僕にとっての二十世紀

(1947~2000)その3

# 24 僕にとっての十世紀(1947-2000) その


前回では1968年の秋頃に"五つの赤い風船"のレコーディングの話が浮上してきたと言うことを書いたが、

実は夏過ぎにメンバーの変動があったのです。

先ずは中学時代からの友人だった喜田年亮君が、

プロ志向になりつつあった"風船"にはついて行けないということで辞める事になった。

そして有山君も高校の進学が来年だと言うことで辞める事になった。

つまり三人だけになってしまったのである。

でもべーシストだけは絶対に必要だったので、

当時フォーク・キャンパーズというグループにいた長野隆君が"風船"に参加することになった。

ただ数多いレパートリーを短期間に憶えて貰うということで、

暫くの聞は喜田君にも練習に参加してもらったことを今でもよく憶えている。

この時の喜田君には親友だったこともあり、申し訳ないという気持ちでいっぱいであった。

こうして第二期"五つの赤い風船"がスター卜することになった。

そして最初の大仕事が、初体験であるレコーディングだった。

それは何月であったかは憶えていないが、' 68年の秋~冬に吹田の千里丘にあった毎日放送のスタジオで、

加藤和彦のディレクションによりレコーディングの作業が始まったのである。

当時の大阪には本格的なレコーディング・スタジオはなく、

ましてや発足したばかりのURCレコードでは制作費が限られていたので、

ラジオ局のスタジオを借りて深夜のレコーディングということになったのである。

今やマルチ・トラック・レコーディングなんて当たり前になっているが、

この時は2トラック・レコーディングで、別トラックにダビングなんて出来ないのだ。

つまり一発録りということである。

ヴォーカル、ハーモニー・ヴォーカルのバランスや、

各楽器のバランスは全て各自がコントロールしなければならないのだ。

でもそれまでコンサー卜に於いて、そういったコントロールはしっかり身についていたので、

さしてやりにくいとは思わなかった。

そしてこの時の加緩和彦が仲々のアイデア・マンで、曲によってはサウンド・オン・サウンドという録り方で、

マルチ・トラック・レコーディングに近い仕上がりになっている。


この"五つの赤い風船"の1s tアルバムは

片面が高田渡のライブ(これも毎日放送のスタジオでライブ・レコーディングされた。)という、

変則的なアルバムとして、1969年lこURC会員だけに配布するという形でリリースされた。

その後、2n dアルバム"おとぎばなし"とミックスしてメジャー・レーベルのビクターからもリリースされることになる。


1 969年に入るとアルバムのリリースということもあり、コンサート活動がより活発になった。

それも全国規模の。

それこそ北海道から九州まで色んな町でコンサー卜を行った。

この当時に所属していた高石音楽事務所には"風船"の他に

高石友也、岡林信康、高田渡といったフォーク・シンガーが所属していて、

"風船"はいつも誰かと一緒にツアーを行った。

真冬の北海道ヘ確か岡林、高田渡と行ったコンサート・ツアーは今も鮮明に憶えている。

それは根室でのコンサートであったが、会湯に行ってみて先ず驚いたのが、

マイクが数本セットされているのだが、

何とテープ・レコーダーに接続して使う簡易型のマイクロフォンであった。

そしてヴォーカルにそのマイクを使うと楽器用がないのである。

でも仕方ないので何とか無理やりギターを持ち上げて演奏したのだ。

それでもオーディエンスは大いに楽しんでくれたのだから、結果オーライということなのだろう。

でも僕自身はこういった経験が後に生きてきたと思っている。

つまり音響設備が悪い時は、自分が力強くピッキングしないと会場内に音を伝えられないのだ。

今だに両手のタッチが人一倍強いのはこの時代の名残りのような気がする。


余談だが、この頃の高田渡は酒など一滴も飲めなくて、

移動で次の町ヘ行くと必ずそれっぽい喫茶店を見つけ、

それこそ一杯の珈琲をじっくりと飲みながら手帳に黙々と詩を書いたりしていたのである。

又、僕とか岡林は下世話な話が好きで時々女の子の話なんかしていると、渡はいつも知らん顔をしていた。

又、渡の漬物嫌いは有名で、ある時コンサート後の食事の時に僕と岡林が渡を押さえ込んで、

無理やり彼の口の中に漬物を詰め込んだ事がある。

その時の渡は本気になって怒っていた。

今でも漬物は駄目なんだろうか?

ひょっとして漬物を肴にして飲んでいたりして・・・・。

まあ今ではそんな全てが懐かしい思い出だ。


この19 6 9年はコンサート・ツアーで忙しかったこともあり、あっという聞に月日が過ぎていった。

そして僕にとっては運命的な秋の群馬県のコンサート・ツアーが待っていた。


次回に続く。

2001.2.9

中川イサ卜