クラレンス・ホワイトというギタリスト

その

#4 クラレンス・ホワイトというギタリスト その2


前回では1965年にザ・ケンタッキー・カーネルズが解散するところまでお話した。

今回はその後のクラレンス・ホワイトについて書いてみよう。


前回では触れなかったが、なぜケンタッキー・カーネルズが解散せざるを得なかったのか。

これは多分、現在もそうだろうと思うけど、ブルーグラス・ミュージックでは余程のスター・プレイヤー

でない限り、収入が安定しないのである。

ましてや彼らが活動の拠点としていたロスアンゼルスという町は、

当時フーテナニー・ブームと言うこともあり

フォーク・ミュージックは受け入れたけれど、ブルーグラス・ミュージックは

あまり受け入れなかったように思う。

いつの時代もそうだけど、いい音楽を一生懸命作り上げたのに、

食ってゆけないという理由だけで解散せざるを得ない現実。

これは本当に悲しいことだ。

そしてもう一つの解散した理由が後なって判明した。

クラレンスと他のメンバーとの音楽性の違いである。

1964年にクラレンスの元にどこからかボブ・ディランとジャック・エリオットの

”ミスター・タンブリン・マン”のデモ・テープが届いたそうだ。

それを聴いたクラレンスはこの曲に何か新しいものを感じ取り、

カーネルズで演奏してみたいと思ったそうだが、

他のメンバーはストレートなブルーグラスだけを演奏したいと言うことで却下されたという。

そして皮肉なことに翌年にこの”ミスター・タンブリンマン”はザ・バーズが唄い大ヒットしたのである。

ただ自分の提案が受け入れられなかったことについてクラレンスがどう思ったかは定かではない。


そして元々が人一倍、好奇心旺盛なクラレンスは、ケンタッキー・カーネルズ在籍時から

ブルーグラス以外の音楽もどん欲に聴いていたようで、

自分のギター・スタイルを追求する上でカントリー系ギタリストのジョー・メイフィスや

ジャズ・ギタリストのジャンゴ・ラインハルト、

そしてロック・ギタリストのチャック・ベリーと言った幅広いジャンルのギタリスト

影響を受けている。

その結果、カーネルズ解散後すぐに’54年製のフェンダー・テレキャスターを手に入れ、

新たなチャレンジをスタートする。


この当時のウエスト・コーストにはビッグ・ネイムのエレクトリック・ギタリストが何人かいて、

特にジミー・ブライアント、デュアン・エディ、そしてジェームス・バートンと言ったギタリスト達は

オン・ステージやスタジオ・ワークで引っぱりだこの売れっ子ギタリストであった。

この三人の中でクラレンスが最も注目したのがジェームス・バートンで、

1~3弦をプレイン弦にセットした彼の発案によるライト・ゲージ・セットは、

よりベンディングの幅をひろげる事を可能にし、

そう言った意味ではロック・ギター奏法の先駆者である。

このジェームス・バートンのロカビリー・リックやカントリー・リックは、

その後のクラレンスのエレクトリック・ギターに少なからず影響を与えるになる。


’65~’66年初頭にかけて少しつスタジオ。ワークを始めていたクラレンスは、

ある日ゴスティン・ブラザーズのスタジオ・セッションで二人のミュージシャンと運命的な出逢いをする。

ジーン・パーソンズとギブ・ギルボウである。

特にジーン・パーソンズは後にザ・バーズにも一緒に参加し、クラレンスの無二の親友となる。

この時すでにジーン・パーソンズとギブ・ギルボウの二人は”ケイジャン・ギブ・アンド・ジーン”という

デュオ・グループを組んでいて、

それまでのフォーク・ミュージックじゃないカントリー・ミュージック、ケイジャン・ミュージック、と

ロック・ミュージックの融合みたいなものを試みていた。

この二人の音楽性に興味を持ったクラレンスは、彼らと行動を共にする事になる。

とりあえずは収入を得る為にベイカーズ・フィールドにある”ベイカーズ・フィールド・インターナショナル”

というインディーズ・レーベルのハウス・バンドのメンバーになる。

この時に出逢ったオーナー、プロデューサーのゲイリー・パクストンには

後に参加したザ・バーズの時代も含めて少なからず世話なる。

でも兄達と取り組んできたブルーグラス・ミュージックを捨てきれなかったようで、

スタジオ・ワークのない日には兄のローランドやエリックに声をかけ、

時々ライブ・スポットなどでセッションをしていたという。


1967年にはジーンやギブとのコンビネーションも良くなり、

ベーシストのウエイン・ムーアを加えた四人で”ナッシュビル・ウエスト”というグループを結成する。

これはエル・モンテにあるナッシュビル・ウエストというクラブがグループの活動の場だったので、

店の名前をそのままグループ名にしたのであろう。

ただ、音楽的にはあまり評価されず、エル・モンテという町のローカル・バンドとして終わってしまったのは

非常に残念である。


1967年という年は、クラレンスがかなりアクティブな活動をした年で、

ロスアンゼルスでのスタジオ・ワークも積極的に行っている。

ザ・バーズのメンバー、クリス・ヒルマンやジーン・クラークらのレコーディングに

ギタリストとしてお声がかかったのである。

このクリス・ヒルマンとは以前から面識があり、10代の頃に片やケンタッキー・カーネルズ、

片やスコッツビル・スクィアレル・パッカーズというブルーグラス・バンドで、

同じロスアンゼルスのブルーグラス・サーキットで演奏していたのである。

そんな事もあり、クラレンスのギター・ワークの素晴らしさや才能を見抜いていたクリスは、

に前年の´66年にザ・バーズのレコーディング・セッションで2曲のギター・プレイをやってもらっていたのだ。

ジーン・クラークは’67年に初めてのソロ・アルバムを作る事になり、

この時もクリスのアドヴァイスもあり数曲ではあるがクラレンスがレコーディングに参加することになった。

そして、少しずつロスアンゼルスのメジャー・シーンで

クラレンス・ホワイトというギタリストの存在が知られるようになっていったのである。

’67~’68年にかけてのクラレンスは、まずますエレクトリック・ギターにのめり込んでいったようで、

この頃に後に彼のトレードマークとなるストリング・ベンダーという装置を

ジーン・パーソンズとに考案し、愛用の’54年製テレキャスターに装着する。

でも実際はクラレンスがアイデアを出し、作り上げたのはジーンである。

今でこそパーソンズ/ホワイト・ストリング・・ベンダーというブランド名で、

よりスマートなデザインで市販されているが、

テレキャスターのボディを2枚張り合わせたとんでもない代物であった。

正にモンスター・テレキャスターと呼ぶに相応しいギターである。