワのキットはスゴイなあ!