僕にとっての二十世紀
(1947~2000)その1
# 21 僕にとっての二十世紀(1947-2000) その1
僕は1947年生まれで、当時は両親が共働きだったので4歳になるとすぐに保育園に通わされました。
その頃のことをおぼろげながら憶えていて、
何しろ戦後5~6 年しか経っていないので回りにはまだ戦争の傷跡が残っていました。
それこそそこら中に空き地があり、子供達にとっては最高の遊び場だったのです。
僕の住んでいたのは大阪の岸里という下町で、少し西の方に行くと木津川という川が流れていました。
この川沿いには造船所がいくつもあり、その中には海軍の駆逐艦を建造していた藤永田とか、佐野安という
有名な造船所がありました。
当然のことながら軍事施設は,、 4 5年の大空襲で爆撃を受け、全て破壊されたのです。
その時の爆弾の落ちた後のいたる所に大きな穴があき、そこに雨水が溜まり、
やがてそれらは池になったのです。
それもそこら中に。
僕らはそれらの池を爆弾池と呼んでいました。
近所の遊び仲間とこの爆弾池へザリガニや鮒を釣りにいったものです。
又この頃に朝鮮戦争があり、伊丹や浜寺には在日米軍の基地があったので、
26号線という国道をオリープ・ドラブのジープやバスが数多く行き来していました。
恥ずかしながら彼ら米兵からガムやチョコレートを貰った記憶があります。
でも子供の僕らから見た米軍の兵士達はなぜか格好良かったのです。
僕の父親は大正生まれで、大阪の今宮工業高校の電気科を卒業し、
映写技師という職業を選ぴ、難波にある松竹座という映画館で働いていました。
戦前の日本では花形の職業だったらしく、
昔のアルバムの写真で見る父親はとても格好良く写っていました。
母親は千日前にあった大劇という劇場で、今でいうウグイス嬢をやっていたそうで、
父親とは何かの時に知り合ったと母親に聞いた事がある。
又、母親の両親は東京生まれで、この僕にとっての爺さんは鼈甲職人だったそうだ。
そういえば同居していた大阪の家で鼈甲の櫛を作っているところを見た事がある。
僕が手先を使う事が好きなのは、父親と爺さんの血を継いでいるのかも知れない。
僕が音楽というものに目覚めたのは中学校時代で、
当時エルビス・プレスリーやニール・セダカといったアメリカのポピュラー・シンガーの歌が
ラジオからよく流れていた。
それまで春日八郎や三橋美智也といった人達の歌謡曲しか知らなかった僕にとって、
エルビスやニール・セダカの歌が何と新鮮に聞こえた事か。
同じクラスの友達の中に、僕以上にアメリカン・ポップスにのめり込んでいる奴がいて、
既に彼はドーナツ盤を手に入れ、その歌調カードの英語にカタカナを書き込んで英語っぽく唄って見せてくれた。
1961~1962年頃の話である。
僕が楽器という物を初めて手にしたのは高校2年生の時で、それもたまたま軽音楽部に入ったのがキッカケでした。
その軽音楽部にはハワイアン・バンドがあり、メンバーも沢山いました。
既にギターのセクションは埋まっていて、ヴォーカルとウクレレならいいというので、
仕方なしにヴォーカルとウクレレをやることになったのです。
"アロハオエ"、"カイマナヒラ"、"タフワフワイ"、"南国の夜"、"小さな竹の橋"などは今でも朧気ながら憶えている。
この頃にはベンチャーズやアストロノウツといったエレキ・インストウルメンタル・グループの
サーフィン・ミュージックが流行し、教室にテープ・レコーダーを持ち込んでは
"太陽の彼方"や"ダイヤモンド・ヘッド"をエンドレスで流し、休み時間にサーフィン・ダンスを皆で踊ったりしていた。
ビートルズやローリング・ストーンズがデビューしたのが確か高校2年か3年生の時で、
ただ同時期にアメリカでフォーク・ソング・ブームが起こり、
僕はそっちの方がアコースティック・ギターということもあり、のめり込んでゆきました。
正式にギターを手にしたのは高校3年の時で、これも友達からコード・フォームをいくつか教えてもらい、
それもリズムを刻むだけが精一杯で、フィンガー・スタイルなんてとんでもない事でした。
それでも友人達とP.P.M.スタイルのバンドを組み、学園祭に出演したのです。
今思えば怖さ知らずというか、向こう見ずというか、とんでもない話です。
高校を卒業してからもアメリカン・フォークのコピー・バンドは続き、
この時期に女性ヴォーカリストとして一緒に活動を始めたのが
後に"五つの赤い風船"のメンバーになった藤原秀子さんでした。
彼女は当時、大阪の泉大津に住んでいて、練習は僕の家か彼女の家でやっていました。
それはとても楽しかったように記憶しています。
この時のラインナップは藤原秀子、中川イサト、小河信一、喜田年亮の四人であった。
次回に続く
2000.12.24
中川イサト