クラレンス・ホワイトというギタリスト

その1

#3 クラレンス・ホワイトというギタリスト その1


僕のベスト・フェイバリット・ギタリストは以前から色んなところで、

二人のギタリストの名前を挙げてきた。

一人はブルース・コバーンで、もう一人はクラレンス・ホワイトである。

特にクラレンス・ホワイトに関しては、1973年に29歳という若さで他界しているので、

音楽が最も生き生きしていた’60~’70年代初期の想いも含めて、僕自身、彼に対する思い入れが人一倍強い。

先ずは彼のバイオグラフィから書いてみることにしよう。


クラレンス・ホワイトは1944年6月7日にメイン州のマダワスカという町で生まれた。

両親はフレンチ・カナディアンで、父親のエリック・ホワイトSr.がギター、バンジョー、

フィドル、ハーモニカといった色んな楽器をこなし、彼は幼い頃から音楽に親しみをおぼえる。


1954年にカリフォルニアにバーバンクに移り住み、他の三人の兄弟とファミリー・バンドを組む。

”ザ・スリー・リトル・カントリー・ボーイズ”というグループ名で、時々父親も参加し、

レパートリーもカントリーやポップスのスタンダード曲やトラディショナルな曲が中心であった。

この時のクラレンスはまだ10歳である。

翌年の1955年に兄のローランドがビル・モンローの”バイク・カウンティ・ブレイクダウン”

という曲を耳にしたキッカケになり、ブルーグラス・ミュージックにのめり込んでいく。

そしてラジオ番組が主催するコンテストで優勝したり、

カントリー・バーンダンス・ジュビリーというTVショウにも出演したりするようになる。


1957年にはジョー・メイフィスという、当時ウエスト・コーストでは有名なカントリー系ギタリストの

TVショウにも時々出演する。


1958年にはバンジョー・プレイヤーのビリー・レイ・レイサムがメンバーとして加わり、

よりブルーグラス・サウンドを確立してゆく。

又グループ名もザ・カントリー・ボーイズというネーミングに変え、

コーヒー・ハウスやフォーク・クラブに出演するようになる。

その中には有名なハリウッドのフォーク・クラブ ”アッシュ・クローブ” も含まれていた。


1959年には初めてのシングル・レコードをサンダウンというレーベルからリリースする。


1960年にはドロ・プレイヤーのリロイ・マックニーズがメンバーに加わり、

リパブリックというレーベルから2枚目のシングル・レコードをリリースする。


1961年にはアンディ・グリフィス・ショウに出演した事がキッカケで、

その番組のライブ・アルバムがメジャーのキャピトルからリリースされ、4曲が収録される。

又、同年にベースを弾いていた次男のエリックがバンドから抜けた為、

新しいメンバーとしてロジャー・ブッシュが加わり、初めてイースト・コースト・ツアーを行う。


1962年はクラレンスにとって最も重要な年であった。

それはドック・ワトスンが初めてウエスト・コースト・ツアーを行い、

ロスアンゼルスではアッシュ・グローブでライブが行われた。

そのドッグ・ワトスンの華麗なフラット・ピッキングを目の当たりにしたクラレンスは、

リード楽器としてのアコースティック・ギターに目覚める。

その後、彼の凄まじい練習が始まったのは言うまでもない。

でも彼の素晴らしいところは、後に自分のフラット・ピッキング・スタイルを確立したことである。


2年後の1964年にワールド・パシフィック・レーベルからリリースされた "アラチアン・スゥイング”

というアルバムでのクラレンスのギター・プレイを聴くと、

この2年間いかに試行錯誤しながら独自のギター・スタイルを追求してきたのかをひしひしと感じる。

センスの良いフレーズと、誰にも真似の出来ないリズムのタイミング、

そして絶妙なトーン・コントロール、数多いフラット・ピッカーの中でもクラレンスほど

ダイナミックスというものを理解しているギタリストは他にはいないと思う。

10歳の時に兄達と一緒にギターを弾きめ、

それから10年後にはフラット・ピッキング・ギターの歴史に残る名盤を作り上げたのだから

凄いとしか言いようがない。



’62年から”ザ・ケンタッキー・カーネルズ”というグループ名に変更し、

以後1965年の10月にグループが解散するまでコンサートやライブ中心のギグを行う。

(後になってから数多くのライブ盤がリリースされたが、

オフィシャルのスタジオ・レコーディング・アルバムは”アラチアン・スゥイング”以降リリースされていない。)


その後のクラレンスについては#4に続く。


2000.2.29

中川イサト

※クラレンス・ホワイトに関するこのシリーズは、紙に印刷したものだけが残っていました。

 打ち間違いがないように注意しましたが、ミスがあるかもしれません。

 あくまでも、中川イサト本人の表記で掲載しています。

 とにかく、クラレンスのことを書きたい一心で、一気に書き上げたものだと思われます。

 長い文ですが、是非最後までお付き合いください。