僕にとっての二十世紀

(1947~2000)その

#2  僕にとってのこ十世紀(1947-2000)その

1 975年という年は僕にとって節目というか、ターニング・ポイントと言ってもいい年でもあった。

ギター教室をやりながら、空いている目だけライブ活動をするという、

かなり変則的な日々を送っていた。

それも週に何日かは拘束されているので、遠くへ出かけてのライブが出来ないのである。

それにもまして家庭を守らなければならないという、大きな負担が僕にのし掛かつてきたのだ。

そんなこんなで、この年の秋頃には自分の中で一つの答えを出していた。

つまり音楽の仕事を辞めようと考えていた。

現在なら自分の追求したいものがはっきり見えているけど、

この当時の自分には何をやりたいのか何も見えてはいなかった。

大阪の南にあるギターのリペアー・ショップにアルバイトに行ったりもしていた。

音楽だけで生活できればというような甘い考えは、とてもじゃないけど、

当時27歳の僕には通用しなかった。

ところが10月~1 1月頃に、僕がそう言ったことを考えているというのを、

何処かで聞いた数人の音楽仲間違が、励ましの電話や会いに来てくれたりしたのだ。

この頃大阪の帝塚山でオレンジという音楽事務所をやっていた阿部ちゃんや、

同じオレンジのスタッフをやっていた末永惇嗣がそうである。

そして彼らはコンサートをやるから出演してくれないかと言ってきたのだ。

場所は神戸で、出演する歌い手皆が僕の曲を唄うという内容らしい。

主な出演者は加川良、大塚まさじ、西岡恭蔵、シパ、金森幸介、いとうたかお、といった顔ぶれである。


’7 5年の 12月に、神戸は三宮のサンダー・ハウスというライブ・ハウスで、そのコンサー卜が行われ、

その様様はライブ・レコーディングされたのである。

実際には一日目が僕達のライブで、

翌日がオレンジ所属のソーパッド・レビューを中心にしたロック・セッションであった。

この二日目のセッション・ライブはレコーディングこそしなかったけど、

それはそれは関西のミュージシャンならではの、強力なライブ・パフォーマンスであった。


この時のライブ盤は、翌'76年に二枚組のアルバムとしてオレンジ・レコードからリリースされ、

昨年’00年に初めてCD化された。

今思えば、この時に阿部ちゃん、ひろし、他、多くのミュージシャン遥から

のエールを貰っていなければ音楽を辞めていたであろう。とにかくこのサン

ダー・ハウスでのライブをきっかけにして、自分の気持ちがふっ切れたのは

事実である。だから今も音楽活動ができている。


'76年には加川良のレコーディングで、アメリカのテネシー州にあるメンィスに行く。

当時の僕は英語が出来なかったので、海外へ出かけてもあまり楽しくなかった。

でもレコーディングそのものはとても勉強になった。

'77年に初めてのギター・アルバム"131 0 "をCB S/ソニーからリリースしたのけど、

当時このようなアルバムをよく作らせてくれたものだ。

ただこのアルバムを作っていなければ、ギター・ミュージックというものに目覚めなかっただろうし、

今の僕はないかも知れない。

担当ディレクターだった前田仁さんには今でも感謝している。

'73年のアルバム"お茶の時間",

'7 5年の"黄昏気分"にも何曲かのギター・インストゥルメンタルを取りあげてきたけど、

いつの頃からかいずれ全曲のインストゥルメンタル・ギター・アルバムを作ってみたいとは思っていた。

この"1 3 1 0 "には稚拙だけど、初々しい初期の作品が収められている。

このアルバムを聴くと、四六時中、それこそ食事も忘れるぐらい夢中になって

ギターを弾いたり、曲作りに取り組んでいた自分を懐かしく恩う。

あれから24年も過ぎてしまったのか・. .

’7 8 ~’ 7 9年頃にちょっとした出逢いがあった。

ステファン・グロスマン、ジョン・レンボーンやブルース・コパーンに会えたことである。

ただしステファン・グロスマンに関してはあまりにビジネスマンだったので、失望したというか、

本物のアーテイス卜ではないという印象を受けた。

以後、彼のアルバムを一度も聴いたことがないし、聴く気にもなれない。

ブルース・コパーンは'79年に二度目の来日をした時に、

大阪の島之内教会で行われたコンサートのオープニング・アクトをやらせてもらった。

何しろ憧れのシンガー・ギタリストだったので、同じステージに立たせてもらっただけで十分だったのが、

何曲かセッションすることができ、もう大満足であった。

ただ悔やまれるのは、今だと少しは英語ができ、もっと彼とコミニュケイトできたのに、当時はそれができなかった。

その事が今だに悔いが残っている。

でもステファンと違ってブルースからは音楽も含めて色んなことを学ばせてもらった。


'80年代は僕にとってあまり実りのある時代ではなかった。

というのはギター教室に没頭していたので、ほとんどライブ活動が出来なかったのである。

又、音楽状況も何となく面白くなくなってきたのがこの頃からのような気がする。

ただ時聞がある限り作曲は続けていたので、それらを何とか記録として残して置きたくなり、

'81~89年の聞に5枚のギター・アルバムを自主制作でリリースした。

今でこそこの5枚のアルバムを作りながら培ってきたギター・ミュージックに対する考え方や取り組み方が、

自分の中で大きく息づいている

けど、当時は先のことなんか何も考えてなくて、ただ夢中になってアルバムを作っていた。

今思えばライブ活動がアルバムと並行して出来ていれば、もう少し違った作品が出来ていたかも知れない。


次回に続く。


2001.4.25

中川イサ卜