僕にとっての二十世紀
(1947~2000)その7
#28 僕にとってのこ十世紀(1947-2000)その7
'72年の何月頃だったかは忘れてしまったが、僕と律ちゃんは東京へ移住しようという事になった。
その前年から吉祥寺の"ぐあらん堂"とかに遊びに行ったりしていて、
店やそこに出入りしている人達がとても面白かったので、それならという事になったのである。
田中迂臣さんという出版社で編集の仕事をしていた知人から、
彼のコネで会社のハイ・エース・タイプの車を借りる事が出来た。
ところがこの車がとんでもないオンボ口車で、廃車寸前のような代物であった。
大阪からの移動には運転手として西岡恭蔵、そして僕と律ちゃん、
そして何故か友部正人といった四人が同乗していた。
車の後部にはギターやレコード、衣類などを満載し、東名高速を一気に東京へと向かったのである。
ところが、確か日本坂トンネルにさしかかった時にそれは起きたのだ。
突然、車内に煙がたち込めてきたので、慌てて窓越しにチェックしてみると、
何とエンジンのあたりから火花が出ているのが見えたのである。
そこで車を止めたのはいいのだが、原則としてトンネルの中では停車してはいけないらしい。
直ぐに高速パトロールがすっ飛んできて、とにかくトンネルの外へ車を出しなさいと言われたのだ。
取り敢えず火を消してゆっくりと車を走らせて、何とかトンネルの外に出す事が出来た。
ただし、そこでエンジンは完全に動かなくなってしまったのである。
仕方がないのでJAFに電話をしてレッカー車で外まで運んでもらう事にした。
レッカー車にワイヤーで引っ張られて高速道路を走るってのは、
とんでもなく恐いものだということがこの時初めて判った。
蔵さんはハンドルを握りながら、ブレーキをいつでも踏めるようにし、
車間距離を一定に保つようにしていた。
でもなんとか無事に富士宮のインターの外へ辿り着くことができた。
そしてJAFの人にエンジンをチェックしてもらうと、どうやらエンジン・オイルが切れていて、
それでシリンダーが焼き付いたらしい。
その結果シリンダーが加熱して火を吹いたそうだ。
おまけにこのエンジンはもう駄目だとも言われたのである。
まあ出発の時にオイルのチェックをしなかったのが悪いのだが、
それにしてもえらい車を借りたものだと、ウグイス色のこの車に八つ当たりしていた。
結局は富士宮でレンタカーを借り、もういちど荷物を積み替えて移動し直すことになった。
その後は何のトラブルもなく、無事に三鷹台のアパートに到着したのである。
そしてその夜は二人して”ぐあらん堂"に繰り出したのは言うまでもない。
この律ちゃんとの活動もアルバム一枚をリリースし約半年で終わってしまった。
僕はその後、東京と大阪を行ったり来たりし、
律ちゃんは渡辺勝、松田幸一、今井忍、竹田裕美子らと"アーリー・タイムズ・ストリングス・バンド"
というバンドを結成する。
僕はソロ活動を続けながら中川五郎、加川良といったシンガーの
バック・アップ・ミュージシャンとしても新たな活路を見いだすようになる。
特に'74-'75年頃は加川良と共に数多くのコンサートに出演した。
それこそ北海道から沖縄まで日本中を旅したのである。
その頃はアメリカのジェリー・ジェフ・ウォーカーとデヴイッド・ブロンバーグという二人のミュージシャンが、
全米を旅しながら演奏活動をしているというのに憧れて、
何か同じような気分を味わってみたいと思ったのである。
’7 3 年にはCBS/ソニーから"お茶の時間"というタイトルのソロ ・アルバムをリリースした。
そして当時、親交のあったミュージシャンや友人達が参加してくれ、
中には後に有山じゅんじの奥さんになるトコちゃんや、彼女の友達のトモちゃん、
中川五郎の奥さんである智子さんがバック・コーラスで加わってくれた。
"その気になれば"や"夕立ち"での素敵なコーラスがそうだ。
六本木にあったCBS/ソニーのスタジオでのレコーディング風景を今でもよく憶えている。
又、’ 7 4年には大阪に戻り、北大阪の箕面で暮らし始める。
この頃に加川良の"アウト・オプ・マインド"というアルバムが大阪のスタジオでレコーディングされたのだが、
その中の何曲かは箕面の市民会館を借てのライブ・レコーディングとなっている。
そして同時期に母親が亡くなったり、子供が生まれたりして、
この’7 4年という年は僕にとっては忘れられない大変な年でもあった。
一年後の’7 5年には"黄昏気分"というアルバムをリリースした。
このアルバムは大阪のミュージシャンを中心にして作られ、
タイトル曲のハーモニー・ボーカルでは加川良、又"街は"では西岡さんや金森幸介君が参加してくれた。
今だに自分でも好きなアルバムである。
又、ほんの短期間だが"五つの赤い風船'75"というバンドが結成された。
メンバーは西岡たかし、中川イサト、金森幸介、永井洋の四人で、
アルバムを一枚リリースし、少しだけコンサート・ツアーも行った。
このツアーで仙台に行った時、オープニング・アクトをやってくれたのが山崎ハコさんだった。
彼女は今でもその事を憶えてくれている。
次回に続く。
2001.4.11
中川イサト