僕にとっての二十世紀
(1947~2000)その5
# 26 僕にとっての二十世紀(1947-2000) その5
時代は前後するが196 9年-1971年にかけて、かの有名な"中津川フォーク・ジャンボリーが毎年行われた。
僕は一回目から参加したのだが、'69年の一回目はH 風船"のメンバーとしてであった。
確か参加ミュージシャンの方が多くて、お客さんの方が少なかったように記憶している。
それも雨が降ったり止んだりの悪天候の中で行われ、
出演者とスタッフがスコップ片手に水たまりに土を運んだりしたのだ。
そして、 70年のジャンボリーの時は既に"風船"を辞めていたので、
確か"杉田二郎バンド"のサウンド・プロデューサーとして参加し、
他にも門田頼命とセッションしたり、金延幸子のパック・アップをやったりしていた。
この二回目のジャンボリーから全国的に知られるようになり、お客さんの数も多くなっていったのである。
ステージの作りも、かのウッドストック・フェスティパルを意識したようなものになっていた。
そして一人のシンガーがいきなり注目されたのである。
それもたったの一曲で。
それが加川良の華々しいデビューであった。
高田渡、岩井宏にバック・アップされ,バンジョーとマンドリンをパックに唄われた"教訓1"は、
歌の内容と抜群の歌唱力で、あっという聞に聴衆の心を掴んでしまったのである。
後にこの加川良もデイランの遊び仲間になる。
1 970年には大阪の千里丘で万国博覧会が開かれ、
パピリオンによっては有名なミュージシャンの演奏を漉くことが出来、
特にカナダ館で初めて聴いたイアン&シルビアwithグレート・スペックルド・バードのライブは今でもよく憶えている。
(何故か今頃になってこの時のライブ音源を入手することが出来、一人で喜んでいる。)
デイランにやって来る若者も少しずつ増え、友部正人、村上律、いとうたかお、伊藤銀次、永井充男、加川良
といったミュージシャン達が夜な夜なデイランに集まり、いつも音楽や女の子の話で盛り上がっていた。
僕もこの頃、陽子ちゃんという奈良に住んでいた好きな女性がいたのだけど、あっさりと振られてしまった。
演劇の人達がデイランに来るようになったのもこの頃だ。
自由劇場の人達との出逢いはとても刺激的であった。
黒テントの関西での公演には、デイランにいた大塚ちゃんを含め皆でサポートに行き、
しまいには芝居の始まる前にライブをさせてもらったりした。
この時に自由劇場の役者だった佐藤博さんとは今もつき合いがある。
当時の彼は皆から"ガンサン"と呼ばれていた。
あと吉田日出子、斎藤晴彦、串田和美、清水絃二、草野大培、ラモン、ピピ、ミミ、チピ、
こうして皆の名前を書き出しているだけで、あの時の皆の顔が目に浮かんでくる。
30年前の事だけど当時は皆20代であった。
そして、 ’7 1年の中津川フォーク・ジャンボリーには、この自由劇場の黒テントが参加したのである。
この事は以外と知られてなくて、ジャンボリーに参加した皆が自由に使える場として設置されたのだが、
せいぜい使ったのが僕や村上律がサポートした加川良バンドのリハーサルだけだったような気がする。
今だったらいい形でプロデユース出来るんだけど、当時はそんな人材は誰一入居なかった。
でもせっかくいいスペースがあるのにもったいない話だ。
この時の黒テントのすぐ績では、デビューして聞もない吉田拓郎が"人間なんて"を延々とがなりたて、
どんちゃん騒ぎをしていた。
この’7 1年は”春一番"というコンサートが始まった年でもある。
場所は大阪、天王寺の野外音楽堂で、'70年からデイランの常連の一人だった福岡風太がプロデュースし、
’ 7 9年まで続いた内容のある本物のフォーク/ロック・コンサー卜であった。
記念すべき第一回目の春一番はお客さんの数は少なかったけど、参
加したミュージシャンもスタッフも、皆が真剣にコンサートに取り組んでいたし、楽しんでいた。
そして前年に僕達が感動したウッドストック・フェスティバルを題材にした、
蔵さんと律ちゃんの唄う"春一番の風"が天王寺野外音楽堂の中に響き渡ったのである。
C.S.N.を意識したメロディ・ラインには思わずゾクッとしてしまった。
この時の僕は中川五郎のバンド"田舎五郎と魚"(カントリー・ジョー&ザ・フィッシュの捩り)
にベーシストとして加わっていて、ハード・ロック紛いの無茶苦茶なペースを弾いていた。
でもこの五郎さんとも名字が同じということもあって何となく気が合い、
その後もコンサートやレコーディングの手伝いをさせてもらうことになる。
この頃に誰となく住みだしたのが帝塚山の"姫松園"という古ぼけたアパートだった。
此処は嘗て、かの織田作之助も住んでいたという由緒あるアパートで、
パック・トゥ・ザ・フューチュアーじゃあないけど、時代を間違うような不思議な建物であった。
此処での面白い話は又次回に。
次回に続く。
2001.3.15
中川イサト