僕にとっての二十世紀

(1947~2000)その

# 22 僕にとっての十世紀(1947-2000) その2


1 9 6 5年に大阪の堺市にある堺市立工業高校を卒業した僕は、

そのまま某デパートの家具製作会社の下請け会社に就職しました。

なにしろ高校での三年間は木工技術の全般を学び、

実習では本側、机、椅子といった家具を実際に作りながら全ての工程を習得する事が出来ました。

でも僕が興味を持ったのはインテリア・ワークも含めたデザインの時間で、

製図板に向かっている時が何故か落ち着けたのです。

今だに何時間でも黙々と手書きの楽譜が書けるのは、その当時のままの自分が居るような気がする。

何かひとつの事に没頭している自分が好きなのです。

会社務めをしながらも音楽活動は続けていて、

藤原秀子さんが参加してからはグループ名もザ・ウインストンズという正式のグループ名が付きました。

このザ・ウインストンズになってからレパートリーも増え、もちろんP.P.M.のコピーばかりでしたが、

ある時はレコード会社が主催のフォーク・コンテストに出たりもしました。

もちろん結果は見事に落選しましたが、そんな事はどうでも良かったのです。

その後に神戸や大阪の学生達が主催するシティ・ジュピリーというフォーク・コンサートに出演するよう

になり、

少しずつ人前で唄ったりする機会が多くなってきました。

そんなある、大阪の西梅田にある喫茶でアメリカ民謡研究会のライブがあるというので、

とりあえず聴きに行ったのです。

その日は何組かのアマチュア・ミュージシャンが演奏したのですが、

一人だけものすごく強烈な個性を持った人が唄っていました。

それも手作りだという5弦バンジョーを、それまで聴いたことのないフレイリングという奏法を使って。

又、その人のファッションもユニークで、普通のジャンパー姿で何故か雨の日でもないのに

ゴム長の靴といういでたちでした。

今思えば馬鹿げた話ですが、当時はフォーク・ソング=アイピー・ファッションだったので、

とても変わった人に見えたのです。

その人が後に"五つの赤い風船"を一緒にやる事になる西岡たかしさんだったのです。

ただこの時は何の面識もなく、単なるアマチュア・プレイヤーと単なるリスナーで終わってしまったのですが、

ある、フーコちゃんの友達のメガネ(彼女の本名は今だに知らない。)という女性から、

鶴橋に自作の歌を吸っている面白い人がいるので、一度遊びに行きませんかという誘いをうけたのです。

そしてフーコちゃんと僕達はその人が住んでいるという鶴橋の自宅ヘギターを持って訪ねてみたのですが、

なんと以前に西梅田の喫茶で唄っていたその人が出迎えてくれ、

何かの縁というか運命的なものを感じました。

それからはウィーク・デイは会社帰りに、土日は午後からという風に、

それこそ毎日のように西岡さんの家に集まっては練習をしていました。

そして練習の後は鶴橋駅の近くにある"吉兆"という食べ物屋さんで、

お好み焼きとか、かき氷を食べながら色んな話をしていた事を今でもよく憶えていて、

何だかとても愉しい時代だったとっています。

やっぱり先の事なんか考えずに、その時何かに没頭するって、

とても大切な事ではないんだろうかと改めて考えさせられました。


ある、僕らがいつものように練習していると、二人の中学生が練習を見させて欲しいと言って訪ねてきたのです。

一人の子は西岡さんの近くにある水島時計の息子で、もう一人の子は同じ中学の同級生だという。

この同級生があの有山じゅんじであった。

彼らもピーター・ポール・アンド・マリーが好きで、そのギター・スタイルを勉強しているという。

そのうち有山君の方が、僕達の取り組んでいるオリジナル・サウンドのグループに味を持ち出したようで、

それこそ毎回の練習に参加するようになった。


僕は、1967年にそれまで務めていた家具製作会社を辞めており、

堺市内にある、舗のショーケースを現場で組みてるという、ちょっとばかり変わった会社に再就職していました。

だから出張が多くて、いつもアタッシュ・ケースに鉄鋸やドライパ一、電気ドリルを入れ、

主に山陰、山陽の農協を回っていました。

この出張りに工具の入ったアタッシュ・ケースを持ったまま西岡さんの家に直行したものです。


1968年には、いよいよ僕達のグループが少し大きなコンサートに出演する事になったのです。

でもそれまでは練習ばかりしていたので、まだこの新しいユニットのグループ名が付いてなかったのです。

ある時に有山君に借りた・シーカーズというイギリスのフォーク・グループのレコードの

"レッド・ラー・ボール"というザ・サークルのヒットを見つけました。

このレッド・ラー・ボールというタイトルと、

当時に上映された"素晴らしい風船旅行"という映画のタイトルをヒントにして

"五つの赤い風船"という素敵なグループ名がついたと記憶しています。

だからオリジナル・メンバーは五人いたのです。

藤原秀子、酋岡たかし、中川イサト、有山じゅんじ、喜の五人が

"五つの赤い風船"としてのオリジナル・ラインナップということになります。

大阪のサンケイ・ホール、神戸国際会館、芦屋の奥池での野外フォーク・コンサー卜、

ヤマハのライト・ミュージック・コンテストといった大きなコンサートに出演する事が出来、

緊張しながらもメンバー皆が楽しんでいました。

あるコンサー卜の前にはフーコちゃんの家で、フェルトを使って花模様のアップリケを作り、

皆のコットン・パンツに縫いつけたりして、何となくファミリー・バンドという雰囲気があったように恩います。

(この時に西岡さん宅の庭でったスナップが、有山君のホームページに掲載されていました。)

そしていよいよ"五つの赤い船"として、初めてのレコーディングの話が1968年の秋頃に浮上してきたのです。


次回に続く。

2001.1.9

中川イサト