僕にとっての二十世紀

(1947~2000)その

#2  僕にとってのこ十世紀(1947-2000)その

'72年の何月頃だったかは忘れてしまったが、僕と律ちゃんは東京へ移住しようという事になった。

その前年から吉祥寺の"ぐあらん堂"とかに遊びに行ったりしていて、

店やそこに出入りしている人達がとても面白かったので、それならという事になったのである。

田中迂臣さんという出版社で編集の仕事をしていた知人から、

彼のコネで会社のハイ・エース・タイプの車を借りる事が出来た。

ところがこの車がとんでもないオンボ口車で、廃車寸前のような代物であった。


大阪からの移動には運転手として西岡恭蔵、そして僕と律ちゃん、

そして何故か友部正人といった四人が同乗していた。

車の後部にはギターやレコード、衣類などを満載し、東名高速を一気に東京へと向かったのである。

ところが、確か日本坂トンネルにさしかかった時にそれは起きたのだ。

突然、車内に煙がたち込めてきたので、慌てて窓越しにチェックしてみると、

何とエンジンのあたりから火花が出ているのが見えたのである。

そこで車を止めたのはいいのだが、原則としてトンネルの中では停車してはいけないらしい。

直ぐに高速パトロールがすっ飛んできて、とにかくトンネルの外へ車を出しなさいと言われたのだ。

取り敢えず火を消してゆっくりと車を走らせて、何とかトンネルの外に出す事が出来た。

ただし、そこでエンジンは完全に動かなくなってしまったのである。

仕方がないのでJAFに電話をしてレッカー車で外まで運んでもらう事にした。

レッカー車にワイヤーで引っ張られて高速道路を走るってのは、

とんでもなく恐いものだということがこの時初めて判った。

蔵さんはハンドルを握りながら、ブレーキをいつでも踏めるようにし、

車間距離を一定に保つようにしていた。

でもなんとか無事に富士宮のインターの外へ辿り着くことができた。

そしてJAFの人にエンジンをチェックしてもらうと、どうやらエンジン・オイルが切れていて、

それでシリンダーが焼き付いたらしい。

その結果シリンダーが加熱して火を吹いたそうだ。

おまけにこのエンジンはもう駄目だとも言われたのである。

まあ出発の時にオイルのチェックをしなかったのが悪いのだが、

それにしてもえらい車を借りたものだと、ウグイス色のこの車に八つ当たりしていた。

結局は富士宮でレンタカーを借り、もういちど荷物を積み替えて移動し直すことになった。

その後は何のトラブルもなく、無事に三鷹台のアパートに到着したのである。

そしてその夜は二人して”ぐあらん堂"に繰り出したのは言うまでもない。


この律ちゃんとの活動もアルバム一枚をリリースし約半年で終わってしまった。

僕はその後、東京と大阪を行ったり来たりし、

律ちゃんは渡辺勝、松田幸一、今井忍、竹田裕美子らと"アーリー・タイムズ・ストリングス・バンド"

というバンドを結成する。

僕はソロ活動を続けながら中川五郎、加川良といったシンガーの

バック・アップ・ミュージシャンとしても新たな活路を見いだすようになる。

特に'74-'75年頃は加川良と共に数多くのコンサートに出演した。

それこそ北海道から沖縄まで日本中を旅したのである。

その頃はアメリカのジェリー・ジェフ・ウォーカーとデヴイッド・ブロンバーグという二人のミュージシャンが、

全米を旅しながら演奏活動をしているというのに憧れて、

何か同じような気分を味わってみたいと思ったのである。


’7 3 年にはCBS/ソニーから"お茶の時間"というタイトルのソロ ・アルバムをリリースした。

そして当時、親交のあったミュージシャンや友人達が参加してくれ、

中には後に有山じゅんじの奥さんになるトコちゃんや、彼女の友達のトモちゃん、

中川五郎の奥さんである智子さんがバック・コーラスで加わってくれた。

"その気になれば"や"夕立ち"での素敵なコーラスがそうだ。

六本木にあったCBS/ソニーのスタジオでのレコーディング風景を今でもよく憶えている。


又、’ 7 4年には大阪に戻り、北大阪の箕面で暮らし始める。

この頃に加川良の"アウト・オプ・マインド"というアルバムが大阪のスタジオでレコーディングされたのだが、

その中の何曲かは箕面の市民会館を借てのライブ・レコーディングとなっている。

そして同時期に母親が亡くなったり、子供が生まれたりして、

この’7 4年という年は僕にとっては忘れられない大変な年でもあった。


一年後の’7 5年には"黄昏気分"というアルバムをリリースした。

このアルバムは大阪のミュージシャンを中心にして作られ、

タイトル曲のハーモニー・ボーカルでは加川良、又"街は"では西岡さんや金森幸介君が参加してくれた。

今だに自分でも好きなアルバムである。

又、ほんの短期間だが"五つの赤い風船'75"というバンドが結成された。

メンバーは西岡たかし、中川イサト、金森幸介、永井洋の四人で、

アルバムを一枚リリースし、少しだけコンサート・ツアーも行った。

このツアーで仙台に行った時、オープニング・アクトをやってくれたのが山崎ハコさんだった。

彼女は今でもその事を憶えてくれている。


次回に続く。


2001.4.11

中川イサト