アコースティック・ギター・ミュージックについて

その2

#11 アコースティック・ギター・ミュージックについて その2


前回では僕自身がアコースティック・ギターを勉強する為にお手本にした

欧米の多くの素晴らしいギタリスト達を紹介させていただいた。

今になって思えば、もし彼らのギター・プレイに出逢っていなかったら

今の自分はなかったのかもしれない。

又、’69年の秋に”五つの赤い風船”を辞めていなければ、その後の音楽人生は違っていたようにも思う。


そして僕自身の最も大きな転機が6~7年後にやってきた。

’77年に”1310”というアルバムをCBS/ソニーからリリースした事が、

以後の自分の進むべき道が決まったと言ってもいいだろう。

それは同時代を共に生き抜いてきた多くのフォーク・シンガー達との決別でもあったわけです。

僕自身は歌も好きなんだけど、ギター・ミュージックと両立させることはムズカシかったし、

それにもまして中途半端に唄うことが嫌だったのです。

そしてその時点での僕の中ではアコースティック・ギターに対する思い入れの方が大きくなっていました。


歌で自分のメッセージを伝えると言うことはとても大切な事だと思うけど、

皆と同じ方法で僕が唄うよりは、誰もやっていないギター・ミュージックで自分のメッセージを伝えてみたかったのです。

でも言葉のないインストゥルメンタルなのにどうしてメッセージを伝えるのかって思われるでしょうが、

その楽曲は何をイメージして作られたのか、

その楽曲に対する作者の思い入れや人生観というものが楽曲に表れていれば、

音からメッセージが伝わると信じています。

特にアーティストの生き様というのが、その作品が面白いものか、

或いはおもしろくないものかを決める重要なカギを握っていると言えるでしょう。

ギターが上手いとか、あのフレーズが恰好いいとか、それだけでは真のアーティストとは言えません。

まあ、ある程度の演奏技術や作曲能力は必要だと思うけど、それだがすべてではありません。

僕はどうせ目指すんだったら単なるギタリストよりも、

アーティストと呼ばれるようなギタリストを目指したいと昔から思っていました。

ジャンルは違えど絵画を音楽の共通点は唯一この辺にあると思います。

視覚と聴覚の違いはあれど、どちらも作者の生き様がそこに表れていなければ、

その作品は面白くもなんともないのです。

それこそただの美しい絵、耳障りの良い音楽で終わってしまうのです。


ただ、ここで述べているような事が自分の中で実感できるようになったのは40歳を越えてからでした。

それまでは試行錯誤しながら楽曲を作り、そして時々CDをリリースして、

またライブ活動を積極的に行って来ただけでした。

そしてこういった活動を長年やってきて得た結論は、ライブ活動というものがいかに大切かということでした。

そこではオーディエンスの反応がストレートだし、行く先々で沢山の人達と色んな話をする事ができ、

それによってお互いにコミュニケートできるのです。

それこそ年に一度しか会えない人達が多いんだけど、

彼らから得る物って創作活動をする者にとって、それはまるで宝物のような物なのです。


実は、理由があってこんな事を書いているのですが、

ここ数年この国でのアコースティック・ギター・ミュージック・シーンが面白くないのです。

アーティストと呼ばれるようなフィンガー・スタイル・ギタリストが育っていないように思います。

それもプロフェッショナルと呼べるギタリストが。

(別にフルタイム・ミュージシャンが必ずしもプロだとは思いません。

 ライブやコンサートを責任を持ってこなす事が出来るがどうかなのです。)

何人かのギタリストを知ってはいますが、ギター・プレイは別として、

ライブに於いてその楽曲の表現やステージングを見聞きしていて、

そこにその本人の生き様を感じる事が出来ないのです。

皆、一様にただ漠然とギターを弾いているだけで、こちらには何も伝わってこないのです。

そこで余計なお世話と言われるかも知れないけど、僕の経験から彼らに一言いいたいと思う。

日本全国にライブの出来る町がいっぱいある。

当初は大変だろうけど自分から進んでライブ活動を行うべきである。

そうするときっと君の中で何かが変わるハズだし、

それがいずれ作品やオン・ステージでの表現力というものに反映する事だろう。

表現力というものは理論や技術では習得する事はできません。

だからこれまで以上にもっと積極的に行動して下さい。

でないと真のアコースティック・ギター・ミュージックというものが定着しないまま終わってしまうような気がする。


2006.6.20

中川イサト