僕にとっての二十世紀
(1947~2000)その4
# 25 僕にとっての二十世紀(1947-2000) その4
1 9 6 9年の秋に"五つの赤い風船"は、関東でのコンサート・ツアーを行っていた。
確か、群馬県の桐生、前橋か足利だったように記憶しているのだが、
当時の僕にとっての反乱はコンサートのオン・ステージで起きてしまったのである。
ナイロン弦のギターを使う楽曲でスティール弦のギターを敢えて使ったのだ。
これには少しだけ訳があって、この頃すでにイギリスのパート・ジャンシュやジョン・レンボーンといった
新しい時代のギタリスト達のギター・プレイにのめり込んでいた僕は、
同時にスティール弦のギターについても再認識し始めていたのだ。
先程は敢えてと言ったけど、今思い起こせば無意識にスティール弦のギターを使ったようにも思う。
そしてステージ終了後に楽屋で西岡さんからキツイお叱りを受けたのだ。
確かにナイロン弦とスティール弦ではサウンドが全く変わってしまうので、唄い難いだろうし、
作者の西岡さんにすれば楽曲のイメージもあるだろうし、このお叱りは当然の事だと思う。
今の僕だとそんな無謀な事は先ずやらない。
と言うのは歌がある限り、その歌を最大限パック・アップするのが伴奏の役目だと理解したからだ。
でも当時の僕達は若すぎた。
僕はたかが22歳だし、叱った西岡さんも2 5歳だった。
売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、数分間の口論の末に僕はギター・ケースと荷物を持ち、
東武線の電車に飛び乗ったのである。
この時、白井さんという当時のマネージャーが東京まで同行してくれたのを今でもよく憶えている。
その後1970年に入ってから僕に替わり、アップル・パミスというグループにいた東祥高君が
"五つの赤い風船"の第三期メンバーとして加入した。
2000年に新しい"五つの赤い風船"が結成され再び僕も参加しているけど、
でも今は自信を持ってスティール弦のギターを弾いている。
そんな訳で、プロになってからの僕の"風船"での活動は一年も経たないうちに終わってしまったのである。
そして大阪に戻った僕は、以前から交流のあった金延幸子、松田幸一、瀬尾一三、久保田潤ー
といったミュージシャン達と"愚"というグループを結成したのである。
イギリスのザ・ぺンタングルを意識したようなグループだったけど、何か中途半端で終わってしまったのが残念だ。
当時の僕は作曲能力がほとんどなく、サッチン(金延さんのニックネーム)の作曲したした楽曲を
主なレパートリーにしていた。
このグループも音楽会(高石音楽事務所が事務所名を変えた。)に所属していたので、
単期間ではあったが色んなコンサー卜に出演させてもらった。
でも音楽的に煮詰まり、1970年の春頃には解散してしまう。
その最後のオン・ステージが天王寺の野外音楽堂で行われたコンサー卜で、
プロデュースが大塚まさじ、西岡恭蔵の二人であった。
そして彼らとの出逢いがなければ、その後の素敵な'70年代を経験出来なかったように思う。
まあそんな訳で約半年の活動で"愚"は解散してしまった。
この1970年という年は時代的にも音楽的にも大きく変わった年で、
前年にアメリカの二ューヨーク郊外にあるウッドストックという田舎町で行なわれた
野外コンサートのドキュメント映画が公開されたのである。
"愚"の解散後、大塚ちゃん達と知り合いになり、
その頃オープンしたばかりの"デイラン"というロック喫茶に、それこそ毎日のように出かけるようになる。
難波元町のロータリーを少しばかり下った所にそのデイランがあり、
いつも午後になると母親の財布から地下鉄代とコーヒ一代を抜き取って、いそいそと出かけていた。
大塚ちゃんはそのデイランで働いていて、いつも特製大盛りのピラフやコーヒーを入れてくれ、
蔵さんや永井ちゃん、ピ口達と"ザ・デイラン"というバンドを組み、時々は裏の八坂神社の焼内で練習をしていた。
そんなある目、難街会館という映画館でウッドストックの映画が公開されるのを知り、
僕と同じようにデイランに入り浸っていた中川五郎達と一緒にその映画を観に行ったのである。
そして映画を見終わった僕達は、アメリカのミュージック・シーンの凄さ、
それも数十万人の人達が集まったビッグ・スケールの野外コンサートに驚かされた。
又ヒッピー・ムーブメントというものを知ったのも、
この映画やザ・イージー・ライダーという映画を観てからである。
それからの僕達はペルボトムのジーンズや手作りの絞り染めのTシャツを身にまとい、
頭には編み上げのヘアー・バンド、首にも手作りのネックレスをぶらさげ、
何とも怪しいヒッピー・ファッションでデイランにたむろしていた。
時々は恐いお兄さん達に長髪を掴まれ、脅かされたこともあったように記憶している。
やがてこのデイランは大阪でよく知られるようになり、
フォークやロック好きの僕達と同世代の若者逮が集まるようになっていった。
19 7 1年から始まった"春一番コンサート"のプロデューサーであるフー夕、
後に僕の歌の詞を書いてくれたキン夕、いち早くコンサー卜のPAというものに取り組んだゼット、
この誰もが'60年代のフォーク・ミュージックじゃあない新しい音楽に夢中になっていた。
デイランの店内ではいつもボブ・デイランの"Highway 61 Revisited"や
ザ・パーズの"BalladOf Easy Ryder"が大音響で流れ、個々にそのサウンドに身を委ねていた。
口には出さねど、合い言葉は"ライク・ア・ローリング・ストーン”であった。
次回に続く。
2001.2.26
中川イサト